2012年3月27日火曜日

天声人語も、「わら」わせてくれる!

20120326の天声人語で、うひゃ~、ぐうっぐぅぐ、大いに「わら」わせていただいた。

今回の「わらう」ってことに、どんな字をあてればいいのか、思い当たらない。毎度お馴染みの笑いではなさそうだぞ。私を「嗤(わら)っている」記事であることには間違いない。「哂(わら)う」、これでもなさそうだ。思いがけず動転、自嘲、赤面しつつ苦笑、そんな笑いに近い。

後で、他の「わらう」も調べなくちゃ、イカンなあ。こんなに笑わせてもらっていいのか。まさか、俺のことを、何でもかんでも調査済みで、俺にターゲットを絞って、笑わせてくれているようで、変な気持ち! ふと、後ろに人の気配を感じて、振り返ったが、誰も居なかった。居るのは、ふて寝の排泄機能障害の猫だけ。

正直に言おう、今回の天声人語を読んで、慌(あわ)を食ったのだ

これは、天声人語から私への「春の贈り物」なんだ、と拝読させてもらった。文章に使われている一字一句に、胸騒ぎするのだ。私も、春の季節に入ったようだ。

早速、この天声人語もマイポケットに仕舞いこんだ。

 

先週の朝日俳壇に、顔がほころんだ。〈我が猫の恋の相手に落胆す〉 寺杣(てらそま)啓子。稲畑汀子さんの選者評は「飼い主の落胆を誘う相手の猫やいかに」と、読者の興味を代弁していた。人の目には不細工でも、猫なりの審美眼があるのだろう。

その好みといい、知恵と言い生き物の営みは私たちの想像を絶する。小さな虫たちにさえ、歓喜や傷心があるかもしれない。「ふられたハエもやけ酒?」の記事に、あらぬことを考えた。

米国の研究チームによると、交尾する気のないメスに無視されたオスは、アルコール入りの餌を好んで食べたという。交尾できたオスに比べて、満足した時に脳内で増す神経伝達物資の量が少なく、欲求不満を「酒」で埋めていたらしい。

われら哺乳類の脳にも同様の物質があり、研究はアルコール依存の解明に役立つと思われる。むろん人の場合、やけ酒の「効用」に期待できない。悩みの元は消えず、しばし忘れるだけである。

一時の酔いが頭から追い払った「嫌な記憶」は、より重くなって心の底に刻まれる。そんなネズミの実験結果を、小欄で紹介したことがある。やけ酒はストレス解消どころか逆効果、どうかご用心を。

冒頭の猫の恋は、早春の季語として知られる。寒が緩み、浮かれ猫が鳴き募る頃になると、左党は花見が待ち遠しい。桜を愛でる一献は、思えば、やけ酒の対極にある風流。時節柄というのではなく、浮れ過ぎず、沈み過ぎず、きれいに飲みたいものだ。これが難しい。

日経新聞にも、いいコーナーがある

今月から、日経新聞を自宅で定期購読し始めた。会社では、みんなの手前、新聞を悠長に読んでいるわけにはいかないので、自宅で、大まかな記事は読み終えるようにしている。

朝日新聞も定期購読しているので、朝、出勤するまでは2紙を読むことになる。夜、早く寝るので、目覚めは早い。なんてことはない、夕方、早くから飲みだすので、寝るのが早いだけのことだ。その繰り返しだ。

新聞は、毎朝、きちんと4時に玄関の郵便受けに差し込まれる。狂っても、前後5分以内だ。その前に布団の中で目はパッチリ覚めている。

日経の購読料の支払い主は弊社だ。だから、私は、新聞を仕事として読んでいるので、ビジネスに少しでも役に立ちそうな記事は、きちんとファイルして、スタッフにも読めるように整理している。

流石(さすが)、日本の誇る経済紙だけあって、日経の記事は、専門的な用語がふんだんに使用されていて、私には容易に理解できない部分も多々ある。何かにつけても統計が多く、表や図面で解り易く配慮されている。表現はストレートで、詳しい。記事の内容は経済全般にわたっているので、私らの仕事の域を超えた内容のものも多い。

そんな記事の中で、この1ヶ月の間で、気に入ったコーナーを文化欄で見つけた。朝日の天声人語は、中学1年生のときに、国語担当の小沢先生に言われてから、最初に天声人語を読んでからスポーツ面へと移るようになった。それから、1面に戻る。

