2018年12月21日金曜日

彼女に励みの一発、無理するな!!

12月19日の朝日新聞・朝刊を読んで、この記事の主人公に対して、衷心より万感、色々お察し申し上げたい。

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下部にその新聞記事を転載させていただくが、主人公を山岡保子さんとして偽名を使わせてもらった。
私の妹とでも理解してもらうと嬉しい。
私にとって、頑張っている彼女のことを、新聞記事のように、そう簡単に扱うことはできないのです。
瞬時、遠くに居る彼女と手を取り合って生きたいと思った。
紙面に載っている現場となったスーパーや、彼女の記者との面会時の写真は除かせてもらいました。

何故か、他人のことながら、そう簡単にはス・マ・サ・レめーと思ってしまった。
新聞記事の題目にギョッとし、瞠目、記事を鬼の目にして読んだ。
何とも言えぬ、心痛を感じてしまった。
新聞記事を書く記者は、そう自分勝手な思惑で書くわけにいかない、感情的に書くわけにもいかない。
事実を正に事実らしく書くしかないだろう。
今回の記事の新聞を、そう簡単に捨て置くわけにはいかないこと、主人公のことを考えると吾輩(格式ばって、今は我輩なのだ)は、居ても立ってもいられなくなった。

私は高校、大学とサッカーに凝り固まっていた。
サッカーに対する技量は余りにも乏しいのに、どうしたことか? 日本一レベルの高い大学で過ごしたかったし、そのように実現した。
今でこそ入部資格のようなものが、暗黙の裡に出来上がっているのだろうが、無転向な私には、そんな基準なんてアリャ~しなかった。
座頭市の勝新太郎のように、怖い者知らずだった。

私が入部した時の3年生の松永 章さんは、卒業後、日本サッカーリーグで日立サッカー部に所属して2代目のリーグ得点王になった。高校は藤枝市、藤枝東高校。
初代の得点王=釜本邦茂さんは、この人も同じ大学の卒業生で、ヤンマーディーゼルだった。
日本サッカーリーグ得点王。
日本サッカー協会の元副会長さん。高校は京都市の山城高校。
メキシコ五輪においても得点王、銅メダル獲得の立役者だった。
松永さんとは在学中2年間、釜本さんとは釜本さんが内臓を壊してヤンマーでの練習を休んでいたその何ヶ月間を、我が大学のグラウンドで同じように練習をした。
他にも、多士済々、立派な人たちが日本サッカー協会、同協会と各クラブ、Jリーグと各クラブに参加して頑張っていただいた。
その銘々の名前を挙げればいいのだが、その人たちは余りにも多いので、勘弁させてもらう。
日本のサッカー界を引っ張ってきた人々ばかり、名前を出せば、皆さんはへ~へ~と驚かれることだろう。

私の大学時代の過ごし方の一々を、細かいことまでここで述べる心算はない。
私はと言えば、ことサッカーに関しては、箸にも棒にも掛からない状態だったので、ここで、ミーとかハーとか何とも書けないのが寂しい限りだ。
が、そのサッカー部での心身の苦しみは、ちょっとぐらいの紙片では著せない。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ。
艱難辛苦。
哀しいと言えば悲しいが、豊かと言えばこれほど裕(ゆた)かなことはなかった。
簡単に言えば、苦しく悲しかったけれど、本当の本当は、私の人生でこれほど幸せだったことはないのだ。

そんな私だからなのか?
私にはサッカーの技量だけではなく、二重苦、郷里からの送金は他人よりも少なかった。
浪人生活を組みながらドカタで自ら貯めきったお金を、母が月々、私が困らない程度に送ってくれた。
私が残額を気にしながら、送金額を電話で話すのだが、母や父は、本当の私の生活なんかな~んにも考えないで、平気だったようだ。
私の生活にどれほどの費用が必要なのか、考えたこともないようだった。
私がどんな生活をしているなんか、細かいことは、何~んにも話さなかった。

そんな大学生活を何とかやり遂げ、4年間を過ごせたことを、郷里の父母には大したことではなかったのか?
そのように感じたのは私だけで、郷里の親戚の人によると、父母共々、私の大学生活のことはいとも大袈裟に喜んでいてくれたようだ。
関東大学サッカー選手権、全日本大学サッカー選手権、この二つの選手権で優勝した時に、田舎に電話で知らせたのだけれど、ア~、あ~、、、、ソウ、だけだった。
こういうことも、私にとって幸せの一つでもあった。

そんな私が、今回の新聞記事を読んで、唯(ただ)では済まされめーと意気消沈。
そこまで気にすることはないよ、とお思いなるのは不思議なことではないだろう。

山岡保子さんは、自我の踏ん張り根性が人並み以上にあり、それに基づいてそれなりの記録を達成してきた。
数々の成果を知って、骨の痺(しび)れるような感動を受けた。
窃盗症という、私の理解の進まない病気に罹(かか)り、練習以外の病苦に悩んでいた。
この窃盗症については、私は、もっと知ろうと欲している。

