2018年10月12日金曜日

希林さん、ありがとう

20181012(金)の記事を転載させてもらった。

社説 余滴  「希林さん ありがとう」
高木智子(たかき ともこ)


樹木希林さんにお礼を言いたいことがある。

3年前の映画「あん」で、ハンセン病だった老女の主人公、徳江を演じたことだ。

原作者のドリアン助川さんは、映像化するなら樹木さんだと願っていた。
「人はなぜ生きるのか、死ぬのか。喜びとは何か、悲しみとは何か。哲学になるまで必死に考えて生きた人を描いたから」と聞いて、納得した。

しかし難しい役だ。
ハンセン病を取り上げた映画には、松本清張の「砂の器」(74年)がある。
それから40年。
「あん」が、元患者の姿をどう描き、社会がどう受け止めるか、気になった。

物語はこうだ。
療養所で閉ざされた生活を送る徳江がある時、どら焼き屋で働き始め、生きる意味を問うーーーー。

全身がんだった樹木さんは治療で鹿児島入りした際、主人公のモデルになった、お菓子づくりの上手な上野正子さん(91)に会いに行った。

素の姿を知りたかったのだろう。
アポなしだった。
女優だと気づかず「農家のおばちゃん」と信じた上野さんに、お菓子をつくるところ、しゃもじを操る手元を隠さずに見せて欲しいと頼んだそうだ。

かくして映画は完成した。
あんを炊くにあたり、徳江は小豆の声を聞く。
小豆をいとおしむ。
私が取材でこれまで出会ってきた元患者のみなさんの顔が次々浮かんできた。

観客動員数は予想を上回る44万人。
カンヌ国際映画祭を機に50か国以上で上映された。
樹木さんが真正面から演じきったからの広がりだろう。
反響に背中をおされ、樹木さんは全国へ出かけた。

昨年、大阪市でハンセン病だった人たちを交えた催しに登場した。
「どうしょうもない寂しさはみんなある。家族がいても、どこにいても。あなただけ、私だけじゃない」。

病や老いーーー。
人生どうにもならないことはあるけれど、絶望せず生きていこう、考え方ひとつで道は開けると、励ましていたのだろう。

今、異例の規模で追悼上映が続く。
若い観客が増えた。

差別が壮絶だった時代やその背景すべてに、「あん」が迫っているわけではない。
しかし、私が大学で、樹木さんの登場する場面をみせて、人種について語ると、学生は顏をあげる。
知らなかった人々を振り向かせる力を感じた。

1本の映画がハンセン病だった人たちの未来を確かに変えている。
日本中のだれもが知っている女優が演じた意義は大きい。

(社会社説担当)


2018年10月8日月曜日

クロントイ・スラム/「闇の子供たち」

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20181008の朝日新聞の記事の中で、『「スラムの天使」は休まない』にジーンとくるものを感じた。
この新聞記事は此の稿の最終コーナーに転載させてもらいました。

何故か、胸の中に不思議なモノが涌き起こってきた。
私の心の烈火岩が、この新聞を読んで再び燃え出した。

私の心情は、普通の皆様とはちょっと違うみたい。
誰もが、へえ!、そうなの?と感心を示すことにはな~にも関心を持たず。
誰もがどうでもいいと思うことに、何是(なんぜ)そこまで興味を持つの?と言われてきた。

実は、この3日前から梁石日(ヤン・ソギル)の「闇の子供たち」を読んでいるからだ。
この梁石日氏の作品で、何年か前に読んだ「血と骨」で、我のド頭(たま)をド太いハンマーで殴り飛ばされた。
私の生ぬるい血は凍(こご)え、全身の骨にさえひびが入り、今にも壊れそうになって仕舞った。
それほど恐ろしい作家で、作品だった。

「闇の子供たち」は、幻冬舎文庫。



ある中古本屋さんで100円だった。
470ページのうち、たかだか244ページしか読んでいないのに、どうしたんだよ、と思われそうだ。

地図の説明

取り敢えず、この本の舞台はタイとタイの北部山岳地帯なんだけれど、上の地図を見てもらっても、そう簡単には解かってもらえないが、ベトナム、ラオス、ミャンマーの山岳地帯には、数多くの民族がいた。

国の管理監督が行き届いていないばかりでなく、無法に避けられていた。

タイは、バンコクを中心に経済開発が進展していると言われる中で、なかでも北部山岳地帯は、その恩恵からまったく取り残され、そのうえバンコクに入ることすら禁じられていた。
北部山岳地帯の民族には、住民票や通行証が発行されないので、この地域から一歩も外部には出られなかった。
山からは町へ降りてくるのを禁止していたことになる。