日経にも、病み付きになりそうなコーナーがあることに気付いたのだ。新聞を仕事で読んでいる、と言いながら、やはり経済新聞なので、読み手は仕事モードだ。でも、そんな中でも、人は自然に心惹(ひ)かれるコーナーを見つけるようだ。

そのコーナーとは、新聞の一番裏の文化欄で、一番スペースをとっているコーナーのことだ。そこは、日ごとに筆者や話し手が変わって、取り上げられる話題や題材は種々雑多?色々だ。文化的過ぎないところが、私には丁度好(い)い。文章は解り易く、ユニークで、興味深いものばかり。私が楽しみに待つコーナーになってしまった。

下の方で紹介できなかったけれど、日本全国の銭湯や駅ソバ屋の調査?探訪とか、実に文化的に楽しませてくれる。

故紙直行前の手元に残っている新聞で、一部を紹介しよう。私が何ゆえに、楽しみにしているか、解っていただけるかと思う。

 

 

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黒沢工場村を再現したジオラマ=大田観光協会提供

今日は、蒲田モダン研究会共同代表の鍋谷孝さんの「町工場の町 息づくモダン」、副題は東京蒲田の、時代の先端追い求める心引き継がれる、だ。

戦中、戦後、蒲田駅周辺に進出した工場の経営者の話だ。なかでも、和文タイプライターの製造で成功をおさめた黒沢商会の黒沢貞次郎は、理想の工場村を作った。蒲田の経営者は、外国文化を理解し、会社経営に生かしてた。他にも、陶器、香水の香料など近代産業の工場が集まり、洗練された工場村を形成されていった。

 

 

昨日は、詩人で小説家の平田俊子さん、「悩み事」だ。

お肌のシミも、若く恋をしている友人には大きな問題だ。年輪を重ねた人にとっては、表面以上のことよりも、内面の、内臓や血管や骨や脳のことに悩みは走る。悩(なや)みは、病(や)みだ。日常的な悩みも、楽しみに展開できないものかと、悩む。そんな内容だった。

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一昨日は、水俣の「苦海浄土」の石牟礼(いしむれ)道子さんの「人間の英知回復を」 聞き手は、文化部の千場達矢氏で、内容のタイトルとしては、心の叫び、水俣に福島に 無念の言葉残さねば、だ。

水俣病の実態を鮮烈に描いた「苦海浄土」の作者、石牟礼道子さんは現在文明と人間の姿、そして文学の持つ力について語った。

震災した東北でがれきの山が積み上がっている映像をテレビで見たとき、使い捨て時代という言葉を思い出した。近代100年の間に私たちは何をしてきたか。物は増えたが、増え過ぎてしまい、価値あるものがわからなくなってしまった。やがて、人をも使い捨てにするようになった。不景気で仕事を失っても、水俣患者も、福島の原発事故で住む場所を追われた人もそうです。豊かさと引換えに人間を切り捨てることは決して許されません。

悲惨な災厄によって無念にも亡くなった人たちの魂が今どこにいるか解らないのに、芸術文化によって鎮魂するなどというのは、不遜です。

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23日は、細川邦三(くにぞう)さん、旧制高等学校美術連合会事務局長の「絵がつなぐ旧制高の誇り」、副題は、卒業生の美術展 「白線展」、全国行事の最後の砦に、だ。

全国の旧制高等学校の卒業生で、好きな美術に打ち込み、その腕を発表する美術展。この春の開催で17年。通算で24回を数える。1995年、旧制高校囲碁会から派生して生まれた。会員の高齢化が進み、運営を一たび休んだが、細川氏自ら所有するビルを提供して再出発した。

熱き思いは、そう簡単には廃(すた)れない。

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懇親会で合評する会員たち

 

19日は、映画監督の古勝敦(こかつ・あつし)さんの「家族の再生 映画で祈る」。副題は、震災後の福島で地元の人々と撮ったファンタジー、だ。

古勝氏が監督で、奥さんがプロジューサーの映画「トテチータ・チキチータ」の福島での撮影開始前に、東日本大震災が起こった。地元企業からの出資は宙に浮いた。この映画は、福島を舞台に戦争で家族を失い、天涯孤独の老人の前に、父、母、息子の生まれ変わりが現れるという、フアンタジーな設定。そんな映画が、地元の小学生等も出演して、震災に屈することなくできあがり、仮設住宅や避難所で上映された。

