テレビを観ていたら、元女子プロレスラーの北斗 晶さんと和風料理店の料理人が料理番組をやっていた。
そこでの料理メニューが「あちゃら漬け」だった。
料理の何かを求めたくて観たわけでもなく、北斗さんの大胆な演技に目が奪われ、このボケとお叱りを受けるかもしれないが、その北斗さんをじっと観ていた。
この「あちゃら漬け」という言葉だけが頭に残り、そこでどんな料理が作られていたのか、目にも耳にも残っていなかった。
テレビでは、そのメニューが「あちゃら漬け」とあったので、この「あちゃら」とは何ぞやと気になりだし、早速コンピューターにお世話になった。
★語源由来辞典より
あちゃら漬けとは、大根や蕪(かぶ)などの野菜を刻み、唐辛子を加えて甘酢に漬けたもの。
「あちゃら漬け」の語源・由来
あちゃら漬けの「アチャラ」はポルトガル語で、野菜や果物の漬け物を意味する「achar(アチャール)」に由来し、近世初頭に南蛮貿易を通して日本に入ったといわれている。
「あちゃら漬け」の「アチャラ」に似た音で「漬け物」を表している言葉が、インドの「アチャール」、フィリピン・インドネシアの「アチャラ」、ネパールの「チャーレ」、アフガニスタンの「オチョール」など各地に見え、これらは同源と考えられている。
また、「あちゃら漬け」の「アチャラ」は「あちゃら(あちら)」のことで、中国風とする説もあるが、「アチャラ(さん)」と言えば、普通は「西洋(人・風)」を表す言葉である。
2019年2月7日木曜日
2019年2月4日月曜日
またまた「なおみちゃん」です

我家では、新聞に載っている大坂なおみの写真を見て、3歳の孫だって、「ジイジイこれはなおみちゃんだよ」と言う。
それほど、我家では、大坂なおみは誰もが知っている著名人だ。
今月の26日、日本時間17:30から全豪オープンの決勝戦が行われた。
大坂なおみは北海道生まれの母とハイチ出身の父との間に、米国で生まれた。
大坂なおみは、アメリカと日本の両国の国籍を持っているが、このテニスでは日本国になっている。
万一、東京オリンピックに出たいと言った場合は、国籍をアメリカか日本のどちらかにしなければならない。
日本の多くの人間は、そんなことどうでもイイヤ、アメリカで出たいならばそれはそれで良し、日本をいっぱい愛してくれていることは、彼女の言動で十分良く解かる。
たどたどしい日本語の使い方だけで、私は十分楽しい。
冗談だったのか?冗談でなかったのか,
・「大阪で生まれる人は、みんな名前は大坂なんですよ」。
今何をしたいですか?の質問に,
・「ソー・タイアッド 寝たい」だった。
優勝して何を食べたいですか?には笑いを浮べて,
・「カツ丼、アゲイン」だった。
この優勝決定戦で学んだことは,
・「どんな逆攻にいても、勝つ気持ちで一生懸命やっていれば、勝機は必ずやってくる」。
あなたは以前に自分の精神状態のことを3歳と仰ったけれど、今はどれほど成長したと思いますか?
・「私は成長していてやっと4歳ぐらいになったかな?」
何もかも、彼女の口からでる言葉は、私の心の深くに染み渡っていく。
このブログの前、後、しっちゃかめっちゃかになるかもしれないが、こんな状況の中、言うまでもないが、なおみの態度が多いに変わってきたことに私の頭は、まだ、まだ、狂喜のままだ。
表彰式でのこと、全米でも全豪でも、決勝戦を戦った相手にアリガトウと英語で述べた。
自分の憧れだったあなたと戦ったことの光栄を身に沁みて感じていること、それに対する素直な言辞を、恥じらいながらも、きちんと述べたこと。
涙っぽくなってきた私だけれど、このシーンをテレビで観ている時は、誰彼、はばかりなく泣いて仕舞った。
ありがとう、なおみちゃん。
なおみちゃんの母の父・大坂鉄夫(73)さんは、北海道 根室漁業組合の組合長。
根室市においては、市長さんと並ぶ要職だ。
私の大学時代から今に至る友人の父も、かって根室の漁師の親分だった。
何隻もの漁船を保有する大社長だった。
その親分だって今から50年ほど前は苦しい時期だった。
沿岸から200海里(約370キロ)の排他的経済水域問題が発生してからだ。
こんなことがあって、私にとって根室は誰よりも熱い・熱い愛情を持つ地域なのだ。
なおみちゃんの祖父は、決勝戦を、体が震えるのを我慢しながら見ましたと、テレビの画面で言っていた。
いい光景で、私の涙量はハンカチで消せないほど、ボタボタ。
スポーツ界では勿論、外国人との間で生まれた混血の人がよく頑張っている。
この頑張っている人とは、陸上短距離のケンブリッジ飛鳥、野球のダルビッシュ有、柔道のベイカー茉秋。
それ以外にも、芸能界などでも幾人かいるのだけれど、今日は上の3人のみにした。
20190130の朝日新聞・天声人語より。
ーーーーーーーーーーーーー
いまも人々の間に余韻が残る。
全米に続いて全豪オープンを制した女子テニスの大坂なおみ選手の活躍である。
中米ハイチ出身の父と日本人の母の間に生まれ、幼いころから米国で教育を受けた彼女は、グロバール時代を象徴する存在だ。
試合中継のテレビ画面のスコアのわきについている日の丸や、「アジア勢として初」といったくくりを超えて、その魅力は世界に広がった。
表彰式では、強盗に襲われ利き腕を手術する不運から復活した決勝の相手クビドバ選手(チェコ)をまずたたえた。
全米の時も、優勝を争った元世界1位のS・ウィリアムズ選手(米)は自分にとって長年のアイドルだったと打ち明け、感謝の言葉を捧げた。
S・ウィリアムズには6-2 6-4のストレートで破り、優勝した。
表彰式では、大坂なおみにとって本来ならば最高に嬉しい瞬間だったはずが、会場内からの敵意に直面した。
アーサー・アッシュ・スタジアムにはブーイングと口笛が響き渡り、大坂はかぶっていたバイザーを下げて涙を隠した。
優れた敗者がいてこそ勝者は輝く。
楽しい「なおみ語録」は人気の的だが、その根底にはスポーツの本質を理解し、大事にする心が流れる。
