2019年2月12日火曜日

今日のお勉強は「たおやか」なり

20190211(月)、会社に行く前に新聞を読みながらテレビを観ていた。
昼過ぎに自宅に帰って、テレビを観た。

そのどちらにも、少しの時間だったけれど、「八千草 薫」さんが昨年、膵臓に癌が見つかり、肝臓にも転移しているので、暫くの間、療養のためにテレビ出演を休むという、そんなニュースがあった。

好きな女優さんなので、彼女が出ている番組は、自(おの)ずから力が入って真剣に観て来た。
目鼻立ちが繊細で、嫌(いや)らしく聞こえると避けたいのですが、体全体から発する気勢か気性か、気品に堪らなく私は夢中になった。
品格が上質で厚高な女優さんなのだ。

その八千草 薫さんの病状の説明があって、その説明のなかで使われた言葉が「たおやかなお人(ひと)ですよね」と言うアナウンサーの言葉だった。
私には「たおやかなお仁(ひと)ですね」と聞こえた。
テレビから目を背けても、この「たおやかなお顔、仕草」が頭の中に残って離れない。

八千草 薫さんのちょっと辛い話だけれども、私には55年ほど前に、仲良く付き合ってくれていた脚本家の馬島さんの、彼女に感ずる思いを聴かされたことがあった。
その内容は、ここで文字にするようなことではないと堪忍して、避ける。
そんなちょっとだけの話はいとも簡単に逃げ切れるけれど、「当たり前、そんなことはあっちゃ向いてホイ」と投げ捨て、今は彼女の病状の今後のことが気に痛む。




★そんな時、頼りになるのは、ネット情報だ。
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三省堂大辞林

★たお やか たを- [2] 【嫋やか】

( 形動 ) [文] ナリ
〔「たお」は「たわむ(撓)」の「たわ」と同源
姿・形動作しなやかでやさしいさま。たわやか。 「 -な乙女」 「 -な山の峰々」 「 -な舞の手振り
派生] -さ ( 名 )
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★たおやかの意味
①<たおやかの意味>

これは、「姿・形・動作がしなやかで優しいさま」
という意味です。

「しなやかで、折れそうで折れない」と、
姿・形は細く少女のようでありながら、
しとやかでなまめかしい様をあらわします。

「たお」は「たわむ」と同じ意味。
枝などが曲がる様子を表わす言葉です。
そのような、しなやかな女性のイメージとなります。
曲がるが折れることのない、強い女性、優しい女性、そんな良いイメージを表わす言葉です。

古典的文章の中に、たおやかな人と言うくだりが出てくる事があります。
昔からの良い印象の人だったことがうかがえます。
戦後、女性の活躍の場が増え、体格的にも素晴らしく進歩した現代の女性。
女性のたおやかさは現代に無くてはならないものです。

たおやかさは、どんな困難にも負けない
本当に真の強さをもっていることを意味する、そうとも考えたい言葉です。

ただ、「君はたおやかだね~」といやらしく言うと、
「セクハラ!」とか言われかねないので気を付けたい。

②<たおやかの使い方>

・たおやかになびく髪だろう。

・彼女はたおやかさが溢れている。

・たおやかな身のこなしの女性。

以上、たおやかの意味とはでした。


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  • 画数:8
  • 音読み:エン、 オン
  • 訓読み:たおやか


  • 画数:11
  • 音読み:ワ、 カ
  • 訓読み:たおやか、 はべる
  • ピンイン:wo3
  • 対応する英語:maid


2019年2月8日金曜日

懐かしい友人が我家に来てくれた

昨日20190120、大学時代からの「友人」が我家に来た。
この日は友引だった。
この文章では、友人のことを姓名で著せばいいのだろうが、プライベートな問題その他で友人に迷惑を掛けたくないので、友人とする。
今までの私の人生50年において、掛け替えのない友人だ。

友引とはこういう日だ(ネットより)。
・陰陽道(おんようどう)で、凶禍が友人に及ぶとする方角
・中国の暦法の六曜のひとつ。
本来の意味は、「何をしても勝負がつかない日」。
日本では、「友を引く」という言葉のため、この日に葬儀を行うことを嫌います。

私が2年生、友人が新入部員として、私の前に現われたのは、寮の玄関前だった。
お前は、何処から来たんや? 学校は何処や?と矢継ぎはやに質問した。
友人は、兵庫県の明石や、学校はジュンシン学院(きっと淳心と書くのだろう)です。
何や、その学校名は?
学院というのは、大体キリスト系の学校が多く、きっと神父さんや修道女さんが、構内をうろうろしてるのと違うか(ちゃうか)、私の質問はどうも現場知らずだ。