かってはサラリーマンだったが、今ではそのように恵まれていなかった。
「なんでこんなことに成るのか、素直で練習熱心だった」「泣きながら走るような頑張り屋さんが」と言われるのが悲し過ぎる。
こんな新聞記事を読んで、なんだかいつものように、つまらない話にしないで欲しい。

できるだけ、陰ながら精励の声を掛けてあげたい。
山岡保子さん、私は元気になる貴方(あなた)を待っています。




★新聞記事の転載になります。
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万引き繰り返す 心の病
マラソン女子元代表に猶予判決

衝動を抑えきれずに自分でもわからないまま、万引きを繰り返してしまう。
陸上女子のマラソン日本代表だった元選手が執行猶予中に計382円のお菓子を万引きしたとして、再び窃盗罪で執行猶予つきの有罪判決を受けた。
精神疾患の一種クレプトマニア(窃盗症)に悩まされていたという。
判決後、病気の克服を誓った。

自分でも、なぜ、そうしたのかわからない。
スーパーのお菓子コーナーで、キャンディー1袋、クッキー2袋を買い物かごへ。
調味料コーナーに移り、その3袋を着ていたコートに隠し持った。

店内を歩くうちに我に返ったところで警備員に声を掛けられた。
財布には2万円ほどの現金やクレジットカードが入っていた。

万引きの再犯で今月3日、前橋地裁太田支部から懲役1年保護観察付き執行猶予4年の判決を言い渡された岡山保子さん(36)=栃木県●●。
公判では、万引きを繰り返す過程が明らかにされた。

菓子382円分 お金はあったのにーーーーーー
実業団に所属し、2005年の名古屋国際女子マラソンで初優勝。
日本代表に選ばれた同年のヘルシンキ世界選手権では、日本人選手最高の6位に入賞したトップランナーだった。
その裏で、厳しい体重制限に起因する摂食障害と、窃盗症に苦しんでいたという。

体重測定は1日4~6回。
前日より100グラムの増加でも許されない。
ある日、我慢できずクッキーを一口食べた。
あまりにもおいしくて止まらずに2袋食べた。
過食が始まった。

初めはサウナで体重を落とした。
やがて吐くことを覚えた。
「高校までは走るのが好きだった。でも怒らないよう体重を落とすために走るようになった」。
夜に合宿所を抜け出し、食べ物を求めてスーパーに足を向け、万引きをした。

引退しても、治まらなかった。
万引きで何度も検挙された。
さらに、昨年11月には、化粧品や清涼飲料水など8点2673円分をコンビニエンストアで万引きしたとしたとして宇都宮地裁足利支部で執行猶予判決を受け、摂食障害と窃盗症の治療を受けていた。

入院先から足利の実家に戻っていた今年2月9日夜、群馬県太田市のスーパーで再び万引きをした。

判決は執行猶予中の再犯は原則実刑としつつ、「再犯防止に向けた環境などが相当程度、ととのえられた」と再び執行猶予をつけた。
裁判官は「あなたがしっかり更生することでいい影響を与えます」「世界で活躍したあなたには努力できる才能があるはず。同じような患者に努力する姿を見せてください」と説諭した。

記者会見で山岡さんは「この病気を絶対に治す。同じ病気の方々に私が少しずつ克服する姿を見てもらい前向きになってほしい」と述べた。
千葉県内の病院の関連施設に住み込んで治療し、人材派遣会社で事務職として働いているという。

(山崎輝史)



再犯防止 刑罰より治療

1700人以上の窃盗症の疑いのある患者を診てきた赤城高原ホスピタル(群馬県渋川市)の竹村道夫院長(73)は「再び執行猶予とした今回の判決は妥当。再犯を防ぐためには刑罰よりも治療の継続が有効だ」と話す。

摂食障害は「窃盗症を併発しやすいが、メカニズムに定説はない」。

竹村院長は、患者の過度な飢餓状態が要因と説明する。
「過度では満たされない生理的飢餓感と、承認欲求に似た心理的飢餓感が重なり、患者自身を責めた立てる」。
そして食べ物や金銭がなくなってしまう恐怖が生まれる。
自分が置かれた社会的地位や財産状況とは別に、「所持金を減らさず、食べ物や生活用品をため込みたい」と万引き運動が生まれる、という。

一度万引きに成功すると、万引き依存が始まる。

ホスピタルでの治療の核は、週17回の患者同士のミーティング。
生い立ちや窃盗への衝動について話し合う。
「それぞれの立ち直りを模索させる。こうした治療は有効だが、中断すると再び検挙されることが多い」と竹村院長は言う。

国内の患者数に関する統計はないが、米国では1千人に3~6人という調査もあるという。
単純にあてはめることはできないが、警察庁のまとめでは、昨年検挙された成人の万引き犯5万6千人のうち、約2割に窃盗の前科があった。

2018年12月17日月曜日

又、又 樹木希林さん

20181214の朝日新聞・天声人語を下部に転載させてもらった。

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★下の文章も、ネットからいただいたものです。
悠木千帆の名を競売に出したことがある。
東京・青山のブテイックの店主が落札し、その落札価額はチャリティーとして寄付した。
落札した旧名は、この店主から無償で2004年に女優の2代目悠木千帆に譲渡された。

樹木希林の名前のいわれは、「樹や木が集まり希(まれ)な林をつくること=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。




