2018年4月5日木曜日
民意が首相を見限る条件とは
2018 4 1の朝日新聞朝刊の総合3 日曜に想う
編集委員・曽我 豪
民意が首相を見限る条件とは
29年前の今日、平成元(1989)年4月1日、政治部に異動して竹下登首相の総理番を命じられた。
首相と大蔵省の悲願だった消費税が始まった日でもあった。だが初日から、首相を追いかけ回す番が探るのはただひとつ、「いつ辞めるか」だった。既に前月半ば内閣支持率は15%に急落していた。
未公開株を巡る贈収賄に司直が切り込んだリクルート事件が政権を激しく揺さぶっていた。前年昭和63(88)年から首相は幾度もリセットを試みた。関係者の証人喚問に応じ、自民党に政治改革の立案を命じ、内閣を改造した。だがふたが出来ない。株譲渡問題で宮沢喜一副総理・蔵相が辞任した12月、支持率は30%の大台を切った。明けて2月の参院福岡補選で自民党は大敗、3月にかけリクルートとnttの前会長、労働、文部両省の元事務次官らが次々と逮捕された。
国会対策の第一人者だった首相と権力派閥竹下派をして野党共闘を突き放せない。新年度予算は4月半ばを過ぎても参院はおろか衆院も通過していなかった。
とどめは首相自身の疑惑だった。リクルート前会長からの5千万円の借り入れ疑惑が発覚、首相は4月25日、退陣を表明した。それでも終わらなかった。翌26日、疑惑の渦中にあった首相の元秘書が自殺した。26、27両日、朝日新聞が実施した世論調査した衝撃の結果だった。
内閣支持率7%、不支持李84%、安保扮装に倒れた岸信介内閣、狂乱物価と金脈問題で退陣した田中角栄内閣のそれぞれ末期の12%を下回る新記録だった。
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不沈と思われた巨艦がきしみ、船底の穴を塞ごうとして、新たな穴が次々開く。平成の始めの年、総理番だった実感だ。だが、自民党の傷は一内閣の退場にとどまらなかった。調査の政党支持率が予言していた。
自民党の支持率は70年代の与野党伯仲時代の後ほぼ一貫して50%台を維持、野党は30%台を低迷していた。それがその調査で自民党は42%に落ち、社会党など野党合算の44%を下回った。
参院選が夏に迫っていた。自民党では清廉(せいれん)の士で知られた伊東正義氏らが後継に浮上していたが、世論はいち早く、政権批判の受け皿として野党を認めていたのだ。事実、自民党は宇野宗祐首相を担いで臨むも参院選で惨敗、衆参は大きくねじれた。それはやがてすぐ訪れる戦後の自民党長期単独政権時代の終わりを強く予感させたが、その後も、橋本龍太郎政権下の98年、第一次安倍晋三政権下の2007年に自民党は参院選に大敗、ねじれに苦しむ時期が断続的に続いた。
支持率が1桁に落ちた政権はもう一つある。01年2月の森喜朗内閣だ。
理由は首相自身の言動だった。「日本は天皇を中心とする神の国だ」といった発言が批判をを浴び、支持率は1月に19%になっていた。さらに米原子力潜水艦事故の際に一報後もゴルフを続けたことが発覚。直後の調査で支持率9%、不支持率79%を記録した。だが内実は竹下内閣時と異なる。
同じく夏に参院選を控え、無党派が50%を超えるようになってはいたが、自民党の支持率は2ポイント減じるも24%で、期待を呼び込めず12%のままだった民主党の倍あった。他方、自民党支持層の内閣支持は47%から21%へ、連立与党公明党に至っては40から13%へと激減していた。
既に与党内でポスト森への期待が醸成され、いち早く首相を見限る空気が支持率に顕在化していたのだ。事実、「森おろし」は水面下で進み、総選挙を4月に前倒しして小泉純一郎首相に交代、参院選をしのいで自公政権は命脈を保った。
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今日の安倍政権は、抱え込む事件の性格も違えば、予算は成立し参院選も1年以上先など政権の危機の様態も違う。だが、支持率1桁の二つの自民党政権の顛末(てんまつ)から引き出せる教訓はあるはずだ。
負の連鎖を首相自身の努力でリセット出来ない限り、政権が国民の信を取り戻すことは望めない。だが同時に、民意が最終的に首相を見限る条件は、受け皿としての野党ないしは自民党のリーダー交代の確かさにあることも教えている。
2018年3月22日木曜日
少雪にくたばった
3月20日、昼ごろからずうっと雨が降っていた。
出勤時には降ってなくて、横浜公園を突っ走る通勤路、それなりに痛快な足取りだった。
昼、我が儘(まま)仕舞繰(しまく)りの手製スパゲッテイを食べて、昼過ぎに会社を出た。
美味いとか、不味いとかの問題ではない。食べないと、腹が持たないだけのことだ。
雨が降っているのでバスで帰った。
自宅に帰っても、雪の降っている状態は変わらなかったが、この程度の雪ならば、いつものヤマオカ農園=イーハトーブ観察に傘を差さなくても平気だ。
自転車で、往き20分還り20分。ちょっとした作業が1時間。
大根を2株抜き取り、ジャガイモ(メークイン)の発芽の確認。大根の根は当然だが、葉っぱに拘った。葉だって、美味いのだ。
メークインは、19日には11株から芽が出ていたが、今日は14株から小さな芽が出ていた。たった1晩だけなのに、このメークインは次代を目指して成長している。
不思議なんだ、こんなちっぽけな現象が、私を嬉しくさせる。生きるっと言うことの意味に拘る。
芽の周りには、頑張って大きくなってくれと願いながら、鶏糞を撒いた。
たかだか、鶏糞を撒くだけのことなのに、何是、これほど私の頭が集中するのだろうか。
空いた時間は果樹の根っこの周りの草を切ったり引き抜いたり、これだって、楽しい仕事なのだ。
大根はまだ38株が残っている。小松菜は1センチほど芽が大きくなってきた。
畑の各所、小さな草も千切り取った。
春雨じゃ!濡れて行こう、、、。
昔の若武者(わかぶしゃ)気分ざ。 濡れたままで帰っても、そのまま風呂に入ればそれでエエではないか?
服装は洗濯機。
だって、明日は休みなんだから、今日は無理をしよう。靴は履かいで草履でいい、靴下も身につけない。草履は庇の下に陰干し。
自宅には大根2株を持って帰った。ただ、それだけだった。
そして、明日、21日は春分の日。

帰宅してテレビを観ながら、明日はプールに行くぞと決意した。
なんぼなんでも、明日になれば今日以上に雪が強くはならないだろう、と楽観した。
孫と三女夫婦は品川にある水族館に出掛けた。長女の娘も参加。
一行4人の勢いは大型爆弾のように迫力満点。
通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日がこの春分の日になる。
菜の花が咲く3月中旬から4月にかけての長雨を「菜種(なたね)梅雨」と言い、春霖(しゅんりん)とも呼ぶ。
私は長年、「昼と夜の長さが等しくなる日」と思っていたが、実際には昼の方が少し長いらしい。
同じことが9月22,23日頃の「秋分の日」についても言える。
朝早くの雪は少なかった。
プールの開場が10時なので、そのうち雪の量は減るだろうと気楽にしていた。水着とタオルを入れたバッグを手元に置いた。
が、が、なかなか雪の降りがおさまるどころか、ちょっとずつ強くなってきた。
負け惜しみに弱い私でも、いつまでもいつまでも行こうと決心できなかった。
それでも、もう少し、もう少し待とうと思い続けた。
そして4時になって、5時になって降り止まなかったので、本日のプールは諦めた。
大学時代のサッカー部時代は、どんなことでも、こんなに容易(たやす)く諦めることはなかった。
クラブの正規の練習が終わったら、大半の部員がグラウンドを去ったが、私は自分の練習をするために、真っ暗になっても、前が見えなくなってもグラウンドにいた。
定例の休みの月曜日は、僕にとって特別の日。
誰もいないグラウンドで、多彩な練習を勝手にした。
一人で、井の頭公園や善福寺公園まで、走ったり、歩いたり、ジャンプをしたり、気ままに時間を過ごすことが嬉しかった。
お前みたいな奴は、幾ら練習したって試合には出れないよ、と言われたけれど、そんなこと馬耳東風、先輩たちの言辞に見向きもしなかった。
俺は俺の道を行く、これしかなかった。
大学時代から今まで、腰痛、ぎっくり腰、ヘルニア痛に何年苛(いじ)められてきただろうか。
何年かの節目を作ってやってくる腰痛にだって、悩みはしたけれど、全ての機会に、私は最善・最郊・最好の療養に努めてきた。
そんなことをここで、どうのこうのと言ってもしょうがないことは分かっている。
これほど頑張ってきた私が、こんなちっちゃな降雪で、頑張れないのが歯痒(はがゆ)いだ。
そんな私なのに、今日のプール行きをこのように簡単に諦めていいものか?