力の無い、踏ん張りの効かないプレーは余り評価できるものではなかった。
しっかりやってくれよと応援した、それから暫くして、私は友人と仲良くなってしまった。
中学校からか高校からか、きっと立派な学校だったことだろう。
父母は、東京の学校へ行って、立派な会社に入ることを願っておられたようだ。

もうこの人には頭が上がらない。
大学2年生だったか3年だったか、私は私なりに、この大学のサッカー部でやり切れるかどうか、やり切れたとしても、それでエエのかどうか、悩みきっていた時期があった。
そんな時、いっつも私の傍に彼は居てくれた。
私の間の抜けた会話にも、懲りずに付き合ってくれた。
彼だって、彼なりに悩んでいたことがあったのではないか?と思うが? 彼には彼らしい根性があったのだろう。

友人の住まいを今の西武球場がある辺り、山口線の然るべき駅から歩ける場所のアパートに引っ越したのには興味が沸いた。
当然当時には西武球場はなかったので、何是、こんな田舎に住むことにしたのか、此奴はただ者ではないぞと、思った。
ポテトチィップか蝦せんを持って、アパートに行った時の興奮は、げらげら笑うだけではすまされめえ、だ。
アパートの周りは樹木に溢れていて、なんでこんな山場に住むことにしたのだろうか、と疑問をもった。
友人がこんな山場を好むんだったら、私の田舎だって、友人には恰好(かっこう)の住処(すみどころ)になる。

グラウンドの傍にある各クラブの部屋、その奥にあった共同浴場は、先に入るクラブ次第でその汚れが気になった。
たまには、砂の一部もあるし、余りそれらしき物に感じる神経をもってないのに、浴水の汚れが異常に汚いことだってあった。
その汚れが異常だった時に、浴槽に入ることなく、近所の銭湯に出かけることも度々あった。
この時に仲間うちになってくれるのは友人だった。
たらふく銭湯で楽しみ、お金をお支払する娘さんの可愛いことって、ありゃ、参りました。
それ以外にも、ナンダカンダと楽しむのです。
そして、それからの帰り、友人が肉屋さんがやっている鶏の手羽焼きを眺め、ヤマオカさん、美味そうやなと、堪らない声を出す。
そりゃ、美味そうやけど、俺は金持ってないから買えないけれど、お前、俺の分を買ってくれる。
ヤマオカさん、大丈夫ですよ、俺、お金持ちやサカイに。
そして、俺は友人のお世話になった。
友人とは、この手羽焼きだけではない、随分、いろんなこと、いろんな物で、大いにお世話になった。

食べ物に関して、二人には他人に話せない秘事をやってのけた。
今でこそそんなに珍しくないけれど、当時は元禄寿司か?何かそんな名前の回転寿司に2人して出かけた。
もう50年以上も経つから、そんな罪は求められないだろうから告白する。
三鷹か吉祥寺だったと思う。
回転寿司で食っても食っても、食い終えた皿を、持ち込んできた大きなバッグに次から次に入れ込み、当然、それは無銭飲食のための工夫だった。
友人はサッカー部をやめていたが、私は不甲斐ないサッカー部員。
友人は友人らしく大食で、私はずるいことには滅法強く、幾らでも食えた。
お金を払う時こそ、はち切れんばかり緊張したが、何とか無事に済んだ特は、100メートル前後の人にだって聞こえそうな大笑いをしたものだ。

回転寿司だけではない。
高田馬場の本屋さん、友人は本を盗むことだって上手だった。
私は現役のサッカー部、そんな大胆なことできそうになく、じっと友人の手際の好さをチェックしていた。
お前、将来、お金を多少儲けた際には、何かお礼でもしなアカンで。

無闇矢鱈(むやみやたら)に、何でもかんでも、腹の底を割って話せるものではない。
こんなに下手繰(へったく)れな私が、この状態をこのままやって行っていいものか、この際止めて、違うことを考えた方がいいのではないか、私の頭の中は、大いにコンガラガッテいた。

1日前(0119)に友人から電話があって、明日午後3時頃にお邪魔しますが、エエですか?と電話を受けた。
私は、何があろうとお前が来てくれるなら、具茶具茶、滅茶苦茶、言うことはないよ、誰が何と言おうが、朝から晩まで、いつでもイイから待ってるぜ、と承諾した。
彼は、ヤマオカさんはソウ言うけれど、奥さんに電話して確認させてもらいますから、なんてことを申す。
私を信頼してない大(おお)一番の鬼証拠だ。