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「トテチータ・チキチータ」の一場面

2012年3月23日金曜日

頑張っている中西麻耶さん

20120321の朝日新聞・朝刊、社会面より。

全文、新聞記事をそのまま転載させていただいた。新聞社には無断だけれど、中学生のときからの朝日新聞の愛読者です。本物の朝日贔屓です。

この手の内容の記事に極端に弱いのです。早速マイ・ポケット奥に、仕舞い込みたくなりました。

 

見て 義足の体を

世界に挑むため

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(カレンダーを手にする中西麻耶さん)

 

今夏のロンドン・パラリンピック出場をめざす陸上女子のトップ選手が先月、セミヌードカレンダーを発売した。背後には何より資金難があるが、背中を押したのは「絶対にロンドンまでやる」という覚悟だった。

 

中西麻耶さん(26)は2006年、ソフトテニスで国体出場を目指す、大分県の21歳の会社員だった。勤め先は「練習と両立できる」という条件で入った鉄骨塗装の会社。その現場で、倒れてきた鉄骨に足を挟まれ、右足ひざ下を切断した。

約半年後に退院したが、周囲からの「何もできなくなった」という視線を感じることが多く、悔しかった。義足をつけて立つ練習から始め、翌07年に走り始めた。実力を上げ、98年には北京パラリンピックに出場。100メートルで6位、200メートルは4位に入賞した。

それでも世界との差を痛感した。「現役でいられる時間は限られている。悔いだけは残したくない」。09年に渡米し、世界のトップ選手が集う米国の国立トレーニングセンターの審査に通った。三段跳びの五輪金メダリストのアル・ジョイナーから指導を受けるようになった。記録は伸び、100メートル、200メートル、幅跳びで日本記録を更新した。

ところが、資金難に苦しめられた。最低2足は必要な競技用の義足は、1足約120万円する。月約千ドルの生活費や、日に約40ドルのセンター利用費に加え、コーチへの謝礼も必要だが、米国の就労ビザがないため働けない。ホームステイする費用が払えなかった時は、車で寝泊りした。

ニュージランドであった11年の世界選手権は、渡航費用が足りず、出場を断念せざるを得なかった。苦しい時期だったのに、競技関係者の間には「それなら米国に行くなよ」と彼女を非難する声すらあった。

パラリンピック資金にセミヌード

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(競技中の中西麻耶さん=越智貴雄氏撮影)

 

資金を作るため、カレンダーを作った。バッシングを受けるのは覚悟の上で、自分をさらけ出した。障害部位を出すと「障害者をさらし者にしている」という人もいる。でも、「本気で支援してもらうため、自分のすべてを賭けてインパクトのあることをしよう」との思いが強かった。

10年以上にわたってパラリンピックを撮ってきた写真家、越智貴雄さん(33)に撮影を依頼した。越智さんはその成果をこう語る。「彼女を一言で表すと『突破』。困難にぶち当たっても、真正面から立ち向かう姿が表現できたのでは」

白黒の中で、義足だけ色付きの写真もある。赤色やバラの絵柄の生地を選んで作ってもらう義足は「見られて恥ずかしいものではなく、美しいもの」だと伝えたかった。

中西さんは「私は障害者でなくアスリート」と言い切る。そのためのよりよい環境を求めて道を切り開いてきた。カレンダーも、その手段の一つだ。でも、「後輩にはこういう思いをしてほしくない」。被写体となることで「どんなにバカにされようがバッシングされようが、後輩たちが活躍できる道を作りたい」との思いを込めた。

「障害者のスポーツはレベルが低い」と思う人がいるとすれば、悔しい。ロンドンでは3種目での出場をめざす。出るだけでなく、世界記録の更新を狙う。

障害があると、殻にこもりがちな人もいるが「そういう人を一人でも外に出してあげられたら、自分にしか送れない人生があると思うから」。自分のカレンダーが何かのきっかけになってくれればと願っている。

カレンダーは3月からの14ヶ月分で1200円。2千部限定で、中西さんのホームページやブログから購入できる。

 

国の支援 五輪と格差

日本陸上競技連盟によると、世界選手権などの国際大会に日本代表として選手を派遣する場合、渡航費や宿泊費は陸連側が負担する。一方、日本身体障害陸上競技連盟によると、同様の大会へ選手を派遣する際、「メダルが確実」とされるトップクラスの選手でも自己負担が必要という。

