2014年3月31日月曜日

恒例の後輩たちの同窓会


20140308 11:30 東名高速道路の裾野インターで下りて、少し246号線を静岡に向ったところの寿司屋さん、ひょうたん寿司で、昼飯を兼ねて集合した。この寿司屋さん、飛び込みのお客さんはほとんどなく、客の大半は法事のお客さんだった。流石に、ネタがよろしいようで、いつものくるくる回る寿司屋さんとは違った。久しぶりに美味しい寿司を食った。
集合したメンバーは、同じ大学のサッカー部の先輩後輩、昭和52年卒を中心にその前後に卒業した元部員たちの毎年恒例の同窓会を、時の栖で行うための腹ごしらえのためだ。同窓会のメインの行事は地元のサッカークラブとの対戦と、その後、バイキングで舌鼓を打ち、旧交を温めることだ。
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寿司屋では、私だけは試合に出ないので、熱燗を1本注文したが、前日の燗冷めを出されて憤慨。大きい声を出して文句も言えず、静かに、この酒ちょっとおかしいから替えてよ、と猫をかぶったように抗議した。先方は、私の怒りをどのように感じたのか? 見た目は平然とお代わりを持ってきた。この年になっても、こういう時の怒り方を身につけてこなかった。

我が方は、次女夫婦と孫の三世代の5人組、メディカル機器の会社に努めている杉君組も三世代で、こちらは次女夫婦に孫、長女に孫、長男の8人組の大所帯だ。杉君は往年の名キーパー、試合では相変わらずの軽快、堅守にもかかわらず?いっぱい点を取られてしまった。それでも、優秀な営業マンは底抜けに明るい。彼から学ぶべきことは多い。
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14:00から30分3本試合をした。
対戦相手は、地元の袋井サッカークラブの中学1年生だったが、どう見ても中3ぐらいの体つきで、試合前のウオーミングアップでも、よく走るし、よく蹴った。こりゃ、大変な事になりそうだ、と本気でビビった。スコアーはオジサン、おじいちゃんの名誉にかかわること、特別の秘密事項にしておこう。
お利口な対戦相手は、当方のチームを気遣ってくれたのか、本(ホン)ちゃんでは、自分たちのサッカーではなく、オジサン、おじいちゃんに合わせてくれた。そのことにな~んも気づかない仲間たちは、自分たちのチームが割りとよくやっているじゃん、と暢気に観戦している。アカン、当然といえば当然のことなんだろうが、彼らは身も心も老化してしまったようだ。
若い頃は、パスを受ける際には、走り込む先にパスを出すことを求めたが、老人になってしまった今では、足元にボールを出せよ、と声を荒らげていた。
この会で、ゲームに参加した3代目は我が孫・晴ただ1人。2代目が参加しているのは、杉君の息子・ゴウと小君の息子・シンの2人だ。
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試合が終わって、 19:30の食事会までのたっぷり余っている時間の過ごし方は、やっぱり、ビールを飲むことだった。これが、時間を一番効率よく過ごすやり方だ。話したいことは、山々ある。毎年恒例の同窓会だ。
メンバーには、三菱系某大手の飲料会社に勤めている奴が二人いて、販促用の飲み物をたくさん用意してくれた。横浜と名古屋に勤務している両君だ。新製品のビールを突き出されて、どうですかね味の方は、と聞かれたが、酔いがピーク寸前の私には解らないよ、と失礼なことを言ってしまった。

話すことはほとんどが昔の思い出話。学生時代の狼藉、失態の数々には事欠かない、誰々の女性関係だとか、どこの誰が可愛いかったとか、フジの嫁はんはキツ~イかったなあ!とか。
久しぶりに顔を出してくれた広島からの白君と藤枝のヒ君。白君は、10年か15年前に広島大会を世話してくれた、広島で長い歴史をもつ酒蔵の若大将だ。ヒ君は、長くアルコール中毒に苦しめられていたが、今は、ちゃんと快復していて、安堵した。体型はマラドーナのような風体(ふうてい)になってしまったが、足技は健在?だった。