奥さんと一緒に立派な車に乗って、やってきた。
私は昨日に我がイーハトーブ(畑)に行って、伊予柑(いよかん)と八朔(はっさく)をそれぞれ20個ほど土産用に用意しておいた。
友人の家族だけではなく、働いている社員にも上げてくれよ、と諭した。
ミズナも何株かを袋に入れておいた。
一口にミズナと言うけれど、味噌汁、酢の物、鍋物に使えると言うと、ヤマオカさん、何是、そんなに詳しいの?ときた。
今期はどういう訳か、ミカン、ミズナがいっぱい採れた。
もうこれ以上食べたくない、と苦痛に近い状態だった。
そんなこと言ったって、私は悔いることなく、毎日毎日きっちり食べていた。
多くの柑橘類を纏めて、土産だよと上げても、貧相に見えるのが嫌だった。
そんな貧相なものでもない。
高級品だと言うことは、友人は理解していた。
それで、友人が我家に入ってくれたところで、丁寧に説明をしたが、友人はよく理解しているようで、有難うと返答してくれた。

それから、テレビの脚本づくりをやっていた馬島さんに会い、共有の仲間になった。
友人はこの仲間になった理由は詳しく話していないが、私はこの親父に頭を可笑しくさせられてしまった。
たまたま、私がよく読んでいた作家のことに理解を示してくれた。
私は学業は兎も角、サッカーだって今いち優れない状態で、何かその空いた隙間を埋めてくれる人を求めていたようだ。
夜遅く会話をしていて、何かの拍子で、とんでもないことを喋る事だってあった。
私の心の奥底に潜めている、他人に言えないようなことを何気なく喋ると、異常に同情してくれたことがあった。
太宰治は新戯作派、無頼派と称された。
その仲間たちは、坂口安吾、織田作之助、石川 淳、檀 一雄、太宰の死体を運んだ山岸外史、太宰の墓前で自殺した田中英光。
津島佑子、愛人太田静子との間に太田治子、玉川上水に入水した山崎富栄。
この作家や人物の話をすると、私の知らないことをどんどん教えてくれた。
そんな夜話に、私は狂って行った。
友人もその折、一緒だったこともあるが、彼は何をどのように考えていたのだろうか。
そして、私は昼間はサッカー部、夜、革マルのヘルメットを被り角棒を持って、恰も革命軍の心算で、デモに参加していたこともある。
見かけだけで、本格的なデモ隊にはなれなかった。

深夜、デモに参加しての帰り、高田馬場の福山君のアパートに辿り着いて、そのまま寝付いてしまった。
早朝早く、福山の母が秋田からやってきて、私が持ち込んだヘルメットを見るや、ヤマオカさん、ここに座りなさいと怒鳴られた。
貴方のお父さんやお母さんは、こんな姿を見たら大変な勢いで怒られますよ。
私は寝不足のこともあって、黙って頭を下げたまま、聞き入った振りをしていた。
よそのオバサンに、これほど怒られたのは初めてだった。

友人は、学校を卒業して何日間は、葉山の森戸海岸にあるソニーの保養所で働いたこともある。
その保養所の業務の責任者は、サッカー部の1年先輩で、何かと面倒を見てくれた。
お陰で、私たち家族もよくこの保養所に行って、砂浜に隣接したプールで、思い切り泳がせてもらった。
温かいシャワーがあって更衣室を唯で使い、プールも無料、幸せ者だった。
秋田支配人は、こんなちょっとルーズは使用にも、目が甘かった。
私だって、友人がアルバイトに行っていた時より10年ほど経ってから、1ヶ月アルバイトをさせてもらった。
年を採っているからか、学生アルバイトよりも時給ちょっと張り込んでくれた。
私たちはいっつも、楽しいことばかりやっていたことになる。

友人が保土ヶ谷にある私の自宅で何ヶ月間か一緒に過ごしたこともある。
友人の布団は、2階にある屋根裏だった。
そんな環境でも、寝る時は大人しくなる訳だから、喜んでくれたと思っている。
その当時は、友人は日本00新聞とか言う会社に勤めていた。
友人の出身地の兵庫か岡山の地縁なのか金縁なのか、縁をどうしても付けようとしてくれた人がいたのか、いなかったのか、私には何もかも解からん。
良く解からん新聞社でなあ、と入社したころから、友人は余り気乗りしていなかった。
道理で、割と早い目に退社した。

そんな日を過ごした、ある夏の日。
私が大学を出て、入った会社の入社訓練1年後にして配属になった事業所が大磯海岸に沿った所に作ったプールだった。
支配人さんは私がお世話になった大学の競泳部出身だった。
この支配人とは好き、嫌いがはっきりしていて、この場では何とも果てない。
当時、割と生半可過ぎる管理的な従業員だった、そこで日常やらなればいけなかったことは、場内の整備が滞りなく行き渡って入ることの管理だった。
そしたら、何と友人が水色のビキニ・スタイルの女の子と仲良くしている風情だった。
そのビキニ・スタイルが、晴れやかな友人の現在の奥さんだ。
その時、イマジネーションだけれども、彼女のことに思いついたのがトンガだった。
このトンガということについて、話せば難しいことになるので、避けたいが、トンガという言葉と友人の奥さんが、何是(なんぜ)こんなところで一緒になってしまうのか、と思われる方は多いと思う。
許せ、友人。
それが、君と奥さんの私が描いた最初で、今だに続いている骨格なんだ。