★天声人語
亡くなってはや3ヶ月、樹木希林さんの出演した映画を立て続けに見ている。
「あん」「わが母の記」「日日是好日」。
どれも老境をさりげなく演じて、余韻が深い。

お目にかかったことはないけれど、取材依頼の返事を電話でいただいたことがある。
「マネージャーもメイクさんもいないのよ。取材応対も私ひとり」「ご存じかもしれないけれど、私もう全身病気だから」。
「老いや病気にブレーキをかけたいとは考えない」「病を悪、健康を善とするだけなら、こんなつまらない人生はない」。

日ごろ心がけたのは、身の回りの始末である。
毎朝、ひとしきり掃除をする。
服はボロボロになるまで着る。
「長くがんと付き合っていると、『いつかは死ぬ』じゃなくて、『いつでも死ぬ』という感覚なんです」。

言葉は人々の胸にじんわりと染みこんだ。
この秋、本紙の「ひととき」欄に投書が載った。
「胃ろうなど延命治療は受けたくない」。
遠慮があって長く言えずにきた本心を、樹木さんの訃報に接して息子に伝えることができたという。
79歳の女性だった。

ともすれば長く生きることのみを是とする思考に陥りがちだが、人生に潮が満ちる年代ともなれば、病を隠さず、老いにあらがわず、死から目を背けない。
樹林さんにならい、「自分の人生を使い切りたい」と願うのみである。

2018年12月14日金曜日

はこべ(繁縷)

ハコベのことをちょっと書いてみたくなった。
誰もがよ~く知っている植物だけれど、何故、山岡がキーを叩くことになったか? 皆さんは驚かれただろう。
ハコベ

今朝、会社の前の駐車場の側にある庭に生えた雑草を抜き取った。
この庭には、使い出し始めた頃に、柿の木を2本植えた。
それから20年近くなるが、今年の実りは豊穣だった。
夏の頃、余りに多く咲いた花を、無理してまで間引いたのが、功を奏したのだろう。
柿の実は、私にとって掛け替えのないもので、大学に入れなかった浪人時代、一夜に20個ぐらい食うのが日常だった。
我が家の柿は直ぐになくなり、腹具合を心配してくれた従兄弟が、彼の畑の柿を取りに来るように催促してくれた。
此の庭の管理? 
花を植えたり除去したり、柿の実の収穫に関わることは私の特別に課せられた任務だと心得ている。
今年はそれに付け加えて、チューリップなど数々の花も植えた。

そして、本日の除草だ。

雑草の種類は幾つもあったが、このハコベについては、随分以前に、ハコベとはこういう漢字を使うんですよと言って「繁縷」を教えられた。
が、この漢字は思いだせなかった。

このハコベだけはどの植物よりも成長が早く、どうも他の草よりも威張っているように思えてならなかった。
今日の私は、草を除く側の人間で、このハコベのことが憎たらしくてならなかった。

自分の机椅子に戻りパソコンを使って、遠い昔に教わった漢字を調べた。
その漢字を見て、初めて知った時のように新鮮だった。
それほど、私の頭から「繫縷」は居なくなってしまった。
遙か遠くに、行ってしまったようだ。

このハコベを知っている人は、当然のように、野菜や樹木の根の周りの空地に、しっかり根を張っているハコベを嫌がった。
私の畑=イーハトーブにも、うっかりできない程、生えてくる。
でも、根を深くまで張らないので、早い時期に引っ張ればいとも簡単に抜ける。

ネットで調べたことも交えて文章を綴ってみた。
全国いたる所に生える越年草。
春の七草の一つで七草粥に入れたり、小鳥の餌としてお馴染みだ。
根・茎を除いて、柔らかそうな茎先だけを摘む。

食用には葉っぱを塩水で茹で、水にさらして青臭さを抜く。
ザルなどに上げて、ぎゅっと水気を絞り、細かく刻む。
ほうれん草よりも長く茹でてもオッケーだ。
薬効としては、産後の浄血、催乳、利尿作用がある。

私の郷里では、食用にはしなかったけれど、ウグイスなどの餌にした。
葉っぱを小さな器に入れて、胡麻を擂(す)るように胡麻木(こまき)で繊維を無くした。
ウグイスの羽根の色が、このハコベを餌としてあげることで、ことさら立派になるのではないかと、自ら考えていた。
ジャム状になったものを、箸でウグイスの口の前に持っていった。
そのような想いでばなしはいくつもある。

ハコベの漢字は「繁縷」だ。

2018年12月8日土曜日

日韓、遠のく和解

20181203(月)の朝日新聞より下部に転載させてもらった。


国際的に、ギクシャクしている国家間折衝問題。
アメリカは、我が国は保護貿易国ではない。
経済において、中国の覇権を絶対、どんなことがあっても許さないなんて考えてはいません、と言いながら、貿易については関税に限りなく中国に負担を厚くする。
方(かた)や中国は、有り余る国民の消費力を利用して、コツコツと覇権をめざす。
アメリカの大統領の顔色、声音(こわね)の激しいことと同様に、優しい顔をしながら中国の習近平主席だって苦しんでいる。
当初目論んでいた貧困撲滅、債務削減を排し、大型財政出動に舵を切ったが、株価の下落や人民元安になり、国内での経済に耐えかねている。
国内経済減速とアメリカとの熾烈な貿易戦争だ。

