2011年1月31日月曜日

友達の友達は、友達だ

先日(20110126)、友人の51歳の誕生会のときのことだ。

会場は、本日の主役である友人のお客さんが経営する料理屋さんだった。この宴は、主役の知り合いがこの料理屋で、宴会の予約を入れていたのですが、都合が悪くなってキャンセルになり、そのキャンセルを残念がる料理屋のマスターのために、それならばと近づく自分の誕生日に、ちょっとでもこの料理屋さんの売り上げに寄与できるならばと、誕生会を思い立った。誕生会?なんて、年甲斐もないと笑わないでください。私らは真面目なんです。

料理は、河豚(ふぐ)と鮟鱇(あんこう)の2種類の鍋と、河豚の刺身、はまちの兜(かぶと)煮、はたはたのから揚げ。主役の自作自演の宴会だ。こんな料理が私の席の目の前に、そして私が箸をつけていい河豚や鮟鱇がこれほど並べられたのは、何年ぶりのことだろうか。友人に感謝。それが、1月26日の夜だった。参加者は、主役と私、主役がかって勤めていた会社の前の前の会社の同僚、その会社の下請け会社の社長さんの4人だった。

当然のように私は招かれた。だって、友人にとっては、頭数が多ければ多いほどいいのだ、売り上げを伸ばしてやりたいのだから。マスターびいきの友人のことだ。友人の実家はこの料理屋さんの近所だったので、その幼少の頃の友達が来るかもしれない、と言われていたので、内心楽しみにしていた。幼少の頃の友人の「裸」を聞かせてもらいたかった。友人が子供だった頃、どんな子供だったのだろうか、他人の口から、遠慮のない口述を期待していたのですが、生憎夜は老母の看護のため家を出られないとのことだった。

その代わりと言えば失礼だが、友人の前の前の会社の元同僚が呼び出された。元同僚とは5,6年前に同じ会社で働いていた。この元同僚とはいい具合に打ち合わせをしなければならないこともあったようだ。こいつが面白かった。元同僚は、私の知らない友人の一面を屈託なく話してくれた。

元同僚の話は、友人が貧乏な暮らしをしているのを見るに見かねて、ちょっとした仕事を仕掛けてやるので、その話に乗らないかということだった。生活が苦しんだろう、お前は貧乏だからな、老(ふ)けたし、と元同僚は歯に衣着せぬ口ぶりは止まない。なんだよ、偉そうに腕組みなんかしやがって。いいんだよ、ちょこっと、ぺっぺっとやればそれでいんだよ、松さんにちょんちょんとやらせて、この社長に渡しさせすれば、この社長さん何でもかんでもちゃんと後始末をつけてくれるからさ、怒られたら始末書を誰かに書かせれば、それでいいんだよ。あなたが、始末書を書いてくれるんでしょ、と友人が聞き返すと、そんなこと俺は知らんよとあっさりすっ呆(とぼ)けられた。

社長さんはすっかり白髪なのですが、顔のつやはてかてか、まだまだ若いのだろう。喋るしゃべる、顔全体をよくもこれだけ動かせるものだと感心していた。私のところまで、どうにかしてもらえれば、そりゃなんだって一生懸命やりますよ、でも、内部でああだ、こうだ、と言って私のところに、後2時間とか、後1日とかで持ってこられては困る。しかるべき時間がちゃんとくだされば、何だってびしっとやりますよ。それと、何かあったときに、私の責任でしたと名乗れる人をちゃんと用意しておいてくださいね。この社長さん、自分の会社を守るために必死だ。この気持ち、私はよく理解できます。

元同僚と友人との約3時間半にわたるやり取りを聞いていて、友人に対する元同僚の気遣いが、横に座っている私にも伝わってきて幸せな気分になれた。その人を知るには、その人の友人を知るのが早道と言われているが。アイツはいいやつだなあ、と不用意に友人に言ったら、友人は俄然力を込めて、お前は騙(だま)されているんだよと百、千もの語句が返ってきた。この二人は、どこまでも平行線なのに、憎めない者同士だ。

帰途、友人に俺はアイツが好きだな、又会いたくなりそうやと言うと、お前はアイツをよく解(わ)かってないんだよ、と説明しだしたので、その剣幕に怖気づき、私は解かった判った、と逃げた、、、、、。