それから、お互いに自分たちの結婚から何人かの出産と生長、自宅を購入したことや工場兼住宅の改築、当たり前だけど忙しいことばかりの時代を健康に過ごした。
その何かがある度に、お互いに助け合ったり喜び合ったり、この50年は大変濃い時間を過ごしたと思う。
知恵を出し合ったことには、誇れる。
でも、そこで、私は悔いばかり残すような振る舞いをしたことに、すまないと思う。
そのことに関して、友人は常に常識ばった、良識に溢れる行為をしてくれたことに、今さらながら深く感謝する想いだ。


友人たちは我家に入った。
お茶を前に、友人たちに、ここで話しておかないと忘れてしまうので言いますけれど、奥さん、この友人はとっても好い奴で、彼方は感謝しなアカンで。
それに、貴方の父たちが育てた家業に、よくこの男は頑張ってくれていると思うけど、奥さんは、どう思われますか。
奥さんは、笑みをたっぷりと微笑んでいた。

今だに、ヤマオカさん夏にはどこか? 丹沢山系の一角にでも登りましょう、と粋なことを言ってくれる。
昨夏はサッカー部の後輩と大菩薩峠を登った。
それには、登る前から足腰のことが悲観していたが、なんと3時間近く登りきった。
そんなことを友人に話し、ひょっとして今年ならば、滅茶苦茶激しい山道は無理かもしれないが、難とか実現できそうだ、と話すと友人は喜んでくれた。
このことを、どんな状況になるかは知れないが、実行してみたい。

★思いだしてきたことを、前も後ろも気にすることなく、気ままに著してみた。
今日以降も、何かとあれば、書き添えていこうと思っている。

これが、友人と私の人生共同物語りだ。
よろしく。






2019年2月7日木曜日

あちゃら漬け

テレビを観ていたら、元女子プロレスラーの北斗 晶さんと和風料理店の料理人が料理番組をやっていた。
そこでの料理メニューが「あちゃら漬け」だった。
料理の何かを求めたくて観たわけでもなく、北斗さんの大胆な演技に目が奪われ、このボケとお叱りを受けるかもしれないが、その北斗さんをじっと観ていた。
この「あちゃら漬け」という言葉だけが頭に残り、そこでどんな料理が作られていたのか、目にも耳にも残っていなかった。

テレビでは、そのメニューが「あちゃら漬け」とあったので、この「あちゃら」とは何ぞやと気になりだし、早速コンピューターにお世話になった。

★語源由来辞典より
あちゃら漬けとは、大根や蕪(かぶ)などの野菜を刻み、唐辛子を加えて甘酢に漬けたもの。
「あちゃら漬け」の語源・由来
あちゃら漬けの「アチャラ」はポルトガル語で、野菜や果物の漬け物を意味する「achar(アチャール)」に由来し、近世初頭に南蛮貿易を通して日本に入ったといわれている。
「あちゃら漬け」の「アチャラ」に似た音で「漬け物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられている。
また、「あちゃら漬け」の「アチャラ」は「あちゃら(あちら)」のことで、中国風とする説もあるが、「アチャラ(さん)」と言えば、普通は「西洋(人・風)」を表す言葉である。

2019年2月4日月曜日

またまた「なおみちゃん」です



我家では、新聞に載っている大坂なおみの写真を見て、3歳の孫だって、「ジイジイこれはなおみちゃんだよ」と言う。
それほど、我家では、大坂なおみは誰もが知っている著名人だ。
今月の26日、日本時間17:30から全豪オープンの決勝戦が行われた。

大坂なおみは北海道生まれの母とハイチ出身の父との間に、米国で生まれた。
大坂なおみは、アメリカと日本の両国の国籍を持っているが、このテニスでは日本国になっている。
万一、東京オリンピックに出たいと言った場合は、国籍をアメリカか日本のどちらかにしなければならない。
日本の多くの人間は、そんなことどうでもイイヤ、アメリカで出たいならばそれはそれで良し、日本をいっぱい愛してくれていることは、彼女の言動で十分良く解かる。

たどたどしい日本語の使い方だけで、私は十分楽しい。
冗談だったのか?冗談でなかったのか, 
・「大阪で生まれる人は、みんな名前は大坂なんですよ」。
今何をしたいですか?の質問に, 
・「ソー・タイアッド 寝たい」だった。
優勝して何を食べたいですか?には笑いを浮べて, 
・「カツ丼、アゲイン」だった。
この優勝決定戦で学んだことは,
・「どんな逆攻にいても、勝つ気持ちで一生懸命やっていれば、勝機は必ずやってくる」。
あなたは以前に自分の精神状態のことを3歳と仰ったけれど、今はどれほど成長したと思いますか?
・「私は成長していてやっと4歳ぐらいになったかな?」
何もかも、彼女の口からでる言葉は、私の心の深くに染み渡っていく。

