2020年10月12日月曜日

鎮魂 石川啄木の生と詩想

           著者・遊座昭吾(ゆうざ しょうご)
発行所・株式会社里文出版、
価額は110円

いつのことだったか忘れたのだが、この石川啄木と東京芸術大学の教授のことを、新聞か雑誌から仕入れて、そのことをブログに書かせてもらったことがある。
ところが今回の本は、啄木に非常に近い人が著者で、著者①と啄木②は言うまでもなくシューベルト③に東京芸術大学の音楽部オペラ科の大町陽一郎教授④のことを揚げていた。この四人の相関関係と言ってしまえば、ちょっと下種(げす)なヤマオカらしいか?

この本もいつもの通り古本の安売り店で買ったもの。
最初の2,3ページまで読んで余り興味が沸いてこないので、枕の奥に置いておいた。
必ず読みたくなる日がくるだろう、その節にはゆっくり読もうと決めていた。ところが、10ページ辺りで思わぬ内容にギョットきた。

繰り返すが、四人とは著者と啄木、大町陽一郎教授とシューベルトのことだ。


岩手県盛岡市渋民にある万年山宝徳寺に啄木の父・石川一禎が入山した。
その時には幼い啄木もこの寺で過ごした。
この本の著者である遊座昭吾の父が祖母と共にこの宝徳寺に迎えられ、啄木の父一禎が住職を罷免され、石川一族は寺を去ることになった。
著者が石川一族について知り始めたのは、祖母の怨念に満ちた断片的な語りからである。
そして、やや正確に啄木のことや、石川一族と遊座家との因縁を知ったのは、父のことばからであった。
父のことばは、しかし醒めていた。
啄木の愛好者が訪れると、かって啄木の愛した部屋に通し、時を惜しまず、楽しげに語り続けていた。
祖母の怨念は、何故か父に継がれてはいなかったようである。
著者の兄の心入れで、一偵和尚の墓も、著者の父、兄、祖父とともに万年山の墓所に眠り続けている。
境内に歌碑を建立し、啄木一族の鎮魂に努めた。


この四人のこととは、、、、この本「鎮魂 石川啄木の生と詩想」より。
国際啄木学会北海道大会(1993)で、私は大きな人との出会いをもった。
世界的に活躍されている指揮者で、現在東京芸術大学の大町陽一郎教授である。

だが、そうした世界的音楽家である大町氏と国際啄木会とは、私の気持ちの中でどうも結び付かなかった。
しかも、大町氏は大会の全日程に参加されたのである。

だから、私は敬意をこめて、参加への謝意を述べたが、「それにしても、先生がどうして啄木をーーーー」と付け加えねばならなかった。

そのとき、即座に返して下さった大町氏のことばに、私は衝撃を受けた。
「私はどうしても啄木の歌を読んでいると、シューベルトの音楽が聞こえてくるのです」と前置きし、啄木とシューベルトに対するご自身のの思いを熱く語って下さったからである。

世界の音楽を胸に、心にふくみ、その音の世界に常に臨んでいる音楽家が、人と生活と自然をうたう啄木の三十一文字を、音に翻訳し、それをシューベルトの音楽に同調させている。
私の受けた衝撃は、啄木の歌が音として西洋音楽に通じていることへの驚きであった。
「トーンディヒター」、「音の詩人」と称され、チフスで三十一歳で亡くなった西洋、西洋のシューベルト。
一方、国民詩人と呼ばれ、胸の病で二十六歳で亡くなった東洋、東洋・渋民の啄木。
ともに放浪し、漂泊した。
だがそのような短い生涯の中で、一人は抒情的音楽を創造し、音楽の歴史にエポックを画した芸術家、かたや抒情的文学・歌を創造し、万葉集以来一行で記すきまりを、三行書きにする異形のスタイルを編み出して、歌の文学史に登録された芸術家である。

この二人は、ともに世間の習慣にこだわらず、自由に生き、それだけに苦悩し、自己の芸術の峰を築いた音楽家、文学者である。
たしかにその生き方は似ている。
それにしても、世界的音楽を知り尽くし、その音楽を胸の中で奏でられる大町陽一郎氏の言葉には驚いた。

2020年10月2日金曜日

抗議のマスクと一編の詩

 20200927朝日新聞・朝刊/総合3

日曜に想う 編集委員・福島申二

抗議のマスクと一編の詩


決勝までの試合数に合わせて7枚の黒いマスクを用意し、すべてを使い切って頂点に立った。マスクには警察官などの暴力で落命した黒人被害者の名前が一人ずつ、計7人記されていた。