北朝鮮はどんな反応をしかけてくるのか、最初の元気が今、見えてこない。
中国には細少にわたって、打ち合わせをしているのだろうが、これもよく解らない。
韓国だって、何か頭でも可笑しくなったのではないかと疑われることが多事にある。
先ず、韓国の最高裁が韓国人の徴用工訴訟で、確定(審判)させた波紋が国内外で続いている。
1965の日韓国交正常化の土台を突き崩すような司法判断だから、大騒ぎになるのは当然だ。
だが、日韓双方で勘違いや誤解も多過ぎる。
支持率が下がりつつある文在寅大統領は、この支持率の下がり止めをなんとか阻止したいから、急に、変な動きになったのか。
国民に対して自棄(やけ)に親愛を見せている。
北朝鮮の最高指導者の金正日にしても韓国の文在寅大統領にしても、日本との今後の関係について、良く図られるための策の提案が何もないのが、楽しくない。

ウラジーミル・プーチキン大統領の支持率が、8割から37%にまで急落した。
この原因は、年金問題だ。
ロシアでは、W杯(サッカー)の開幕直前に年金受給開始年齢を引き上げる改革案を議会で可決しようとした。
年金だけではなく医療などの社会保障に対する国民の不満は大きく、世界銀行がロシア政府に対して、この分野にもっと資金をまわすべきだと提言した。
プーチン大統領が9月の東方経済フォーラム総会の場で、前提条件なしでの露日平和条約を年内に締結したいと提案があった。
このプーチキン大統領さん、日本に何かと口挟んでくるが、どうしても契約の締結までは到達できない。
日本にとっては、何もかも深く考えていないのではないか。
日本にとっては、先ずは領土問題の解決ありきが前提問題なのだ。


★朝日新聞より
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政治/断簡
編集委員・佐藤武嗣

背を向ける日韓 遠のく和解

「今の文在寅(ムンジェイン)政権は北朝鮮しか見ていない。徴用工の判決に韓国国民が喝采し、慰安婦合意見直しも歓迎だ。
対日関係を真面目に考える官僚は外され、政権はポピュリズムに走っている」。

ある韓国の記者が解説してくれた。
米国大使館の招きで来日した韓国の記者と交流する場があった。
お互い酒を飲みながら、自衛艦旗の抑揚問題や慰安婦財団の解散など、なぜ歴史問題を蒸し返す動きが韓国で再び活発になっているのか尋ねた際の考えだ。

だが、その記者は逆にこう疑問もぶつかってきた。

「日本の外相が街頭演説で、『元徴用工への補償は韓国政府が責任を持て』という趣旨の発言をした。
なぜ、ことさら韓国政府を刺激するのか。日本も韓国との関係を真面目に考えている人がいないのではないか」。

慰安婦をめぐる日韓合意の扱いなど、韓国の対応にも問題はあるだろう。
さりとて感情に任せて『(合意は)1ミリも動かさない』(菅義偉官房長官)とか、徴用工判決に「暴挙」だ(河野太郎外相)と必要以上にとげとげしい言葉をぶつけたのでは、日韓関係はささくれ立つだけだ。

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3年前の慰安婦日韓合意の際、ワシントンで特派員をしていた。
日韓両国が「歴史をめぐる和解」に一歩踏み出したのを心強く思った。
橋渡し役を演じたオバマ政権も合意を大いに歓迎していた。
だが今、日韓は背を向け、その距離は再び広がりつつある。

「歴史和解」にオバマ氏はこだわった。
4千人超の日系人や戦争捕虜が強制的に抑留されたハワイのホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定。
「過去の失敗を繰り返さぬよう、我々の苦痛を伴う部分を史跡にしたい」と語り、歴史と向き合う姿勢を鮮明にしたのが印象的だった。

安倍晋三首相が米議会演説で「先の大戦に対する痛切な反省」を口にしたのもオバマ氏の有形無形の働きかけがあったからだろう。
その後、大統領は被爆地・広島へ、首相はハワイ・真珠湾を互いに訪れて「和解」を誓った。

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オバマ氏が日韓両政府に和解を呼びかけ、その延長線上に日韓合意もあったが、立役者が去り、トランプ氏が大統領に就任した。
同氏はかって首相の真珠湾訪問で「真珠湾への奇襲攻撃をなぜ議論しないのか。何千もの米国人が命を落としているんだ」とオバマ氏を批判。
日韓の「和解」にまるで興味はなさそうだ。

地道な交渉を積み上げた合意がほごにされ、携わった人に落胆と憤りはあるだろう。
だが、日韓悪化をひそかに喜び、利用できると中国や北朝鮮が考えてもおかしくない。

首相は総裁選で、残り任期を「戦後外交の総決算」にあてると誓った。
北方領土のみならず、隣国・韓国との「歴史和解」も総決算に値する。

相手をなじるだけでは負のスパイラルに陥れるだけだ。
首相が米議会で口にした過去への「痛切な反省」を韓国側に陰に陽に伝えつつ、問題だと思う部分は二国間、国際社会で理をもって堂々と反論する。
そうした大局的観点から関係改善に尽くしてほしい。