このブログの前、後、しっちゃかめっちゃかになるかもしれないが、こんな状況の中、言うまでもないが、なおみの態度が多いに変わってきたことに私の頭は、まだ、まだ、狂喜のままだ。
表彰式でのこと、全米でも全豪でも、決勝戦を戦った相手にアリガトウと英語で述べた。
自分の憧れだったあなたと戦ったことの光栄を身に沁みて感じていること、それに対する素直な言辞を、恥じらいながらも、きちんと述べたこと。

涙っぽくなってきた私だけれど、このシーンをテレビで観ている時は、誰彼、はばかりなく泣いて仕舞った。
ありがとう、なおみちゃん。

全豪オープンテニス、女子シングルスを制し、試合後の記者会見に臨む大坂なおみ(2019年1月26日撮影)。(c)AFP/Paul Crock

なおみちゃんの母の父・大坂鉄夫(73)さんは、北海道 根室漁業組合の組合長。
根室市においては、市長さんと並ぶ要職だ。
私の大学時代から今に至る友人の父も、かって根室の漁師の親分だった。
何隻もの漁船を保有する大社長だった。
その親分だって今から50年ほど前は苦しい時期だった。
沿岸から200海里(約370キロ)の排他的経済水域問題が発生してからだ。
こんなことがあって、私にとって根室は誰よりも熱い・熱い愛情を持つ地域なのだ。

なおみちゃんの祖父は、決勝戦を、体が震えるのを我慢しながら見ましたと、テレビの画面で言っていた。
いい光景で、私の涙量はハンカチで消せないほど、ボタボタ。

スポーツ界では勿論、外国人との間で生まれた混血の人がよく頑張っている。
この頑張っている人とは、陸上短距離のケンブリッジ飛鳥、野球のダルビッシュ有、柔道のベイカー茉秋。
それ以外にも、芸能界などでも幾人かいるのだけれど、今日は上の3人のみにした。



20190130の朝日新聞・天声人語より。
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いまも人々の間に余韻が残る。
全米に続いて全豪オープンを制した女子テニスの大坂なおみ選手の活躍である。

中米ハイチ出身の父と日本人の母の間に生まれ、幼いころから米国で教育を受けた彼女は、グロバール時代を象徴する存在だ。
試合中継のテレビ画面のスコアのわきについている日の丸や、「アジア勢として初」といったくくりを超えて、その魅力は世界に広がった。

表彰式では、強盗に襲われ利き腕を手術する不運から復活した決勝の相手クビドバ選手(チェコ)をまずたたえた。

全米の時も、優勝を争った元世界1位のS・ウィリアムズ選手(米)は自分にとって長年のアイドルだったと打ち明け、感謝の言葉を捧げた。
S・ウィリアムズには6-2 6-4のストレートで破り、優勝した。
表彰式では、大坂なおみにとって本来ならば最高に嬉しい瞬間だったはずが、会場内からの敵意に直面した。
アーサー・アッシュ・スタジアムにはブーイングと口笛が響き渡り、大坂はかぶっていたバイザーを下げて涙を隠した。


優れた敗者がいてこそ勝者は輝く。
楽しい「なおみ語録」は人気の的だが、その根底にはスポーツの本質を理解し、大事にする心が流れる。

力をもちながら、1年前まではミスで自分を見失い、破れるシーンが珍しくなかった。
急成長した背景にはコーチやトレーナーの存在が大きい。
わずかな失敗にも落ち込む大坂選手に、ドイツ出身のコーチのバイン氏は「なおみならできる」と背中を押し続けたという。

過去に、「アイドル」のS・ウィリアムズ選手らの指導にも携わった経験をもつ。
個性を見極め、押さえつけず、選手に応じたアドバイスをする。
昨年は女子テニス協会(WTA)の年間最優秀コーチにも選ばれた。

日本ではこの1年、スポーツ指導者の不祥事が相次いだ。
互いの人格を尊重しあう姿勢、言葉の選び方、距離感の保ち方など、大坂選手の躍進から学ぶべき点は少なくないはずだ。

身の回りのサポート役だけでなく、選手の力を引きだすため全体で環境整備に取り組んできたのが女子テニス界だ。

WTAは今年からルートを改め、妊娠や出産で休養した選手が復帰する場合、12大会までは以前と同じ世界ランクでプレーできるようにした。
ランクが大きく落ちると待遇が変わり、プレーにも響くため、復帰を断念する例が多かった。
選手側の働きがけが実った形だが、女性スポーツの将来を考えた時、意義深い改革といえよう。