テニス全米オープンでの大坂なおみさんの思いの丈を表現した行動に、胸に浮かんできたのは、やはりこの一編の詩だった。川崎洋さんの「存在」という作品で、詩の末尾はこう結ばれる。


「二人死亡」と言うな

太郎と花子が死んだ と言え


人は誰もその名前でいとなまれた人生がある。かけがえのない「存在」を数字の中に置き去りにするな、という含意詩句であろう。それは3週間前に当欄に書いた、シベリア抑留犠牲者の名を読み上げる追悼にも通じるものがある。

忘れることにあらがう。思い出してもらう。知ってもらう。そして考えてもらう。大坂さんにも同じような意思があったことを報道で知った。

この人の言動には、人に何かを気づかせるものがある。「あなたの身に起こっていないからといって、それが起きていないということになりません」。5月にツイッターで発信された言葉に、黒人への差別という域をこえて、他者の苦難への無知や無関心にはっとさせられたのは、わたしだけではなかったと思う。

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大坂さんが優勝したあと、自宅の本棚から、米国の批評家で作家だったスーダン・ソンタグ(2004年没)の「他者の苦痛へのまなざし」(北条文緒訳、みすず書房)を抜き出してみた。

こんな個所に傍線が引いてある。

「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない」

そう考えることが大切と著者はいう。

「特権とは富豪とか高貴とかいう意味ではない。たとえば、日本のようにまずは穏やかに統治された国に居住し、抑圧されたり、飢えたり、戦火におびえたりせず、遠くの人々の苦難をニュース映像などで視聴できる立場にいることをさす。つまり私たちのことである。

同情は無責任だとソンタグは言う。善意であっても同情は「われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する」からだ。理不尽は私のせいではないし、私にはどうしようもないーーそうした意識のことだろう。言われてみれば同情にはどこか甘美な諦念が含まれている。

思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。


遠くのできごとに

人はうつくしく怒る


自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

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チャップリンの名作「独裁者」が米国で公開されて80年になるという。世界にファシズムの暗雲が広がった時代、映画の結びのヒューマニズムあふれる名高い演説は多くの観衆の心を打った。

「わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです」--。時をへた今も演説の一語一句が胸に響く。言葉の輝きが失せないのは、しかし、おびただしい「理不尽な不幸」が地上から消えていない証しでもあろう。どの国に生まれたか、どんな肌の色、どの性で生を受けたかーーそうしたことによって尊厳がひび割れてしまう世界は21世紀も続いている。

大坂さんの「抗議のマスク」には批判もあると聞く。しかし勇気とともに行動に移した胸中には、こんな言葉が鳴っていたのではと想像したくなる。「君が他人の始めるのを待つ限り、誰も始めはしないだろう」。反戦の哲学者、フランスのアランが残した忘れがたい真実である。


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追記

 人種差別撤廃を訴え、黒人被害者の名前入りマスクを着けて今年の全米OPに臨んだ女子テニスの大坂なおみが、12日の決勝戦後にその意図について、「人々が議論を始めるきっかけを作りたかった」と語った。ニューヨークで8月31日から9月12日までの間に撮影(2020年 ロイター/Robert Deutsch and Danielle Parhizkaran-USA TODAY Sports/via REUTERS)

[ニューヨーク 13日 ロイター] - 人種差別撤廃を訴え、黒人被害者の名前入りマスクを着けて今年の全米オープン(OP)に臨んだ女子テニスの大坂なおみが、12日の決勝戦後にその意図について、「人々が議論を始めるきっかけを作りたかった」と語った。

大坂は12日のシングルス決勝を制し、自身3回目となる四大大会優勝を飾った。日本人の母とカリブ海の島国ハイチ出身の父を持つ同選手は、1回戦から決勝までの試合数に合わせて用意していた7枚の黒人被害者の名前入りマスクを全て着用。最後のマスクには、2014年に米オハイオ州で警官の発砲を受け、12歳で亡くなった黒人少年タミル・ライス君の名前が入っていた。

決勝戦後のインタビューで、マスクを着用した意図を聞かれた大坂は「人々が(人種差別についての)議論を始めるきっかけを作りたかった」と回答。「より多くの名前を見せたいと思ったことで、もっと勝利したいという気持ちが湧いたように思う。それが私をさらに強くした」と続けた。