原因のひとつは、国からの支援の差だ。文部科学省から日本オリンピック委員会(JOC)への補助金は年間約26億円、日本陸連などの競技団体にはこの補助金が割り振られる。また、補助金とは別に、委託事業としてトップ選手の医科学サポート費用約20億円も支出される。一方、厚生労働省から日本障害者スポーツ協会への補助金は、2011年度は約5億円だ。

補助金のうち、遠征や合宿に使える強化費を厚労省が措置するようになったのは09年度から。厚労省の担当者は「一気に同じレベルにはならないが、選手が自己負担なく練習できる環境を徐々に整えていくしかない」と話す。パラリンピック選手の多くは、障害者雇用促進法に基づく法定雇用枠などで就職し、活動資金としている。

(山本奈朱香)

2012年3月22日木曜日

饒舌と寡黙、無言

友人の奥さんが長女を連れて、久しぶりに生まれ故郷のフィリッピンから、家族の待つ横浜に戻ってきた。奥さんは元フイリッピン人、現在は日本の友人の妻。長女は母の療養生活に付き添った。

先週、成田の飛行場で、妻と長女を家族総出で迎えたときの様子は、実に感動的でした。長男は妻に抱きつき、次男は長女に抱きついた。夫で父である私は、みんなをまとめて抱擁しました、と友人から報告を受けた。体調を壊して、3ヶ月ほどフイリッピンの実家で療養して、元気になって帰ってきたのだ。

戻ってきた彼女を首を長くして待っていたのは家族ばかりではない。フィリッピンから日本に来ている大勢の仲間たちだった。フイリッピン人の女友達だ。

友人が仕事を終えて自宅に戻ると、奥さんのフィリッピンの仲間が来ていて、ペチャクチャの大盛り上がりの最中。何か、こども達に話したくても、そのペチャクチャで話が通じない。そのペチャクチャは大きな声で牛の涎(よだれ)のように絶え間がない。ヤマオカさん、そりゃ、頭が痛くなるほどですよ、彼は辟易気味だった。

そうか、そりゃ、お国柄なんだろうね、と彼に話すと、ウンザリとした顔で話しを続けた。

フィリッピンって可笑しいんですよ、初めて会った人とでも、べらべら、10年来の知り合いのように、いつ果てることもなく、話し続けるのですよ。スーパーへ買い物に妻と妻の姉妹らで行った時なんて、異常ですよ。品物を前に、いつまでも喋りっぱなし、それが楽しみなんでしょうが、私にはは考えられませんと話した。

そして、2012320の天声人語に話は移る。

天声人語で、会話のことが話題になっていた。東京都の1世帯あたりの平均人数が2人を割ったことで、家で話す相手がいない世帯が普通になってしまった。詳しくは、1世帯の世帯数は1,99人だ。無言の生活が増え、それだけなら仕方がないと諦めもできようが、話さなくてはならないときにさえ、無言では、ちょっと不気味過ぎではないか、そんな内容の文章だった。

続けて、フランスで暮らした作家の池澤夏樹氏は、「日本の買い物には会話がない」、まるで、ロボットの国のようだと、また、都心の駅員は「無言で地図を見せて道を聞き、礼も言わず去る人が多い」などと嘆いていることを紹介していた。

私は今、事情があって独り暮らしなのだが、先日、野原で蕗の薹(フキノトウ)を採ってきて食用の油不足で天ぷらにはできなかったが、小麦の衣をつけて炒めて食った。それは、それは香といい風味といい、美味かった。このとき私は、誰も居ない台所で、ウ・!・マ・!・イ!と快哉、大きな声で叫んでいた。何処からも、誰からも、返ってくる言葉はなかった。居るのは、人間の言葉を喋れない、排泄機能障害の猫だけが、無邪気に、私の酒ヤケの赤い顔を見つめていた。

友人に私の独り言の話をしたら、彼も独り暮らしのときには、ただ今ーお帰り、行ってきますー行ってらっしゃい、頂きますーどうぞ、召し上がれ、ご馳走さまでしたーお粗末さまでした、こんな風に、独り会話をしていましたよ、と言っていた。

友人の奥さんと奥さん仲間との過度の饒舌は、ちょっと疲れるが、気の利いた会話は、人間関係を潤す必須の手段だ。寡黙、無言は、ときには重い意味をもつこともあるが、殺伐として冷ややかなのは少ない方がいい。

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ところで、私の独り言は?