2018年12月4日火曜日

俺にとって、この夕刊はビッグだ!!①、②、③

20181127の朝日新聞・夕刊は、私にとって面白ことが3つもあり、新聞好みには有難いものだった。


その①は、ベトナムのフランスからの独立運動家=ファン・ボイ・チャウを支援した日本の医師=浅羽佐紀太郎の話だ。
私の中学生時代は、ベトナムの沼地に米軍の爆撃機から霰(あられ)のように爆弾を降下させる新聞の記事を見て、何と儚い夢の無いことを、いつまでも続けていることが、私の良心の芽をつむった。
子どもの心は繊細だった。
そんなベトナムでの戦争の内容を少しでも見聞きするだけで、アメリカ嫌いになり、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)たちを応援したくなった。
沖縄からも何百、何千の戦闘爆撃機がベトナムに向かって発射した。
ベトナム民主共和国の初代首席になったホー・チ・ミンさんのことも、尊敬の人となった。
かってサイゴンと言われていた市名は、ホーチミン市に変わった。


その②
大学受験に失敗、その浪人中のこと、何かの拍子で村山槐多の木炭画を観た。
作品のことは兎も角、作者の名前の「槐多」を「かいた」とは読めなかった。
その時の衝撃を、この新聞記事を観た瞬間思い出した。
決して技巧的ではないが、その特徴的な筆さばきに、私の胸の辛抱は50年前の私に戻ってしまった。
荒々しいが、でも筆致は心優しいものだ。


その③
宇宙のことには、なんでもかんでもニュースらしいものには興味がある。
難しいことは何も解らないが、ただ、興味を持っているだけだ。
アメリカ航空宇宙局(NASA)だけではなく、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)らが、発表するものには、気を使っている。
中学生の頃、太陽系の惑星の位置を、「水金地火木土天海冥」ー「すいきんちかもくどってんかいめい」と覚えた。
ちょっと気になることをテレビの報道番組で知った。
火星には、少しの大気と水があるらしいとこことだった。

今年の20180701に朝日新聞の記事をそのまま転載させてもらって、我がブログの記事にした。
「はやぶさ2 リュウグウに到着」だ。
探査機「はやぶさ2」が地球から約3億キロ離れた小惑星「リュウグウ」に到着した。
今後1年半滞在し、3回着陸して生命の元となる有機物が含まれていると思われる小惑星の砂の採取に挑む。
地球に戻ってくるのは2020年の予定。
東京オリンピックが行われる年でもある、楽しみだ。

この程度の知識しかない、恥かしい限りだ。
■新聞記事をそのまま転載させていただいたので、それを読んでいただければ私の気持ちまで理解してもらえると思考した。
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★その①
日本とベトナムの交流
両陛下が思いをはせて

独立運動支援した浅羽医師の碑 訪問へ

天皇、皇后両陛下が27日、私的旅行で静岡県に入った。
午後に袋井市梅山を訪れ、ベトナムの独立運動指導者ファン・ボイ・チャウの活動を支援した医師浅羽佐喜太郎(あさば・さきたろう)の石碑を視察する予定だ。
今年は碑建立100周年の節目。
地元は盛り上がりをみせている。

袋井市梅山の常林寺。
境内に高さ約2,3メートルの碑が立つ。
100年前、フランスからの独立を目指して日本へ留学生を送る「東遊(どんずー)運動」を展開したチャウが、日本滞在中に世話になった佐喜太郎への追慕と、ベトナム独立への願いを込めて地元の人々と協力して建てたものだ。

両陛下は昨年のベトナム訪問でチャウの記念館を訪れており、佐喜太郎とチャウの交流に感銘を受け、今回の視察も両陛下の意向で実現した。

佐喜太郎がチャウを支援したことは、当時フランスと友好関係にあった日本の意向に反するものだった。
そのため子孫らは長い間積極的に語らず、功績が広く知られることはなかった。

「埋もれた歴史に光を当てて下さり、佐喜太郎も喜んでいるのでは」と中村真典住職(54)は話す。
住職となった約20年前は、碑の周囲も手入れが行き届いておらず、地元でもあまり知られていなかったという。

2001年ごろ、ベトナム人留学生が卒論で取り上げるため訪れたことをきっかけにベトナムと地元の人々との交流が始まり、03年にはチャウの孫やベトナム大使館幹部も出席して建立85周年記念式が開かれた。
その後市民の有志が「浅羽ベトナム会」をつくり、ドキュメンタリーの上映会などで交流を深めた。

12年には袋井商工会議所などを中心に市民訪問団を結成、現地の工業団地などを視察した。
人手不足の市内の企業はベトナム人技術者を受け入れ、日本語学校に通うベトナム人も増えた。
13年には佐喜太郎とチャウの絆を描いた両国共同製作のドラマも放映された。