たった少し降った雪なのに、こんなヘッチャラじゃ、如何なあと実感した。
2018年3月20日火曜日
忖度(そんたく)とは
この1年間以上も、国会でよく使われる言葉に「忖度(そんたく)」がある。
今回は、この忖度ざ。
日常的には、何となく分るのだが、この忖度をちょっと真面目に調べなくては、如何(イカン)と思った。
財務省が森友学園との国有地取引に関する決裁文書を改ざんした問題だ。
振り返れば、国会は改ざんされた文書をもとに質疑応答に明け暮れ、長時間何をやっていたんだと思われる。
国会で一番大事なものを棒に振って、ニセモノ文書を盾に自民党・公明党は、権力を守り通し、昨年秋の解散総選挙で与党は大勝した。
「国難突破」だとか、「森友・加計疑惑逃れ」の本音が見え隠れした選挙だった。
今の国会で、本物とニセモノのこと、誰=どこの省が、誰に指示を受けて、何の目的でそのようなニセモノを作ったのか、喧々諤々(けんけんがくがく)やりあっている。
国会では、特に野党のなかでは、改ざん時に財務省理財局長だった佐川宣寿・前国税庁長官がことの真実を一番知っているわけだから、国会への証人喚問を求めている。
財務相さん首相さん、一人の官僚だけに責任をなすり付けて、それで、終わりチャンチャンというわけにはいかないヨ。
此処からが肝腎(かんじん)要(かなめ)の問題だ。麻生太郎財務相、安倍晋三首相、あなたたちは無責任を貫くの。
責任はどうなるの? 「行政全体に対する最終的な責任は私にある」と言いながら、知らんプリなんて、私には理解できない。
公明党幹部は、「国民は一連の森友問題を、安部首相と昭恵さんだとみている」と指摘し、納得できる説明が尽くされない限り、政権の窮状は続くとみる。
本人たちは、自らの責任をどのように感じているのだろうか。
そこでじゃ、この1年とちょっとの間、よくぞ「忖度」という言葉がよく使われてきた。
忖度とは何ぞやと考えた。邪念のない忖度のことだ。
ネットでは下記のようだった。
●「忖度」の漢字それぞれの意味と語源を説明します。
「忖」は「はかる」という意味の漢字。
字源は「心」と「寸=長さを測る」という漢字の組み合わせ。
「心を測る」とい意味になり、他人の気持ちを推測するような意味になります。
「度」は「ものさし、はかる、たび、わたる」という意味の漢字。
字源は「席(むしろ)」と「手で広げる」という漢字の組み合わせ。
席とは藁(わら)などを編んで作った敷物のことです。
その席を広げて長さを測ることを表します。
二つを合わせると、「基準となるもので他人の心をはかる」という意味になります。
心をものさしで測る(調べる)ようなイメージです。
●真宗高田派の正福寺のblogでは下記のように記されていた。
テレビ放映などでは、随分悪い意味として使われているが、本来は相手のことを思いやるやさしさのこもった言葉であり、行脚中の僧侶をもてなすために門前で湯茶を提供する無償の行為を意味します。
20180318の朝日新聞・総合3/日曜に想う、編集委員=福島申二に、忖度を使った記事があったので、下にそれを転載させてもらう。
忖度の親戚筋の言葉には「おもねり」や「へつらい」のほか「太鼓持ち」 「茶坊主」などとあって多彩だ。「事なかれ」や「物言えば唇寒し」も遠縁にあたる。古今東西、権力の周辺ではこうした空気が高じて王様を裸にしてきた。この手の追従が昨今あまりに臭うのは、長期の「一強政権」の弊害に思われる。
今回は、この忖度ざ。
日常的には、何となく分るのだが、この忖度をちょっと真面目に調べなくては、如何(イカン)と思った。
財務省が森友学園との国有地取引に関する決裁文書を改ざんした問題だ。
振り返れば、国会は改ざんされた文書をもとに質疑応答に明け暮れ、長時間何をやっていたんだと思われる。
国会で一番大事なものを棒に振って、ニセモノ文書を盾に自民党・公明党は、権力を守り通し、昨年秋の解散総選挙で与党は大勝した。
「国難突破」だとか、「森友・加計疑惑逃れ」の本音が見え隠れした選挙だった。
今の国会で、本物とニセモノのこと、誰=どこの省が、誰に指示を受けて、何の目的でそのようなニセモノを作ったのか、喧々諤々(けんけんがくがく)やりあっている。
国会では、特に野党のなかでは、改ざん時に財務省理財局長だった佐川宣寿・前国税庁長官がことの真実を一番知っているわけだから、国会への証人喚問を求めている。
財務相さん首相さん、一人の官僚だけに責任をなすり付けて、それで、終わりチャンチャンというわけにはいかないヨ。
此処からが肝腎(かんじん)要(かなめ)の問題だ。麻生太郎財務相、安倍晋三首相、あなたたちは無責任を貫くの。
責任はどうなるの? 「行政全体に対する最終的な責任は私にある」と言いながら、知らんプリなんて、私には理解できない。
公明党幹部は、「国民は一連の森友問題を、安部首相と昭恵さんだとみている」と指摘し、納得できる説明が尽くされない限り、政権の窮状は続くとみる。
本人たちは、自らの責任をどのように感じているのだろうか。
そこでじゃ、この1年とちょっとの間、よくぞ「忖度」という言葉がよく使われてきた。
忖度とは何ぞやと考えた。邪念のない忖度のことだ。
ネットでは下記のようだった。
●「忖度」の漢字それぞれの意味と語源を説明します。
「忖」は「はかる」という意味の漢字。
字源は「心」と「寸=長さを測る」という漢字の組み合わせ。
「心を測る」とい意味になり、他人の気持ちを推測するような意味になります。
「度」は「ものさし、はかる、たび、わたる」という意味の漢字。
字源は「席(むしろ)」と「手で広げる」という漢字の組み合わせ。
席とは藁(わら)などを編んで作った敷物のことです。
その席を広げて長さを測ることを表します。
二つを合わせると、「基準となるもので他人の心をはかる」という意味になります。
心をものさしで測る(調べる)ようなイメージです。
●真宗高田派の正福寺のblogでは下記のように記されていた。
テレビ放映などでは、随分悪い意味として使われているが、本来は相手のことを思いやるやさしさのこもった言葉であり、行脚中の僧侶をもてなすために門前で湯茶を提供する無償の行為を意味します。
20180318の朝日新聞・総合3/日曜に想う、編集委員=福島申二に、忖度を使った記事があったので、下にそれを転載させてもらう。
忖度の親戚筋の言葉には「おもねり」や「へつらい」のほか「太鼓持ち」 「茶坊主」などとあって多彩だ。「事なかれ」や「物言えば唇寒し」も遠縁にあたる。古今東西、権力の周辺ではこうした空気が高じて王様を裸にしてきた。この手の追従が昨今あまりに臭うのは、長期の「一強政権」の弊害に思われる。
2018年3月16日金曜日
綸言(りんげん)汗のごとし
毎朝生家に配られる新聞は、私にとって、それも朝食後のしばらくは、どうにも抜け欠けできぬ大切なものだった。スポーツ面をあらかじめ読み通さないと元気な今日!がスタートしない。
この習性は、小学校の高等部あたりから。
新聞では、知らない漢字や普段着用の言葉以外もよく使われる。が、そんなことで読むのを嫌になることはなかった。
恥ずかしながら、興味が不知を薙ぎ倒した。
兎に角、昨日の野球の成績を、全て確認したかった。
全球団の勝敗を知り、順位の上げ下げと勝率(ゲーム差)が知りたかった。
我が家に配られるのは、朝日新聞と京都新聞。
どちらの新聞も、父の友人が配達屋さんなので、仕方なかった。読んだ新聞は、父が京都新聞、私は朝日新聞だった。
こんな私に、鍬(くわ)づけ?釘(くぎ)づけにした選手が現れた。南海ホエールズに入団して、ゴッツイン野球人になった野村克也のことだ。
我が生家と同じ京都府、竹野郡網野町の出身。
貧しい家に育ち、新聞配達をしながら家計を助けた。小学校卒業と同時に兄の後押しを受けて、峰山高校に進学。そして、南海へテスト生として入団した。
それから、南海での成果は目を瞠るべきもので、私は野村=惚れっぺになってしまった。私もその後、東京の大学を経て、都内で働くことになったが、この野村の頑張りが、私にとっても大きな影響を与えた。
何故、今日此処で新聞の話を仕出したかと言うのには理屈があった。大学受験の浪人時代、英語と生物、世界史と日本史については、よく勉強した。
英語にしても世界史、日本史にしてもやるべきことは、憶えなくてはならないボリウムが決まっていたので、勉強に苦は要らなかった。
理科は生物のみ。
但し、現代国語、古文、漢文については、教科書で学ぶこと以外はやらなくて、やることは新聞に出てくる漢字や何字熟語であろうと、それ以外の言語も全て読めること、書けること、それらの言語を間違いなく知ることだった。
国語については、それが勉強の全てであった。
だから、新聞を大学の入試当日まで真剣に読んだ。
そんな私を、2018,03,15の朝日新聞が、新たな「ことわざ」に巡り合わせた。
それが、この稿のタイトルにした『綸言汗のごとし』だ。
先ずはその意味を知るために、ネットに出ていたものを下に記した。
綸言汗の如し

出典:『礼記』
[意味]
汗が一度出ると再び体内に戻らないように、
天子のことばは口から出ると訂正したり取り消したりすることはできない。
一度口に出したことばは取り消せないという意味でも用いる。
[解説]
「綸言」は、天子のことばのことで、『礼記(らいき)』緇衣(いし)篇に
「王の言(こと)は糸の如くなれば、其(そ)の出(い)づるや綸(りん)(組み糸)の如し」
と見えている。すなわち、王のことばは初めにはひと筋の糸のような軽いものが、
しだいに組みひものような重みをもつようになると語っている。
これが「綸言」の由来であり、
そこから後世「綸言汗の如し」の句ができたのである。
(『成語大辞苑』・主婦と生活社)による

2018 3 15(木)・朝日新聞/総合4
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ともに政権批判
小泉氏「適材適所 あきれた」
山崎氏「麻生氏辞任は当然」
森友学園の国有地取引に関する決裁文章改ざんをめぐり、自民党の山崎拓元副総裁と小泉純一郎元首相が安倍政権批判を繰り広げた。2人は故加藤紘一元幹事長とともに「YKK」として、政界で一世を風靡した仲。国政を退いてなお、「共闘」が実現した格好だ。