力をもちながら、1年前まではミスで自分を見失い、破れるシーンが珍しくなかった。
急成長した背景にはコーチやトレーナーの存在が大きい。
わずかな失敗にも落ち込む大坂選手に、ドイツ出身のコーチのバイン氏は「なおみならできる」と背中を押し続けたという。
過去に、「アイドル」のS・ウィリアムズ選手らの指導にも携わった経験をもつ。
個性を見極め、押さえつけず、選手に応じたアドバイスをする。
昨年は女子テニス協会(WTA)の年間最優秀コーチにも選ばれた。
日本ではこの1年、スポーツ指導者の不祥事が相次いだ。
互いの人格を尊重しあう姿勢、言葉の選び方、距離感の保ち方など、大坂選手の躍進から学ぶべき点は少なくないはずだ。
身の回りのサポート役だけでなく、選手の力を引きだすため全体で環境整備に取り組んできたのが女子テニス界だ。
WTAは今年からルートを改め、妊娠や出産で休養した選手が復帰する場合、12大会までは以前と同じ世界ランクでプレーできるようにした。
ランクが大きく落ちると待遇が変わり、プレーにも響くため、復帰を断念する例が多かった。
選手側の働きがけが実った形だが、女性スポーツの将来を考えた時、意義深い改革といえよう。
男子の数分の1といわれた優勝賞金も、現在は4大大会すべてで同額になった。
WTA設立から46年。
これも選手らの交渉と努力の結果で、他の競技や社会に与えた影響も大きい。
そんな土壌の上に咲いた大輪が、次の時代を切り開く。
さらに前に進む姿に期待したい。
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以下はネットより。
今大会ではサービスエース・リターンエース・ウィナー・ブレークの数が女子シングルスの出場者で最も多く、
これについて杉山愛は「大坂は『ビッグサーバー』から『オールラウンダー』の選手に変貌を遂げた」と語っている。
また、他にも優勝の要因として、「肉体改造によるバックハンドの威力向上」「精神面での成長」を挙げた。
験(げん)を担(かつ)ぐ
今日20190202は、節分の日。
明日は立春、よって今夜こそ豆まきをやる日だ。
陰陽道では、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられいた。
それを追い払う意味で「福は内、鬼は外」と言って豆まきをやる。
子供が小さかった頃、私は容赦ない鬼になり、可愛い子供たちから、激しい豆攻撃を受け、参った参ったと悲しい声を出して玄関廻りを逃げ迷ったものだ。
我家では「福は内」とは言わず「鬼は外」ばかり、豆を大量にぶつけられた。
「福は内」については、家族の誰もが幸せ感を自覚していたのだろう。
近年では、いつの頃からか記憶はないが、太巻きを恵方に向いて食べる行事も行われるようになった。
コンビニなどの、きっと作り言葉だと思われるが、「恵方巻き」と呼んでいる。
我家では、我が家特製の巻寿司を作って食べる。
3歳の孫までがお手伝い。
ところで、この恵方とはどっちの方向なんだと思いきや、そんなことはどうでもいいやと思って、知らんぷりして食べた。
立春は正確には春が立つ、という意味で、立春を迎えた頃から気温の底はピークを過ぎ、徐々に春めいた気温や天気に変わっていく。
天気予報では、明日の最高気温は18度と言っている。
きっと春一番が吹くのだろう。
そんなことよりも、何故、「験(げん)を担(かつ)ぐ」なんて言語を使うのか、それが不思議だった。
人並みな言語については知識はあるつもりだけれど、こんなことが70歳にして始めて感じるとは可笑しなことだ。
長距離散歩に行く前にコーヒーを飲んでテレビを観た。
そしたら、何が何して、何とやらなんだが、画面に「験(げん)を担(かつ)ぐ」とテレップが出て、何らかの説明があった。
その何が何して、何とやらについては、余り感心が向かなかったのだが、画面に出た「験を担ぐ」に不思議に興味を持った。
何是、験なんだ? 担ぐって?どういうことだと頭に残った。
06:30に自宅を出た。 3時間半かけて、横浜・権太坂の自宅から北鎌倉駅まで歩いた。
徒歩数は21、622歩。
歩行距離は約10キロメートル以上はあると思う。
北鎌倉駅のホームで上りの電車がくるのを待って、一呼吸するためにベンチに座ったが、足腰の疲労で、ベンチから立ち上がる際に関節がビリビリとひびいて、立ち上がれなくなるのではないか? そんなことを心配してしまった。
そんな心配に要はなし、痛苦も無かったが、それほどまでにまだまだ足腰のことが心配なのだ。
流石に帰り道は歩く気になれず、横須賀線で楽々帰ってきた。
電車がこんなに便利な物だとは、今更ながら再確認した。
この散歩での面白かったことは後日にしよう。
「験(げん)を担(かつ)ぐ」が気になっていて、自宅に戻るや直ぐにコンピューターの前に座った。
そこで知り得たことを復習してみる。
このことを判断(は)っきりしておかないと、今日の1日が済まない。
語源由来辞典より得たことをここに書き写す。
験を担ぐ。
★意味*げんをかつぐとは、以前に良い効果が出た行為と同じことをして、前途の吉兆をおしはかること。 げんかつぎ。
★語源・由来
本来は「縁起をかつぐ」で「縁起」が反転し音韻変化したとする説が有効とされる。
この「げん」は「げんがいい」や「げんなおし」などとも使われる。
験には「仏道修行を積んだ効果」などの意味があり、「縁起」が意味する「げん」と関係があるとも考えられている。
ただし、「効果」などを意味知る「験」は平安朝、「縁起」を意味する「げん」は近世以降と時代が離れており、「縁起」を意味する方は、やくざ用語から出た言葉とされていることから、直接関係する訳でもなさそうである。
明日は立春、よって今夜こそ豆まきをやる日だ。
陰陽道では、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられいた。