両陛下は今年7月に常林寺を訪れる予定だったが、西日本豪雨で取りやめに。
それだけに地元の人々の期待も高まる。

原田英之市長は「佐喜太郎の存在、物語を多くの人に知ってもらうこの上ない機会」と期待する。
浅羽ベトナム会の安間幸甫代表(74)も「日越関係や両国の歴史を深く知るきっかけになればいい」と話す。

中村住職は「佐喜太郎の功績がさらに認められ、身内の方も肩の荷が下りるのでは。両国の新たなつながりの場になってくれれば」と話している。

(長谷川智 多田晃子)




★ネットの内容をそのまま転載させてもらった。

ファン・ボイ・チャウ

ベトナム独立のもう一人の英雄を知る

ベトナムの独立の英雄といえばホー・チ・ミンが知られていますが、彼に先駆けてベトナム独立を模索したもう一人の英雄を知っていますか?占領国フランスからの独立運動を指揮し、初代国家主席となったホー・チ・ミンとも交流がありながら、最近になるまでその活躍がほとんど顧みられなかったファン・ボイ・チャウです。実は彼は、日本とも深い縁と絆がたした。

フランスに次々と占領されるベトナム

フランス占領後にはつぎつぎとフランス風の建物が建てられます
フランスに占領されたベトナムで、ファン・ボイ・チャウが独立のために活動を始めたのは1904年のことです。その時ファンは37歳、フランスがダナンを砲撃して侵略を始めた1947年から50年以上経っていました。
その50年の間に、フランスはダナンから南部3省、ハノイと次々に占領を広げ、ベトナム支配を巡る清との戦争(清仏戦争)で清に勝利すると、1887年ベトナムを全面的に占領、「仏領インドシナ連邦」として植民地化していました。

独立支援を求め日本へわたったファン・ボイ・チャウ

1904年にファンは仲間とともに「ベトナム維新会」を結成し、1905年にはなんと、ひそかに日本にやってきました。反仏独立運動の支援を日本に求めるためです。そこでファンは静岡県袋井市の医師・浅羽左喜太郎に出会います。浅羽はファンの熱意に胸を打たれ、知り合いを通じて有力政治家だった大隈重信と犬養毅に会わせることに成功します。
ファンが日本に求めたのは、フランスと戦うための武器の調達でした。しかし大隈と犬養は武器ではなく、人材の育成こそが独立には必要と説き、ベトナムからの留学生を日本で受け入れることを提案します。そこから若いベトナム人学生を日本に留学させる活動(東遊運動)が始まり、1905年から1909年の間に、100人以上の学生が日本で学び交流を深めたのです。
しかし占領国のフランスはこの活動を妨害します。すでに結んでいた日本との協約を理由に、ファンら留学生たちを国外退去させるよう要請、日本にいられなくなったファンたちは中国に逃れ、広東で独立運動を続けるのですが、1925年にフランス軍に逮捕され、ハノイで終身刑を受けます。その後国民からの強い反発を受け恩赦となりますがフエで軟禁生活となり、1940年、独立を見ることなく亡くなりました。
ファンと日本の深い友情
ファン・ボイ・チャウは日本で留学生らと交流していた4年間を「人生で最も華やかな、幸福な時代」と振り返っていたと言われています。この4年間、そしてその後日本を追われ、行き場を失った留学生たちを支え続けたのが浅羽です。浅羽は亡くなる1910年まで支援を続け、その姿に感動したファンは、浅羽の墓に記念碑を建てたそうです。また袋井市には今もなお浅羽ベトナム会という組織があり、ベトナムとの交流を続けています。
はるか100年以上前の、ベトナム人と日本人との小さな出会いかもしれませんが、深い信頼と絆で結ばれた友情は、100年後の現在でも人々の心に広く深く浸透し、今なお人々の心に生き続けて、交流の輪も広がり続けているのです。

ファンゆかりの地フエへ

世界遺産にも登録されたベトナム最後の王朝・阮朝の王宮。
フランス軍に逮捕され、軟禁生活のなかで亡くなったフエには、ファン・ボイ・チャウの記念碑や記念館などが整備されています。長い間歴史に埋もれ、評価されてこなかった彼の運動と生涯が、少しずつ紹介されるようになってきました。
もちろんフエの魅力はそれだけではありません。フ ランスに占領される前、最後の王朝・阮(グエン)朝の都が置かれていたフエは、今でもそこここに古都の面影を色濃く残しています。王宮を始めフエ宮廷美術 博物館や、天女伝説のあるティエンムー寺など、中国の影響を深く受けていたことが伺える建物が点在し、一方、フランス占領後のいかにもヨーロピアンな建物 も見られ、ベトナムの歴史の奥深さを感じます。
またフエはベトナム戦争時に激戦地となった街でもあります。ベトナム の世界遺産として最初に登録された王宮は、ベトナム戦争時に大半が破壊されてしまい、現在もなお復旧作業が続いています。10年以上に及ぶベトナム戦争が もたらした傷は決して浅くはありませんが、ベトナムの人々は今なおその傷を癒そうとしているようにも感じられます。
フエに今なお残るベトナム戦争激戦の跡です。



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その②
村山槐多(かいた)19歳の作品 
100年ぶり発見