タイやカンボジア国境沿いには50万人ともいわれる難民キャンプがある。
その難民キャンプを警備している警備兵が少女、少年を誘拐して人買いに売り飛ばしていた。
カンボジアの難民やタイの山岳地帯からの子供たちには、住民票や通行証だけでなく、国籍さえなかった。

この地帯の出身者には、反政府軍の秘密の拠点として利用されやすく、結果的に反政府軍のゲリラ兵が多かった。
農繁期になると、国境警備警察隊の網の目をかいくぐって隣国に出稼ぎに行くのだが、仕事にありつける者は少なかった。

経済的に苦しみに苦しんだ住民が、生活費の幾分かを得るために行ったことは、自分たちの子どもを、バンコクの売春宿に売り渡すことだった。
売り渡された子どもは、食べることも寝ることも十分できることもなく、その前に与えられた生活環境なんて貧の貧に蔑(さげす)まれた所に居つかされた。
そして、男の子にしても女の子にしても、世界中の富裕層の性的玩具にさせられてしまう。
幼児売買春や幼児売買、臓器売買だ。

この内容を読むだけで私の血涙は、簡単に枯れ果てていく。
私(=山岡)の子どもは、「何是(なんぜ)、お父さんはこんな悲しい本を読むんだろう」と妻に話していたそうだ。
生まれながら得た私の思想を、家族の誰にも話してはいない。

売られた子どもたちには、その売春宿のオーナーや係員に全てを剥ぎ取られ、なけなしの、たった小さなひとかけらの、お金だっていただけなかった。
だって、子どもたちを売春宿のオーナーやそこにいる係員たちが、親たちから仕入れてきたのだから。
それもできるだけ安価になあ!

そこにきて、もっと社会的に恐ろしいことに、警察や市が?国でさえ、こんな無骨で不法、無法なことを、認めていることだった。
取り締まりに来た警察や市の役人に、幾ばくかのお金を渡すだけで、勘弁され、お調べ抜きで済ましてもらえる。
そんなことが、東南アジアの中で、比較的高度な商業国を目指しているタイの闇夜で行われていた。
それも、十分大ぴらに。

ところが、この本の本題はこれからだ。

アジアの最底辺で今、子どもを含めて行われている非かつ性なる惨事!
その事実の克明な報告が、私にはどうしても想像できない幼児売買春、幼児売買、臓器売買だった。
モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と、人間の飽くなき欲望の恐怖を見せるドラマでもある。
1頁を読んだだけで、尻抜け? 私の尻は見事に抜けてしまった。

前記した性に関する悪事の実態を把握し、その改善策を真剣に講じようとする社会福祉センターがあった。
アメリカに本部があって、日本にはアジア地区の支所があり、タイにだって支部があった。
このセンターは上記したような幼児売買春や幼児売買、臓器売買、ストリート・チルドレン、この無限級数的な連鎖を断ち切る方法を得て、それを阻止したいと考えていた。

今、ブラジル、コロンビア、ペルーを回り、それらの国のストリート・チルドレンの現状をつぶさに観察して、いったんニューヨークに戻って児童虐待阻止のための国際会議に報告書を提出していた。
この報告書とはタイにおける幼児を含む秘められた闇の話だ。

この社会福祉センターに勤める音羽恵子は、センターの業務に理解を示してくれるA新聞社会部の記者と、日本に一時的に帰国した。
豊かな家庭の子どもの臓器が悪く、命はよくもっても半年だと日本の医者に言われ、その臓器を求めてタイへ行くという。
その母に、臓器移植を止めるように説得するためだ。

タイでは子どもの臓器を、買われてきた子どものモノで、何の顧みもせず、易い値段で売買されていることを知り、その準備に入っていた。
センターの女性・音羽恵子は、この子どもの母にそんなことは止めてもらいたいと願うつもりだ。
元気なタイの子どもの命が奪われることになる。

音羽恵子は東京にあるアジア人権センターの責任者に、タイにある社会福祉センターの現状をつぶさに語り、今年の12月に労働組合や学生や一般市民と一緒に全国統一大行進を実行することをA新聞社の協力を得て、暴くのだと話した。
そして、2,3日後に同じ事を、子どもの母にも話した。