宇都宮の松ちゃんも、すっかりおじさんになって静かなモンだ。松ちゃんの学生時代の豪快な酒乱?立ち回りは、誰に迷惑をかけたわけではない。話題としては際立って面白い。
塩山のシさんも衰えが激しい。それでも、日常の仕事は各方面で頑張っているようで、嬉しかった。静岡と神奈川の高校の二人の先生も衰えが激しい。かっては、全日本の代表だったのに、と惜しいむのには無理がありそうか?


さて、来年は皆さんの老化が、どれほど進んでいることでしょうか。

2014年3月27日木曜日

ケンタウルスに初植込

20140326 横須賀市栄町の「ケンタウルスの果樹園」に、果樹5本を植えてきた。

1番目の果樹園の名称が「イーハトーブの果樹園」なら、2番目の果樹園の名称が「ケンタウルスの果樹園」になるのは必然だった。ケンタウルスは星座の名前でもあるが、「銀河鉄道の夜」のケンタウルス、露を降らせのケンタウルスだ。

柿3本と梨と桃を1本づつの計5本。果樹を植えているときの喜びって何だと思いますか? それは、果樹が立派に育ち、果実がたわわに実り、会社のスタッフやその家族、仕事でお世話になっている仲間たち、私の家族やその仲間たちに、お裾分けをする光景を想像するだけで、それで、もうすっかりハッピーな気持ちになれるのだ。

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この土地は道路から階段を30段以上のぼった高台にある。何を運ぶのも手運びだ。肩に担(かつ)いだりや背に負うほどの威勢よくない私は、たいてい、荷物をぶら下げてのぼる。地勢は全くイーハトーブとそっくり。元は住宅が建っていて、弊社でその住宅を解体して長く更地状態にしておいた。地盤は、何故か、河原のように大小の石でがっちり固められていて、土壌らしい土がなく砂利(じゃり)状態。

私が試験的に穴を掘ろうと、ツルハシの先を強く地面に刺そうとしたが、歯が立たなかった。それで、昨年の11月10日、人力のみでは無理と判断して、レンタル会社から発電機と電動ドリル(削岩機みたいな奴)を借りてきて、何とか直径1メートル深さ1メートルほどの穴を12個掘った。

今は、誰にもこの作業の辛さなど、露ほども漏らすものか。

その穴に、仕事の合間を縫って、少しづつ木の葉、培養土、普通の土壌を埋めてきた。そして、やっとのことで、果樹を植えられるまでになった。それが、3月26日のことだ。

だが、硬い地面の一部に穴を掘ってそこに植樹したのは、いわば、大きな植木鉢に植えたようなものだから、今後の心配は尽きない。強い風を受けた時などは根こそぎ倒れてしまうかもしれない。観葉植物なら、それなりの手入れですむかもしれないが、果樹を実らせる樹木が一時的なショックといえども、倒れれるようなことがあった時は、相当なダメージを受けることになるのだろう。

後4本、何を植えようか思案中だ。

2014年3月23日日曜日

龍に襲われた

昨夜20140322、変な夢に悩まされた。

布団にくるまって寝ていた私を、龍が火を吹きながら襲ってきたのだ。

その姿は、家ごと丸飲み込みしそうな大きい奴で、大きな黒目を見開き、口には牙を尖(とが)らせ、尾をグネグネと左右に動かしていた。身の周りに強い風を纏いながら降臨、数軒向こうの方から、周辺の家や樹木を焼き焦がしながら、私の家の私の寝室に向かってきた。宙を舞いながら吐く火焔は強く長く、吹きかける風が炎をますます勢いづけた。寝ている布団の周りは、火の海と化していた。