男子の数分の1といわれた優勝賞金も、現在は4大大会すべてで同額になった。
WTA設立から46年。
これも選手らの交渉と努力の結果で、他の競技や社会に与えた影響も大きい。
そんな土壌の上に咲いた大輪が、次の時代を切り開く。
さらに前に進む姿に期待したい。

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以下はネットより。
今大会ではサービスエース・リターンエース・ウィナー・ブレークの数が女子シングルスの出場者で最も多く、
これについて杉山愛は「大坂は『ビッグサーバー』から『オールラウンダー』の選手に変貌を遂げた」と語っている。
また、他にも優勝の要因として、「肉体改造によるバックハンドの威力向上」「精神面での成長」を挙げた

験(げん)を担(かつ)ぐ

今日20190202は、節分の日。
明日は立春、よって今夜こそ豆まきをやる日だ。
陰陽道では、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられいた。
それを追い払う意味で「福は内、鬼は外」と言って豆まきをやる。
子供が小さかった頃、私は容赦ない鬼になり、可愛い子供たちから、激しい豆攻撃を受け、参った参ったと悲しい声を出して玄関廻りを逃げ迷ったものだ。
我家では「福は内」とは言わず「鬼は外」ばかり、豆を大量にぶつけられた。
「福は内」については、家族の誰もが幸せ感を自覚していたのだろう。

近年では、いつの頃からか記憶はないが、太巻きを恵方に向いて食べる行事も行われるようになった。
コンビニなどの、きっと作り言葉だと思われるが、「恵方巻き」と呼んでいる。
我家では、我が家特製の巻寿司を作って食べる。
3歳の孫までがお手伝い。
ところで、この恵方とはどっちの方向なんだと思いきや、そんなことはどうでもいいやと思って、知らんぷりして食べた。

立春は正確には春が立つ、という意味で、立春を迎えた頃から気温の底はピークを過ぎ、徐々に春めいた気温や天気に変わっていく。
天気予報では、明日の最高気温は18度と言っている。
きっと春一番が吹くのだろう。



そんなことよりも、何故、「験(げん)を担(かつ)ぐ」なんて言語を使うのか、それが不思議だった。
人並みな言語については知識はあるつもりだけれど、こんなことが70歳にして始めて感じるとは可笑しなことだ。

長距離散歩に行く前にコーヒーを飲んでテレビを観た。
そしたら、何が何して、何とやらなんだが、画面に「験(げん)を担(かつ)ぐ」とテレップが出て、何らかの説明があった。
その何が何して、何とやらについては、余り感心が向かなかったのだが、画面に出た「験を担ぐ」に不思議に興味を持った。
何是、験なんだ? 担ぐって?どういうことだと頭に残った。

06:30に自宅を出た。 3時間半かけて、横浜・権太坂の自宅から北鎌倉駅まで歩いた。
徒歩数は21、622歩。
歩行距離は約10キロメートル以上はあると思う。
北鎌倉駅のホームで上りの電車がくるのを待って、一呼吸するためにベンチに座ったが、足腰の疲労で、ベンチから立ち上がる際に関節がビリビリとひびいて、立ち上がれなくなるのではないか? そんなことを心配してしまった。
そんな心配に要はなし、痛苦も無かったが、それほどまでにまだまだ足腰のことが心配なのだ。
流石に帰り道は歩く気になれず、横須賀線で楽々帰ってきた。
電車がこんなに便利な物だとは、今更ながら再確認した。
この散歩での面白かったことは後日にしよう。




「験(げん)を担(かつ)ぐ」が気になっていて、自宅に戻るや直ぐにコンピューターの前に座った。
そこで知り得たことを復習してみる。
このことを判断(は)っきりしておかないと、今日の1日が済まない。
語源由来辞典より得たことをここに書き写す。

験を担ぐ。
★意味*げんをかつぐとは、以前に良い効果が出た行為と同じことをして、前途の吉兆をおしはかること。 げんかつぎ。

★語源・由来
本来は「縁起をかつぐ」で「縁起」が反転し音韻変化したとする説が有効とされる。
この「げん」は「げんがいい」や「げんなおし」などとも使われる。
験には「仏道修行を積んだ効果」などの意味があり、「縁起」が意味する「げん」と関係があるとも考えられている。
ただし、「効果」などを意味知る「験」は平安朝、「縁起」を意味する「げん」は近世以降と時代が離れており、「縁起」を意味する方は、やくざ用語から出た言葉とされていることから、直接関係する訳でもなさそうである。




大辞林 第三版の解説

げん【験】


 ある行為を積み重ねたことによる効果。また、薬のききめ。効験。 「 -が現れる」 「がつくり首を掉つて、-が見えぬぢやて/婦系図 鏡花
 前途の吉兆を暗示する出来事。縁起。前兆。 「 -がいい」 「 -なおし」
 仏道・修験道などの修行を積んだ効果。修行や祈りの結果あらわれるふしぎなしるし。