信州の風景 情感あふれる筆致



約100年ぶりに見つかった村山槐多の「信州風景」。
状態も良く、黒々とした木炭の色がはっきり残る。
力強い筆致で、決意と意気込みが伝わってくる作品だ。

美術や文学の分野で大正時代に活躍し、早世(そうせい)の天才といわれる画家・詩人の村山槐多(1896~1919)の19歳の作品で、約100年間行方が分からなくなっていた木炭画2枚が、京都市内で見つかった。
専門家は槐多のデッサン作品の中では第一級に値すると評価する。

槐多は幼少期から京都に住み、詩作や小説に早熟な才能を発揮。
上京後、院展などの美術展で受賞を重ね注目を集めたが、退廃的な生活を送るなか、結核性肺炎のため22歳で急死した。

見つかった2枚は1915年「信州風景」。
稲刈りの時期を迎えた農村の様子や重なる山並みが、情感あふれる筆致で描かれている。
槐多の日記には、信州で木炭画50枚を描くという計画が記されており、そのうちの2枚という。
19年に東京で開かれた遺作展に出品されたが、その後は行方不明だった。
「村山槐多全画集」(83年、朝日新聞社刊)の中でも「所在不明の主要作品」と紹介されている。

遺作展で購入された絵を、槐多の同級生の遺族関係者が保管していたとみられ、家族らが書庫を整理していて見つけたという。
発見に立ち会った京都在住の美術商の男性は「ずっと行方知らずだった作品が没後100年の節目を前に見つかり、槐多の執念を感じた」と話す。

槐多研究者で美術史家の村松和明(やすはる)さんは「デッサンに一から取り組む決意で描いたもので、画面に表れた緊張感といい、槐多の風景デッサンでは最高クラスの連作。
なかでも今回見つかったものはとりわけ良い作品」と評価する。
日本の近代絵画に詳しい東京・府中市美術館学芸係長の志賀秀孝さんは「人物画にも通じる生動感が風景にも感じられる。短命で作品数が限られているなか、槐多の画業をたどるうえでも大事な発見だ]と話す。

追記(山岡)
ところで、村山槐多(かいた)さんの「槐」とは、その後、読む本や新聞で、見かけたことはない。
一体、この字は何を意味するのか、講談社の日本語大辞典で調べてみた。
エンジュ。
マメ科の落葉高木。中国原産とあった。
これだけでは、よく解らない状態だ。


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その③
火星のおなか 調べよう
米探査機が着陸


火星着陸に成功した探査機「インサイト」から送られてきた画像。
ほこりでレンズが汚れているが、地平線までほぼ平らな地形に岩のようなもの(画像下)が見える。

火星の内部を調べる探査機「インサイト」のイメージ図=いずれもNASA提供


米航空宇宙局(NASA)の探査機「インサイト」が27日午前4時54分(日本時間)、火星に着陸した。
今後2年かけて地下の構造を初めて直接観測し、45億年前に火星がどのようにできたのか調べる。
火星への着陸は2012年の探査機「キュリオシティ」以来。
着陸直後に交信を絶った旧ソ連の探査機をのぞくと8機目となった。

インサイトは5月、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から打ち上げられ、火星まで約半年かけて4億8200万キロを飛行した。

開発費は約10億ドル(約1130億円)。
乗用車ほどの大きさで、ロボットアームを使って、火星表面に地震計を設置したり、地下5メートルの深さまで熱流量計を埋め込んだりして、火星で起きる地震や地中の温度を測る。

内部の構造や成分を調べることで、地球のような「岩石惑星」が生まれた過程の解明につながると期待される。

火星は、大気圧が地球の100分の1程度。
突入時には鉄が溶けるほどの高温になるにもかかわらず、パラシュートで十分に減圧させるのが難しい。
今回は耐熱シールドにパラシュート、ロケットの逆噴射を使って着陸を成功させた。



(松本紗知)

2018年12月3日月曜日

柚子(ゆず)のメイドリキュール漬け



「柚子のメイドリキュール漬け」なんて、聴き慣れないことをこのブログの題名にしたが、なんてことはない、柚子のリキュール漬けのことだ。
気を利かせて、柚子酒とでも書けば良かったのか。
酒好きならではのことかもしれない、と批判されるのが一番怖い。
恥ずかしいことでもある。

昨日、私の第二の故郷(ふるさと)まで愛してしまった保土ヶ谷・今井町の畑=イーハトーブに寄った。
会社からの帰途だ。
何も、イーハトーブに寄って何かをしなくちゃならないことなんて、何も無い。
でも、生臭(なまぐさ)な私に、暫しの心の楽しみを与えてくれるのは、イーハートーブをぼんや~り眺めることだ。
辺境な田舎育ちの私にとって、土、雑草、果樹、育てている野菜の育ち具合を眺めるだけのことだって、こんなにも楽しいものなんだ。
米や麦、茶などを観る目は、必死だ。