2020年9月25日金曜日

宇治茶を餞別に

 餞別とは、転職や退職、あるいは旅行などに際して会社や友人から贈ることが、一般的に常識。今回は私の感謝感謝の退職だ。此の12月15日に私は(株)パラディスハウスを退職する。並ある品々のなかから宇治茶を選んだ。私の方から今までに何かとお世話になった方々にお礼を込めてお贈りしたいと思った。それで何でお茶なのかと思われる方もいらっしゃると思い、この一葉を書いてみた。先日、生家の跡取りの甥っ子(兄の子供)と、お茶のことを話す機会があった。

私の生家は京都府綴喜郡宇治田原町南。郷里は宇治茶の産地だ。

2003年(平成15年)、宇治茶ブレンドの定義を(公社)京都府茶業会議所 京都府茶業組合で決めた。何故なら、子供の頃、私の生家の100メートルそばの茶問屋に静岡や三重から大きなトラックにお茶を載せてやってきた。その茶を茶問屋の倉庫に降ろしていた。その茶問屋と私の生家とは遠い遠い縁戚関係にあった。その他県から運び込まれた茶を多分80%宇治茶を多分20%と和合させて、ここからが一芝居、それを何食わぬ顔をして宇治茶として堂々と販売していた。子供の頃、そりゃあペテン師やと思っていた。そんな悪例のまま、今後も継続していくわけにはいかないと判断した。

宇治茶を名乗れる生産エリアを決めた。その京都府内の宇治茶産地とは、宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、木津川市、久世郡久御山町、綴喜郡の井手町・宇治田原町、相楽郡の笠置町・和束町・精華町・南山城村である。宇治茶レベルの定義を、京都府内茶葉を50%以上その他の茶葉を奈良、滋賀、三重産に限ってブレンドをすることとした。

甥っ子の従兄弟が小さな茶問屋をしている。茶の生産農家がどのように販売して収入にしているのか、色んな方法があることを知った。この従兄弟は規模は小さいながらも「茶師」としていい仕事をしている。大きな茶問屋に買ってもらって、その茶はスーパーや百貨店で売ることもある。が、そんな大雑把な遣り方ではなく、限られた顧客に限られた期間、お任せのように売ったり買ったりしてもらう。この仕組みこそ狙いたい手法だ。この仕組みを平滑に行うためには、茶師の腕が物をいう。父や兄貴がかってやったことのない手法を、甥っ子と従兄弟は粋に感じているようにみえた。

茶畑と言っても、大きな山や谷を大きな規模で開発しているものだから、北、南、西、東面のものがあり、この各面に育った茶を微妙に配合して、茶の精度を高めた。その不思議な混ぜ合わせが偉大なのだ。この采配をするのが従兄弟の茶師さまだ。我が家の茶がどの品評会においても、特茶まではいかなくてもレベルの高い商品を作り上げている。

私の郷里は、江戸時代の1738年に「永谷宗円」が製茶方法を丁寧な方法に改めて「青製煎茶青製法」を創出したその村だ。

この製法で優良な煎茶の方法を編み出し煎茶の祖と呼ばれた。これまでにない緑色の香りは、江戸市民を驚嘆させた。宗円が生み出した製法は、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となった。1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品となった。

子供の頃、我が郷には幼稚園がなく、それでも農家がお茶造りで大忙しの状態なので家族の誰にも手を懸けられない。そこで役所や学校が考えてくれたのが託児所の運営だった。お茶摘みの時期、小中学校の授業は4月半ばから6月の半ばまで午前中だけ。託児所の先生は学校の先生であったり、茶に携わらないお家のお母さんだった。みんなで楽しく遊ぶことよりもおやつが楽しみだった。少し残ったおやつを祖母のために持って帰った。私は託児所のことが気に入ったけれど、兄たちは行かなかった。

貧農だった生家は、私の祖父が本家・山岡家から分家した。父と兄はその貧しさから何とか脱却したいと思い、10人ほどで組合を作り区有林を茶畑に開墾した。この茶畑は立派に成長した。そして、甥っ子も、米作りよりも茶畑に傾倒、兄と同じように組合を作って区有林を茶畑に開墾した。開墾したのは20年ほど前のことだったが、今は立派な茶畑になっている。甥っ子の年齢はまだまだ若い奴と思っていたのだが、その仕事ぶりは立派なモノだ。小さな村だけれど11人ほどの仲間は、同志をもついい奴ら。仲間の仕事を、自分の仕事の様子を図りながら、互いに助け合う。手伝ってもらっても、お金の遣り取りはなく、肉体労働のお返しは肉体労働で返すのだ。暇を見つけては誰かの家に集まって、お菓子を食べ、酒を飲んで、それぞれの畑の肥料の塩梅(あんばい)を察し合った。