それを追い払う意味で「福は内、鬼は外」と言って豆まきをやる。
子供が小さかった頃、私は容赦ない鬼になり、可愛い子供たちから、激しい豆攻撃を受け、参った参ったと悲しい声を出して玄関廻りを逃げ迷ったものだ。
我家では「福は内」とは言わず「鬼は外」ばかり、豆を大量にぶつけられた。
「福は内」については、家族の誰もが幸せ感を自覚していたのだろう。
近年では、いつの頃からか記憶はないが、太巻きを恵方に向いて食べる行事も行われるようになった。
コンビニなどの、きっと作り言葉だと思われるが、「恵方巻き」と呼んでいる。
我家では、我が家特製の巻寿司を作って食べる。
3歳の孫までがお手伝い。
ところで、この恵方とはどっちの方向なんだと思いきや、そんなことはどうでもいいやと思って、知らんぷりして食べた。
立春は正確には春が立つ、という意味で、立春を迎えた頃から気温の底はピークを過ぎ、徐々に春めいた気温や天気に変わっていく。
天気予報では、明日の最高気温は18度と言っている。
きっと春一番が吹くのだろう。
そんなことよりも、何故、「験(げん)を担(かつ)ぐ」なんて言語を使うのか、それが不思議だった。
人並みな言語については知識はあるつもりだけれど、こんなことが70歳にして始めて感じるとは可笑しなことだ。
長距離散歩に行く前にコーヒーを飲んでテレビを観た。
そしたら、何が何して、何とやらなんだが、画面に「験(げん)を担(かつ)ぐ」とテレップが出て、何らかの説明があった。
その何が何して、何とやらについては、余り感心が向かなかったのだが、画面に出た「験を担ぐ」に不思議に興味を持った。
何是、験なんだ? 担ぐって?どういうことだと頭に残った。
06:30に自宅を出た。 3時間半かけて、横浜・権太坂の自宅から北鎌倉駅まで歩いた。
徒歩数は21、622歩。
歩行距離は約10キロメートル以上はあると思う。
北鎌倉駅のホームで上りの電車がくるのを待って、一呼吸するためにベンチに座ったが、足腰の疲労で、ベンチから立ち上がる際に関節がビリビリとひびいて、立ち上がれなくなるのではないか? そんなことを心配してしまった。
そんな心配に要はなし、痛苦も無かったが、それほどまでにまだまだ足腰のことが心配なのだ。
流石に帰り道は歩く気になれず、横須賀線で楽々帰ってきた。
電車がこんなに便利な物だとは、今更ながら再確認した。
この散歩での面白かったことは後日にしよう。
「験(げん)を担(かつ)ぐ」が気になっていて、自宅に戻るや直ぐにコンピューターの前に座った。
そこで知り得たことを復習してみる。
このことを判断(は)っきりしておかないと、今日の1日が済まない。
語源由来辞典より得たことをここに書き写す。
験を担ぐ。
★意味*げんをかつぐとは、以前に良い効果が出た行為と同じことをして、前途の吉兆をおしはかること。 げんかつぎ。
★語源・由来
本来は「縁起をかつぐ」で「縁起」が反転し音韻変化したとする説が有効とされる。
この「げん」は「げんがいい」や「げんなおし」などとも使われる。
験には「仏道修行を積んだ効果」などの意味があり、「縁起」が意味する「げん」と関係があるとも考えられている。
ただし、「効果」などを意味知る「験」は平安朝、「縁起」を意味する「げん」は近世以降と時代が離れており、「縁起」を意味する方は、やくざ用語から出た言葉とされていることから、直接関係する訳でもなさそうである。
大辞林 第三版の解説
げん【験】
① ある行為を積み重ねたことによる効果。また、薬のききめ。効験。 「 -が現れる」 「がつくり首を掉ふつて、-が見えぬぢやて/婦系図 鏡花」
② 前途の吉兆を暗示する出来事。縁起。前兆。 「 -がいい」 「 -なおし」
③ 仏道・修験道などの修行を積んだ効果。修行や祈りの結果あらわれるふしぎなしるし。
「ほうとう」を食ったゾ
今日は久しぶりに「ほうとう」を昼飯に食った。
同居している三女と3歳の孫は、インフルエンザに掛かってお休み、自宅で療養中。
三女は江ノ島の近くでドッグ・フード店の店長さん、孫は保育園児だ。
そんなことも有り得ると考え、こんな能天気な私でさえ、インフルエンザの予防接種を先月にしておいた。
お陰で、私は多少風邪っ気(け)ぽいが、ひと様に迷惑を掛けることもなく、掛けられることもない。
今年はこれで何とか乗り越え、年末にも来季のために、必ずインフルエンザの予防接種をやろうと腹を決めている。
老人のやれることは、この程度なら何とかできそうだ。
そして今日は20190130、水曜日は弊社の定休日。
祖母はデイ・サービス、療養所で大いなるお楽しみ、留守なり。
私の休日での昼飯は、ラーメンか蕎麦か饂飩(うどん)のいずれかが定番だ。
そんな了解の下(もと)、妻は山梨県下では痛く有名な「ほうとう」を作った。
食事メンバーは、私たち夫婦、三女、孫の4人。
「ほうとう」作りは、そんなに難しいことなんて何もなく、鍋に白菜、人参、大根、椎茸、南瓜、油揚げ、さつま揚げ、葱、「ほうとう」を、鍋に入れる順番や具の切り方に工夫も必要だと思うけれど、妻はいつものように気楽に作り上げてくれた。
何年か前に、「ほうとう屋」で食った「ほうとう」には小さな餅が入っていた。
汁は味噌に塩、少し甘みを付けた。
私はこの種の物が大好きで、幾らでも食える。
食い扶持(ぶち)が派手で、もう止めてくれ、と言われるまで、腹具合とは関係なく、食えた。
山梨県が、私の生まれ育った京都府綴喜郡と形(なり)振り構わずに田舎だとは思わない。
だからか、「ほうとう」については、凄く親近感を持つのです。
まるで、親戚付き合いのごとし。
私の体の中に居座る「田舎虫」の精(せい)だろうか。
そこで、ところで「ほうとう」ってどういう意味? 語源は? と皆に聞いても、誰も答えてくれないものだから、ネットに頼ってこのブログを書いている。
冬の期間、鍋物については大食漢なり!!