2012年3月21日水曜日

春一番 吹かず

今日は、冬がそろそろ終わろうとしていている、20120322だ。一昨日の20日は春分の日だった。会社の窓から眺める日差しは春めいている。奈良・東大寺のお水取りが12日に終わった。私の祖母は、お水取りが終わったら、そろそろ春になるよ、と此の時期になると毎年口癖のように言っていた。

今日、弊社の営業部は定休日だ。私は午前中は会社にいて、友人とミーティング。午後は日差しが春めいてポカポカの一歩手前のホカホカ。こんな陽気こそ、大いに楽しまなくっちゃ、とイーハトーブ果樹園に直行、野良仕事に精励した。雑草取りに夢中、肌は汗ばんだ。それぞれの果樹は、小さな芽が吹き出す時期を静かにそっと待っている。それぞれの果樹に向かって、今年も頼むぞ、と話しかけた。こんなことでも、今の私にはたまらなく楽しい。もう少しすれば、芽は一気に萌え出すのだろう。

高知では、桜が開花したそうだ。

果樹園の隣のオジサンと、今年の春からの野菜作りの下打ち合わせをした。今の私は、仕事においてちょっと余裕のヨっちゃん状態で、此の春からは特別、農作業に励みますサカイにと宣言した。果樹と果樹の隙間にはまだまだ空き地があって、その空き地を利用して、瓜(ウリ)系の胡瓜(キュウリ)、冬瓜(トウガン)、南瓜(カボチャ)などを重点的に頑張ってみる心算だ。これ等は、痩せた土地でも逞しく育つ。手間をかけなくて、済むのだ。百姓の子せがれの知恵だ。他にも、色んな葉っぱ系を試みたい。肥料は、去年と同じように、友人から牛糞をもらってこよう。

長く厳しい冬がやっと終わりそうな此の時期なのに、どこからも「春一番」が聞こえてこない、そんなことを、急に可笑しいなあと思いだした。

ところで、春一番ってなんだったけ? と思いついたものの、春一番の定義を理解していないことに気づいた。気象庁によると、関東地方では今年、2000年以来、12年ぶりに春一番は観測されなかった。

「春一番」の意味を、Wikipedia のお世話になった。

これからは、チャンと覚えておこう。『春一番とは=例年2月から3月半ば、立春から春分の間に、その年初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風』。風速8m/s以上で前日よりも気温が上昇していることが条件のようだ。今年の立春は新暦で2月4日、春分は3月20日だった。

これで、来年からの「春一番」については、オッケーだ。

今度は”元寇”だ!!

新聞記事のタイトルは

「元寇船沈む長崎沖の海底 国史跡に

水中考古学 足りぬ支援」、だ。

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培風館 日本史精義

 

前回、秀吉の朝鮮出兵の新聞記事を見つけて、かっての受験勉強に使った参考書まで動員して文章を綴ったと思いきや、1ヵ月後の20120314の朝日新聞に、今度は元寇のことについての記事を見つけた。朝鮮出兵は1592年だから、元寇はそれより約300年前の1274年。今から730年前のことだ。私は、敏感に反応した。記事は編集委員の中村俊介氏のものだ。

元寇とは、文永の役と弘安の役のことだ。この二つの元寇が、これほどまでに凄まじい戦いだったとは、教室での授業では理解できなかった。

蒙古族の中から成吉思汗(チンギスハン)が現れ、あれよあれよと言う間にヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を作った、国号を元と定めた。マルコ=ポーロが「東方見聞録」に、日本には金が多いことを記述した、これが日本征伐を目指した原因ではないかといわれている。

下の新聞記事にあるように、元、高麗、漢人の連合軍の軍船が4400隻が鷹島沖に沈んでいるという。兵も多いときには、約10万人が攻めてきた。なんと、数の多いこと。難を逃れて、引き返した船もそれなりにあっただろうから、この戦いの規模は相当なものだった。九州の彼方此方で、苦戦を強いられながら、何度も台風やら悪天候で助けられた。元連合軍は、陸上では強かったが水上ではからっきし駄目だったようだ。それに、軍の中枢や国内においても反対運動があり、次第に力を弱めた。日本は、まがりなりにも、北条氏を中心に結束して対処した。