タイに戻ると、A新聞の社会部の担当者から、「幼児売買春・幼児売買・幼児臓器売買の実態」と名の付く原稿をもらった。
大山満男らしき仲介者、東京のB暴力団と九州のE暴力団の関係、E暴力団と福建省のマフィア、ヴェトナム、ラオス、タイ、カンボジア、フィリピン、インドネシア、インドなどの闇ルートの存在。
そのコネクションはアジア全体にひろがり、世界をまたにかけて幼児が売買されている。
同時にそれらのルートは麻薬ルートと重なり、政治家、財界、軍、マフィア、官、大病院にまでおよび、1年間だけでも2千人以上の犠牲者が出ている。

そして、全国統一大行進の日。
会場には20万人の巨大な群集が集まり、開会のための各挨拶は恰も何もなかったように進められた。
この大会はある意味で権力に対峙している意志を見せ付ける大会、恣意的な挑発行為であった。

この大行進は、一部の破壊者がデモを壊すような非道な行為に出て、それも作戦通りだったのか、軍や警察に加えてデモ反対者たちが催涙弾や銃砲をデモ隊に向かって撃った。
社会福祉センターのメンバーの幾人者が被害者になった。

A新聞社会部の担当者から,もうこれ以上タイにいないで日本に帰ろうと促(うなが)された。
だが、音羽恵子の意思は硬かった。
音羽恵子は、
「日本にわたしの居場所はないのです。
ーーわたしの居場所はここです。ーーここ以外ありません。
ーーわたしは所長、その他の人たちが帰ってくるまで、ここで待ちます。
ーーたとえ彼女たちが死んだとしても、私は彼女たちの魂を探し求めます。ーー子どもたちと一緒にーーーーーー」。

そして涙をぬぐい、毅然とした態度になって、「さあ、みんなで食事をつくりましょう」と声をかけた。





★新聞記事とはーーーーーーーーーー。
朝日新聞・アジア総局長=貝瀬 秋彦

「スラムの天使」は休まない

ようやく人がすれ違えるような狭い路地。
両側に、木材やトタンなどでふいた小さな家々がぎっしりと立ち並ぶ。
「クロントイ・スラム」は、数万人が暮らすバンコク最大のスラムだ。

シティチャーさん(23)はその一角で生まれ育った。
12歳の時に、両親が離婚。
数か月後、火事で焼き出されて近くの祖父母の家に母、弟と身を寄せた。
母は父との不仲が原因で麻薬におぼれ、働けなくなっていた。

食べ物を売って生計を立てる祖母を支えようと、飲食店で皿洗いを始めた。
同居する親戚の子たちの面倒も見なければならない。
中学を出たら職業専門学校を経て働くつもりだった。

                  ★

そんな彼女の人生を変えたのは、地域にある「ドゥアン・プランティープ財団」の奨学生だった。
高校に通い、有名私大に進学。
今は外資系の五つ星ホテルの会計担当部署で働く。
「財団が私に機会を与えてくれたことですべてが変わった。教育の大切さをかみしめています」

財団は1978年8月31日に設立され、今年で40周年を迎えた。
その源は、創設者プラティープさん(66)が半世紀前に姉とクロントイ・スラムで始めた「学校」にさかのぼる。

自らもスラムで育ったプラティープさんは貧しさゆえ、小学校を終えると働かざるを得なかった。
港で船のさび落としをしていた時、別の少女がいた足場が崩れ、高所から落ちて半身不随に。
だが、何の補償もない。
なぜ、虫けらのように扱われるのか。
考えた末に、たどり着いたのが「教育」だった。

                   ★

16歳で、小学校に行けない子どもたちに自宅で読み書きを教え始めた。
「無認可」を理由にした当局の閉鎖命令を乗り越え、存続運動の末に公立学校へと発展。
プラテイープさんは78年にアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞し、その副賞を基金に財団ができた。
以来、奨学金を受けたスラムの子どもたちは3万人を超える。
大学の教員や中央省庁の役人になった人もいて、初の医師も近く誕生する。

住環境の改善にも取り組み、電気や水道がほとんどの家に届くようになった。
それを可能にしたのは「民主主義」だと、プラティープさんは言う。
選挙があれば政治家は、貧しくとも一票を持つ人たちに耳を傾ける。
2000年には自ら上院議員に当選し、6年にわたり貧困、麻薬対策に奔走した。

クーデターが繰り返されるタイで、脅しや嫌がらせを受けながら「反軍事政権」を置いてきた。
それも「民主主義だけが貧しい人たちの苦しみを軽減できる」との信念からだ。

                   ★

スラムの状況は徐々に改善されてはきたものの、スラムの外との格差はむしろ広がっているという。
それを解くカギもまた教育にあると、プラティープさんは考える。
新たな夢は、英語教育などを充実させた学校をこの地域につくることだ。