「ほうとう」を食ったゾ

今日は久しぶりに「ほうとう」を昼飯に食った。

「ほうとう」の画像検索結果

同居している三女と3歳の孫は、インフルエンザに掛かってお休み、自宅で療養中。
三女は江ノ島の近くでドッグ・フード店の店長さん、孫は保育園児だ。

そんなことも有り得ると考え、こんな能天気な私でさえ、インフルエンザの予防接種を先月にしておいた。
お陰で、私は多少風邪っ気(け)ぽいが、ひと様に迷惑を掛けることもなく、掛けられることもない。
今年はこれで何とか乗り越え、年末にも来季のために、必ずインフルエンザの予防接種をやろうと腹を決めている。
老人のやれることは、この程度なら何とかできそうだ。

そして今日は20190130、水曜日は弊社の定休日。

祖母はデイ・サービス、療養所で大いなるお楽しみ、留守なり。
私の休日での昼飯は、ラーメンか蕎麦か饂飩(うどん)のいずれかが定番だ。
そんな了解の下(もと)、妻は山梨県下では痛く有名な「ほうとう」を作った。

食事メンバーは、私たち夫婦、三女、孫の4人。
「ほうとう」作りは、そんなに難しいことなんて何もなく、鍋に白菜、人参、大根、椎茸、南瓜、油揚げ、さつま揚げ、葱、「ほうとう」を、鍋に入れる順番や具の切り方に工夫も必要だと思うけれど、妻はいつものように気楽に作り上げてくれた。

何年か前に、「ほうとう屋」で食った「ほうとう」には小さな餅が入っていた。
汁は味噌に塩、少し甘みを付けた。
私はこの種の物が大好きで、幾らでも食える。
食い扶持(ぶち)が派手で、もう止めてくれ、と言われるまで、腹具合とは関係なく、食えた。
山梨県が、私の生まれ育った京都府綴喜郡と形(なり)振り構わずに田舎だとは思わない。
だからか、「ほうとう」については、凄く親近感を持つのです。
まるで、親戚付き合いのごとし。
私の体の中に居座る「田舎虫」の精(せい)だろうか。

そこで、ところで「ほうとう」ってどういう意味? 語源は? と皆に聞いても、誰も答えてくれないものだから、ネットに頼ってこのブログを書いている。
冬の期間、鍋物については大食漢なり!!


語源(Wikipediaによると)

餺飥」語源説

現在広く知られる説として、「ほうとう」の名は「餺飥(はくたく)」の音便したものであるとされる。この説の詳細は以下の通り。
餺飥」は奈良時代の漢字辞書である『楊氏漢語抄』(逸書平安時代中期の古辞書『和名類聚抄』に引用)に見え、院政期の漢和辞書である『色葉字類抄』にすでに「餺飥 ハクタク ハウタウ」として登場するから、この頃にはもう「はうたう」という語形になっていたことがわかる。

このように、「ほうとう」は「うどん」以上に歴史のある食品であるが、伝来時期は異なるとはいえ、「ほうとう」が「うどん」と同じく中国から伝来した料理の流れを汲むものであることは間違いない。

現代の陝西方言ワンタンのことを「餛飩」と書いて「ホウトウ」と発音することは、1つの参考となるようである。

ハタク・ハタキモノ語源説

山梨県の郷土民俗研究の立場からは、「ほうとう」の呼称は江戸時代中期の甲府勤番士日記『裏見寒話』において見られ、小麦粉で作った麺に限らず、穀物の粉を用いた料理全般に用いられていることが指摘されている。

穀物の粉を「ハタキモノ」と呼び、粉にする作業を「ハタク」と呼ぶ事から、「ほうとう」の語源はハタク、あるいは穀物の粉を意味するハタキモノが料理名に転用されたのが妥当と考えられている

これら二説についての見解

餺飥」語源説に関しては、戦後の食文化に言及された郷土研究文献にもほうとうの語源に言及したものが少なく、「ほうとう」の語源は、観光食として広く喧伝されるようになってから、信玄起源説と関係して広く展開され、一般化したと位置付けられている。

ほうとうに関係する由来伝承は信憑性が薄く、観光食化する過程でさまざまな歴史的知識に基づき、語源の推論が重ねられて由来伝説が形成されたものである、とするのが民俗学的見地からの捉え方である。

その他の説

同音の「宝刀」や「放蕩」などを語源とする説も存在する。「宝刀」については「信玄が自らの刀で具材を刻んだ」といった武田信玄に由来するとする俗説が広く流布している。
これは戦後、山梨県において歴史的資源を活かした観光業が主要産業化する過程で形成された現代民俗であり(『山梨県史民俗編』)、言語学的見地からは否定されている。