何故だ、どうしたんだと、身を震わせている間に目が覚めた。炎の熱よりも、噛み殺されるのが怖かった。

目が覚めて、興奮が治まるにつれて、20年ほど前、子どもを連れて京都府綴喜郡宇治田原の実家に帰った時の、蛇の一件を思い出した。

子供らを車に乗せて、父が働くキュウリ畑か、カブト虫採りに出かけた時のことだ、農道で蛇を轢いてしまった。見通しは良く対向車もなく、子どもたちとふざけながら走っていて、農道を横切る錦蛇(にしきへび)に気づかなかった。縄か紐に見えた。

確かに、こと~んと蛇を轢いたショックがハンドルに伝わった。が、しかし、戻ってまでも確認しなかった。直感で蛇だと解った、が、たかが蛇だろうと軽く見くびったのだ。でも、この「こと~ん」の薄気味悪い感触は、今でも蘇る。きちんと思い出せるのだ。戻る際には、蛇の姿はもうそこにはなかった。踏み殺すことはななかった、と勝手に安堵した。

その蛇が、古くから中国に伝わる神話の龍に化身(けしん)、龍になって私に仕返しにやってきたのだと、思い当たった。

 

追記・白川 静(しらかわ しずか)先生なら、「龍」と「襲う」の龍の関係をちゃんと説明してくださるのだろう。ボンクラの私でも少しは気になった。

集団的自衛権は、私が行使します

集団的自衛権の行使を何とか実現させるために、従来の憲法解釈の変更を目指す安倍晋三首相は、閣議決定に強い意欲を示している。「憲法解釈は、最終的には私がやる」と国会答弁で言い放った。選挙で選ばれた者たちが、リードするのが当たり前ではないか、とこのような意思・言い方で発言している。オイ、オ~イ、そんなに易々とこの問題を言い放さないでくれよ、日本国憲法の世界でも類をみない「平和主義」を脅かす考え方だ。丁寧な手順が必要だ。

首相のこの国会答弁を聞いて、この男、危険千万なりと感じた。朝日新聞では、憲法解釈を強引に改めさせようとする安倍首相のことを、前のめりで腰高の姿勢に危うさを感じると表現した。

それじゃ、従来の解釈はどうだったのかと言えば、20140323の朝日・1面・「座標軸」より引用=従来の憲法解釈を要約すれば、「自衛隊は合憲だが、海外での武力行使はできない」ことに尽きる。その枠内で集団的自衛権を「保有しているが、行使は許されない」と定めた、ということだ。

長年の解釈を、首相やお仲間だけでそう簡単には変更できないことは、何も、私のような無学な者でさえ容易に理解できる。この危険な男をけん制するために、動いたのはお膝元の自民党の「総務懇談会」、早速17日に開かれた。その会では、結論を急がないよう求める声や、法改正で取り組むべきだとの意見が大勢を占めたと、紙上にあった。当然のことだ。

この首相、第一次安倍政権発足時の前後から、「戦後レジームからの脱却」すべきだと言いだした。「この国をかたちづくる憲法や教育基本法など、日本が占領されていた時代に制定されたまま半世紀以上経ったもの」を見直すべきだと、いうことだ。

戦争を知らない若い議員らとお仲間を作った。このお仲間、何故か威勢がいいのだ。30年~40年前の自民党のほとんどの議員は、特殊な議員は別にして、集団的自衛権は日本国憲法をいくら解釈に工夫を凝らしても認められるべきでないとしてきた。与野党問わず、老齢のために引退した議員や現職古参議員は、こぞって認めるべきでないとする人が大半だ。

アメリカから相当の圧力がかかっているのだろうか。

 

20140317

朝日・社説

首相の懇談会/「空疎」なのはどっちだ

 

どうしても違和感が募る。

集団的自衛権の憲法解釈変更について、安倍首相は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書が提出された後に対応を検討すると強調している。