生家が茶の農作面積を増やしたのには、もう一つ理由がある。茶の生産から離れる人が増えたこと、農業から身を引いて都会に引っ越す人が増えた。茶畑から身を引いたからと言って、茶畑の管理まではできなく、周囲の茶業に励む人の気をもんだ。結果、よろしければ私の茶畑も一緒に面倒みてくれませんか?とお願いに来られる。茶畑を自由に放縦されておくと、周りの誰もが困った。そんなことが彼方此方(あっちこっち)であり、耕作面積はものすごく広がった。前のような状態ではなく、大きな畑をすっかりそのまま預けられることもしばしば。甥っ子の人間としての品格がよろしいのだろう。

千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられた。15年ほど前に作家・野上弥生子の「秀吉と利休」を読んで、利休の茶を振る舞う行為や草木草花への美の追求の激しさに驚いたが、それよりも秀吉が利休に切腹を命じたことは解らずじまいだった。秀吉の嫉妬のために切腹を命じられた千利休だが、公的には「天下人の嫉妬」という名目で切腹を命じることはできない。そこで、秀吉の部下の石田三成は以下の二つの罪を挙げることで秀吉の千利休の切腹の命令を執行しようと試みた。1、大徳寺山門(三門)の金毛閣に安置された千利休の木像が不敬であること 2、茶道具を法外な高値で売り、売僧(まいす)と成り果てていたこと ※売僧(まいす)とは、①僧でありながら物品の販売などをする堕落僧、または僧をののしっていう語  ②人をだます者

お茶の歴史をネット情報を借りて綴ってみているが、大学の入試で日本史を選択したので割と記憶に明細である。

Ⓐ お茶は日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた。平安時代に遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定される。

Ⓑ鎌倉時代。日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われていることを見聞きした。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説いた。栄西は深酒の癖のある将軍・源実朝に、良薬としての茶に添えて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されている。

Ⓒ室町・安土桃山時代。足利義満は宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成された。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工された。15世紀後半に村田珠光は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(じょうおう)、千利休らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。千利休は「茶聖」と呼ばれた。

Ⓓ江戸時代。茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなった。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だしもの)ものだったようだ。







2020年9月17日木曜日

感謝感謝の「惜別の辞」

 私は今日9月24日をもって72歳になる。生まれは1948年(昭和23年)。今年の12月で退職することになった。この機にこんな文章を創ってみたくなった。

よく頑張ったと思えば嬉しいのに、なんだヨそれきりっかヨと思えば悲しみが溢れてくるのはどういうことだろうか? 人生の岐(わか)れ道にいるからだろうか、此の訳(わけ)は人間・ヤマオカの変チョコリンの故か。

そんな気概はちょっと脳外に追いやりながら遣らなくてはならないことがある。それは、年末を控えての忘年会、肝心なのは送別会だ。大人数による宴会は避けなくてはならない。新型コロナウイルスの感染予防のために3密を厳しく避けなくてはならないからだ。そんな理由で、その類の宴会は避けられたら避けるべきだと思う。

でも私には私なりの都合があって、どうしてもやり尽くしたいことがある。それは、大学時代の友人や会社での皆さんに対して「有難う」と述べたいことだ。素浪人の2年間と大学の4年間、この会社の始まりから今までに約40年勤めあげたことになる。感謝の気持ちだ。

どうしても、京都府の貧農の家で生まれて地元の小中学校、京都府立城南高校を終えて2年間の浪人生活の末、早稲田大学のサッカー部に所属した。全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権大会の2冠に輝いたことだ。恥ずかしながら、サッカーの技量に貧しい私だって、関東で2回全国で1回出場させてもらった。早大のサッカー部史上、極めて稀な選手だったようだ。生家にも電話でその快挙を告げたけれど、嬉しいの一言も言ってくれなかった。父母も兄も、スポーツについては無関心だった。

高校三年生の秋頃。当時3年生は二人だけで、その友人に「お前、高校卒業したらどうするんや?」と尋ねると、「俺は中京大のスポーツ科学部に入って、サッカーをやるんだ」と答えた。その返答を聞いて、俺は何も考えてなかったことに、血も骨も疼(うず)くショックを受けた。