友達の友達は、みな友達だ。坂本 九ちゃんにそんな歌があったような気がする。

2011年1月25日火曜日

混声三部合唱 めぐりあい

友人のブログで「めぐりあい」という歌を知った。ニッコリ、意味深な表情で「いい曲ですから、聴いてください」と言われた。友人にも友人なりの交際の世界がある。その世界でめぐり合った人のことを、何らかの理由で私に何かを知らせたかったのかもしれない。その意味は後日、本人から聞かせてもらうことにしよう。

友人は学生時代、音楽を専門的に勉強した。ピアノが弾ける立派な音楽人だ。私はと言えば、ドミソもドファラも、シレソもみんな同じように聞こえる先天的な音痴だ。カラオケで、ヤマオカは音痴やなあ!無茶苦茶や!と感心されて、そのような非人道的、非文化的な発言を浴びせられても、一向に私の心は乱れない。中学校の2年生のとき、梅田先生がマンツーマンで和音の聞き分けテストを最後まで付き合ってくれたのですが、どうしても聞き分けができなかった。梅田先生は我が家の親戚にあたる人だったから、熱を込めて一所懸命教えてくれたのですが、先生の苦労は無駄骨だった。50年前の記憶が鮮明だ。

そんな私が、今、「YouTubeめぐりあい」を福島県 郡山市立第二中学校のコーラスで聴いている。音楽がよく解らないが、なんだか凄くいいように聞こえる。2007(平成19)年、第74回NHK全国学校音楽コンクールで、中学校混声合唱の部で銀賞を得たときのものだ。このコーラスのよさについては、私には何もコメントできないが、実際に聴いてみてくださいな。作曲者は高嶋みどりさん。

国語人間の私は、コーラスでさえも言葉を優先して、先ずは歌詞を追ってしまうのです。元々音楽を語る資格はない人間なのでしょう。耳で歌詞を追って、頭で文字にして、想いをめぐらせた。歌詞はいい。この歌詞に曲が巧く乗っかったのだろうか、曲があって、それに歌詞を考えられたのだろうか。

作詞は、重松 清さんだ。流石(さすが)だ。最近、彼の本を大量に読んだので、彼の本質を私なりに理解していて、彼なりの言葉を綴っているな、と感心したのです。

ところで、友人はこの合唱歌をどうして、私に関心をもたせようとしたのだろうか。

友人の真意は何だろうか、と歌詞をじっくり確認しながら聴き入った。

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2011年1月24日月曜日

笑顔のノーサイド、大阪朝鮮・権選手

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(試合を終え、相手チームの選手らと握手する権裕人)

20110123の朝日・朝刊のスポーツ欄は、白鳳の6連勝とアジア杯で日本代表が4強に残ったニュ-スを大きく取り扱っていた。そして、ラグビー記事コーナーの隅っこにこの記事を見つけた。当然、サッカー記事は穴の空くほどの眼力で読んだことは言うまでもありませんが。

私は、何故かこの手の記事に弱いのです。主役が高校生だ、というのもいい。この試合の開催を思いついた人、それに応えるように開催まで労を厭(いと)わなかった人。試合を開催する原因になった当の本人、その部友や関係者、試合に臨んだ対戦相手チームの面々とその関係者。そんなこんなを、周囲から温かく見守るラグビーファンや、ただ熱いエールを送るだけの人も、この試合はなんとも色んな意味で、人間味溢れるものになって、ラグビーには無頓着な私も、この記事には、涙腺が緩んだ。スポーツならではのことかもしれない。

いい話だ。この記事をパクらせていただいた。

 

大阪朝鮮・権選手 他校の仲間と親善試合

第90回全国高校大会の試合中に脳震盪(のうしんとう)を起こし、国際ラグビーボードの規定により以後の試合に出場できなかった大阪朝鮮のCTB権裕人(コンユイン)(3年生)のための親善試合が22日、兵庫県西宮市の関西学院であった。ベスト4入りした大阪朝鮮と初優勝の桐蔭学園(神奈川)や8強の東海大仰星(大阪)など計7校の14人らで結成した選抜チームが対戦。最後の高校ラグビーを満喫した。

大阪朝鮮の呉英吉(オヨンギル)監督が呼びかけて実現。権は持ち前のパワーを生かした突破を見せ、トライも決めた。後半残り10分には、審判が突然、権に「強すぎる」とレッドカード。退場しようとした権に相手ジャージが手渡され、今度は選抜チームでプレーする粋な演出も。試合は21-10で大阪朝鮮が勝った。