「スラムの天使」と呼ばれて半世紀。その羽を休める日はまだ来そうにない。

2018年10月6日土曜日

創作の現場から

渡辺淳一
1933年10月24日札幌生まれ。
札幌医大卒。
医学博士。
元札幌医大講師。
「光と影」で70年度上半期の直木賞を受賞。


「創作の現場から」






















渡辺氏が自らの創作活動において、いろいろ考えたことを、エッセイ集として「創作の現場から」にまとめた。
この作品は1994年2月、集英社より刊行されたが、文庫収録にあたった。
このエッセイをダイジェストにと思ったが、バラバラに書かれている内容を、纏めて、一つの文章にするのはさぞかし難しい。
それで、皆さんには、この本を読んでいただくのが一番良い方法だと思う。
そんな結果、せめて、本の目次だけですまないけれど、書かしてもらう。
文章を書きたいと思っている方は、その程度のことだけれど、お付き合いくださいな。

私は70歳を先月に迎えた老人です。
でも、老人になっても、なんとか他人さまに、気の効いた文章を書きたいと思い続けていた。それでも、自らのありふれた感性を何とか、物(もの)怖(お)じなく書けたら好いなと思っている。
決して、今回の渡辺淳一さんのことを惚れこんでいるわけではないが、古本屋で100円で買ったこの本はそれなりに、私には大いに勉強になった。
小説や評論、もしくは各種の小論にちょっと面白、可笑しく、興味たっぷりに書きたいと思われている方なら、この本をお買い上げになられたらどうでしょうか。

目次
第一章
・主題の発見
・書き出しとエンディング
・題名とネーミング
・視点・会話・地の文
・人物デッサンとは
・実生活と小説の世界
・短編と長編
・書斎の周辺
・新人のころ
・体力と気力

第二章
・作家と編集者
・作家と読者
・作家と読書
・作家と年齢

第三章
・歴史・伝記小説について
・小説と映像について
・男女小説について




★この本の最後に「あとがき」として自らの本の内容とは違うコメントを出していた。
この「あとがき」をここに転載させてもらった。

「あとがき」
このエッセイ集は、大きく分けて三つの章から成り立っている。

しかし、「小説すばる」誌上での連載の順番からいうと、第三章が初めてであった。
ここでは、日頃、わたしがいろいろ小説に抱いていた感想を、実作者の立場から記したもので、いわば実感的小説論、とでもいうべきものである。

これを書くうちに、実際の創作の現場そのものに触れてみようということになり、それが結果として、小説の書き方というところまで広がり、第一章ができあがった。
したがってこの章が、これから新しく小説を書こうとする人、あるいは少し書きはじめた人への参考、または指針となりうれば幸いである。

これに続く第二章は、これまで三十年間、小説を書いてきた足取りを基に、小説とその周辺との関わり合いについて記したものである。

各回、それぞれテーマが決まっているが、みな一つのつながりがあるもので、どこから読みはじめ、どこで終えても一向にかまわない。
いずれも、わたしが編集者に話しかける形でつくられたので、そのまま語りの口調が残されている。

これから社会がどのように変わり、小説がどのように変わろうとも、いまの時点でわたしはこう考え、こう歩んできた。
いわばわたしという作家の手の内のほとんどを、このエッセイで記したことになる。

1994年1月

2018年10月5日金曜日

検察審査会

ある日、テレビを観ていたら、検察審査員が登場してきて、ストーリーはこの人が中心になって進んだ。
この検察審査員は、何をどのように務めるのか?
詳しいことは分らないが、この検察審査員のことを深く知りたいと思った。
審査委員は誰がなるのか? 審査補助員とは誰がなれるのか?
そして、検察審査会とは、何ぞや?とこの数か月考えていた。

それもそうだったが、それよりも、どんな事件がこの検察審査会で対象になるのか?
ネットでは、刑事事件のうち、検察官が不起訴処分にした事件が審査対象になるとあった。
ただし、内乱罪と独占禁止法違反の罪は除くとあるが、そりゃそうだろうなと納得した。


テレビは視聴者の支持が下がってきているとか、新聞を宅訪購読している人は減っているので、我が社の中古住宅の宣伝物をどのような遣り方、処方があったら、それに注力したいと考えていることも事実だ。
新聞好みの私こそ、何をどうして、今後のニュースや宣伝、出来事や政事やその素因のことを考えればいいのか、頭を使っていた。
当然、そんな私だからか、ネットからの情報は極めて少なく、新聞の記事に拘らざるを得なかった。
そんな私が、新聞記事とネットでこの検察審査員、検察審査会のことを、知った。