それから、私は私の戦いに突入することになった。今まで、家族の誰にも大学進学の話をしたことはないのと、勉強だってどの教科にも赤点を受けないだけの貧相な勉強ぶりだった。就職については、生家の遠い親戚が田舎では大きな茶問屋をやっていて、その会社の大阪支店開設の要員、茶師になることだった。

友人からの返答のあと、2年間かけて勉強をすることを決意した。どうせ大学に入るなら、サッカーに関して日本一の学校は早稲田、他にも法政、明治、中央を受けた。早稲田大学にどうしても入りたいと思う気持ちは高まり、心臓までもがブルブル、ドクンドクンと鳴りはじめた。受験した学校はどれも合格した。主目的なのがサッカーをやることだったから、勉強だってより深くより広くやることはない、過去の入試問題集を知るだけで大いに理解できた。

受験勉強の方法は簡単に見え透いた。ここで脳の中心の鍵となるのは、当時旺文社が纏めていた「基礎力水準法」だった。この法則に則って英語、国語、日本史をやる。英語は赤尾好夫の「豆単シリーズ」の基本単語集、基本熟語集、書き換え特集だけをやる、そして70点以上を確保。国語はあれもこれもやらないで、唯、新聞を隅から隅まで読み、書き、読解することを徹底的にやって、試験では70点を確保。そして日本史については、どんな問題が出ようがどんなことをしても90点以上、95点を確保すること。そうすれば、希望している学校ならばパスすることは解っていた。焦ることはない、2年間でやりきればいいのだ。

そして受かったとして、4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料はどれくらい確保しておかなくてはならないのか、ぴったりした数字は解らない。何故、そこまで気持ちを高ぶらせているのかと言えば、この費用の全てを自分がこの2年間の浪人生活のアルバイトで稼ぎたいからだ。親のお世話にならないで、自らお金を貯めるのだ。その結果380万円なのか480万円なのか手に持つことができ、農業協同組合の貯金にして母に任せた。浪人生活の2年間の、1年目2年目は半年はドカタ稼業、半年は受験勉強。関西電力の山を越える鉄塔建設の基礎工事がメインだった。浪人生と言えども頂く賃金は大人の90%程度、そんなとんでもないことを友人らには話せなかった。

大学へ入学後、そのお金から私が連絡する毎に、母が送金してくれた。その送金の作業をしてくれたのは郵便局の小中学校同級生のHさんだった。母に任せたお金には当然のように限界があるので、送ってもらうお金はギリギリの限少にしたので、私の生活は嫌になるほど貧困だった。それでも、学生仲間はよくぞ気持ちよく付き合ってくれたものだと感謝している。私の生活費から授業料のことを仲間に、これほど細かく話したことはなく、皆も知ってか知らずかよくぞ付き合ってくれた。数多の先輩、後輩と同輩、監督、コーチに感謝、感謝の大乱舞。

練習は絶対休まなかった。学校へは行かない、そんな時間があったら何でもいいから自分一人でできる練習をやった。レギュラータイムの練習が始まる前の1時間は近所の中華料理屋さんでアルバイト、練習が終わったころにやってくる早稲田実業の練習にも参加、その練習が終わっても私は一人グラウンドに残ってヘッディング、ランニング。練習休みの月曜日には走りまわった、吉祥寺、三鷹、武蔵境、国立、上石神井、井の頭公園、石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、多摩湖までだ。3年生の夏休み、新宿駅から数分のところで京王プラザホテル新築工事の窓側のコンクリートの枠組みを作った。これも、何人もいた大学生のなかでトップクラスの日給をいただいた。昭和45年11月25日、作家・三島由紀夫が盾の会を率いて、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、自らは割腹自殺した三島事件の報道を観ながら、ダンボール会社でアルバイトをしていた。

そうして、縁あって西武鉄道の基幹会社である国土計画(株)に入社し、同期生と違って私だけは国土計画、プリンスホテル、西武鉄道、伊豆箱根鉄道、近江観光の慣れない宣伝部の企画を担当をさせてもらった。そんなお勤めが10年間。その業務のなかで和田さんとも付き合うことができ、その後色んなお世話になることとなった。

33歳頃、そんな手慣れない仕事に邁進していた矢先、隙間風が吹いたのだ。午前中に吹いた隙間風の勢いは、午後に直属の部長に退社願を提出していた。余りの急転直下の激しさに、女房も空いた口が塞がらない状態だった。そんなことに、私はメソメソする男ではなく、たまにはこんな自由自在奔放な時間を過ごせるのは、棚から牡丹餅の心境だと思った。