口火を切ったのは小泉氏。13日のBSフジの番組で、改ざん問題の渦中にいる財務省の佐川宣寿・前国税庁長官起用について、安倍晋三首相が「適材適所」としていたことに対し、「あきれた」と批判。「私や妻が(国有地売却に)関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」との首相答弁が改ざんの始まりとの認識も示し、安倍首相への厳しい姿勢を見せた。
一方、14日に開かれた自民党石破派の勉強会で講師を務めた山崎氏。記者団に「事態の収拾のため、責任をとって辞めることは当然」と語り、麻生太郎財務相の辞任論を主張した。
さらに「綸言汗のごとし」とも述べ、安倍首相夫人の昭恵氏が関与していた場合は、首相も責任をとるべきだととの認識を示した。
この習性は、小学校の高等部あたりから。
新聞では、知らない漢字や普段着用の言葉以外もよく使われる。が、そんなことで読むのを嫌になることはなかった。
恥ずかしながら、興味が不知を薙ぎ倒した。
兎に角、昨日の野球の成績を、全て確認したかった。
全球団の勝敗を知り、順位の上げ下げと勝率(ゲーム差)が知りたかった。
我が家に配られるのは、朝日新聞と京都新聞。
どちらの新聞も、父の友人が配達屋さんなので、仕方なかった。読んだ新聞は、父が京都新聞、私は朝日新聞だった。
こんな私に、鍬(くわ)づけ?釘(くぎ)づけにした選手が現れた。南海ホエールズに入団して、ゴッツイン野球人になった野村克也のことだ。
我が生家と同じ京都府、竹野郡網野町の出身。
貧しい家に育ち、新聞配達をしながら家計を助けた。小学校卒業と同時に兄の後押しを受けて、峰山高校に進学。そして、南海へテスト生として入団した。
それから、南海での成果は目を瞠るべきもので、私は野村=惚れっぺになってしまった。私もその後、東京の大学を経て、都内で働くことになったが、この野村の頑張りが、私にとっても大きな影響を与えた。
何故、今日此処で新聞の話を仕出したかと言うのには理屈があった。大学受験の浪人時代、英語と生物、世界史と日本史については、よく勉強した。
英語にしても世界史、日本史にしてもやるべきことは、憶えなくてはならないボリウムが決まっていたので、勉強に苦は要らなかった。
理科は生物のみ。
但し、現代国語、古文、漢文については、教科書で学ぶこと以外はやらなくて、やることは新聞に出てくる漢字や何字熟語であろうと、それ以外の言語も全て読めること、書けること、それらの言語を間違いなく知ることだった。
国語については、それが勉強の全てであった。
だから、新聞を大学の入試当日まで真剣に読んだ。
そんな私を、2018,03,15の朝日新聞が、新たな「ことわざ」に巡り合わせた。
それが、この稿のタイトルにした『綸言汗のごとし』だ。
先ずはその意味を知るために、ネットに出ていたものを下に記した。
綸言汗の如し
出典:『礼記』
[意味]
汗が一度出ると再び体内に戻らないように、
天子のことばは口から出ると訂正したり取り消したりすることはできない。
一度口に出したことばは取り消せないという意味でも用いる。
[解説]
「綸言」は、天子のことばのことで、『礼記(らいき)』緇衣(いし)篇に
「王の言(こと)は糸の如くなれば、其(そ)の出(い)づるや綸(りん)(組み糸)の如し」
と見えている。すなわち、王のことばは初めにはひと筋の糸のような軽いものが、
しだいに組みひものような重みをもつようになると語っている。
これが「綸言」の由来であり、
そこから後世「綸言汗の如し」の句ができたのである。
(『成語大辞苑』・主婦と生活社)による
2018 3 15(木)・朝日新聞/総合4
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ともに政権批判
小泉氏「適材適所 あきれた」
山崎氏「麻生氏辞任は当然」
森友学園の国有地取引に関する決裁文章改ざんをめぐり、自民党の山崎拓元副総裁と小泉純一郎元首相が安倍政権批判を繰り広げた。2人は故加藤紘一元幹事長とともに「YKK」として、政界で一世を風靡した仲。国政を退いてなお、「共闘」が実現した格好だ。
口火を切ったのは小泉氏。13日のBSフジの番組で、改ざん問題の渦中にいる財務省の佐川宣寿・前国税庁長官起用について、安倍晋三首相が「適材適所」としていたことに対し、「あきれた」と批判。「私や妻が(国有地売却に)関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」との首相答弁が改ざんの始まりとの認識も示し、安倍首相への厳しい姿勢を見せた。
一方、14日に開かれた自民党石破派の勉強会で講師を務めた山崎氏。記者団に「事態の収拾のため、責任をとって辞めることは当然」と語り、麻生太郎財務相の辞任論を主張した。
さらに「綸言汗のごとし」とも述べ、安倍首相夫人の昭恵氏が関与していた場合は、首相も責任をとるべきだととの認識を示した。
2018年3月6日火曜日
カエルを見た!
自宅から会社までの徒歩中、丁度神奈川県立広陵高等学校の正門前の道路上に、大型のカエルの死骸を見つけた。
会社に着くまでの約1時間、春夏秋冬、目につく物、悲しいことだけではなく楽しいこともいっぱいある。啼(な)けることだって、ある。
今は梅の花の時期だ。
ここにきて、私の心身共の健康が蘇ってきたのだろう。小さな花だけれど、その多さだけで、私の心は嬉しくなって足音が軽くなる。頭だってスッキリ爽やか。心なしか声音も澄明になってきた。
冬眠から覚めて、何処かに散歩にでも出かけたのだろう。
長い激寒での冬眠、頭の隅々までが、人間様の無情を忘れてしまったのだろうか。
死骸になったカエルに、悪意はなかった筈だ。
久しぶりの人の世、散歩の往きか還りの道すがら、容赦ない車にでも曳かれたのだろう。
私だって、このカエルほどじゃないけれど、永い冬眠生活だった。
高い木の枝から落下、後頭部を強く撃って、リハビリを含めてほぼ1年間の入院生活。
体の痛さよりも、脳作用の調整乱発・狂乱に気が狂わんばかりに悩んだ。
そんな私だからか、春めいてくることが、堪らなく嬉しい。
この嬉しさは、足の裏から頭のてっぺんまでまで感じた。血の1滴1滴まで、筋肉の裏表の隅々まで、輝くのだ。
今日のことは、カエルと言えども、哀しい物語だ。
腹が破れ、臓腑が乱れたように体にくっついていた。よく見かけた光景と言えども、命が果てた様子は、どうしても哀しくなってくる。
ウシガエル
そう言えば、啓蟄の頃、よくこのような光景を目にしたものだ。
今回、私が見かけたのは「ウシガエル」だった。アメリカ東部で産まれたカエル。大正時代に日本に輸入された。食用であったため、「食用ガエル」と呼ばれている。
啓蟄をネットで調べた。
啓蟄(けいちつ)は、二十四節気の第3。二月節(旧暦1月後半から2月前半)。「啓」は「 開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。 現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のときで3月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から約76日後で3月8日ごろ。 期間としての意味もあり、 この日から、次の節気の春分前日までである。
今日は3月6日だ。前記の3月8日ではない。カエルだって極めた個性動物で、そう簡単に、人間様が考えたようにはいかないものだ。カエルだって、カエルの考えがある。
「蛙の子は蛙」=(大辞林第三版)
子供はたいてい親に似るものだ。また凡人の子はやはり凡人になる、の意とも。
ところで、私が二日に一度は顔を出す今井町の畑「イーハトーブ」を思い出した。
今年だって、蕗(ふき)の薹(とう)を3度収穫した。
この蕗の薹の天ぷらが格別に旨い。
その蕗が密集して花を咲かせるコーナーに、毎年、蛇(へび)が出る。ニシキヘビだと思われる。
畑と道路との境は急な斜面になっていて、必ず、その斜面を乗り越えてどこかへ行く。
そのどこかを見届けてはいない。
帰ってくるのを見届けた訳ではないので、真実は分からないままだが、毎年、同じ蛇なのかそれも分かってはいないが、見かけることは、私のことだから間違いはない。
どんな動物にも愛着は感じるのだが、万に一つ、蛇だけは苦手なのです。
イモリもヤモリもへっちゃら、ゴキブリだってお友達だ。
啓蟄と聞いて、今年もきっと私の畑に、カエルや蛇の姿がきっと見せるのだろう、と思いをはせた。
今朝見かけたカエルと我が畑・イーハトーブの蛇にとっても大事な季節がやってきたのだろう。
この啓蟄をどれだけ多くの動物たちが、首を長くして待っていたことだろう。
そっと我が胸を見る。
私にもここらで、啓蟄の季節がやって来たのではないか、と。
今日は3月6日だ。前記の3月8日ではない。カエルだって極めた個性動物で、そう簡単に、人間様が考えたようにはいかないものだ。カエルだって、カエルの考えがある。
「蛙の子は蛙」=(大辞林第三版)
子供はたいてい親に似るものだ。また凡人の子はやはり凡人になる、の意とも。
ところで、私が二日に一度は顔を出す今井町の畑「イーハトーブ」を思い出した。
今年だって、蕗(ふき)の薹(とう)を3度収穫した。
この蕗の薹の天ぷらが格別に旨い。
その蕗が密集して花を咲かせるコーナーに、毎年、蛇(へび)が出る。ニシキヘビだと思われる。
畑と道路との境は急な斜面になっていて、必ず、その斜面を乗り越えてどこかへ行く。
そのどこかを見届けてはいない。
帰ってくるのを見届けた訳ではないので、真実は分からないままだが、毎年、同じ蛇なのかそれも分かってはいないが、見かけることは、私のことだから間違いはない。
どんな動物にも愛着は感じるのだが、万に一つ、蛇だけは苦手なのです。
イモリもヤモリもへっちゃら、ゴキブリだってお友達だ。
啓蟄と聞いて、今年もきっと私の畑に、カエルや蛇の姿がきっと見せるのだろう、と思いをはせた。
今朝見かけたカエルと我が畑・イーハトーブの蛇にとっても大事な季節がやってきたのだろう。
この啓蟄をどれだけ多くの動物たちが、首を長くして待っていたことだろう。
そっと我が胸を見る。
私にもここらで、啓蟄の季節がやって来たのではないか、と。
2018年2月24日土曜日
友人との愛別離苦!