権は「本気でプレーでき、とにかく気持ちよかった。ラグビーというスポーツに感謝したい」と笑顔を見せた。桐蔭学園WTB竹中祥(3年)は「万全な彼と大会で戦いたかったが、こんな機会があって良かった」と話した。

この親善試合に参加した中から何人かは、日本のラグビー界を担う人が必ず生まれるのでしょう。高校生は、まだまだ未熟ですが、今、日本ラグビーを率いている先(輩)達はよく、この時期に得たものが核になって今がある、と仰っている。

権選手、他の選手達も頑張ってくれ、そして日本ラグビーに物足りなさを感じている私を、奮い立たせてくれ。

2011年1月23日日曜日

何十年ぶりの休暇だ?箱根の湯

20110121、22の両日、次女の家族と箱根の温泉に行って来た。次女の家の大事な書類をしまってあるところから、突然旅行券が出てきた。次女も夫の竹ちゃんも、その出どころを知らない。コウノトリではないが、青い鳥が運んでくれたのだろう。この券を見つけたころ、私と私の会社は大ピンチに陥っていた。そんな父を励まそうと、どこか温泉でも行かないかの誘いは、素直に嬉しいなんて喜べなかった。その後何度も、どうしよう、止めるか、行くかのやり取りの果てに、昨年の年末に何があっても行こうと私が皆に言い放った。その頃には、私の頭の中は元の状態に戻っている筈だと決めてかかった。そして決行することになった。

行き先は、箱根小涌園ユネッサンインだ。1泊2日の短い旅だったけれども、何年ぶりのことだろう。1泊して家族や身内で旅行などしたのは、本当に久しぶりだった。10年ぶり、いや20年ぶりか、遠い昔のことのようで思い出せない。それほど、私は家族や身内での旅行には参加していなかった。家人が参加しても、私だけは仕事を理由に参加しなかった。仕事で参加できなくても、仕事が忙しいことが嬉しかったのだ。

温水プール  

温水プール             

hakone 026(次女夫婦(花と竹ちゃん)と孫・晴)

温泉の湯を利用した各種の風呂、サウナ、とプール岩盤浴やゲームコーナーがあって子供連れには、楽しく時間を過ごせるように工夫してあった。やはり、温泉シリーズは興味深かった。コーヒー温泉、ワイン温泉、緑茶風呂、酒風呂、チョコレート温泉、岩風呂、炭風呂、次から次に新しい温泉が出現して面白かった。食事は朝食も夕食もバイキングだった。

一日目の夜は、思わぬことに、アジアカップの準決勝戦のテレビ観戦。会場開催地のカタールと日本代表との試合、結果3-2で日本代表が逆転勝ちした。この1ヶ月、猛烈に忙しく、また一身上の都合で住んでいる所にはテレビがなくて、大好きなスポーツ、それもサッカーの試合を見てなかったので、今夜の逆転勝ちというおまけ付きで楽しめたのはよかった。私は痛飲中での観戦で、全体的にはよく憶えていないが、香川、伊野波のゴールシーンははっきり瞼の裏に焼き付けた。吉田の二枚目のイエローカードの反則もよく見えた。

2日目は、朝からプールと温泉三昧だ。各種の風呂の趣向に気乗りするのは、大人に近い年頃から上の者ばかりで、我が家の孫・晴などにとっては、コーヒーであろうとワインであろうと、余り楽しくないようで、彼は、私か母親を捕まえてはプールでなんだかんだと遊んでいた。何時間でも、遊ぶのです。独り言を呟きながら、潜ったり、ぷか~んと浮いたりしていた。私は、親亀になって孫を背中に背負い、深く潜っては孫を慌てさせたり、プールの底に平目のようにピタッとくっ付いたり、鯨だといって口にいっぱいにふくんだ水を仰向けになって、天井に向かって潮を吹いたように見せたり。それにしてもネタ不足で、そのうち勝手にめいめいに遊んだ。

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午後、私 は温泉からもプールからも離れて、一人でホテルの周りの雑木林や野原を歩いた。空気は冷たくなかった。陽が射していて、背中がぽかぽかと暖かかった。陽だまりで猫のようになって本を読んだ。路肩には雪が残っていた。迷わないように目印になるものを確認しながら5キロぐらいは歩いたようだ。犬の療養所もあった、会社の保養所、別荘、マンションもあった。雉を撃つことも、花を摘むことも避けたかったのですが、でも、やっぱり木陰で小用、失礼しました。