そして西武系会社からの退社。アーバンホームズの設立になった。私が33歳の頃だと思われるので約40年前のことだろう。その後の仕事については何も此の書にて公に話すことはない。アーバンビルドの破産から破産を何とか乗り越える努力は、中村社長をはじめ皆さんの努力が実を結ぼうとしている。破産はしたけれど、どこまでもやれるだけやりたいと歯を喰いしばってくれた中村社長。驚くことなかれ、今、立派な会社に様変わりした。

和泉、海老沢、桜庭、古舘、坂西、向坪さん。小さな子供育ちで大変な時期だった和泉さん。某住宅メーカー出の設計士の桜庭さん。ある施設のレストランで調理部にいた古舘さん。弊社が協業していた会社から坂西、向坪さん。入社について私が骨を折ることもなかった人々も何人もいる。今一度我が社に戻ってきてくれないかとの声に、その気になってくれた浅見、細川、佐藤さん。彼たちは仕事に夢中になってくれた。この人たちの応援、協力に感謝したい。

そして今から7年前、私は樹木の上で枝を切る作業をしていて頭から落ちて重症を受けてしまった。前面の道路に落ちたのだが、頭のどこが路面に直面したのか記憶がない。2,3日の意識不明のころは、無意識に布団の何かを必死で噛み切ったり、夢中でシートを引きちぎった。4か月の入院生活でなんとか人並みに喋れるようになり、車椅子を脱却して歩くことだってできるようになった。そして、退院して自宅に戻りたかった。

それから高次脳機能障害に対するリハビリテーション専用の病院に転院した。この障害とは、てんかん発作に各種の精神症、記憶力の低下、言葉をうまく発音できない、ものの理解が上手くできない。治りたい意識が先行し、看護婦さんや医師に対してもいい患者になりたかった。でも、夜中に聞こえる隣りのベッドのオジさんの話を異常なことを目論んでいるのではないかと思いこんだ。それを看護婦さんや私の見舞いに来てくれた人びとに話して、山岡さん、あなたは狂っているよ、と「変な一言居士」扱いにされた。退院後、昼間だって一人で歩くコンクリート階段が怖かった。夕刻、電信柱の陰に何か不思議なものが潜んでいるのではないか、遠くから見る商店の看板の絵柄が恐ろしいものに見えて近づくのが怖かった。

それからこの落下事故とは関係ない筈なのに、サッカー部時代に痛めた腰回りの骨がガタガタになった。腰椎椎間板ヘルニアの発生だ。お尻や足の痛みが激しく、しびれが筋肉の隅々を走った。腰や足が動かしにくくなり、力が入りにくくなった。皆と一緒に歩くことが辛(つら)かった。落下事故とこの腰痛で、気分がほぐれなくなった、辛かった。

この文章の題字に『感謝感謝の「惜別の辞」』としたのは、浪人時代と大学でのサッカー部、新しく創った会社でのドタバタ劇、落下事故と腰痛において、私は幸せにも沢山の友人や理解者に囲まれたことだ。こんな、幸せな時代に巡り合えたこと、私を支えてくれた人々の援助、協力に感謝したいことが、文章を綴る原因になった。

★郷里・京都府綴喜郡宇治田原町では、鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代に「永谷宗円」が現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法を開発した。
よって、永谷宗円のことを日本緑茶の祖と言われている。
我家は祖父が本家から分家をして生家・山岡家は生まれた。
当時分家の時にいただいた田畑だけでは裕福に暮らせないと腹をくくった父は当時の金融業からお金を借りて、自分の代になって倍以上の田畑を耕作するほどまでに成長した。
父が亡くなって、兄と私で不動産の登記済み証なぞをチェックしていて、新しく取得した田畑や、銀行との間で交わした金銭消費貸借契約書を見つけて二人は吃驚した。






2020年8月27日木曜日

小さな大きい命を救った!