★検察審査会の概要については、下記にネットで知り得たものを転載させてもらった。



2018年10月3日。
朝日新聞の記事を此処に転載させてもらった。
この新聞記事で、今、検察審査会に審査を申し立てている大学の教授がいることを、あらためて知った。

不祥事省庁の再生 大丈夫?
全員野球内閣を掲げ、第4次安倍改造内閣が2日に発足した。
不祥事続きだった各省庁では、留任する大臣や新たなトップに、賛否が入り交じる。
女性閣僚の数や自民党役員人事について、識者から厳しい意見も上がった。

学校法人森友学園をめぐる問題で、国有地取引に関する決裁文書の改ざんや、交渉記録の廃棄が明らかになった財務省。
麻生太郎氏の留任について、神戸学院大の上脇博之教授は「都合の悪い証拠は隠し、証拠を残さなくていいという、官僚への誤ったメッセージになる」と指摘する。

上脇教授は、「一連の問題で、公文書変造などの容疑で佐川宣寿・元財務相理財局長らを告発。大阪地検が不起訴とした処分を不服として検察審査会に審査を申し立てている。

麻生氏は、改ざんを「個人の問題」と言い、国会対応で問題があった佐川氏を「適材適所」と評価している。

上脇教授は「文書の廃棄は民主主義の根幹が崩れる出来事だ。麻生氏がいち早く辞めなければいけない人だった」と話す。



★検察審査会の概要

 20歳以上で選挙権を有する国民の中からくじで選ばれた11人の検察審査員が,検察官が被疑者(犯罪の嫌疑を受けている者)を裁判にかけなかったことのよしあしを審査しています。
 昭和23年の法施行から,これまで60万人以上の方が検察審査員又は補充員に選ばれています。

審査はどういうときに行われるのか

 犯罪の被害にあった人や犯罪を告訴・告発した人から申立てがあったときに審査を始めます。
 申立てがなくても,新聞記事などをきっかけに審査を始めることもあります。

      申立ての費用は

       審査の申立てや手続案内には,費用はかかりません。

          審査の方法は

           検察庁から取り寄せた事件の記録などを調べ,国民の視点で審査します。
           法律上の問題点などについて,弁護士(審査補助員)の助言を求めることもできます。
           会議は非公開で行われますので,自由な意見を活発に出し合うことができます。

              審査の結果は

               審査をした結果,更に詳しく捜査すべきである(不起訴不当)とか,起訴をすべきである(起訴相当)という議決があった場合には,検察官は,事件を再検討します。
               起訴相当の議決に対して検察官が起訴しない場合には,改めて検察審査会議で審査し,その結果,起訴をすべきであるという議決(起訴議決)があった場合には起訴の手続がとられます。

                  これまでに審査した事件は

                   これまでに全国の検察審査会が審査した事件数は17万人(被疑者数による延べ人数)に上り,その中には,交通事故や窃盗など身近で起こる事件だけでなく,水俣病事件,日航ジャンボジェット機墜落事件,薬害エイズ事件,明石花火大会事件といった社会の注目を集めた事件もあります。
                   また,検察審査会が審査した結論に基づいて,検察官が再検討した結果,起訴した事件は約1,600人(被疑者数による延べ人数)であり,その中には,懲役10年といった重い刑に処せられたものもあります。



                  ★検察審査員・補充員とは

                   検察審査員は,検察審査会の構成メンバーであり,20歳以上で選挙権を有する国民の中から,それぞれの地域ごとにくじで選ばれ,任期は6か月です。
                   補充員は,検察審査員に欠員ができたときなどに,これに代わって補欠又は臨時で検察審査員の仕事をします。選定方法及び任期は検察審査員と同じです。

                  検察審査員・補充員に選ばれたら・・・

                   検察審査員や補充員に選ばれると,検察審査会事務局から,選定された旨と会議期日への出席を依頼する旨の書面が届きます。ご不明な点がありましたら,出席することとなる検察審査会事務局にお問い合わせください。
                   なお,視覚,聴覚,言語などに障がいのある方や介護が必要な方が検察審査員又は補充員として選ばれた場合,検察審査会に参加しやすいよう検察審査会事務局において準備をしますので,検察審査会事務局までお問い合わせくださ