このため国会もメデイアも「待ち」の態勢を取らざるを得ず、報告書の価値が自然とつり上がっている印象だ。しかしそもそも報告者は、どれほどの正統性持ち得るのだろうか。

確認しておきたい。安保法制懇は首相の私的諮問機関である。設置は法令に基づかず、人選も運用も好きに決められ、国会の目は届かず、法的な情報公開の義務もない。政府は従来、私的諮問機関は、「意見交換の場にすぎない」と説明してきた。

安保法制懇には、首相と志を同じくする仲間が並ぶ。これまでの懇談会の議論では「集団自衛権を行使できるようにすべきでないといった意見は表明されていない」という答弁書が先日、閣議決定された。

首相は「空疎な議論をされている方は排除されている」と国会で述べた。「結論ありき」の疑念はぬぐいようがない。

安保法制懇だけではない。同じく首相の私的諮問機関「教育再生実行会議」のメンバーも首相に近い人物が目立つ。内閣法制局長官人事でも、内部昇格という慣例を破り、自らに近い人物を据えた。安倍政権の特徴的な政治手法の一つだ。

かって中曽根政権も私的諮問機関を多用し批判を浴びたが、最低限の正統性確保への配慮はあった。例えば84年に設置された「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会に。適切な方式での公式参拝実現を促す内容の報告書を出し、それを根拠に中曽根首相は公式参拝に踏み切った。ただ、公式参拝違憲論を唱えていた憲法学者の権威・芦部信喜氏もメンバーに入り、報告書には違憲の主張が付記された。

この事実は決して軽くない。

少数意見に耳を傾け、反対派からも合意を得られるような力を尽くす。その合意形成のプロセスをおろそかにし、選挙に勝てば何でもできるとばかりに「勝者の正義」を押し付けるようなやり方では民主政治は成り立たないし、政権の正統性をも傷つけてしまうだろう。

ある時点において多数派だったことを足場にする「勝者の正義」は歴史の風雪に耐えられない。首相が是が非でも「戦後レジームからの脱却」に挑むというなら「お友達」の意見を錦の御旗にして強引に事を進めるのはやめ、国会など公的な場で堂々と議論に臨むべきだ。

2014年3月20日木曜日

人車鉄道って知ってた?

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私は皆に遅れて正午過ぎに真鶴に着いた。今週末、ダイヤパレス湯河原とクレスト真鶴アネックスの現地販売を行う告知チラシを、物件の近辺の住宅に投げ込むためだ。こういう仕事になると、俄然、気合が入るのだ。

朝早くから湯河原で別件の仕事を終えた浅と、そこに少し遅れて合流した佐の二人は、既に、午前の部はやり終えていた。私が着いたのは昼飯時だったので、先ずは腹ごしらえを整えてからだ、と昼飯に誘った。

それから、3人はそれぞれ、思い思いのエリアを担当した。私は海側の集落を攻めた。もう一つの住まいとしてマンションを買ってくださいとか、買い替えしませんかではなく、気候温暖な真鶴で隠居暮らしか、保養のためか、それとも文学や絵画などの創作の場にでも使いたいと思ってくれそうな人を紹介してもらえれば、エエか!ぐらいに考えて、それでも、念を込めて郵便ポストに投げ込んだ。

息子一家や娘一家が、親の家の近くに住みたい、と考えてくれる人がいれば、思う壺だ。

それにしても、この日は強風だった。都内では、成田も羽田も飛行機は飛べず、海上を走る自動車専用道路も通行不能になった。瞬間風速20キは中型の台風並だ。細い坂道を上って行って、それから階段を10段~20段を登ってやっとのことで家に辿り着く、そんな家ばかり。疲れてふらふらの足取り、それでも何とか踏ん張っていても、突然、まともに風を受けて海側の崖下に突き落とされそうになったことも、しばしば。

持ってきたチラシを全部配り終え、待ち合わせの時間より少し早い目に真鶴駅に着いたので、駅のロータリーをウロウロ、上の方で写真を紹介した「豆相人車鉄道歴史街道」のことを記した看板が目についた。この豆相の豆は伊豆、相は相模の相のことだろう。