2018年(平成30年)、今は2月。
私は昭和23年9月の生まれなので、この夏で70歳になる。余命と言うか余齢と言えばいいのか? 私の人生のこの末?どういうことになるか、果たして後何年生きられるのだろう。
今回は、別れの編になる。
・肝腎の人と言うのは、大学に入ってから知り合いになった人だ。同じ大学の水球部。
この彼が熊本へ帰ると言うものだから、私には一番にやることがあった。
サッカー部の彼奴(あいつ)にも相談しなくちゃ、如何わい。
決して、厭らしくなく、気持ち悪くなく、陰険でもなく、私よりも100倍も1、000倍もアナリストとしては優秀な奴だ。
私が箸にも棒にも引っかからないサッカー部員だったのに、彼は入学・入部したころには全日本代表に選ばれていた。当時日本の水球がどの程度のレベルだったのか定かではないが、それほどトップクラスではなかった。
代表の一員としてヨーロッパ遠征にも行った。我らサッカー同志には、思いも寄らないことだった。
そんな優秀な奴、人柄は柔和で、私にはいい友人の一人だった。
ある日ある時、そんな彼の練習を見ておきたいとプールに行った。
3年生のころ、主将だった彼はプールの上で笛をガンガン鳴らしては、部員に厳しい発破をかけていた。
そして、彼はどんなプレーをするのか、それを鵜の目(め)鷹の目(め)で待っていたが、何もしないうちに練習は終わった。
そんな日が多かったので、お前、何で、お前自身が水に入って練習をしないんだ? と聞き質した。
そんな時、彼の顔は何も変わらず、私の質問を気にしなかった。彼自身の思いがあったのだろう。
今から思い出してみると、どうも、彼自身も腰痛で苦しんでいたようだ。
それから、ほぼ50年は経った。同じ学部だったのに、勉強の話は一刻もしなかった。酒を飲み、下らない話にどれだけ時間を使ったことだろう。鯨飲鯨食、これしかなかった。
彼は熊本の出身で立派な高校を出ている。学業成績だけならば熊本高校を目指したが、彼にはそんなことよりも、水球で身を馳せたかった。
当時、水球を高校でやっているのは少なかった。我が故郷の京都では京都府立鴨沂(おうき)高校ぐらいだった。
学校を卒業した後、八百屋の手伝いや、世間相場の価額ではなく、何らかの理由あっての破格の値段で大量に仕入れては、そういう類の販売店に売り歩く仕事をしていた。私には分かり辛くて様子だけは見ていた。
それからは大学の同期の競泳部が社長をやっているスイミングクラブに入社した。子供たちを対象にしていたので、さぞかし面白いだろうなと思っていたが、彼からはそれほどの反響はなかった。
その仕事を25年ほど行って、ちょっと前から夜中の代替わり運転手をやっていた。
5,6年前から素浪人だった。
ちょっとした事件を彼が犯したときも、私は誰よりも気遣った。そんなことぐらいで、何故そんなにガタガタもめるの、と抗議したかった。落ち着いてきて、皆で鍋会を遣ったときの面白さは、彼には悪いけれど、私には面白かった。
事態を深刻に受け止めた彼の母が、熊本からやってきた。母は、彼のことを東京ルンペンだと言った。彼の人の好さをう~んと表現して、母を気遣った。
そのようにして、彼が上手く行こうが、上手く行かなくても、我々は仲間だった。
そんな彼とは、横浜と熊本で暮らすことになった。愛別離苦ってヤツ。
・この彼と私の間には、もう一人サッカー上手な男がいた。大阪生野区出身だ。
彼は長男として弟や妹たちの面倒をよく観(み)ていた。
彼の生家にも遊びに行って、彼の父にも母にも、これからの学生生活を頑張るように叱咤された。
彼は1年生でレギュラーになった。彼との付き合いは凄まじいものだった。1年の秋、ヤンマーディーゼルとの試合で、ハーフラインから一人ドリブルで駆け込み、絶妙のシュートを決めた。相手チームには、スーパースター釜本さんがいた。
その時、この男は只者じゃない、と思った。
彼はフォワードのトップ、俺はグチャグチャのバック専門男。
それでも、彼を殺さないと、、、、。
殺すと言ったって息の根を止めることではなく、彼の技術を押さえること、いいプレーをさせないことが、私の生きる選手としての唯一の生甲斐だった。だから、私にとっては無茶苦茶、激しい攻防になった。
でも、グラウンドを去った後は、これが不思議なほど仲が良かった。
俺のようなひっちゃかめっちゃかをよくそこまで付き合ってくれたものだと、感謝している。
深夜、彼が私の下宿にやってきて、ヤマオカ、一杯呑みに行くぞと誘ってくれた。
俺、金ないけど、ええか?の質問に、かまへん、俺、いっぱい持っているさかいにだった。
多分、親からの送金があった日の夜のことだったと思われる。こんなことが幾回もあった。私が貧亡の身であることをよく知っていた。
私への仕送は、私名義の金を私が決めるので、そんなに多くを求めなかった。
当然、財布の中はすっからかんが普通だ。皆で酒を飲むときも、私にはお金がないからねと、宴会の始まる前に宣言しておいた。
一番、私が彼のことを気に入ったのは、原理原則を厳守、贔屓目(ひいきめ)ではなく、理想的な意見を述べることだった。
ところがどっこい、教授の機嫌だとか有力な先輩の心を気遣う奴が多いことに気付かなかった。
私は、何もできない木偶(でく)の某(ぼう)だった。この男は、1年間学校を多い目に居たが、卒業後は出身高校の先生になった。
その後は、不思議なことに私と同じ仕事をすることになった。嫁さんのお兄さんに誘われたようだ。
水球部の彼が、熊本へ帰ると言いだした。自分のことは自分で決めればいい。そんなことに口幅ったく、言いたくない。
その彼とサッカー部の二人が、3月の8日に会ってがっつり飲んで一時的なお別れ会をやることになっている。
翌日、羽田空港から熊本へ帰る。大阪のサッカー部の友人もそのまま大阪へ帰る。
もうそれほど飲めなくなったので、今後の熊本での生活がどのようになるのか、そんなことでも話そう。
・話しは変わるが、私が西武鉄道の親会社を辞めてからお世話になった会社の社長さんが昨年、年末に亡くなった。
親の財産を食い物にしたように見えて、私は、30年ほど前、仕事仲間を前に大抗議をした。
嫌なことをしてしまったと悔やんでいる。人に対して絶対遣ってはいけないことを、彼はやってしまった。他の人は多らかに見守っていた。こんなことぐらいなら、会って、謝っておけばよかったのに、と思う。
彼は上智大学で新聞関係の学習をしていた。
反帝学評の闘士で、お会いした時はその勢いがまだまだ廃っていなかった。
私にも、そのかけらが残っていたのだろう、この男なら、どこまでも付き合えると感じた。その類の話をした時の二人は、それはそれは恋人のようだったと思う。
が、時間の経過と共に、何もかもが変わってくる。
彼は、私より1歳上で70歳だったと思う。その後、先月偲ぶ会を開催したが、私には、どうしても出席する気にはなれなかった。
その会の主要な人が、ヤマオカは避けろと指示をしたのかもしれない。
彼は子供のころから、余り好い体ではなかったのかしら。資金的に苦労することもなく不動産業を興し、それなりに成功したのではないかと思っていた。
学生時代に同じ学校の女学生をお嫁さんにして、2人の子どもを成長させた。この奥さんと私は仲が良く、よく話をしてくれた。
それから、何年後かに離婚して会社の社員を第二の奥さんにした。
こういうことを平気でやる男、私の嫌いなところだった。
・もう一人、昭和49年、西武鉄道の親会社の同期入社の人間だ。
今だから許してもらえると思えるから書く。
政治思想、著作物の数々、環境問題、好きな作家について、何故か気が合った。
仕事が違ったので、最近は詰めて時事問題等について話すことは少なくなっていた、これも口惜しい。
新入社員になって、1回目の事業所での見習い仕事は、池袋のスケートセンターで一緒だった。
学生時代に、ヘルメットを被って棒を持っていたかどうかは解らないが、私に話すことは、多少厳しい内容だった。政治思想については極めて同志だったが、父上が、高級公務員だったので、多少は気を遣っていたのかしれない。
彼のような人の入社には、誰か偉い人の紹介があった筈だ。
ならば、人事部に怒られるようなことのないように過ごすことになっている。
結婚する前までは、よくよく激しい話をして盛り上がった。でも、職場が違ったので、どこまでもどこまでも、くっ付いて話せなかったのが悔やまれる。
山へも行った。秩父連山のことをよく憶えている。僕は付き合い中の彼女と一緒だった。
その彼が、昨年11月、駅から自宅までのタクシーでの帰途、体の異変が急だった。運転手さえ気づいていなかった。
その内容は聞いてないので、真実は解っていない。
だが、2月の28日に彼女が彼の墓参りをすることになっていた。その時に、私も同行することになった。宇都宮駅の新幹線の出入り口に13:00集合。墓は、宇都宮からタクシーで行く。森の宮公園墓地だそうだ。
最初電話した時、私の友人たちから、奥さんは旦那の急変死に頭を苛められているので、お前が電話しようが、気をつけて話さないとアカンよ。
その通りに話しかけたが、彼女の応対は親切で、むしろ横浜のヤマオカに会うのが楽しみなんです、と言ってくれた。
急死されたときの状態は大変だったろう。俺の友人たちがどの程度の配慮を示したか解らないが、気が利いていなかったこともある。
奥さんは余りの急変に随分、気が滅入られたのだろう。
が、彼から私のことはよく聞かされていたので、あなたには会ってはいないが、以前からずうっと知っているような気がします、と言ってくれた。
こんなことになる前に、奥さんに会いたかった。私の女房も交えて、さぞかし楽しい散会が持てたのに。
言葉使いや、声音は全く澄んだものだった。美しく聞こえた。
彼が我が社の仕事をしてくれたことに感謝、感謝して、体の気遣いができなかったことのお詫び。
このように私の周りから遠ざかる人、あの世に出掛けた人。こようにして、みんな居なくなるのかな。郷里での後輩が3年前に逝っていた、これも口惜しくてしょうがないことだ。枡のことだ。
冬の最中にかかわらず、私の大事な畑に昨年11月、京野菜のミズナを植えた。寒気にぶるったのか、芽の出来ばえは弱弱しく、小さな芽はいつまでも大きくならない。
このミズナは全く俺みたいじゃないか、と笑ってしまった。
のんびり育つのを待って、のんびり食べさせてもらおう。
2018年2月18日日曜日
腰痛の歴史が私の一生!
2018年2月、69歳の此の私が、気が狂ったように?
こんな恐ろしい題名「腰痛の歴史が私の一生!」で、このブログに書く気になったのだろう、か?
今から45年前のことから、それからの45年間に起こったあれこれを、何故かこの頃よく思い出す。
大学時代23歳、社会人になってから8年目32歳、52歳、69歳は今の今状態。
良くない歴史は繰り返される、と昔からよく言われたけれど。
情けない話の連鎖劇か!
頭の芯が狂ったようにギクシャクしたり、腰の筋肉が突然、訳の解らない鼓動を起こすのだ。静かに深く。その節、同じような状態で。
意識もしないのに、このような心身の症状が何故発生するのだろうか。悪神か鬼神に乗り移られたのだろうか。太宰治ではないが、デーモン!!野郎、と叫びたくなる。
2浪で大学に入った。入った学校は都の西北にある名門校だ。
他の大学、法・明・中にも合格通知はもらっていたが、入学の目的は日本一のサッカーをする大学と最初から決めていたので、他の学校には申し訳なく思う。
どうせやるなら、清い空気や澄んだ水と過ごしたい。ややこしい風味? 苦みや辛味、糞味、そんな感覚はもう味わいたくない。
さすが、入学した学校には日本全国から優秀な者が、大きな夢を持ってやってきた。
出身地は、九州から北海道まで彼方(あっち)此方(こっち)だ。
唯の貧弱な心身能力だった私のような者が、平気でノコノコと入部して来なかった。
私だけが、何だか非人間っぽく、部の誰からも変節な奴だと思われたことだろう。彼奴(あいつ)は阿呆かいナ~と思われたのかもしれない。
練習だって、止まったボールを蹴ることはできても、それ以外のボールを何とも処理できない木偶(でく)の坊だった。
走ることだって、2年間のドカタ稼業を兼ねての受験浪人だったことが、酷いことにこのことが尚更激しく運動神経を疎(うと)くさせてしまった。
4年間の授業料と入学金その他の費用を稼げることはできたが、運動選手としては、どんどん悪くなっていた。
悪貨は良貨を駆逐する、なんて結語を思い出した。
案の定、そんな私が、皆との練習ではどうしても傷物(きずもの)になり、チームワークを調和・調整なんてできるどころか、迷惑の掛けっ放しになってしまった。
獣のような妖気でもあれば、皆から面白がってくれたかもしれない。
そんな状態でも何とかしなければ、入学入部したことなんて、何にもならない。臭い話だが、屁にもならない。
私の脳は、逃げ場のない、ガチガチの沼の底の底の泥状態。
そうなったら、私のやるべきことは何ざ?