「全国的に見ると、だいたいピークに達したというのが私どもの読みです」と、新型コロナ感染症対策分科会 尾身茂会長は20200819に話していた。

何日間も連続で真夏、猛暑に追われ、雨も降らない日々が続き、そんな環境でも新型コロナウイルスを何とか避けようと、必死で生きている。誰よりも血の気が多い私の頭は破裂せんばかりに炎状している。この天気日和(びより)の陽の差し具合を猛(烈)射とでも言うのだろう。

私にとって暇を弄ぶことは避けたい念から、真夏日であろうが、どのような日であろうが、1日、1万5千歩から2万歩を歩き切ることだけはやろうと決めている。日によっては2時間から3時間要することもある。苦しいこともあるが、不思議に快感を得られることだってある。

8月18日のことだ。自宅からJR東戸塚駅西口を通って戸塚カントリークラブのコース脇の道路を通って相鉄線二俣川駅を目指していた。そして我が愛する農園・イーハトーブで作物の成長ぶりを観て帰る心算だった。

二俣川駅の手前にある大池町の「こども自然公園」の入り口付近の道路上に何か黒い塊があって、車道を走る車は、上手い具合にその黒い塊を避けて通っていた。

その様相が余りにも異様に見えたのだ。ゆっくりゆっくり歩道から見つめてもその正体は見破れなかった。でも、すんなりと見過ごすわけには行かなく、上下からの車がないのを確認して近づいた。

カメを飼育してみよう!飼育に必要な水槽、設備から人気の種類まで徹底解説
亀(ネットでお借りした)









そしたら、その黒い塊は亀だった。
縦40センチ横30センチ。頭というか首というか、手足と共に甲羅に埋めたままなので、心配になった。
きっと、100メートルほど離れた「こども自然公園」の池に棲んでいた亀が、池だけでの生活に飽きたのか、同じ遊水地にいつまでも居られないと思ったのか、新たな生活圏を目指したのだろう。

たった15メートルほどの車道をたやすく歩き切れないのだから、さぞかしここまで長時間必要だったのだろう。
それとも、他の亀に言うに言われぬ秘密の深夜暗夜行路だったのだろうか。

亀だと判断する前にはスッポン(鼈)ではないかと思った。
優れた運動性があり、特に夜中に動き回ることが多いので、イメージとしては瞬間的にスッポンだった。
でも甲羅に埋もれた手足や首・頭のことを考えるとスッポンではなかった。
すっぽん飼育 すっぽんにエビをあげる : 幸せを探しだすこぶた
スッポン(ネットでお借りした)

車道の中に身動きしないでじっとしている亀を、思い切って両手でぶら提げ車道の傍の土手の雑草の中に手離れした。彼は喜んだのか面白くなかったのか、少しづつ手足を動かした。
長距離の散歩中の私だから、これ以上のことはしてやれなかった。
人の目に触れて捕まえられることもないだろう、大きくなった亀を捕らえて、さほどの喜びなんて得られるわけではない。

私にとっても、他人に言うに言われぬ褒められるような行為は、ものの見事にない。
せめて、大きな亀の命を少しだけのことで救えたのなら、危険から少しでも避けられたのなら、、、、、私の情けない独り言(ごと)なのだが。







2020年8月10日月曜日

後輩が夢枕に立った!

私が大学を卒業したのは昭和48年の3月、ほぼ50年前になる。
昭和23年9月の生まれなので、24歳だったと思うが、詳しいことを理解しないままなので、多分そうだろうと思われる。
大学を目指したのは、唯(ただ)サッカーをやるためだった。

だから、できるモノならば、大学界最高の学校に行きたいと自分の能力とは関係なくひた走った。
結果、目論んでいたその学校に何とか合格できたものだから、嬉しさ溢れてその学校に入った。
怖いもの知らずの、生意気な少年だった。
その学校のことを、今後の文章に「都の西北」と名付けていきたい。
ラッキーにも法政、明治、中央大学にも受かったものの、当てにしていた学校に受かれば、申し訳なく思う。
都の西北のサッカー部に4年間在籍したことはしたが、私はサッカー部の「屁(へ)の突っ張り」にもならない役立たずのまま、でも立派な先輩や後輩に恵まれて何とか遣りきれたとと言えば、遣りきれた。
大学の豊かな歴史と面倒見のいい先輩がいてくれたこと、それからそれから卒業してからもいい後輩たちとの交流があったからこそ、今のこの私がいられるのだろう。

今回ブログを書きたいと思いついたのは、不思議なこと、都の西北のサッカー部の一年後輩が、一週間前の真夜中、私の夢の中に現れたのだ。
卒業後何にも連絡など取ったこともない秋田県出身のキーパーからだった。
この夢のあらましを「夢枕物語り」とする。
この夢枕物語りを語る前に、私自身のどうしても話さなくてはならない事情があるので、そのことを話させてください。
私の家族には特別な事情があったのです、その事情に何食わぬ勢いで進んでいった。