人間が客車を押すという「人車鉄道」が、かって、小田原と熱海間を走っていたようなのだ。貼り付けてある写真のなかの光景に目が留まった。現在の私たちの目には、どうしても滑稽に映る。

大正時代に、秦野で産出された煙草の葉を二宮まで運ぶことを主目的に、軌道の上を馬が貨物車を引く鉄道が敷設されていた。この馬車鉄道はその後、軽便鉄道になったが、小田原急行鉄道(小田急小田原線)が開通すると衰退し、昭和12年に廃止された。この鉄道のことは、以前に秦野の煙草を調べていた時に知った。

都心から遠く離れた地方でも、このように貨物や人の輸送に、叡智をめぐらし、努力がなされていたのだ。日本人の何事をも発展、発達させようとする精神の逞しさが偲ばれ、嬉しくなった。

帰途、強風で落下した夏みかんを、10個ほど拾って帰った。帰りの車の中、疲れ体にはその振動が快く、後部座席で惰眠を貪った。

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豆相人車鉄道歴史街道

城口(じょうぐち)駅跡

人間が客車を押すという珍しい鉄道”人車鉄道”が小田原か熱海間25.6キロメートルを走ったのは、明治29年(1896)のことです。豆相人車鉄道と呼ばれていました。現真鶴駅の駐輪場付近に城口駅があったと思われます。駅前には真鶴屋・福浦屋・川堀屋の3軒の茶店もありました。

2014年3月15日土曜日

納骨ぐらいはお早めに

大手の某不動産仲介会社から、多摩地区にある中古住宅を、御社の中古住宅をリフオームして再販する企画にのりませんかね、と弊社の担当者に連絡があった。担当者は、へ~いガッテン、うちの会社の生業ですから、喜んで見せてもらいます、と鼻息荒く返答した。

日取りを決めて、担当者と私は現場に向った。空家だった。物件は某大手住宅メーカーが昭和の終わり頃に建てたものだが、リフオーム工事がきめ細かに施工されていて、築後30年以上も経つというのに古さを感じなかった。その居住空間の隅々に、住んで居た人の几帳面な生活ぶりが偲ばれた。洗面化粧台や便器、浴室、キッチンに少しの損耗がみられない。丁寧に手入れが行き届いていた。

ここに住んでいた人の子女らが相続を受けて、息子2人と娘1人の共有名義になっていた。よって、この3人がこの物件の所有権者で売主だ。長男は外国暮らし、次男は埼玉の妻の実家の近くのマンションに住んでいる。娘さんは、結婚して東京でマンション暮らし。この子供らに対して、親の教育が行き届いていたのだろう、それぞれに、立派に豊かに暮らしているようだ。この住宅は相続人の誰にも、住居としては不要なのだ。

仏壇の前には、最近亡くなった主人のものと思われる遺骨が置かれていた。同じ部屋の隅っこには、10年ほど前に亡くなった奥さんの遺骨も置かれていた。主人は、亡くなるまで自分の女房の遺骨を傍に置いておきたかったのだろうか。それとも、納骨できない何かの事情でもあったのだろうか。

な~んだ、両親が亡くなって、その遺骨を今まで住んでいた住宅に置きっ放(ぱな)しだなんて、と少し怒りに近い感情を抱いた。置きっ放しを、言葉を替えれば、捨て置いていることにならないか。外国暮らしの長男はしょうがないとしても、次男や長女はどうして、この家の近くに住みながら、自分の父母の遺骨を、こんなところに放(ほお)り放しで、平気でいられるんだ。死んでしまったら、子どもたちは恩を忘れて知らんぷりとは、ベンベン、これ如何に!!