やることは、やる、これしかない。
練習を人並以上に、徹底的に多くやることしかなかった。
一緒にやる練習では、無理矢理に自体を擲(なげう)って、恥かしげながらも強引に技を発揮することだった。
この自体を擲ってやると言われても、そんなに離れ業をこなせる訳ではなく、コナレタ小技を披露できるわけでもなく、無暗に一所懸命やるしかなかった。
言葉は悪いが、小腕、ヤケクソ状態。
入学した学校は、JR山手線の高田馬場駅から徒歩30分。直通バスもあった。
住所は、東京都新宿区にあった。優秀な人材を政・経・文・財・教に輩出した立派な学校だ。私には、とりわけスポーツ分野での傑出が目を見張る。
勉強については、情けなくなるほど夢も希望もなかったけれど、でも、ちょっとは人並みには頑張ろうとは思っていた。
が、入学して勉強しだしたのは3ヶ月ばかり。学校は学生運動の真っ盛り。
校地はバリケードに囲まれ、当たり前のように授業はできず、しばらくはちょこっと学校には行くがふらふらしているばかりだった。
お陰で、サッカーの練習には充実できた。
充実できたからと言って、私の実力は見るも無残な状態だったので、他人のことは兎も角、自分のこと、基本的な技術の鍛錬だけはしっかりできた。
しっかりできた、と表現しても、技術の品度が上がったということではない。
一人でできることに、精一杯、嬉しかった。
何しろ決めた場所にどんな蹴り方でも的確に蹴ること。相手には右、左、高く、早く、、、走る方向に蹴り分けることだ。
与えられたボールを如何に無駄なく処理すること。
高く飛んでくるボールを直接蹴るボレーキック。高くに吊らされたボールに対するヘッデイング、何度も何度も繰り返した。
これらは独りで、基本技術に没頭した話で、これではゲームの1プレーヤーとしては箸にも棒にもならん、情けないことだ。
対陣を交えての試合では、相手が目の前にいつでも飛び出してくる、相手を前に自陣の選手に如何に効率のいいボールを供給できるか、これが大問題だ。
自陣にこの効率の良いボールを出すことが難しかった。
自陣の都合、対陣の都合を考えての配給だ。
高校は、京都府と言っても宇治市のはずれの城南高校。
2年間の受験浪人を経て大学進学を目指したが、私にとって、恥かしながら、大学進学の目標や狙いが皆よりも気魄だった。
専門で学びたいものがなく、さりとて、立派な学業成績を収めて、立派な会社に入社することなんて露ほども考えたことがない。
当然、特に学びたい学問もなく、立派な学校に入りたいなぞ、考えたこともない。
どんな職場に就職しようが、一所懸命に働けば何とかなる、と思っていた。
生家が貧しい農家だったからなのか、他人の頭を下げさせる程の立身出世の気概など持ち合わせていなかった。
私は当然だけれども、私以外の人たちがちょっとでも豊かな生活が営めるようになれたら、それこそが、わたしの念願の喜びだった。
その程度の感覚だったので、いい加減な学生だった。
この大学での練習で、腰から足、肩にかけて大いに筋肉痛にどっぷり嵌まってしまった。それに、無理して無理しての練習は、サッカーの能力が無機能に果てていた、何とか一人前になろうと必死だった。
そんな日が、積み重なっていくと、気が付かないうちに、私の体はガタガタになってしまった。
下手は下手でも、他人に負けないほどには、到底無理だった。
だからやれることは二つしかなかった。
一つは、部の恒例の休みになっている月曜日に、何処までも何処までも走り込むことだった。寮を出て、井の頭公園や善福寺公園まで走る。
公園の中の樹木等の枝や幹を眺め、自分の将来は果たしてどういうことになるのやら?
豊かになれるのか、みじめったらしく終わってしまうのか。
ハット、悲しさに奮えることだってあった。
歩道を走ることだって、電信柱らと電信柱の間を、早く走ったり、ゆっくり走ったり。石垣にぼや~んと座ったり、やることはいっぱいあった。
公園の湖の水をじっと見つめていると、何か訳もなく、楽しい人生がやってくるのではないか、と思えてきて、顏が微笑んでくる。
この魚だって、何かを考えている筈だ。
こんな私だけの特別な休日もあるのだ。
若い男女がボートで楽しんでいる。嬉しそうに時間を過ごしている彼らを見ているだけで、私だって嬉しくなった。
もう一つは、皆とは上手く練習できなくても、その日その日を大切に頑張ることだった。
ヤマオカ、お前なんて幾ら練習したって、試合になんか出られないよ。
無理だよ。
こんなことを、誰から? どいつが言ったから知らないが、私の耳には届いた。
そんな暴言に糞垂(くたば)る私ではなかった。やるだけやるだけ、さ!
走ることだって、どれほど非力、劣悪だったか、自分ながら情けなかった。
だから、やることはやる。
大学の練習を終えた後、自分で自分だけの練習を企てて、一所懸命にやり遂げた。
走ること、キック板へのキックの練習、高く垂れ下がったボールに対してヘッデイング、ボレーキック。友人とのパス、ドリブル。
そんなことをやっていると、係属高校のサッカー部の練習が始まって、私もその部の一員として全ての練習をこなす。
幸い、年上だと言うこともあるが、皆に迷惑をかけなくて済むことで、我が方は気が楽だ。
これだって2時間はやった。この高校から我が大学のサッカー部に入る者もいた。
その中に、私の友人が何人もできた。
それから、グラウンドの側の部室の一部に作られた風呂で、ゆったりと入浴する。
私が入るころには、誰もいない。みんな入って、何処かへ行ってしまった。
この入浴ほど気分のいいものは無い。目をつぶり裏憶えの歌を歌ったり、じっくり居眠りもした。
田舎のことを考えて、自然に涙が流れてくることもある。
時には私が入る前に入浴している後輩が居て、テレビでお馴染みの大岡越前のテーマソングを歌いながら、涙を零している奴も居た。
彼は何を考え何を思っていたのか、そのことについて話したことはない。
郷里を出かける時に母から言われた助言?
生まれてから、母は私に一度もお節介めいた躾(しつけ)を言ったこともないのに、タモツ、お前のお兄ちゃんは家のことで良く頑張っているのだから、どんな大学に入ろうがどんな会社に入ろうが、警察や税務署のお世話になることだけは、絶対やめてくれよ。
母の躾のせいで、我が部の優勝の夜の西武鉄道・東伏見駅でのトラブルや、1970年の安保闘争においての新宿駅闘争、早稲田大学の授業料下げ交渉・会館の使用及び維持管理闘争においても、警察官にお世話になることはなかった。
タモツに言えるのは、唯、それだけや。
父からは、何の助言もなかった。
こんなことも思い出した。
繰り返す、この大学のサッカーにおいて体はやられてしまった。その後の、腰痛問題の種はここで生まれたようだ。無理して無理してこそ、何とか生きられたのだ。
最後に一筆。
こんな私だけれど、4年生になって3試合に1度は試合に出してもらった。
全日本大学サッカー選手権の優勝決定戦に出してもらったのが嬉しかった。私は神風だよ、神風の御蔭だと喚き散らしていた。その神風が、サンケイスポーツの記事に使われた。
関東大学サッカー選手権でも優勝した。2冠を制覇したことになる。
学校を卒業して入った会社は、西武鉄道の親会社。
入社して7年後に、アイスホッケー部に所属している者と私等2~3人以外は、不動産を扱う会社に転属した。持前の不動産を早く売り切らなくてはならないと判断したようだ。
私は、人事部の思惑は何だったのだろうか?原宿駅前の本社宣伝部に移った。
このことについては、同期の誰もが不思議がった。
宣伝のことに興味を持っている奴ならば嬉しく思うことだろうが、吾輩にとっては、こんな苦しいことはなかった。
ホテルやレジャー施設について、難しいこと以外についても、当たり前のように何も知らなかった。
そんな私が、施設や行事、レストランのことについて、誰もが知っているようなことを知らなかったので、各支部、各施設とのやり繰りは、物の見事に電話とファックスで激しく遣りあった。
観光名所や都内にある数々のホテル、ゴルフ場、スキー場、レジャー施設。
ちなみに施設といえば、高輪新・高輪、品川、麻布、横浜、日光のプリンスホテル。中里、三俣、苗場、かぐらのスキー場。
私が京都府出身だから、関連会社の近江観光・近江鉄道のレジャー施設。
それぞれの施設の看板支配人との楽しい会話や飲食については、楽しかった。
今でも忘れられない。
そして30歳の時、椅子に座っての原稿書きのときに、腰の一部に遠い遠い部分からやって来た小さな痛みが、あれよあれよと言っているうちに、ガア~ンガア~ンと雷のような光を発して暴れ出し、私は椅子に座っていることさえできなかった。
上司に状態を話せることもできなかった。
見るに見かねた先輩が、手配してくれた病院に担ぎ込まれた。提携病院だ。
歩くことは当然できなくて、タクシーに乗ることだって精一杯の状態。
その日、上司に診断の内容を話すことさえできなかった。
これが入社して8年目、2回目の腰痛だった。激痛からは暫らくで逃れられたけれど、微痛は付き纏った。
忘れようとしても、いつも痛みを背負っていた。この腰痛って奴はそう簡単に身を引いてくれない。
多分、この腰痛も退社する理由の一つだったと思う。
そして、入社ほぼ10年でこの会社を退社した。
朝、目覚めた時に決心した。ほんの1分間ぐらいの間に。34歳だった。
不思議なんだ、こんなにこの会社のことを一生懸命愛したのに、退社願いを出した瞬間に、愛社精神の一片もなくなるなんて、生まれて初めての経験だった。
52歳。
大学を出てほぼ10年勤めた会社を34歳で退社した。
随分お世話になったこと、知らないことを良くもこれだけ多く教えた呉れたと感謝している。
この会社を辞めるとき、これからの会社の予定があったわけではない。ここらで、暫らく休むことにしよう、これが私の本音だ。