ホテルのフロントに戻って、彼らが出てくるのを待った。フロントの隣の売店からよく聞き慣れた声が弾んでいる。我等の一行さんだ。支払いを済ませてホテルを後にした。楽しかった、面白かった、車の中は興奮気味、運転手だけは冷静にハンドルを操る。小田原で有名な蒲鉾屋さんで、再び土産か、それとも明日のおかずか。高いね、と言いながらもいくらか買ってきたようだ、私は寝ている孫の子守で留守番だったのです。

そんな何十年ぶりかの休日だった。このように時間をかけて、家族と過ごしたことがなかったことに、今更ながらに驚いている。

清冽、詩人茨木のり子の肖像

私の楽しみの一つは、新聞の書評を読むことです。

本の題名=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」

著者=後藤正治

発行=中央公論新社

20110123の朝日新聞の書評欄の見開きに、右側にドストエフスキーとあり、左側には茨木のり子さんの名前がちらっとした。両方の目がそれぞれに題字を同時にとらえた。それから、右目を外し左目に重力を傾けた。右目も左側に寄ってきた。著者・後藤正治さんのにこやかな表情の写真がある。

早速私は、近くのスーパーマーケットのサティにある本屋に予約に走った。私は、何とかオフの105円コーナーで、好みの本を探すのを得意としているのですが、今回は新刊本を買うのが久しぶりで、非常に嬉しい。気分が高まっている。それも、茨木のり子さんの生涯を綴ったものらしい。1995円というのは、廉くはない。結構な価額だ。本が届くまでが待ち遠しい。知り合って、デイトの申し込みに快諾を得て、そのデイトの当日までの、待て状態に似ていると思うのは私だけだろうか。

清冽(せいれつ)とは=水が澄んで冷たいこと・さま(日本語大辞典・講談社)

本=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」の書評は、新聞記事のままです。

「天のどこかから、私の中に落ちてきた」。本の題名『清冽』という言葉だ。「茨木さんの本質は何かと考えた。詩に品格があり、覚悟と潔さ、素朴な正義感がある」

「私が一番きれいだったとき」「倚りかからず」などの詩で知られ、2006年に79歳で死去した茨木のり子の生涯を丹念に追った。近親者のほか、詩人の谷川俊太郎さんや元NHKアナウンサーの山根基世さんら親交があった人たちにも取材し、女性詩人の「凛とした姿」を浮き彫りにした。

「茨木のり子を強い人といってさしつかえあるまいが、それは豪胆とか強靭といった類の強さではなくて、終わりのない寂寥(せきりょう)の日々を潜(くぐ)り抜けて生き抜く、耐える強さである」と書いた。

茨木のり子さんの名を初めて知ったのは、大学4年生のときだった。今から40年前のことだ。私に強い影響を与えたテレビ脚本家の牛さんが、山ちゃん、今ここを素敵なオバサンが通って行ったんだけど、その人は楚々として端麗な人なんですよ、実は私の勝手な恋人なんですよ、その名は茨木のり子さんといって詩人なんです、その方のお家も知っているんですけどね、山ちゃんには教えてあげないよ。この近くなんだ。

茨木のり子さんが歩いて通ったという道は、早稲田大学のサッカー部とラグビー部のグラウンドの金網越しの道のことです。入学した頃は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。私は4年間、このグラウンドで、多い日は一日9時間、短い日でも4時間は、サッカーの練習に明け暮れた。私が22歳、茨木のり子さんが44,5歳だったのでしょう。

その夜、牛さんから茨木のり子さんの何かの詩集を渡され、ゆっくり読んでごらんと言われた。その夜、汚いシーツの冷たい布団の中で読んで、痺(しび)れた。本を持つ手、指に力が入った。凛とした姿の茨木のり子さんの風態(ふうてい)がなんとなく浮かんできた。奇麗で、可愛くて、何よりも優しくユーモアがあって、高潔で厳しくて、強い、そんな女性を想像した。このオバサン、ただモンじゃないぞと、粛々と襟を正(ただ)した。背が高くて、宝塚のスターを思わせる雰囲気があった、とどこかで聞いたことがある。