人力車で南極点踏破

20190122の朝日新聞で知ったことなんだが、
「登頂断念 86歳三浦さん 挑戦続けたい」
の記事を読んで、それはそれは三浦雄一郎さんは、大変な想いをされただろう。
この新聞記事は、20190124のブログに、私が感じたことと新聞記事をそのまま転載させてもらった。
「挑戦」という言葉が私の頭の廻りを、初めて知ったときのように、回転仕出した。
果たしてそれ程、企画力に溢れた挑戦だっただろうか。
「挑戦」とはどういう意味なんだろうか。

頭の中には、元朝日新聞・編集委員の本多勝一氏の著作物が湧出し、私自身も複雑な気持ちでいた。
探検、冒険、挑戦、未知の分野、勇気と危険とロマン。
本多勝一の「アムンゼンとスコットーーー南極点への到着に賭ける」や、極地探検の数々を著した加納一郎著作集全5巻を読むと、探検や冒険の本質が解る。
これらの著作物のなかで、白瀬矗(のぶ)中尉のことを、「白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」とあった。




そんな折、下の題字の記事が、私の目頭に突撃してきた。
「人力車で鍛え 南極点踏破」
「36歳冒険家、単独で」

何と、爽やかで企画力があって、実に挑戦的で冒険的なこと。
36歳の冒険家・阿部雅龍(まさたつ)さんが、単独で徒歩で南極点に到達したというのだ。
私の生血(なまち)に漲(みなぎ)る挑戦心と冒険心が、またまた活気付いてきた。

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★20190124(木)の朝日新聞・夕刊よりそのまま転載させてもらった。

人力車で鍛え 南極点踏破
36歳冒険家、単独で



南極点に到達した阿部雅龍さん。
お気に入りのロボット「aibo」を前に置き、記念撮影=18日、本人提供


浅草・雷門前で人力車を引く阿部雅龍さん
2015年、東京都台東区、中山由美撮影

東京・浅草で人力車を引いて肉体を鍛えた冒険家、阿部雅龍(まさたつ)さん(36)=東京都板橋区=が単独徒歩で南極点に到達し、23日、到達時の写真が国内の応援本部に届いた。
阿部さんは「諦めなければ夢がかなうと強く感じた」とのメッセージも寄せた、


阿部さんは同じ秋田出身で日本人初の南極探検家・白瀬矗(のぶ)中尉にあこがれて冒険を志した。
秋田大学を卒業し、10年あまりにわたって浅草で人力車をひく仕事をしながら資金をためつつ、足腰を鍛えた。
2017年には、全国各地を人力車をひいて回り、220日間で6、400キロを走破した。
寒さと雪や氷に慣れようと、北極圏のカナダやグリーランド沿岸では解氷が割れて冷たい海に落ちたこともある。

今回は資金協力も募って、南米チリから南極大陸に入り、昨年11月23日に海岸を出発。
食料やテントを積んだ約100キロのそりを引っ張って、1人で南極点まで918キロを歩き通した。
55日間かけて、今月17日(日本時間)に南極点に着いたという。

阿部さんは食料や燃料の補給を受けずに到達することを目指した。
しかし、悪天候に阻まれ、想定より半月ほど時間がかかったため、ルート上にあった備蓄の食料を使い、無補給はかなわなかった。
19日に南極点からチャーター機にピックアップされ、21日に南極大陸から南米チリに戻った。
26日に帰国する予定で、「応援に支えられました。チャレンジする素晴らしさを多くの人に伝えたい」という。

あこがれの白瀬中尉らは1912年1月28日、南極80度5分まで達した。
阿部さんは来年、これと同じルートをたどり、その先の南極点まで、今回より距離が長く厳しい道のりを単独無補給で歩きたいという。

(中山由美)

こんな男に魅力を感じるのは、私だけではない筈だ。
以前に白瀬矗中尉のことを著したブログを思い出して、この下の方に添付させてもらった。
この男は異常に偉大なのだ。
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★以下は、2010年12月30日木曜日の私のブログから

白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。
未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。
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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。

題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。

かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。
新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。

新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいある状態になった。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。
本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。
この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。

東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。
勝手に親近感を持っていた。
それから、ここにたどり着くのです。

共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。
戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。

それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。

興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。

精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。
苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。

1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)



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これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)
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「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。

DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。

同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。

「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。
国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。

スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。
国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。
新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。
出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。
当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。
だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。
今の1億~2億円相当という。

白瀬が一人で背負った。
新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。
救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。
白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。
孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。

今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。
「民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。
自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。
出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。

記念館職員だった佐藤忠悦さん(70)は言う。
「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」
100年の時を経て、うねりは動き始めた。
「故郷の秋田から全国へ発信しよう」