自由になる時間が、急にふくれて、夕方になると誰かと飲みたくなり、ふらふらとあっち行ってグイこっち行ってグイの日々を愉しんでいた。
そんなある日のスナック、昔お世話になったwさんに巡り合って、私の今の状態を話して、その続きに、ところでヤマオカさん、これからどこの会社に入るの言われ、どことも何とも話していないことを話すと、それなら、俺の会社へおいでよと言われ、その翌日には彼の会社の玄関をくぐった。
wさんのことは前からの好みの人だったし、彼自身一所懸命仕事に精を出していた。そんな彼との一瞬の隙間に就職活動は終わった。
それからの仕事は、いいこと悪いこと、簡単に言えば、まあ~まあ~だった。
そして、どうしたのか会社の都合からなのか、ヤマオカさん、この会社を君がやりたければ君が責任者としてやればいいんだが?と相談があった。
wさんの頭の中がよく解らないまま、それはそれで結構ですよと言って、子会社は私の会社になった。役員の変更や出資金のことは短い期間で処理した。
それから暫らくして、親会社は倒産した。
この時、wさん、なんぜ、そんなに気楽に会社を諦めるの、と私の発言は遠慮なしだった。
それからは、よくやれたこともあるし、多少失敗ごともあった。でも、私には友人が多くいてくれたので、何となく頑張れた。
そんな日、毎日私が物件を車で見に行っていたので、足腰がまたまた狂いだした。車の運転も腰には悪かった。
ちょっとちょっとの痛みが、日に日に激しくなってきた。
今は、俺、社長さん。
痛みに真剣に向かわざるを得なかった。
今度は簡単に処理するわけにはいかず、近所の横浜国際病院に入院した。
この病院の施療には原則があって、腰痛には手術はしない、治すのは腰痛施療用の体操を徹底的にやること、これしかなかった。
気安く考えたわけではないが、なかなか治ることはできず、我慢しきれず10日ぐらいで退院した。
この退院した理由については、他人さまには話せないこともあるのだが、今回は書かないで許してもらおう。
痛い、痛いの生活は6か月は過ぎた。
痛みは完全に治したわけではないが、何とか日常を過ごせるようになって、これ以上を諦めた。
この頃、今弊社の経営責任者をやってくれているnさんが入社した。私はnさんの兄貴と仲が良かったので、兄がnを紹介してくれた。
65歳。
高い樹木の枝を払う仕事を自ら遣り始め、或る日、5,6メートルの高さから落下して頭の後頭部を強く打った。
4日ほど気を失ってしまった。気絶だ。
現場の中で大工さんが一人作業していて、その大工さんが私の状態に気づき、警察と救急車に電話してその両者が検分した。
警察の人は、この件については我々の出番はないと言って、帰って行った。
救急車は、脳を強く打っているので精神系のある病院を勝手に調べて、新百合ヶ丘にある立派な病院に私を運び込んだ。
それから、気づくまでは、何がなにやらさっぱり分からなかった。
家族や会社のnさんも病院の私を見回ってくれた。ある程度、怪我の内容を知ったことだろう。
その後遺症は凄まじいものがあって、一番最初にお世話になった病院に入院3ヶ月、リハビリ用の病院に入院したのが3ヶ月。
退院後の生活の最初のうちは、厳しかった。
混雑している通路を人さまにぶつからないように歩くこと、誰もいない階段の上り下りが不安だった。
バランスが悪くなって頭がくらくらするのだ。頭が回った。眩暈(めまい)に苦しんだ。
手摺がある階段ならば何とか我慢できたが、手摺の無い階段を利用するときは恐怖だった。
もっと怖かったのが、一人での夜の歩行だった。
前の電信柱の影に人影のようなものが見えて、と言うか思えてそれの実態が見えるまでの数分間怖かった。前から歩いてくる人間だって、何か奇妙な物像に思えて、近くになるまで心臓がバクバクするほど強震した。
夜中だけではなく、昼間だって、50メートル前の看板の模様が、変に見えたり、妖怪がうなっているようにも見えた。
方向感覚が悪くなったのが会社に出社してから、支障が有り過ぎた。
JRから私鉄に乗り換えるだけのことでも、行き先の方向が、これでいいのか?悪いのか?それだって、解らなかった。
街が、世の中の何もかもが怖かった。
今でも、一番最初にお世話になった病院に3ヶ月毎に定期検査を受けている。
私は担当医に、もう治ったように思えると言っても、妻や子供たちはとんでもない、可笑しなことを言ったり、したり、心配なんですと言う。
なかなか良くならないが、私自身は頭の中は変わらないと思っている。
事実、暗記力や企画力、想像力の継続のなさが目だってきた。
頭の中には色んな脳があって、それらが調整し合ったり、反響・交換し合ったりして、まとまった能力が発生するらしい。
それらのことが、可笑しいままなのだ。
そんな日々の中での日常活動、先ずは歩行さえぎこちないものになって、足腰、手足、肩に痛みが現れた。この痛みも激しいものだった。
最初はそれほど大したものだとは思えなかったが、日が経つにつれて重々しくなった。
そしてその痛みが激しくなって、激痛になった。
リハビリが必要だった。
糞!! このリハビリ中での激痛。人にもよるが、6ヶ月から10ヶ月の治療が必要になることは、知っていた。
元々、私には腰痛の恐怖症があって、人並み以上には治らないことを直感で分かっていた。
事故後11ヶ月後、やっと直ったようだが。
それが本当に治っているのか?
私には解らない。
そして去年(2018)の3月の頃、腰や太腿に痛みが出てきた。
これから桜が咲いて、公園の散歩などを楽しみにしていたのに、嫌な気がしてならなかった。
何も考えずに整形外科院に行った。
ヤマオカさん、これは立派な腰痛ですよ、私のところに100回来てくれたら治りますよ、医者の診断だった。
100回と言わず、私は200回程通う心算でいた。
こういう場合は多い目に採算しておけば、後悔も少ないだろう。
6月には痛みが烈しくなってお医者さんに相談すると、今度はヘルニアが発生していますねだった。
これや~、増々長期治療だ、と覚悟した。
会社では、私の足腰については良く理解してくれて、我儘な治療を許してくれた。
そんな、悲しくも辛い日々が続いた。
が、11月になって、何故か腰の痛みが不思議な程弱まり、会社には、どうも治ったようですと報告した。通算135回目の通院が終えたころだ。
徐々に病院行きは少なくなり、見た目は治ったように、皆は見ていたことだろう。
でも、そんなことを書きながら、今でも腰痛は完治していない。日常の何てことのない作業でうろちょろすることだって、怖くて怖くてしょうがない。
腰痛に頭のフラフラ状態で、どれだけ頑張れるか? それが、今の私の状態。
でも、我慢強い私のこと、何とか免れる方法を身につけている。
大学を卒業して2,3年経って、正式に配属になった事業所で、その事業所の支配人に、ヤマオカ、お前なあ、スイミングクラブの先生をやってくれ、と言われた。
この水泳が、一番の腰痛の療法になる、と後々知った。
お前の嫁ハンに大事なところをやってもらって、そのうちにお前も水泳を覚えてくれ。
俺の早稲田時代の後輩も辻堂と横浜にいるから、そんな奴らにも声を掛けるから、頼むわ、だった。
支配人の早稲田の水泳部の先輩・役員に飛び込み専門の人がいて、支配人に指示がでたのだ。
この飛び込みの先輩が、社長との会話でスイミングクラブを発足したいと、言ったようだ。
それからの私の従業員としての仕事っぷりは、がらんと変わった。
真夏はプールの仕事で忙しかったが、冬となれば、朝から夕方まで泳ぎ続けた。
1日最低5000メートル。
支配人の指示だから、先輩に明治の柔道部出身とか早稲田の空手部出身がいたが、誰にも誰からも文句を言われなかった。
3ヶ月もすれば1日1万メートル、もうすっかり、立派な水泳部になった。
だから、それから、運動不足で体が鈍(なま)ってくると、自然にプールに向かうようになった。
私のような人間にも、気前良くすごせる公設のプールがあっちこっちにできた。入場料が安く、余計なルールが少ない。
最近では、1日1、000メートルをクロールで泳ぐ。実質35分で充分。
平泳ぎが苦手で、バタフライは難しい。
ひたすらクロールだけにこだわっている。
クロールを1、000メートル泳ぐと、それなりに充実感が味わえる。
週に2,3日で月に15,000メートルが目標になっている。
腰痛が烈しい時は兎も角、当然病院に入っているとき、痛み止めの薬を痛飲っしているとき以外は、昔からの癖で、良く歩いた。歩いていると体がほぐれてくる、そんな感覚を身につけていた。
この15年だって、歩いて1時間で通える会社まで、特別なこと以外、歩いて通った。5キロほどあると思うのだが、歩く喜びを覚えてしまった。大きい公園の中、二つの高校の前と後ろ。こんなところでさえ、嬉しく感じるのは、山村育ちのせいかな。
もっと前には、実家から宇治の高校までの通学だって、通学バスならば1時間ぐらいかかるのですが、私は自転車で通学した。宇治川の川筋に沿った道を、下り坂では、バスを追い越した。夏休みを終えて2学期が始まった頃、サッカー部に入ったので、次兄が使っていたホンダ・カブをもらった。帰宅が8時頃になるので、都合が良かった。
これからサッカー狂熱にやられてっしまった。幸せな次代の第一歩だ。

天ヶ瀬ダム
こんなことをして、ずうっと、ずうっと腰痛に耐えている。俺の人生は腰痛との戦いのようだった。
こんな恐ろしい題名「腰痛の歴史が私の一生!」で、このブログに書く気になったのだろう、か?
今から45年前のことから、それからの45年間に起こったあれこれを、何故かこの頃よく思い出す。
大学時代23歳、社会人になってから8年目32歳、52歳、69歳は今の今状態。
良くない歴史は繰り返される、と昔からよく言われたけれど。
情けない話の連鎖劇か!