それから、既刊の詩集を買い漁り、新刊が出るたびに買い求めた。私の書庫の一番目立つところに、茨木のり子さんの詩集が占めています。誰をも寄せ付けないオーラが、本にもあるようですよ。

それからの私は、茨木のり子さんの末席の子分に、勝手にさせてもらったのです。

そして書評見開き右ペ-ジに目をやった。「ドストエフスキー」 著者・山城むつみ。人間と言葉の関係、根本から問い直す、とある。この本も、ドストエフスキーに首根っこをつかまえられている私には、興味あるのは当然なのですが、今回は書評を読むだけに留めて起きたい。予算に限りがあるのです。

2011年1月21日金曜日

アラブ初の民衆革命だ

チュニジアの20110114日の大規模デモのニュースを、新聞記事で知った。同日、ベンアリ前大統領は国外退去した。23年間続いた強権支配を打倒、民衆革命だった。チュニジアのみなさん、やってではありませんか。横浜の保土ヶ谷から心を込めて、拍手喝采。

以下は、朝日新聞の20110118の朝刊を参考にした。写真も使わせていただいた。

私、一身上の都合で今の暮らしにはテレビがなくて、たまたま買った朝日新聞で、チュニジアで民主革命が平和的に成功したことを知った。新聞には大きな題字で「アラブ初の民衆革命だ」、歓喜と緊迫、とある。この類のニュースが何よりも好きな私は、経緯を知らないまま結果だけを新聞報道で知って、なんじゃと内心忸怩(じくじ)たるものが沸き起こった。俺は世間に取り残されている、俺を抜きにこんなニュースを楽しんでいるなんてズルイぞ、と心の中で叫んだ。

国花のジャスミンから、「ジャスミン革命」と呼ばれ始めているそうだ。

地図の説明

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チュニジアでは、昨年12月17日、中部の都市シディブジャドで、大学は出たものの職を得ることができずに、路上で野菜を無許可で売って生計を立てていた26歳の青年、モハメド・ボアジジが、警察の非情な取締りに抗議して、焼身自殺を図ったことがきっかけになって、国内のあちこちでデモが行なわれるようになった。高失業率や物価上昇に国民が大いに不満を抱いていて、今回大きく爆発したようだ。

そんな大衆の苦しみに何の斟酌もせずに、大統領職に居続けたベンアリは、恥入るが如く海外、サウジアラビアのある町に逃げ去った。腰抜けの大馬鹿者だ。

大規模なデモの舞台になったのは内務省だった。人びとは、大統領官邸ではなく内務省に集まったのは。警察を管轄する内務省こそが、ベンアリの権力の根源だということを大衆は知っていたからだ。

16日にはチュニス(首都)郊外の大統領官邸で、大統領警護隊などベンアリ前大統領派とみられる部隊と、大統領を見放した軍との間で銃撃戦が起きた。まだまだ治安情勢は依然不安定だ。

市民が警護に立つ兵士にコーヒーを振舞った。「軍の兵士は市民の見方だ」。

このような事件はどうしてもブログに書き込んで、マイファイルしておきたいと私は思うのです。この国の真実を明らかにする歴史の1ページだ。兎に角、現実に起こった出来事で、私が最大に喜ぶ内容なのだから、幸せな気分で、文章を綴りたい。

が、今日はちびりちびりやっていた酒の量がダンダン増えてきて、キーボードを叩く指が、ちょっと覚束なくなってきた。顔は赤鬼だ。今後、どのような体制で政治がなされていくのか、それを見据えなければならないのだろうが、ここは、ちょっとお祭りごとにして、再び乾杯だ。

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20110118

朝日・天声人語

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チャップリンが初めてつくったト-キー映画は1940(昭和15)年の「独裁者」だった。権勢をきわめていたヒトラーに敢然と挑んだ作品は、時代への深い洞察に満ちた名画の中の名画とされる。

それまでは無声映画にこだわっていたという。だが、対決する独裁者は、言葉を操って人心をあおる扇情の徒である。自ら語る声なしには挑めなかっただろう。結びのヒューマニズムあふれる演説は名高く、映画史上最も感動的な台詞(せりふ)という人が少なくない。北アフリカのチュニジアで、長年の独裁政治が崩壊した。強力な警察組織によって言論が厳しく制限されてきた国である。打ち破ったのは、インターネットだったそうだ。強権にあらがうコミュニケーションの道具に、チャップリンが頼みにしたトーキーが重なり合う。