語源(Wikipediaによると)
「餺飥」語源説
現在広く知られる説として、「ほうとう」の名は「餺飥(はくたく)」の音便したものであるとされる。この説の詳細は以下の通り。
「餺飥」は奈良時代の漢字辞書である『楊氏漢語抄』(逸書。平安時代中期の古辞書『和名類聚抄』に引用)に見え、院政期の漢和辞書である『色葉字類抄』にすでに「餺飥 ハクタク ハウタウ」として登場するから、この頃にはもう「はうたう」という語形になっていたことがわかる。
このように、「ほうとう」は「うどん」以上に歴史のある食品であるが、伝来時期は異なるとはいえ、「ほうとう」が「うどん」と同じく中国から伝来した料理の流れを汲むものであることは間違いない。
現代の陝西方言でワンタンのことを「餛飩」と書いて「ホウトウ」と発音することは、1つの参考となるようである。
このように、「ほうとう」は「うどん」以上に歴史のある食品であるが、伝来時期は異なるとはいえ、「ほうとう」が「うどん」と同じく中国から伝来した料理の流れを汲むものであることは間違いない。
現代の陝西方言でワンタンのことを「餛飩」と書いて「ホウトウ」と発音することは、1つの参考となるようである。
ハタク・ハタキモノ語源説
山梨県の郷土民俗研究の立場からは、「ほうとう」の呼称は江戸時代中期の甲府勤番士日記『裏見寒話』において見られ、小麦粉で作った麺に限らず、穀物の粉を用いた料理全般に用いられていることが指摘されている。
穀物の粉を「ハタキモノ」と呼び、粉にする作業を「ハタク」と呼ぶ事から、「ほうとう」の語源はハタク、あるいは穀物の粉を意味するハタキモノが料理名に転用されたのが妥当と考えられている。
穀物の粉を「ハタキモノ」と呼び、粉にする作業を「ハタク」と呼ぶ事から、「ほうとう」の語源はハタク、あるいは穀物の粉を意味するハタキモノが料理名に転用されたのが妥当と考えられている。
これら二説についての見解
「餺飥」語源説に関しては、戦後の食文化に言及された郷土研究文献にもほうとうの語源に言及したものが少なく、「ほうとう」の語源は、観光食として広く喧伝されるようになってから、信玄起源説と関係して広く展開され、一般化したと位置付けられている。
ほうとうに関係する由来伝承は信憑性が薄く、観光食化する過程でさまざまな歴史的知識に基づき、語源の推論が重ねられて由来伝説が形成されたものである、とするのが民俗学的見地からの捉え方である。
ほうとうに関係する由来伝承は信憑性が薄く、観光食化する過程でさまざまな歴史的知識に基づき、語源の推論が重ねられて由来伝説が形成されたものである、とするのが民俗学的見地からの捉え方である。
その他の説
同音の「宝刀」や「放蕩」などを語源とする説も存在する。「宝刀」については「信玄が自らの刀で具材を刻んだ」といった武田信玄に由来するとする俗説が広く流布している。
これは戦後、山梨県において歴史的資源を活かした観光業が主要産業化する過程で形成された現代民俗であり(『山梨県史民俗編』)、言語学的見地からは否定されている。
これは戦後、山梨県において歴史的資源を活かした観光業が主要産業化する過程で形成された現代民俗であり(『山梨県史民俗編』)、言語学的見地からは否定されている。
人力車で南極点踏破
20190122の朝日新聞で知ったことなんだが、
「登頂断念 86歳三浦さん 挑戦続けたい」
の記事を読んで、それはそれは三浦雄一郎さんは、大変な想いをされただろう。
この新聞記事は、20190124のブログに、私が感じたことと新聞記事をそのまま転載させてもらった。
「挑戦」という言葉が私の頭の廻りを、初めて知ったときのように、回転仕出した。
果たしてそれ程、企画力に溢れた挑戦だっただろうか。
「挑戦」とはどういう意味なんだろうか。
頭の中には、元朝日新聞・編集委員の本多勝一氏の著作物が湧出し、私自身も複雑な気持ちでいた。
探検、冒険、挑戦、未知の分野、勇気と危険とロマン。
本多勝一の「アムンゼンとスコットーーー南極点への到着に賭ける」や、極地探検の数々を著した加納一郎著作集全5巻を読むと、探検や冒険の本質が解る。
これらの著作物のなかで、白瀬矗(のぶ)中尉のことを、「白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」とあった。
そんな折、下の題字の記事が、私の目頭に突撃してきた。
「人力車で鍛え 南極点踏破」
「36歳冒険家、単独で」
何と、爽やかで企画力があって、実に挑戦的で冒険的なこと。
36歳の冒険家・阿部雅龍(まさたつ)さんが、単独で徒歩で南極点に到達したというのだ。
私の生血(なまち)に漲(みなぎ)る挑戦心と冒険心が、またまた活気付いてきた。
ーーーーーーーーーーーーーー
★20190124(木)の朝日新聞・夕刊よりそのまま転載させてもらった。
人力車で鍛え 南極点踏破
36歳冒険家、単独で

南極点に到達した阿部雅龍さん。
お気に入りのロボット「aibo」を前に置き、記念撮影=18日、本人提供

浅草・雷門前で人力車を引く阿部雅龍さん
2015年、東京都台東区、中山由美撮影
東京・浅草で人力車を引いて肉体を鍛えた冒険家、阿部雅龍(まさたつ)さん(36)=東京都板橋区=が単独徒歩で南極点に到達し、23日、到達時の写真が国内の応援本部に届いた。
阿部さんは「諦めなければ夢がかなうと強く感じた」とのメッセージも寄せた、
阿部さんは同じ秋田出身で日本人初の南極探検家・白瀬矗(のぶ)中尉にあこがれて冒険を志した。
秋田大学を卒業し、10年あまりにわたって浅草で人力車をひく仕事をしながら資金をためつつ、足腰を鍛えた。
2017年には、全国各地を人力車をひいて回り、220日間で6、400キロを走破した。
寒さと雪や氷に慣れようと、北極圏のカナダやグリーランド沿岸では解氷が割れて冷たい海に落ちたこともある。
今回は資金協力も募って、南米チリから南極大陸に入り、昨年11月23日に海岸を出発。
食料やテントを積んだ約100キロのそりを引っ張って、1人で南極点まで918キロを歩き通した。
55日間かけて、今月17日(日本時間)に南極点に着いたという。
阿部さんは食料や燃料の補給を受けずに到達することを目指した。
しかし、悪天候に阻まれ、想定より半月ほど時間がかかったため、ルート上にあった備蓄の食料を使い、無補給はかなわなかった。
19日に南極点からチャーター機にピックアップされ、21日に南極大陸から南米チリに戻った。
26日に帰国する予定で、「応援に支えられました。チャレンジする素晴らしさを多くの人に伝えたい」という。
あこがれの白瀬中尉らは1912年1月28日、南極80度5分まで達した。
阿部さんは来年、これと同じルートをたどり、その先の南極点まで、今回より距離が長く厳しい道のりを単独無補給で歩きたいという。