頭の芯が狂ったようにギクシャクしたり、腰の筋肉が突然、訳の解らない鼓動を起こすのだ。静かに深く。その節、同じような状態で。
意識もしないのに、このような心身の症状が何故発生するのだろうか。悪神か鬼神に乗り移られたのだろうか。太宰治ではないが、デーモン!!野郎、と叫びたくなる。
2浪で大学に入った。入った学校は都の西北にある名門校だ。
他の大学、法・明・中にも合格通知はもらっていたが、入学の目的は日本一のサッカーをする大学と最初から決めていたので、他の学校には申し訳なく思う。
どうせやるなら、清い空気や澄んだ水と過ごしたい。ややこしい風味? 苦みや辛味、糞味、そんな感覚はもう味わいたくない。
さすが、入学した学校には日本全国から優秀な者が、大きな夢を持ってやってきた。
出身地は、九州から北海道まで彼方(あっち)此方(こっち)だ。
唯の貧弱な心身能力だった私のような者が、平気でノコノコと入部して来なかった。
私だけが、何だか非人間っぽく、部の誰からも変節な奴だと思われたことだろう。彼奴(あいつ)は阿呆かいナ~と思われたのかもしれない。
練習だって、止まったボールを蹴ることはできても、それ以外のボールを何とも処理できない木偶(でく)の坊だった。
走ることだって、2年間のドカタ稼業を兼ねての受験浪人だったことが、酷いことにこのことが尚更激しく運動神経を疎(うと)くさせてしまった。
4年間の授業料と入学金その他の費用を稼げることはできたが、運動選手としては、どんどん悪くなっていた。
悪貨は良貨を駆逐する、なんて結語を思い出した。
案の定、そんな私が、皆との練習ではどうしても傷物(きずもの)になり、チームワークを調和・調整なんてできるどころか、迷惑の掛けっ放しになってしまった。
獣のような妖気でもあれば、皆から面白がってくれたかもしれない。
そんな状態でも何とかしなければ、入学入部したことなんて、何にもならない。臭い話だが、屁にもならない。
私の脳は、逃げ場のない、ガチガチの沼の底の底の泥状態。
そうなったら、私のやるべきことは何ざ?
やることは、やる、これしかない。
練習を人並以上に、徹底的に多くやることしかなかった。
一緒にやる練習では、無理矢理に自体を擲(なげう)って、恥かしげながらも強引に技を発揮することだった。
この自体を擲ってやると言われても、そんなに離れ業をこなせる訳ではなく、コナレタ小技を披露できるわけでもなく、無暗に一所懸命やるしかなかった。
言葉は悪いが、小腕、ヤケクソ状態。
入学した学校は、JR山手線の高田馬場駅から徒歩30分。直通バスもあった。
住所は、東京都新宿区にあった。優秀な人材を政・経・文・財・教に輩出した立派な学校だ。私には、とりわけスポーツ分野での傑出が目を見張る。
勉強については、情けなくなるほど夢も希望もなかったけれど、でも、ちょっとは人並みには頑張ろうとは思っていた。
が、入学して勉強しだしたのは3ヶ月ばかり。学校は学生運動の真っ盛り。
校地はバリケードに囲まれ、当たり前のように授業はできず、しばらくはちょこっと学校には行くがふらふらしているばかりだった。
お陰で、サッカーの練習には充実できた。
充実できたからと言って、私の実力は見るも無残な状態だったので、他人のことは兎も角、自分のこと、基本的な技術の鍛錬だけはしっかりできた。
しっかりできた、と表現しても、技術の品度が上がったということではない。
一人でできることに、精一杯、嬉しかった。
何しろ決めた場所にどんな蹴り方でも的確に蹴ること。相手には右、左、高く、早く、、、走る方向に蹴り分けることだ。
与えられたボールを如何に無駄なく処理すること。
高く飛んでくるボールを直接蹴るボレーキック。高くに吊らされたボールに対するヘッデイング、何度も何度も繰り返した。
これらは独りで、基本技術に没頭した話で、これではゲームの1プレーヤーとしては箸にも棒にもならん、情けないことだ。
対陣を交えての試合では、相手が目の前にいつでも飛び出してくる、相手を前に自陣の選手に如何に効率のいいボールを供給できるか、これが大問題だ。
自陣にこの効率の良いボールを出すことが難しかった。
自陣の都合、対陣の都合を考えての配給だ。
高校は、京都府と言っても宇治市のはずれの城南高校。
2年間の受験浪人を経て大学進学を目指したが、私にとって、恥かしながら、大学進学の目標や狙いが皆よりも気魄だった。
専門で学びたいものがなく、さりとて、立派な学業成績を収めて、立派な会社に入社することなんて露ほども考えたことがない。
当然、特に学びたい学問もなく、立派な学校に入りたいなぞ、考えたこともない。
どんな職場に就職しようが、一所懸命に働けば何とかなる、と思っていた。
生家が貧しい農家だったからなのか、他人の頭を下げさせる程の立身出世の気概など持ち合わせていなかった。
私は当然だけれども、私以外の人たちがちょっとでも豊かな生活が営めるようになれたら、それこそが、わたしの念願の喜びだった。
その程度の感覚だったので、いい加減な学生だった。
この大学での練習で、腰から足、肩にかけて大いに筋肉痛にどっぷり嵌まってしまった。それに、無理して無理しての練習は、サッカーの能力が無機能に果てていた、何とか一人前になろうと必死だった。
そんな日が、積み重なっていくと、気が付かないうちに、私の体はガタガタになってしまった。
下手は下手でも、他人に負けないほどには、到底無理だった。
だからやれることは二つしかなかった。
一つは、部の恒例の休みになっている月曜日に、何処までも何処までも走り込むことだった。寮を出て、井の頭公園や善福寺公園まで走る。
公園の中の樹木等の枝や幹を眺め、自分の将来は果たしてどういうことになるのやら?
豊かになれるのか、みじめったらしく終わってしまうのか。
ハット、悲しさに奮えることだってあった。
歩道を走ることだって、電信柱らと電信柱の間を、早く走ったり、ゆっくり走ったり。石垣にぼや~んと座ったり、やることはいっぱいあった。
公園の湖の水をじっと見つめていると、何か訳もなく、楽しい人生がやってくるのではないか、と思えてきて、顏が微笑んでくる。
この魚だって、何かを考えている筈だ。
こんな私だけの特別な休日もあるのだ。
若い男女がボートで楽しんでいる。嬉しそうに時間を過ごしている彼らを見ているだけで、私だって嬉しくなった。
もう一つは、皆とは上手く練習できなくても、その日その日を大切に頑張ることだった。
ヤマオカ、お前なんて幾ら練習したって、試合になんか出られないよ。
無理だよ。
こんなことを、誰から? どいつが言ったから知らないが、私の耳には届いた。
そんな暴言に糞垂(くたば)る私ではなかった。やるだけやるだけ、さ!
走ることだって、どれほど非力、劣悪だったか、自分ながら情けなかった。
だから、やることはやる。
大学の練習を終えた後、自分で自分だけの練習を企てて、一所懸命にやり遂げた。
走ること、キック板へのキックの練習、高く垂れ下がったボールに対してヘッデイング、ボレーキック。友人とのパス、ドリブル。
そんなことをやっていると、係属高校のサッカー部の練習が始まって、私もその部の一員として全ての練習をこなす。
幸い、年上だと言うこともあるが、皆に迷惑をかけなくて済むことで、我が方は気が楽だ。
これだって2時間はやった。この高校から我が大学のサッカー部に入る者もいた。
その中に、私の友人が何人もできた。
それから、グラウンドの側の部室の一部に作られた風呂で、ゆったりと入浴する。
私が入るころには、誰もいない。みんな入って、何処かへ行ってしまった。
この入浴ほど気分のいいものは無い。目をつぶり裏憶えの歌を歌ったり、じっくり居眠りもした。
田舎のことを考えて、自然に涙が流れてくることもある。
時には私が入る前に入浴している後輩が居て、テレビでお馴染みの大岡越前のテーマソングを歌いながら、涙を零している奴も居た。
彼は何を考え何を思っていたのか、そのことについて話したことはない。
郷里を出かける時に母から言われた助言?