                  2018年10月2日火曜日

                  遺言手続きが法改正した

                  昨日(20180930)の朝日新聞の記事に「遺言手続き 法改正で円滑に」の記事が載っていた。

                  遺言書のイラスト 11400961

                  今春に、義母の持つ京都府向町市の住宅の持分を、娘2人と息子の3人で相続するための、遺言書を公証人に作成して貰ったことがあったので、条件反射的、この記事に注目した。
                  だから、遺言書作成について、公証役場の公証人の存在と仕事の進み方については、熟知している。
                  公正証書遺言とは、公証人が遺言の法的有効性をチェックし、公証役場に保管してもらうことを言う。
                  チェックを受けるため、遺言そのものが無効にならないことや、紛失、偽造の危険がないメリットがある。

                  ところが、私が経験した公証人による遺言書作成ではないが、「自筆証書遺言」に関して、改正があったとの新聞記事だ。
                  このことは、現在の私の仕事の上でも大事なことなので、この記事を下に転載させてもらった。


                  ★新聞記事は下記の通りだった。
                  ーーーーーーーーーーーーーーー
                  民法の相続に関する規定が約40年ぶりに改正されました。
                  家族の形が変化し、相続争いが増えたことなどに伴うものですが、円満な家庭が相続に備えやすくなる改正もあります。
                  ポイントを順に見ていきましょう。

                  まず、「自筆証書遺言」に関する改正です。
                  自筆証書遺言は一人で手軽に作れる遺言書で、筆記用具と印鑑があればよく、費用もかかりません。
                  半面、全ての文章を自筆で書く必要があり、途中で間違いが生じたり、法律上求められる方式に従わず遺言が無効になったりするケースがありました。

                  改正後の来年1月13日からは、遺言の本文だけを自筆で書けば、財産目録についてはパソコンで作った財産リストや不動産の登記事項証明書、預金通帳のコピーなどを別に添付する形でも認められます。
                  ただし、財産目録の全ページに署名押印が必要です。

                  自筆証書遺言を法務局で保管する制度もできます。
                  2020年7月13日までに始まる予定です。

                  封をしていない遺言書を住所地や本籍地などの法務局に持参すると、日付の記載もれや押印もれなど、方式に不備がないかの形式的なチェックを行った後、原本とデータ化した内容を法務局で保管してくれます。
                  遺言書の紛失や変造のリスクがなくなり、故人の希望が実現されやすくなります。

                  従来の自筆証書遺言は、遺言者の死後、相続人が家庭裁判所で「検認手続き」を行う必要があり、公正証書遺言と比べ手続きに時間や手間がかかりました。
                  法務局で保管された自筆証書遺言は、検認手続きが不要になります。

                  当面の生活費などに充てられるよう、遺産分割協議前でも、相続人が故人の預金を一定額まで払い戻せる「預金の仮払い制度」も創設され、相続手続きがよりスムーズになります。

                  相続人同士の関係が良好ではない場合に備え、「配偶者」の住まいを守る仕組みもできました。

                  婚姻期間20年以上の配偶者に自宅が生前贈与や遺言で残された場合、自宅は遺産分割の対象から除かれます。
                  配偶者が自宅を相続できなくても、例えば、遺産分割協議がまとまるまでは無償で住める「配偶者短期居住権」や、相続税の課税対象にはなるものの、生涯無償で住める「配偶者居住権」といった権利も創設されています。

                  相続トラブルを解決しやすくなる改正も行われています。

                  従来は、亡くなった方から相続人への全ての生前贈与を遺産に合算し、遺留分(遺言がある場合の取り分)を計算しましたが、改正後は、原則過去10年間の生前贈与に限られます。生前贈与の有無による争いは減りそうです。

                  相続人以外の親族が無償で故人の介護をしていた場合は、相続人に金銭の支払いを請求でき、長男の妻などの苦労に報いる手段もできました。

                  今回の改正を機に、相続税への備えに加え「もめない相続」についても家族で話し合っておくのが理想的です。

                  (ファイナンシャルプランナー・税理士 福田真弓)







                         

                  本庶佑京大教授にノーベル医学・生理学賞


                  佑氏は説く、常識を疑う大切さを

                  10/1(月) 20:40配信
                  BuzzFeed Japan
                  ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】




                  冒頭発言「自分の研究、意味があったと実感」(全文)
                  この度は、ノーベル医学生理学賞をいただくことになり、大変名誉なことだと喜んでおります。

                  これはひとえに、長いこと苦労してきました共同研究者、学生諸君、様々な形で応援してくださった方々、長い間支えてくれた家族、本当に言い尽くせない多くの人に感謝致しております。

                  1992年の「PD-1」の発見と、それに続く極めて基礎的な研究が新しいがん免疫療法として臨床に応用され、そしてたまにではありますが「この治療法によって重い病気から回復して元気になった。あなたのおかげだ」と言われる時があると、私としては自分の研究が本当に意味があったと実感し、何よりも嬉しく思っております。