(中山由美)
こんな男に魅力を感じるのは、私だけではない筈だ。
以前に白瀬矗中尉のことを著したブログを思い出して、この下の方に添付させてもらった。
この男は異常に偉大なのだ。
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「登頂断念 86歳三浦さん 挑戦続けたい」
の記事を読んで、それはそれは三浦雄一郎さんは、大変な想いをされただろう。
この新聞記事は、20190124のブログに、私が感じたことと新聞記事をそのまま転載させてもらった。
「挑戦」という言葉が私の頭の廻りを、初めて知ったときのように、回転仕出した。
果たしてそれ程、企画力に溢れた挑戦だっただろうか。
「挑戦」とはどういう意味なんだろうか。
頭の中には、元朝日新聞・編集委員の本多勝一氏の著作物が湧出し、私自身も複雑な気持ちでいた。
探検、冒険、挑戦、未知の分野、勇気と危険とロマン。
本多勝一の「アムンゼンとスコットーーー南極点への到着に賭ける」や、極地探検の数々を著した加納一郎著作集全5巻を読むと、探検や冒険の本質が解る。
これらの著作物のなかで、白瀬矗(のぶ)中尉のことを、「白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」とあった。
そんな折、下の題字の記事が、私の目頭に突撃してきた。
「人力車で鍛え 南極点踏破」
「36歳冒険家、単独で」
何と、爽やかで企画力があって、実に挑戦的で冒険的なこと。
36歳の冒険家・阿部雅龍(まさたつ)さんが、単独で徒歩で南極点に到達したというのだ。
私の生血(なまち)に漲(みなぎ)る挑戦心と冒険心が、またまた活気付いてきた。
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★20190124(木)の朝日新聞・夕刊よりそのまま転載させてもらった。
人力車で鍛え 南極点踏破
36歳冒険家、単独で

南極点に到達した阿部雅龍さん。
お気に入りのロボット「aibo」を前に置き、記念撮影=18日、本人提供

浅草・雷門前で人力車を引く阿部雅龍さん
2015年、東京都台東区、中山由美撮影
東京・浅草で人力車を引いて肉体を鍛えた冒険家、阿部雅龍(まさたつ)さん(36)=東京都板橋区=が単独徒歩で南極点に到達し、23日、到達時の写真が国内の応援本部に届いた。
阿部さんは「諦めなければ夢がかなうと強く感じた」とのメッセージも寄せた、
阿部さんは同じ秋田出身で日本人初の南極探検家・白瀬矗(のぶ)中尉にあこがれて冒険を志した。
秋田大学を卒業し、10年あまりにわたって浅草で人力車をひく仕事をしながら資金をためつつ、足腰を鍛えた。
2017年には、全国各地を人力車をひいて回り、220日間で6、400キロを走破した。
寒さと雪や氷に慣れようと、北極圏のカナダやグリーランド沿岸では解氷が割れて冷たい海に落ちたこともある。
今回は資金協力も募って、南米チリから南極大陸に入り、昨年11月23日に海岸を出発。
食料やテントを積んだ約100キロのそりを引っ張って、1人で南極点まで918キロを歩き通した。
55日間かけて、今月17日(日本時間)に南極点に着いたという。
阿部さんは食料や燃料の補給を受けずに到達することを目指した。
しかし、悪天候に阻まれ、想定より半月ほど時間がかかったため、ルート上にあった備蓄の食料を使い、無補給はかなわなかった。
19日に南極点からチャーター機にピックアップされ、21日に南極大陸から南米チリに戻った。
26日に帰国する予定で、「応援に支えられました。チャレンジする素晴らしさを多くの人に伝えたい」という。
あこがれの白瀬中尉らは1912年1月28日、南極80度5分まで達した。
阿部さんは来年、これと同じルートをたどり、その先の南極点まで、今回より距離が長く厳しい道のりを単独無補給で歩きたいという。
(中山由美)
こんな男に魅力を感じるのは、私だけではない筈だ。
以前に白瀬矗中尉のことを著したブログを思い出して、この下の方に添付させてもらった。
この男は異常に偉大なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★以下は、2010年12月30日木曜日の私のブログから
白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが
探検はロマンだ。
未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。
かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。
新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。
新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいある状態になった。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。
とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。
本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。
この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。
勝手に親近感を持っていた。
それから、ここにたどり着くのです。
共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。
戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。
精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。
苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検 2巻=フラム号漂流記 3巻北海道の山と雪 4巻=自然のなかで 5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)
ーーーーーーーーーーーーー
これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)

「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。
DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。
同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。
「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。
国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。
スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。
国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。
新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。
出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。
当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。
だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。
今の1億~2億円相当という。
白瀬が一人で背負った。
新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。
救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。
白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。
孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。
今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。
「民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。
自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。
出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。
記念館職員だった佐藤忠悦さん(70)は言う。
「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」
100年の時を経て、うねりは動き始めた。
「故郷の秋田から全国へ発信しよう」
未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。
20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。
かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。
新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。
新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいある状態になった。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。
とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。
本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。
この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。
勝手に親近感を持っていた。
それから、ここにたどり着くのです。
共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。
戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。
精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。
苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検 2巻=フラム号漂流記 3巻北海道の山と雪 4巻=自然のなかで 5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)
ーーーーーーーーーーーーー
これより下は、20101221の朝日新聞・夕刊による (中山由美)
「3人の探検家に与えられた運命はそれぞれ栄光、死、そして苦難ーーーー」100年前に白瀬矗(のぶ)が南極点をめざして出航した東京・芝浦で、11月28日に開かれた記念式典。
DVD「白瀬・開南の夢」のナレーションが流れると、白瀬の孫、潤さん(79)の表情が曇った。
同時に南極点をめざした探検家3人のうち、「栄光」が与えられたのは、1911年12月14日、世界初到達を果たしたのはノルウェーのアムンゼン。「死」は、1ヶ月遅れで南極点に立ったが、帰途に隊員全員が遭難死したイギリスのスコット。
「苦難」は、12年1月28日、南緯80度5分の氷の上で南進を断念した白瀬だった。
国の威信をかけた国家事業に比べ、白瀬隊は資金や装備でははるかに劣った。
スコット隊のテラノバ号は750トン、アムンゼン隊のフラム号は402トン、白瀬隊の開南丸はわずか204トンの木造船だった。
国は資金を出さず、民間支援に頼る探検だった。
新聞社とのつながりもあった早稲田大創設者の大隈重信を会長に、南極探検後援会を創設。
出発前、朝日新聞は5千円を出し、義捐金を呼びかけた。
当時の記事には、約4万8千円が集まり、後援会に渡した、とある。
だが、白瀬が帰国した時には後援会は消え、借金4万円が残されていた。
今の1億~2億円相当という。
白瀬が一人で背負った。
新聞で初めて見ることとなった他の親族には、複雑な感情が残された。
救いの手を差し伸べなかったわけではない、との思いがあるからだ。
白瀬は帰国後、ともに暮らしていた三男家族の元を離れ、秋田県の生家・浄運寺からも離れて疎遠になっていたという。
孫の潤さんは「白瀬の晩年が不遇だったと語られると心が痛むのです」と言った。
今回の記念式典には、白瀬に関する文献をまとめた本を出版したチェット・ロスさん」(63)が米国から駆けつけた。
「民間の支援を懸命に集め、諦めずに挑戦し、一人の犠牲者も出さずに帰った」。