時代も背景も違うが、ともに「個」を権力者に対峙させうる利器であろう。チュニジアでは、携帯で撮影されたデモの映像や、次のデモの呼びかけが広がり、市民を動員していった。その威力を、天井の喜劇王はうらやんでいようか。

今回の政変は、チュニジアを彩る花から「ジャスミン革命」と命名されたそうだ。周辺には似たような強権国家が多い。民主化のドミノ倒しを案じ、漂う芳香に気の休まらぬ権力者もいるように聞く。

映画のチャップリンは演説で「飛行機とラジオは私たちの距離を縮めた。民主主義の旗の下で手をつなごう」と呼びかけた。いまやネットで世界が瞬時につながる時代である。「両刃の剣」は承知しつつ、より良き世界への希望を見る。

 

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20110118

朝日・社説

チュニジア政変

強権支配、市民が倒した

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北アフリカのチュニジアで23年間、政権を率いていたベンアリ大統領が、政府批判デモの中、国外に脱出した。

政変と言っても、民主化の指導者がいるわけでも、市民の代表者がいるわけでもない。しかし、強権支配に対する民衆の怒りが噴き出した。

発足する新政権の第一の任務は、強権支配の清算と、民主主義の実現である。できるだけ早い時期に、すべての政治勢力が力を合わせて総選挙をし、民意を問う必要がある。

そうしなければ、事態は収まらないだろう。求められているのは、民意に立った再出発である。緊急事態を引き継いだ首相も暫定大統領も、そのことを明確に認識する必要がある。

チュニジアは地中海を背景にした世界的なカルタゴの遺跡が有名で、紛争やテロがはびこる中東では、政治的にも安定している国と見られてきた。

イスラム教徒が大半の国でありながら、一夫多妻制を廃止し、女性の社会進出を進めるなど、欧米よりの近代化政策をとった。

ところが、1月になって失業対策や政権の腐敗に抗議する市民のデモに警官隊が発砲し、多くの死者がでた。穏健な外面の裏に隠されていた警察国家の顔が、市民の怒りを引き出した。

議会は大統領の与党が牛耳って批判勢力は排除された。秘密警察を操り、とくに2001年の米同時多発テロの後は「反テロ法」を作って、野党政治家や人権活動家、ジャーナリストを拘束してきた。

都市と農村の格差は広がり、失業率は15%に迫った。なかでも大卒者の失業は20%を超えた。それなのに大統領の一族は優遇され、手広くビジネスをしているという批判が強かった。

唐突ともいえる政権崩壊は、近代化の裏で民主化を無視し、強引な支配を続けた政府への国民の不満と怒りが燃え上がったものだ。

チュニジア政変の教訓は、長年、この国に体制を支えてきた欧米、日本にも反省を迫っている。

日本政府は80年代から定期的に二国間の合同委員会を開催し、経済協力などを協議してきた。友好国として、人権や民主化について賢い忠告をすることはできなかったのだろうか。

強権体制は、中東・北アフリカ諸国に広がり、さらには世界中にある。

今回の政変ではデモに参加した市民がインターネットで情報を交換して、大きなうねりが生まれたとされる。

反政府勢力や指導者を権力で排除して政治を思い通りにできた時代は、終わりが見えてきた。大衆を侮らない政治が求められている。

 

2011年1月17日月曜日

俺は不死身だ

1月のある夜、友人と食事を兼ねて酒を飲みに行った。行ったお店は、昼は定食を中心にした食事がメインで、夜はその地域の呑ン兵たちの酒場として、貴重な存在感があった。まるで地元呑ン兵たちのサロン、否、ちょっと失礼な言い方かもしれないが飯場の食堂にでもいるような雰囲気だった。店主は多能料理人で、メニューは多彩だ。料理の仕上がりは上々、美味かった、腕は確かだ。許可を得たので、その店の名前を明らかにする、長後街道をちょっと逸れた横浜市泉区中田東、創作料理「くるま坐」さんだ。なんでくるま坐なんですか、と聞いたら別に深い意味がないんです、とトコトン何気ない言い方。オーナーなのに、店の命名には参加してないようで、全く自分の店の名前に関心がないようだった。不思議に思っているので、今度、もう一度確かめる心算だ。