生まれてから、母は私に一度もお節介めいた躾(しつけ)を言ったこともないのに、タモツ、お前のお兄ちゃんは家のことで良く頑張っているのだから、どんな大学に入ろうがどんな会社に入ろうが、警察や税務署のお世話になることだけは、絶対やめてくれよ。
母の躾のせいで、我が部の優勝の夜の西武鉄道・東伏見駅でのトラブルや、1970年の安保闘争においての新宿駅闘争、早稲田大学の授業料下げ交渉・会館の使用及び維持管理闘争においても、警察官にお世話になることはなかった。
タモツに言えるのは、唯、それだけや。
父からは、何の助言もなかった。
こんなことも思い出した。
繰り返す、この大学のサッカーにおいて体はやられてしまった。その後の、腰痛問題の種はここで生まれたようだ。無理して無理してこそ、何とか生きられたのだ。
最後に一筆。
こんな私だけれど、4年生になって3試合に1度は試合に出してもらった。
全日本大学サッカー選手権の優勝決定戦に出してもらったのが嬉しかった。私は神風だよ、神風の御蔭だと喚き散らしていた。その神風が、サンケイスポーツの記事に使われた。
関東大学サッカー選手権でも優勝した。2冠を制覇したことになる。
学校を卒業して入った会社は、西武鉄道の親会社。
入社して7年後に、アイスホッケー部に所属している者と私等2~3人以外は、不動産を扱う会社に転属した。持前の不動産を早く売り切らなくてはならないと判断したようだ。
私は、人事部の思惑は何だったのだろうか?原宿駅前の本社宣伝部に移った。
このことについては、同期の誰もが不思議がった。
宣伝のことに興味を持っている奴ならば嬉しく思うことだろうが、吾輩にとっては、こんな苦しいことはなかった。
ホテルやレジャー施設について、難しいこと以外についても、当たり前のように何も知らなかった。
そんな私が、施設や行事、レストランのことについて、誰もが知っているようなことを知らなかったので、各支部、各施設とのやり繰りは、物の見事に電話とファックスで激しく遣りあった。
観光名所や都内にある数々のホテル、ゴルフ場、スキー場、レジャー施設。
ちなみに施設といえば、高輪新・高輪、品川、麻布、横浜、日光のプリンスホテル。中里、三俣、苗場、かぐらのスキー場。
私が京都府出身だから、関連会社の近江観光・近江鉄道のレジャー施設。
それぞれの施設の看板支配人との楽しい会話や飲食については、楽しかった。
今でも忘れられない。
そして30歳の時、椅子に座っての原稿書きのときに、腰の一部に遠い遠い部分からやって来た小さな痛みが、あれよあれよと言っているうちに、ガア~ンガア~ンと雷のような光を発して暴れ出し、私は椅子に座っていることさえできなかった。
上司に状態を話せることもできなかった。
見るに見かねた先輩が、手配してくれた病院に担ぎ込まれた。提携病院だ。
歩くことは当然できなくて、タクシーに乗ることだって精一杯の状態。
その日、上司に診断の内容を話すことさえできなかった。
これが入社して8年目、2回目の腰痛だった。激痛からは暫らくで逃れられたけれど、微痛は付き纏った。
忘れようとしても、いつも痛みを背負っていた。この腰痛って奴はそう簡単に身を引いてくれない。
多分、この腰痛も退社する理由の一つだったと思う。
そして、入社ほぼ10年でこの会社を退社した。
朝、目覚めた時に決心した。ほんの1分間ぐらいの間に。34歳だった。
不思議なんだ、こんなにこの会社のことを一生懸命愛したのに、退社願いを出した瞬間に、愛社精神の一片もなくなるなんて、生まれて初めての経験だった。
52歳。
大学を出てほぼ10年勤めた会社を34歳で退社した。
随分お世話になったこと、知らないことを良くもこれだけ多く教えた呉れたと感謝している。
この会社を辞めるとき、これからの会社の予定があったわけではない。ここらで、暫らく休むことにしよう、これが私の本音だ。
自由になる時間が、急にふくれて、夕方になると誰かと飲みたくなり、ふらふらとあっち行ってグイこっち行ってグイの日々を愉しんでいた。
そんなある日のスナック、昔お世話になったwさんに巡り合って、私の今の状態を話して、その続きに、ところでヤマオカさん、これからどこの会社に入るの言われ、どことも何とも話していないことを話すと、それなら、俺の会社へおいでよと言われ、その翌日には彼の会社の玄関をくぐった。
wさんのことは前からの好みの人だったし、彼自身一所懸命仕事に精を出していた。そんな彼との一瞬の隙間に就職活動は終わった。
それからの仕事は、いいこと悪いこと、簡単に言えば、まあ~まあ~だった。
そして、どうしたのか会社の都合からなのか、ヤマオカさん、この会社を君がやりたければ君が責任者としてやればいいんだが?と相談があった。
wさんの頭の中がよく解らないまま、それはそれで結構ですよと言って、子会社は私の会社になった。役員の変更や出資金のことは短い期間で処理した。
それから暫らくして、親会社は倒産した。
この時、wさん、なんぜ、そんなに気楽に会社を諦めるの、と私の発言は遠慮なしだった。
それからは、よくやれたこともあるし、多少失敗ごともあった。でも、私には友人が多くいてくれたので、何となく頑張れた。
そんな日、毎日私が物件を車で見に行っていたので、足腰がまたまた狂いだした。車の運転も腰には悪かった。
ちょっとちょっとの痛みが、日に日に激しくなってきた。
今は、俺、社長さん。
痛みに真剣に向かわざるを得なかった。
今度は簡単に処理するわけにはいかず、近所の横浜国際病院に入院した。
この病院の施療には原則があって、腰痛には手術はしない、治すのは腰痛施療用の体操を徹底的にやること、これしかなかった。
気安く考えたわけではないが、なかなか治ることはできず、我慢しきれず10日ぐらいで退院した。
この退院した理由については、他人さまには話せないこともあるのだが、今回は書かないで許してもらおう。
痛い、痛いの生活は6か月は過ぎた。
痛みは完全に治したわけではないが、何とか日常を過ごせるようになって、これ以上を諦めた。
この頃、今弊社の経営責任者をやってくれているnさんが入社した。私はnさんの兄貴と仲が良かったので、兄がnを紹介してくれた。
65歳。
高い樹木の枝を払う仕事を自ら遣り始め、或る日、5,6メートルの高さから落下して頭の後頭部を強く打った。
4日ほど気を失ってしまった。気絶だ。
現場の中で大工さんが一人作業していて、その大工さんが私の状態に気づき、警察と救急車に電話してその両者が検分した。
警察の人は、この件については我々の出番はないと言って、帰って行った。
救急車は、脳を強く打っているので精神系のある病院を勝手に調べて、新百合ヶ丘にある立派な病院に私を運び込んだ。
それから、気づくまでは、何がなにやらさっぱり分からなかった。
家族や会社のnさんも病院の私を見回ってくれた。ある程度、怪我の内容を知ったことだろう。
その後遺症は凄まじいものがあって、一番最初にお世話になった病院に入院3ヶ月、リハビリ用の病院に入院したのが3ヶ月。
退院後の生活の最初のうちは、厳しかった。
混雑している通路を人さまにぶつからないように歩くこと、誰もいない階段の上り下りが不安だった。
バランスが悪くなって頭がくらくらするのだ。頭が回った。眩暈(めまい)に苦しんだ。
手摺がある階段ならば何とか我慢できたが、手摺の無い階段を利用するときは恐怖だった。
もっと怖かったのが、一人での夜の歩行だった。
前の電信柱の影に人影のようなものが見えて、と言うか思えてそれの実態が見えるまでの数分間怖かった。前から歩いてくる人間だって、何か奇妙な物像に思えて、近くになるまで心臓がバクバクするほど強震した。
夜中だけではなく、昼間だって、50メートル前の看板の模様が、変に見えたり、妖怪がうなっているようにも見えた。
方向感覚が悪くなったのが会社に出社してから、支障が有り過ぎた。
JRから私鉄に乗り換えるだけのことでも、行き先の方向が、これでいいのか?悪いのか?それだって、解らなかった。
街が、世の中の何もかもが怖かった。
今でも、一番最初にお世話になった病院に3ヶ月毎に定期検査を受けている。
私は担当医に、もう治ったように思えると言っても、妻や子供たちはとんでもない、可笑しなことを言ったり、したり、心配なんですと言う。
なかなか良くならないが、私自身は頭の中は変わらないと思っている。
事実、暗記力や企画力、想像力の継続のなさが目だってきた。
頭の中には色んな脳があって、それらが調整し合ったり、反響・交換し合ったりして、まとまった能力が発生するらしい。
それらのことが、可笑しいままなのだ。
そんな日々の中での日常活動、先ずは歩行さえぎこちないものになって、足腰、手足、肩に痛みが現れた。この痛みも激しいものだった。
最初はそれほど大したものだとは思えなかったが、日が経つにつれて重々しくなった。
そしてその痛みが激しくなって、激痛になった。
リハビリが必要だった。
糞!! このリハビリ中での激痛。人にもよるが、6ヶ月から10ヶ月の治療が必要になることは、知っていた。
元々、私には腰痛の恐怖症があって、人並み以上には治らないことを直感で分かっていた。
事故後11ヶ月後、やっと直ったようだが。
それが本当に治っているのか?
私には解らない。
そして去年(2018)の3月の頃、腰や太腿に痛みが出てきた。
これから桜が咲いて、公園の散歩などを楽しみにしていたのに、嫌な気がしてならなかった。
何も考えずに整形外科院に行った。
ヤマオカさん、これは立派な腰痛ですよ、私のところに100回来てくれたら治りますよ、医者の診断だった。
100回と言わず、私は200回程通う心算でいた。
こういう場合は多い目に採算しておけば、後悔も少ないだろう。
6月には痛みが烈しくなってお医者さんに相談すると、今度はヘルニアが発生していますねだった。
これや~、増々長期治療だ、と覚悟した。
会社では、私の足腰については良く理解してくれて、我儘な治療を許してくれた。
そんな、悲しくも辛い日々が続いた。
が、11月になって、何故か腰の痛みが不思議な程弱まり、会社には、どうも治ったようですと報告した。通算135回目の通院が終えたころだ。
徐々に病院行きは少なくなり、見た目は治ったように、皆は見ていたことだろう。
でも、そんなことを書きながら、今でも腰痛は完治していない。日常の何てことのない作業でうろちょろすることだって、怖くて怖くてしょうがない。
腰痛に頭のフラフラ状態で、どれだけ頑張れるか? それが、今の私の状態。
でも、我慢強い私のこと、何とか免れる方法を身につけている。
大学を卒業して2,3年経って、正式に配属になった事業所で、その事業所の支配人に、ヤマオカ、お前なあ、スイミングクラブの先生をやってくれ、と言われた。
この水泳が、一番の腰痛の療法になる、と後々知った。
お前の嫁ハンに大事なところをやってもらって、そのうちにお前も水泳を覚えてくれ。
俺の早稲田時代の後輩も辻堂と横浜にいるから、そんな奴らにも声を掛けるから、頼むわ、だった。
支配人の早稲田の水泳部の先輩・役員に飛び込み専門の人がいて、支配人に指示がでたのだ。
この飛び込みの先輩が、社長との会話でスイミングクラブを発足したいと、言ったようだ。
それからの私の従業員としての仕事っぷりは、がらんと変わった。
真夏はプールの仕事で忙しかったが、冬となれば、朝から夕方まで泳ぎ続けた。
1日最低5000メートル。
支配人の指示だから、先輩に明治の柔道部出身とか早稲田の空手部出身がいたが、誰にも誰からも文句を言われなかった。
3ヶ月もすれば1日1万メートル、もうすっかり、立派な水泳部になった。
だから、それから、運動不足で体が鈍(なま)ってくると、自然にプールに向かうようになった。
私のような人間にも、気前良くすごせる公設のプールがあっちこっちにできた。入場料が安く、余計なルールが少ない。
最近では、1日1、000メートルをクロールで泳ぐ。実質35分で充分。
平泳ぎが苦手で、バタフライは難しい。
ひたすらクロールだけにこだわっている。
クロールを1、000メートル泳ぐと、それなりに充実感が味わえる。
週に2,3日で月に15,000メートルが目標になっている。
腰痛が烈しい時は兎も角、当然病院に入っているとき、痛み止めの薬を痛飲っしているとき以外は、昔からの癖で、良く歩いた。歩いていると体がほぐれてくる、そんな感覚を身につけていた。
この15年だって、歩いて1時間で通える会社まで、特別なこと以外、歩いて通った。5キロほどあると思うのだが、歩く喜びを覚えてしまった。大きい公園の中、二つの高校の前と後ろ。こんなところでさえ、嬉しく感じるのは、山村育ちのせいかな。
もっと前には、実家から宇治の高校までの通学だって、通学バスならば1時間ぐらいかかるのですが、私は自転車で通学した。宇治川の川筋に沿った道を、下り坂では、バスを追い越した。夏休みを終えて2学期が始まった頃、サッカー部に入ったので、次兄が使っていたホンダ・カブをもらった。帰宅が8時頃になるので、都合が良かった。
これからサッカー狂熱にやられてっしまった。幸せな次代の第一歩だ。
天ヶ瀬ダム
こんなことをして、ずうっと、ずうっと腰痛に耐えている。俺の人生は腰痛との戦いのようだった。
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