自らの力で夢をかなえ、責任を全うした魅力を語る。
出身地である秋田県にかほ市の白瀬南極探検隊記念館には、海外からの訪問客が絶えない。
記念館職員だった佐藤忠悦さん(70)は言う。
「苦難の道だったが、白瀬は世界の名だたる探検家と並んで評価されている」
100年の時を経て、うねりは動き始めた。
「故郷の秋田から全国へ発信しよう」
2019年1月26日土曜日
WMWスポーツ強化基金に寄付をする
大隈重信立像
私が大学を卒業して、この春で45年以上経つことになる。
詳しく言えば、23歳で卒業していたら、48年になる。
私は、現在70歳。
正直な話、こんな1年、2年はどうでもいいと感じている。
振り返ってみて、在学中、卒業してからの幾つかの経済危機下、何とか逃げ遂(おお)せた。
頑張ったねと言われれば、ちょっとは恥かしい気もする。
私は決して上等で優秀な経済人ではなかったが、後継者が優秀で、私だって、余り会社に利益を生み出せないにも拘わらず、後何年かは勤めてくださいと言われている。
今の社長さんは、私が社長だった時に、ずっと専務をやっていてくれた。
有難いことと言えば、こんな有難いことはないよ、と妻や娘や息子から言われている。
そして、家庭人として否(いな)父としてやれることは、よ~くやったと自慢できる。
だが、それには妻の過大な踏ん張りがあったからこそ、と感謝している。
子どもは、娘が3人息子が1人。
どいつもこいつも、伴侶を得、息子は豪州に転勤中だが、女性はそれぞれ住宅を手に入れ、何とも豊かにやっている。
各家族の詳しい内容については知らないから、イーディーな表現は勘弁させてもらうが、孫を立派に育てていることを思うと、ま~ま~なんだろう。
そんな環境にあって、この俺様の生活の今までのこと、これからのこと? と不思議に自信がなく感じられるときがあって、夜中、なんだか奇怪(きっかい)極まりなく眠れない夜が偶々(たまたま)ある。
今までの生活の反省、これからの生活をどうすればいいのか、反省や不安にさいなまれる。
そんな時、いっつも想い込みながら心の平和を見いだせるのは、大学時代4年間のサッカー部の一切合財のなかに、現在の自分の位置を置き換えて、あれこれ思い出すことだ。
すると、心は安穏なものに包まれる。
それと、経済人として付き合ってきた人々、なかでも今、会社の責任者をやってくれている社長を思うと、なんとも幸せな気分になる。
注意深くいろいろ考え巡らすこと、これこそが、私の生きていくためのエネルギーになっている。
そして、先ほどの、私を45年以上も前のサッカー部に自分の身を置き換えて、あの時代の些少なことまでを思い出すこと。
思い出した結果、私は恥ずかしながら、誇りを持ちながら、ちょっと少額だけれど部に寄付することにした。
少し前に樹木から落下した結果、高次脳機能障害を受け、心身ともに多少なりの障害を受けている。
今でも3カ月毎の定期検査を受けている。
担当医師は私に、どうですか? 良くなってきましたか? と聞くので、ええ、もう大丈夫だと思っているんですよ、と応える。
妻にも聞くと、妻は、記憶が悪いとか、勘違いのことを話す、いろんな可笑しなことがあるので、夫のことを本当に心配している、と返答内容は悪いことばかり。
それで昨日、給料の一部を経理の者が手渡ししてくれたので、そのお金を持って銀行に行った。
そして気付いたことなんだが、送金額が極めて少額なのに、税込手数料が髙く、月毎に送金すると当然その額は大きく増えることになる。
それで、来月にはこの1年分を纏めて送金することにした。
これは、「WMWスポーツ強化基金」だ。
私のような者、ちょっと変則的な人間には関係のない口座なのに。
サッカー部に異常に感謝して、ちょっとでも貢献したがっている人間が使う口座だ。
何故お前、仁徳者でもなく、そんなにまでするんだ?と先輩は思われるかもしれない。
それほど、早稲田のサッカー部には感謝しているだけの話だ。
この口座に寄付として入金を受ける事務局長は、私とサッカー部同期の者。
同期の父は、ベルリンオリンピックに日本代表のサッカー選手として出場した。
この者が、寄付金として学校当局と打ち合わせをして、厳格にサッカー部の費用のみに使用する。
繰り返す、何も大学が嫌になった訳ではない、サッカー部の費用に使って欲しいだけなのだ。
在学中、あんなに貧乏だったのだから、ヤマオカのやらかすことなら、何とか皆は理解してくれそうだ。
学校側からは、私に対しては領収書を発行し、私が確定申告に寄付金として使用できる。
★早稲田大学ア式蹴球部のホームページより
チーム・選手
1924(大正13)年の創部以来、早稲田大学ア式蹴球部は常にサッカー界をリードし、数々の日本代表選手を輩出してきました。関東大学リーグ1部優勝26回、全日本大学選手権優勝12回、総理大臣杯優勝2回、天皇杯優勝4回は、他大学の追随を許さない成績です。
皆様、熱いご声援をよろしくお願い致します。
- 外池 大亮 監督からのご挨拶
- この度、歴史と伝統あるア式蹴球部の監督を拝命いたしました外池大亮です。監督というポジションは自分の人生にとって新しく、かつ壮大な挑戦となりますが、プロ選手11年、企業人10年で培った経験を糧に、学生と熱いビジョンを共有し、共に成長していく所存です。「早稲田ここに有り」と発信するため、目標である「タイトル奪還」に向けて情熱を注ぎます。皆様どうぞ宜しくお願い致します。
日本で初めてサッカーの国際的競技会が開催されたのは、1917年の第3回極東大会。この大会に日本を代表するチームとして臨んだのは「東京高等師範学校」、これが日本チーム初の国際試合でした。結果は中華民国に0-5、フィリピンに2-15と大敗でしたが、この大会を契機にサッカーの普及が進み、翌年には国内で多くの大会が開催されることになりました。
それから100年の時を経て、日本は6大会連続でFIFAワールドカップに出場するアジアの雄へと成長を遂げます。
100年の間に日本代表を率いたのは現監督森保一まで数えて31人(代行を含む)、その中でア式OBはザッケローニ着任前に代行を務めた原博実(昭和56年卒)を含めて9人。挑んでも、挑んでも跳ね返される世界の壁、長いトンネルを抜け出た先には、さらにそそり立つ世界の壁……しかし、その中でわずかながら光明がさした瞬間が3度ありました。自国(共同)開催だった2002年の日韓大会、2010年南アフリカ大会、そして2018年ロシア大会でグループリーグを突破し、ベスト16に駒を進めたのです。とりわけ、開幕2ヶ月前の電撃交代から、死闘の果てに力尽きたベルギー戦まで、西野ジャパンの闘いは多くの人たちの心に深く刻まれました。