この店のご主人さんは、友人のお客さんだ。新しくお客さんになっていただいたようだ。メジャーのデニーズだとかワタミの展開する居酒屋なんかで金を落とすぐらいなら、地元の頑張っている店を利用する方が、地元活性化のためにも賢明でしょ、まさか私の意見に反対するなんてことはないだろう、と半ば強制的に、その店に連行された。店の主(あるじ)は40歳代、つい最近、晴れて独身になりました、と言っていた。

その店で、私は鍋焼きうどん900円をたのんだ。車で来たので、酒類は禁物。友人はおでんに梅酒(うめざけ)。お酒を飲むことで売上げに寄与、日頃の感謝の気持ちを表したいようだった。テレビでお馴染みのウメッシュとは違って、梅焼酎でもない。一口頂いたのですが、美味しかった。お腹に卵をいっぱい抱いたハタハタの焼き物はサービス。この卵を噛むとコリコリと音がした。ハタハタは漢字で魚偏に雷と書くんですよ、と知ったかぶり。念のために翌日辞書で調べたら、別の漢字で表すこともあるようだ。私が、大学時代に秋田の後輩の実家にお邪魔したときに、後輩のお父さんが雷が鳴る時によく獲れるのでカミナリウオとも言うのですよと教えてくれた。昔の人は雷を神が鳴ると信じられていた。こんなことが記憶に残っていた。

この店に、豪快、不死身オヤジがいたのです。このちょっと変なオヤジさんの話です

「俺も独身だ。俺のお腹か、胃の3分の2は切り取ったんだ。悪いところをを切り取ったんだから、残ったところは丈夫なもんさ。そして、脳梗塞を3回やったんだ。そこの西部横浜国際病院は、俺を三度も助けてくれた。仕事場で頭がくらくらして、おかしくなったので自分で仕事用の車で自宅に戻り、着替えて今度は仕事用でない車に乗って病院に行ったもんだ。そしたら、帰らせてくれなくて、即入院だった」。(三度ともそのようにきちんとされたのか、確かめなかったことにに悔いが残る)。「そんなことで、酒は飲むなと言われているんだ」、と言いながら、真露(じんろ)をストレートでぐうい、ぐい。それから、「俺は肺結核なんだ」、ときたもんだ。「それでタバコは絶対止めないといけないよ、と言われているんだが、そんなもの止められっこないよね」、真っ黒な歯をニタニタさせながら、私に同意を求めてきたが、私は他人の命にかかわりたくないので、ヘラヘラと笑っておいた。ところで、オヤジさん、そんなに沢山病気をしたんだから、恥ずかしい病気には罹ったことはないんですか、と揶揄を込めて聞いてみたのだが、このオヤジあんなに雄弁だったのに、このことには触れずじまい、馬耳東風、ひたすら焼酎を飲んでいた。私の質問は、虚しく空(くう)に消えた。松葉杖は、脳梗塞をやったときの後遺症なのだろう、片方の足は意のままには動かすことができないようだった。

懲りないオヤジは、これからが格好いいことを言ってくれるんだ。これには、俺には叶いっこないと思った。「俺な、六本木と新宿にマンションを持っているんだ。ここからときどきそこへ行くんだ、女がいるんだよ」え、え、このオヤジにお・ん・な!!が。俺の口から、嘆息が漏れたのを傍にいた友人は見逃さなかった。松葉杖をついて、彼女のマンションを訪れるオヤジの様子を想像して、この真面目なロマンチストに人間味を感じた。それって、滑稽だよなんてふざけたら、血相を変えて、松葉杖で叩きのめされたことだろう。艶福オヤジのこれからますます幸多いことを、この文章を読んでくれた皆の衆、祈ろうではありませんか。オヤジ、酩酊しての松葉杖は注意が必要ですぞ、くれぐれもご自愛ください。

このオヤジ、さすがにこれだけの大病を患ってきたからなのだろう、気の毒なことに、54歳の年齢には老けて見えた。私達が食事を終えて帰ろうとしたときに、地元の呑ン兵が三人連れ立ってやって来た。この店は一段と賑やかになり、今夜も、夜の暮れ行くのを忘れて、兵(つわもの)どもは盃に盃を重ね、重ね、深いアルコール海の底を遊泳し続けるのだろう。羨ましかった。車を捨て置いて、彼らといつまでも一緒にいたい気持ちだった。

創作料理「くるま坐」さんのますますの繁栄を祈る。