                  その上に、このような賞をいただき、大変私は幸運な人間だと思っております。

                  今後この免疫療法が、これまで以上に多くのがん患者を救うことになるように、一層私自身もうしばらく研究を続けたいと思います。

                  世界中の多くの研究者がそういう目標に向かって努力を重ねておりますので、この治療法がさらに発展するように期待しております。

                  また、今回の基礎的な研究から臨床につながるような発展というようなことを実証できたことにより、基礎医学分野の発展が一層加速し、基礎研究に関わる多くの研究者を勇気づけることになれば、私としてはまさに望外の喜びでございます。
                  研究で大事なのは「自分の目で確信ができるまでやる」
                  会見では、報道陣から「研究にあたって心がけていることやモットーは」と問われる場面も。

                  本庶氏は著名な科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」を挙げてこう語った。


                  私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。

                  よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

                  まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。
                  つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。

                  子どもたちに育んでほしい「不思議だなと思う心」
                  将来、研究者の道に進む夢を見る子どもたちに、どんなことを伝えたいか。

                  本庶氏は、こんなメッセージを語った。
                  研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。

                  自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。

                  そういう小中学生に、研究の道を志してほしいと思います。


                  あくまで「自分の目」で確かめて納得することの大切さを重んじる、本庶氏らしいメッセージだった。



                  2018年9月24日月曜日

                  「ビルマの竪琴」に啼く

                  此の夏、7月から今(9月21日)まで、体の状態が好いことと、併せて読書の量が凄まじく多かった。
                  この数年、足腰が自由に動かすことができなかった故に、情けないことに本を読むことが少なかった。
                  そんなことを、自省(じせい)紛(まが)いに書いたって、読む人は誰も、面白くも可笑しくもないだけのことだ。

                  ところが、此の7月から読み出した本は豊かだ。
                  7月8月には井伏鱒二さんの「山椒魚」(新潮文庫)、「黒い雨」(新潮文庫)、そして夏目漱石の「坊ちゃん」(新潮文庫)、島崎藤村の「夜明け前」1部/前後(岩波文庫)。
                  昨日読み上げたのが、松本清張の「十万分の一の偶然」(文春文庫)。




                  今、読書中なのが竹山道雄の「ビルマの竪琴」(新潮文庫)だ。

                  私の小学中学生時代だったと思うが、映画化されたことは知っていた。
                  内容は知らないまま今に至った。
                  映画の宣伝広告では、派手な取扱いをしていた。

                  そして、大いにサービスを提供してくれる安売り中古本屋さん通いしかない私にとって、こんな本が廉く仕入れられるので、この中古本屋こそ有難い味方だと思っている。
                  正確に言えば、今流行りの若い人の書いた物には、私の脳波は作者の意図に就いていけない。
                  上に揚げた本は、7月に纏めて仕入れた。

                  ここまで仕上げた今朝。
                  朝日新聞・朝刊の増刷分/BEの掲げられている山本祐ノ介さん(55歳)の顔写真に驚いた。


                  タイトルは、赤いタキシードに音楽の原点。
                  この山本さんの父親は「男はつらいよ」のテーマ曲も手がけた作曲家・指揮者の故・山本直純さん。
                  この父親がテレビなどに出る時、楽しさいっぱいの表情で、お馴染みの赤いタキシード。
                  この親父に、何とか負けたくないと思っていたのではないか。
                  希代のエンターテイナーの背中を見て育った。
                  幼い頃から音楽教育を受け、28歳で東京交響楽団の首席チェリストへ駆け上がる。
                  順風万帆の音楽人生を歩んでいるはずなのに、「自分の音楽を響かせたい。指揮者になりたい」と悶々としていた。
                  正直、もやもやしていたのだろう。
                  3面でのタイトルは、「音楽は聴く人のためにある」だった。

                  そんな時期、2001年にできたミャンマー・ヤンゴンのミャンマー国立交響楽団は、長い活動休止期間があり、指揮者もいないような状態だった。
                  そこにひょこっと山本氏が、見学で現われたものだから、団員から「教えてくれ!」となった。

                  山本氏だけの力では到底できない。
                  日本の音楽仲間に状況を話したら、ミャンマーまで楽器持参で来てパート練習をしてくれる。
                  楽器をメンテナンスしてくれる。
                  一流どころの音楽家たちが力を貸してくれる。
                  国際交流基金が公演の共催になり助成金を出してくれた。
                  楽器がよくなり、熱意のある指導があり、演奏がよくなっていく。
                  そうすると、やる気も出てくる。