この住宅を弊社が購入すれば、それで得た資金は相続人である子供たち3人で分配するのだろう。当たり前のように。そして、父母の遺骨をどこかに納める、これで何もかも、お、し、ま、い。こんなことで、死者は報われるのだろうか。親には感謝しているけれど、俺たち私たちにも自分らの生活があって忙しい、ということか。お彼岸が近いので、このように想念が巡ったのだろう。

死亡した当人が私ならと、この事態を自分にあてがって考えてみた。子供たちに告ぐ、戒名や葬式もいらないが、遺骨ぐらいは気楽に早い目に処分してくれ。海でも山でも、樹木の下でもよし、こそっと私の聖地でもある大学のグラウンドに人知れず粉にして撒いてくれるとなお更嬉しいが、そこまでは望まぬ。それらに要する費用ぐらいは、心配かけなようにしなくてはイカンなあ。

死んで子供に財産を残すのもいいだろうが、何か、もうちょっと違う、世のため人のためになる、財産の残し方使い方はないのだろうか、と考えさせられた。

どんな人生であろうと、死んだら遺骨だけは残る。それで一巻の終わり、か!!

2014年3月14日金曜日

懲りない浦和の差別表現

 

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20140314 日経・スポーツ

8日のJ1の試合で埼玉スタジアアムに掲げられた横断幕

 

世界基準ではこの程度の処分では済まない、ぞ。

サッカーのJリーグ1部(J1)浦和レッズのサポーターが人種差別的な横断幕をスタジアムに掲げた問題で、Jリーグの村井満チェアマンは、13日、浦和に無観客試合1試合の処分を下した。

浦和レッズの社長は、サポーターの合意が得られなかったために横断幕を撤去できなかったと説明し、クラブの差別に対する認識が甘かった、と謝罪した。が、認識が甘かったのではない、差別的行為を放置したこと自体が差別的行為に加担したのだ。今までにも、浦和サポーターは懲りずに再犯を繰り返し、それをクラブは許し続けた。

問題の横断幕は浦和サポーターが集まるゴール裏の観客席に入るゲート付近に掲示された。掲示者は、ゴール裏は聖域で海外からの観光客らには入って欲しくなかったからだと述べている。でも、その横断幕の文言から、外国人が差別的な表現だと受け止めるのは当然だ。

恥ずべきサポーターだ。君たちは何をサポートしているのかい。わいわい、ドンチャカと騒ぐだけがサポーターではないぞ。サッカーを偏愛している?私は、サッカーは文化レベルの高いスポーツだと誇りに感じている。

この「JAPANESE ONLY」の横断幕を目にした人の中で、すばやく、これはまずいと直感した人はいなかったのだろうか。差別だと直感はしたが、それをないがしろ、無視したのだろうか、大抵の人は無関心だったのか、私なら、どう反応しただろうか?

私は高校、大学においては他のことには見向きもしないで、サッカー三昧の生活をした。学生として、その部活のなかで得たものは、当然サッカーのスキルや戦法、戦術を身につけたことは言うまでもないが、スポーツの本質は他人の権利を尊重するということだ。普遍的な人権のことだ。だから、東京・新大久保で繰り広げられているヘイトスピーチや、図書館における「アンネの日記」やその関連本の損壊事件に、敏感に反応する。

このサッカーという競技の魅力は、貧乏人も金持ちも巧拙の区別なく、肌の色が黒かろうが白かろうが、どんな民族間においても、唯、一つのボールさえあれば競えて、又思いもせぬ展開が限りなく生まれ、我々はそのプレーの一つひとつに感動する。プレーに参加しても、観るだけでも感動が得られる。その戦いには、神聖なる精神が秘めているからこそだ。その神聖なる精神とは、他人を尊重する心のことだ。とりわけ、その神聖なる精神が遺憾なく発揮されるフェアープレーは人々を魅了してやまない。

サッカーを愛するサポーターたちよ、あなたたち一人ひとりと、紋切り型の言葉でなく、サッカーの魅力を徹底的に話し合おうよ。このような交流の中からは、アホな差別表現なんか生まれっこない、と私は断言できる。

処分を受けて今月23日の埼玉スタジアムでの清水エスパルス戦が無観客試合になる。