その畑に着いて何もすることはないのだが、少しばかりの雑草を刈り取り、抜き取りするだけで、幸せな気分になれる。
皆さん、私のそんな小さな喜びをご理解できますか。


柚子800グラム、氷砂糖100~200グラム、果実酒35%を1,8リットル。
柚子をよく水洗いして水気をふく。
皮をむき、蔕(へた)を取り、瓶に入れて氷砂糖と漬け込む。
お好みで柚子の皮を入れる。
1週間ほどで飲めるようになり、3ヶ月ほど熟成させるとより美味しくいただけます。
皮は1週間後に引き上げます。
炭酸割りや寒い日のお湯割りがおすすめです。
(メイドリキュールの販売用のケースに書いてあった通り)

ならば、幸せな飲み時は来年の2,3か月になる。
妻と娘から、美味しいのができますかね?なんて、疑問をもたれたが、お前ら、美味いか美味くないかなんてそんなことは知らないだろうが、内容は焼酎?と氷砂糖に柚子を漬けただけじゃないか。
美味いに決まっているよ。

たとえ、美味くなくったって、このジジイには何でもかんでも、オッケーだよ。
この発酵の期間、楽しみに溢れた好い年末年始になりそうだ。

2018年12月1日土曜日

この「朝」の気分好(よ)さ!!

先日、インフルエンザ予防接種をした病院で、いただいた本のなかに「朝」のことが書いてあった。
その本の著作者は京都で有名なお寺の貫主さんだった。
「日本の漢字文化に目覚める」だ。
この文章は下の方に、本に書かれたままに転載させていただいた。

朝のことが此の頃、凄(すご)く気になっていた。
それは、この数年間において腰痛の痛みから解放されて、日々の生活が快活になっているからだろう。
正確には腰痛の痛みが全くゼロまでにはなっていないが、多少なりの痛みはあることはあるが、痛さは極めて弱くなっている。
そんなことが、裏自信になっているのだろうか。

朝、目が覚めて、寝間着から出勤用の服に着替えて、義母にご飯を出し、私もそれから朝ご飯に入る。
そのとき、何か不思議な気?が、私とご膳の前に迫り来る。
その朝ご飯の一つ一つのメニューを前に、気分が頗(すこぶ)る好いのです。
このメニューの一つ一つが、何を私に示しているのだろうか。
家の外が雨天であろうが、晴れていようが、曇っていても、朝ご飯を前にして神経が澄み、一日のやる気が湧くのです。
この気分は何なのだろう?と朝ご飯を前にして思う。

夕ご飯、晩飯はどうなんだと思われるかもしれないが、晩飯の時は、気分ではなく、もう少し不思議さが込み入った雰囲気? 
この頃の私の仕事の量は、決して皆に喜ばれるほどのこともない。
会社に対する貢献度は、情けないほど少ない。
晩飯気分は、変なモノではなく持続的で躍動感か充実感が漲(みなぎ)る情趣?か情調?と言えば、判ってもらえるだろう。
私は幸せ!なんだ、ろう!!

この朝ご飯にしても晩ご飯にしても、義母へのベッドへの配達は私がやっている。
膳をベッドの側に置いた時に、何かを話す。
外の天気模様やら、ご飯の一つ一つのメニューについて、私のそれなりの感想を述べることにしている。
それらのささやかな会話でも、義母には微笑みが見られ、高齢で体はなかなか言うことを聞いてはくれないが、なんとか頑張ってもらいたい。

★お寺の貫主さんの書いた文章より。
私はこのところ皆さんに繰り返し言っている事柄があります。
「朝、起きた時は感動しないといけない」ということです。
「朝」という漢字は「十月十日(とつきとおか)」と書きます。
お母さんの胎内に十月十日宿って、そして生まれてきた時が「朝」です。
私たちは毎朝、生まれ変わっているのです。
皆さんは子供や孫が産まれた時は大喜びし感動しています。
ところが、自分が毎朝、起きて生まれ変わっているのに、どうして感動しないのでしょうか。
慣れているからです。
「朝、目が覚めるのは当たり前や。決まっている」。
本当にそうでしょうか、夕べ寝て、今朝目が覚めるかどうか、誰にも保証はできません。皆さん、明日の朝は気を付けないといけません。
ですから、私は毎朝、「ああ、目が覚めたなあ」と感動しているのです。




嗚呼(ああ)、そうなんだと納得していたら、下のような文章も知ってしまった。


★ID非公開さん
2004/9/1923:22:35
全然関係ないです。

「朝」は、「幹」+「舟」で、太陽がぬけ出るようにのぼる時の意。です。

「幹」は、旗が高く上がるように日が昇るの意。
「舟」は、本当は「月」に似た字で、音を表す記号+抜け出るの意。

「朝」「幹」に共通の左部分は、「日が昇る」様子を表しています。

このように意味を表すパーツと音を表すパーツを組み合わせて作られた
漢字を「形声」「諧声」と言います。漢字の9割がこの「形声」です。
4344531さんの「親」も「形声」で、左側は「シン」という音を表す記号で、
元を辿れば「辛」、「新」の左側です。 
(立+木ではないけど、「いつも見ている」→「おや・したしい」の意です) 

「躾」は、国字=日本で漢字を真似て作られた文字で、こちらは仰る通り
身の立ち居振る舞いを美しくする意。
このように、意味のある漢字の組み合わせで作られた文字を「会意」と
言います。 国字には、この会意で作られたものが沢山あります。