                  こんな新聞記事を読んで、俺は今、幽霊にでも頭が引っ張られたのか?と思った。
                  読んでいる本は「ビルマの竪琴」。
                  話は、ビルマのある地域を舞台に、日本軍の小隊と竪琴、連合軍と共に進んでいく。
                  上に書いた新聞記事も合わせて、私の頭の中でひっくるめて廻りだす。
                  こういう場合は、連奏とか合奏と言えばいいのだろう。
                  地元の人々、連合軍の人たちを含めた小話となって、果てしなく音楽・竪琴を中枢に共鳴する!
                  私の頭は、どこまでも、大きなショックを受けながら、共感しまくっていく。



                  ネットに掲載されていたあらすじに私なりの文を含めた。
                  ★「ビルマの竪琴」のあらすじーーーーーーー。
                  1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化していた。
                  物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術がなかった。

                  日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んだ。
                  隊員たちは歌うことによって、隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。

                  隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、特にビルマ伝統の竪琴の演奏が上手だった。
                  部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。
                  さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

                  ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために「埴生(はにゅう)の宿」を合唱しながら戦闘準備を整える。
                  小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で「埴生の宿」を歌い始めた。
                  両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。

                  隊が部隊で合唱したのは、「春高桜(こうろう)のーー」、「菜の花畑(はなばたけ)にーー」、「パリの屋根の下ーー」、「庭の千草」、「都の西北」だ。

                  降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。
                  しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔(いさぎよ)しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。

                  彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。
                  しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。
                  その後の水島のことについては、後の方で書く。

                  収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。
                  そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。
                  彼は肩に青い鸚哥(インコ)を乗せていた。
                  隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

                  大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。
                  そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。
                  隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚え込ませる。

                  数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。
                  それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。
                  隊員たちは我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

                  やがて小隊は3日後に日本へ帰国することが決まった。
                  隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。

                  戦う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。
                  隊長は、日本語を覚え込ませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

                  出発前日、正面の柵のむこうの人ごみのなかに、黄色い衣を着た姿を現した。
                  あのビルマ僧のことです。
                  ビルマ僧がきらきら光る青いインコを両肩に一羽ずつのせて、立っていた。
                  合唱はやみました。

                  柵にもたれていた人びとはふしぎそうにざわめきました。
                  ビルマ僧は凝然と立ちすくしたまま、顔色も少しも動かしません。
                  ただ、彼の肩の上のインコがのびあがって、かんだかい声で、その耳にせわしなく囁(ささや)いています。
                  「おーい、水島。いっしょに日本にかえろう!」

                  実はこのビルマ僧は、水島上等兵だったのだ。

                  収容所の柵ごしに隊員たちは「埴生の宿」を合唱する。
                  ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。
                  彼はやはり水島上等兵だったのか?

                  隊員は躊躇した。
                  もし別人だったら、ビルマ人が尊崇している僧侶に対して無礼になることは、あたりの人々に対しても遠慮しなくてはならない。

                  隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。
                  しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。
                  やっぱり水島上等兵だったのです。

                  日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。)と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。
                  水島には、日本軍人の戦争で亡くなった人たちの心、霊が染みついていた。

                  翌日、帰国の途につく小隊のもとに、1羽のインコと封書が届く。
                  そこには、水島が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。
                  水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。

                  説得するための時間は、30分と決められた。
                  やむなく、戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。

                  ところが、実は彼らは人食い人種だった。
                  彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。

                  最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。
                  やがて祭りの日がやってきた。
                  盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙(あぶ)りにされる。

                  ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナツの祀られた木が激しくざわめきだす。
                  「ナツ」のたたりを恐れ、愕く村人たち。

                  水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。
                  やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。
                  そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

                  ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。
                  葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山。

                  衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。
                  そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

                  水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。
                  手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

                  私はこの異国の僧となって、これからはこの道を行きたいと願います。
                  山をよじ、川をわたって、そこに草むす屍(かばね)、水づく屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。

                  ーーーーいったいこの世には、何故にこのような悲惨があるのだろうか。
                  何故にこのような不可解な苦悩があるのだろうか。
                  われらはこれをどう考えるべきなのか。
                  そうして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?

                  この何故ということは、所詮人間にはいかに考えても分からないことだ。
                  われわれはただ、この苦しみの多い世界に少しでも救いをもたらす者として行動せよ。

                  そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証(あか)しする者たちの力を示せ、と。
                  このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願しだした。

                  このことをよく考えたい。
                  教わりたい。
                  それを知るべくこの国に生きて、仕え、働きたい、と念願いたしますとあった。