100年の間に日本代表を率いたのは現監督森保一まで数えて31人(代行を含む)、その中でア式OBはザッケローニ着任前に代行を務めた原博実(昭和56年卒)を含めて9人。挑んでも、挑んでも跳ね返される世界の壁、長いトンネルを抜け出た先には、さらにそそり立つ世界の壁……しかし、その中でわずかながら光明がさした瞬間が3度ありました。自国(共同)開催だった2002年の日韓大会、2010年南アフリカ大会、そして2018年ロシア大会でグループリーグを突破し、ベスト16に駒を進めたのです。とりわけ、開幕2ヶ月前の電撃交代から、死闘の果てに力尽きたベルギー戦まで、西野ジャパンの闘いは多くの人たちの心に深く刻まれました。
今回は、西野朗(昭和53年卒)の駆け抜けた44日間を振り返りながら、岡田武史(昭和55年卒)をはじめWASEDA魂を胸に日本を率いた名将たちの闘いを紹介します。
2019年1月24日木曜日
消費増税対策
20190122(火)の朝日新聞・波間風問(はもんふうもん)を転載させてもらう。
編集員・原 真人(はらまこと)
ーーーーーーーーー
消費増税対策
バラマキ もはやポピュリズム
政府がまとめた消費増税対策は「手厚い」というレベルを超え、もはやポピュリズムと言ってもいいレベルだ。
10月に消費税率は8%から10%に上る。
国民の負担増は5・2兆円。
これに伴って政府がふやす歳出は5・5兆円。
つまり、安倍政権は増税の増収額より3千億円も多くバラまくことになる。
これではいったい何のための消費増税か。
そもそもの目的は先進国で最悪の借金財政を立て直すことにあった。
赤字たれ流しに終止符を打ち、現役世代も将来世代も支えられる社会保障の基礎を築くはずだった。
それなのに増税でかえって赤字がひどくなってしまってどうするのか。
ポイント還元制度や国土強靭化のための公共事業は時限措置で、プレミアム商品券は1回限りである。
「それが終われば税収増の効果が出てくる」というのが財務省の説明だ。
これも当てにはなるまい。
ポイント還元や商品券をやめるとき、消費者感覚からすれば実質増税となる。
国土強靭化予算を打ち切れば、公共事業は前年度から実質削減になってしまう。
どちらも続行論が出てくるだろう。
財政意識に乏しい政権のもとで、財政省は難しい選択を迫られたのかもしれない。
バラマキ付き増税か、あるいは3回目の増税先送りか、と。
結局、悲願の「10%』実現が優先されたということだ。
それでも、10月に必ず増税が実施されるという保証はない。
世界経済には減速の兆しが出ており、米中貿易戦争が先行きに暗い影を落とす。
この先、株価急落や円高の急進ということもありうる。
3年前、経済が比較的落ち着くなかで「リーマン・ショック級の危機」を消費増税先送りの理由にしようとしたこの政権が、今回ばかりは先送りしないといえるだろうか。
今年は統一地方選、参院選と続く選挙イヤー。
衆院を解散しての同日選説もくすぶる。
考えたくないが、選挙対策として「増税は延期、でもバラマキは実施」という究極のポピュリズムに走る可能性も、なしとは言えない。
年始の財界パーティーで象徴的なやりとりを見た。
財界代表の小林喜光・経済同友会代表幹事が冒頭のあいさつで今年の最重要課題として「消費増税」をあげた。
そして「重要なのは経済成長と財政健全化の両立。基礎的財政収支黒字化の達成に政官民がしっかり目標を共有し努力しなければならない」と訴えた。
経済界から政権へのメッセージである。
ところが、安倍晋三首相はこれを受け流し、あいさつで「財政健全化」に一切言及しなかった。
かわって強調したのが消費増税対策だ。
「前回の消費税引き上げで消費が落ち込んだ反省をふまえ、十二分の対策を打つ。引き上げ分はぜんぶお返しし、さらにお釣りがくる」
健全化とはおよそ似つかわしくない年頭所感だった。
編集員・原 真人(はらまこと)
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消費増税対策
バラマキ もはやポピュリズム
政府がまとめた消費増税対策は「手厚い」というレベルを超え、もはやポピュリズムと言ってもいいレベルだ。
10月に消費税率は8%から10%に上る。
国民の負担増は5・2兆円。
これに伴って政府がふやす歳出は5・5兆円。
つまり、安倍政権は増税の増収額より3千億円も多くバラまくことになる。
これではいったい何のための消費増税か。
そもそもの目的は先進国で最悪の借金財政を立て直すことにあった。
赤字たれ流しに終止符を打ち、現役世代も将来世代も支えられる社会保障の基礎を築くはずだった。
それなのに増税でかえって赤字がひどくなってしまってどうするのか。
ポイント還元制度や国土強靭化のための公共事業は時限措置で、プレミアム商品券は1回限りである。
「それが終われば税収増の効果が出てくる」というのが財務省の説明だ。
これも当てにはなるまい。
ポイント還元や商品券をやめるとき、消費者感覚からすれば実質増税となる。
国土強靭化予算を打ち切れば、公共事業は前年度から実質削減になってしまう。
どちらも続行論が出てくるだろう。
財政意識に乏しい政権のもとで、財政省は難しい選択を迫られたのかもしれない。
バラマキ付き増税か、あるいは3回目の増税先送りか、と。
結局、悲願の「10%』実現が優先されたということだ。
それでも、10月に必ず増税が実施されるという保証はない。
世界経済には減速の兆しが出ており、米中貿易戦争が先行きに暗い影を落とす。
この先、株価急落や円高の急進ということもありうる。
3年前、経済が比較的落ち着くなかで「リーマン・ショック級の危機」を消費増税先送りの理由にしようとしたこの政権が、今回ばかりは先送りしないといえるだろうか。
今年は統一地方選、参院選と続く選挙イヤー。
衆院を解散しての同日選説もくすぶる。
考えたくないが、選挙対策として「増税は延期、でもバラマキは実施」という究極のポピュリズムに走る可能性も、なしとは言えない。
年始の財界パーティーで象徴的なやりとりを見た。
財界代表の小林喜光・経済同友会代表幹事が冒頭のあいさつで今年の最重要課題として「消費増税」をあげた。
そして「重要なのは経済成長と財政健全化の両立。基礎的財政収支黒字化の達成に政官民がしっかり目標を共有し努力しなければならない」と訴えた。
経済界から政権へのメッセージである。
ところが、安倍晋三首相はこれを受け流し、あいさつで「財政健全化」に一切言及しなかった。
かわって強調したのが消費増税対策だ。
「前回の消費税引き上げで消費が落ち込んだ反省をふまえ、十二分の対策を打つ。引き上げ分はぜんぶお返しし、さらにお釣りがくる」
健全化とはおよそ似つかわしくない年頭所感だった。
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