秀吉軍が朝鮮に出兵した際に、彼らが朝鮮国内に築いた城の址が20箇所も、今も残されていると知って、戦の規模の大きさに驚いたのだが、今度は元寇に対する日本の反撃で、撃沈した元の軍船の数の多さで、再び昔の戦いといえどもその凄まじさに、またまた、驚いたわけさ。

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鷹島沖に沈む元寇時のモンゴル軍船の残骸=琉球大学考古学研究室提供

 

記事の一部=鎌倉時代に来襲したモンゴル軍船が沈む長崎県鷹島沖の海底遺跡が2月、国史跡指定の答申を受けた。海底遺跡では初めてだ。この海域では30年余りにわたって調査が重ねられ、昨秋には琉球大などの研究チームが730年前の「元寇」で沈んだ船体を発見。今年も水中調査を予定している。

鷹島沖の海域には元寇船4400隻の多くが沈むという。琉球大の池田栄史(よしふみ)教授らは音波調査で海底の異常地点を絞り込んで潜水。水深23メートルから船体の背骨となる竜骨や整然と並ぶ外板、たくさんの磚(せん)「れんが」を発見した。夏から秋にかけて再び調査を予定しており、元寇に詳しい佐伯弘次・九州大教授(日本中世史)は「日用品や武器類、未知の遺物もあるかもしれない」と期待する。

鷹島沖の調査は1980年に調査団が組まれてスタート。鷹島町教育委員会(現・松浦市)と九州・沖縄水中考古学協会(現・NPO法人アジア水中考古学研究所)に引き継がれ、「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれる炸裂弾「てつはう」の現物が見つかったほか、部分的ながら船の部材や中国陶磁器、矢の束などが引き揚げられた。

現地には観光資源や地域活性化への期待も出ているが、簡単ではない。海水につかった遺物は脱塩や保存処理が不可欠で、専用施設もいる。

秀吉の朝鮮出兵

20120312の朝日新聞のアジア版で、秀吉が朝鮮に侵攻した時(1592~98)に築いた城の址(あと)が今も残っているという記事が掲載されていた。

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記事で、秀吉軍が侵攻のために城を20箇所も築いたことに驚いた。後の方で紹介する大学受験に使った参考書を読み直したら、なんと秀吉軍は約16万人の兵を送ったそうだから、大変な戦いだったことを改めて認識した。そのときの日本の人口は、何万人がいたのだろうか? 派兵の規模としては、相当大がかりで負担は重かっただろう。

新聞記事で扱われているのは、韓国南東部の蔚山(ウルサン)だ。上の写真では、山の頂上まで400年以上前に築かれた石垣が今も見える=西生浦倭城(ソセンポウェソン)

これより新聞記事の一部=(蔚山・中山晃) 城址は地元で「西生浦倭城(ソセンポウェソン)」と呼ばれる。「倭」は日本を意味し、日本で「文禄・慶長の役」と称する秀吉の出兵は、韓国で「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と呼ばれる。旧暦の干支で「壬辰」の年に日本が始めた戦乱の意味だ。今年は60年に一度めぐる「壬辰」年。韓国人の知人らに聞くと「まず壬辰倭乱が頭に浮かぶ」と口をそろえた。韓国では「侵略者」としての日本は「倭政(ウェジョン)」と呼ぶ植民地支配期に始まるのではなく、秀吉の出兵にさかのぼる。

これは、秀吉軍による”文禄・慶長の役”のことだ、とは直ぐに答えられる。この戦の名は、記憶から絶対抜けない。だが、悲しい哉(かな)、知識はそれまで、だ。それ以上に知識は広がらない。

でも、今はちょっと時間的に余裕のヨっちゃんだ。本棚から受験時代に使っていた参考書を開いてみた。

昭和40年初版、私が使っていたのは42年第6刷発行。培風館「日本史精義」、著者・下村富士男 ¥560 を何度も何度も読んで、暗記した。今は、この参考書の内容のほとんどが記憶から遠ざかっているが、それでも、大まかには内容が蘇った。それにしても、参考書には詳しくチャンと書かれていたのには、驚いた。

ここに、上の参考書の186~187Pを紹介することにした。当時の努力の手垢が懐かしい。

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