心豊かな先輩や、何をどう理解したのか私に微笑みかけてくれる後輩たちに感謝しながらも、私の心の内には得も言われる魔物がいたのも事実だった。
その魔物と共生すること、背に負った浪人中の負荷、そんな青春の憂愁に染められていた。
この青春の憂愁をここで詳細に記述するわけにはいかない。
きっと2,3年後に私の生まれから、現在に至るまでの歴史を纏めるつもりでいるので、その巻までお待ち願いたい。
その一部は下記のことだ。
大学のサッカー部の人たちは一般的にどのようにして学生生活をしているのかその生活そのものは当然、学費や生活費の遣り繰りはどうなっているのだろうか。
どれだけ予算付けているのか、当方は考えたこともなく露ほども想像なしに、大学進学を決めてしまった。
京都からは当然遠く、隣の宇治からも随分離れた素寒貧な村に育った。
この田舎のことや私の家族の特殊な事情を話さなくては、話にならない。
不思議なことに、私自身が両親に相談もしないまま、受験シーズンに入った。

永谷宗円生家
永谷宗円の生家

郷里・京都府綴喜郡宇治田原町では、鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代に「永谷宗円」が現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法を開発した。
よって、永谷宗円のことを日本緑茶の祖と言われている。
我家は祖父が分家をして山岡家は生まれた。
当時分家の時にいただいた田畑だけでは裕福に暮らせないと腹をくくった父は当時の金融業からお金を借りて、自分の代になって倍以上の田畑を耕作するほどまでに成長した。
父が亡くなって、兄と私で不動産の権利証なぞをチェックしていて、新しく取得した田畑や、銀行との間で交わした金銭消費貸借契約書を見つけて、二人は吃驚して確認できた。
上記のことを克明に描き切ってみたいとおもっている。

家族と入学金、授業料、生活費、その他について、何も相談することなく自力で賄った。
世間の一般学生は兎に角、私は家族のお世話にならなくて自ら稼ぎ出し、その金で4年間を遣り繰りして見せる。
2年間の浪人生活、半分を学習に半分を土方(どかた)稼業で稼いだ。
農協の貯金通帳に積み上げた貯金は480万円か370万円?定かではないが何とか4年間は親からの仕送りなしでやりきれるだけの自信はあった。
こんな無鉄砲なことを思いついたのは流石だと思う。
入学してみんなと一緒に練習しても、そのレベルの低さには「インド人も吃驚」どころの騒ぎではなかった。
このサッカーに関する技術力の低さは、私の頭をグルグル巻きにした。
そんな4年間、先輩のほとんどの人は、私の頭を割り切って理解してくれそうにはなかった。
そして、私の脳構造は反比例して悪化していった。

そんな学生時代の4年生の時に、秋田県出身のキーパーに田舎に来ないかと誘われて、キーパーの生家に泊めてもらい、秋田の有名どころをキーパーの父に連れてもらった。
生家でゆっくりしていた時に、私はお金も何もない癖に、私の実家はお茶の生産農家なので、来年、新茶ができたころ送らせてもらいますよ、と言った。
その言ったことを決行することなく、50年近く放(ほう)りっ放う(ぱな)しにしてしまった。
今回のキーパーの夢枕物語りは、そのことなのだ。
それを思いついたのかどうかは分からないが、ヤマオカさん、まさか忘れてはいないでしょうね、と言う意味だったようなのだ。
この夢を見た時の私の驚き様は並みではなかった。
体の全てが、電気をかけられたように振るいだし、トイレに行って水をがぶ飲みした。












2020年7月27日月曜日

牛蒡(ごぼう)を創っている

 果実
 
牛蒡


Arctium lappa
生育中の牛蒡

今夏、我が愛しの農地・イーハトーブで初めて牛蒡(ごぼう)の生育に力を入れることにした。
どうして「ごぼう」が漢字で牛蒡と書くのだろうか、と思いきや中国植物名(漢名)では、牛蒡だとあった。
牛蒡は、「うまふぶき」とも読むらしい。
牛を「ご」と読むようなのだ、漢字も難しい。
私が生まれて育った京都では、牛蒡のことを「ごんぼ」と呼び、金平(きんぴら)牛蒡にしてよく食べた。
父が畑を2メートル近く掘り下げ、その列の上に畝を30センチほど盛り上げて種を蒔いた。
何本かできた作品のなかから上等のものをひとかかげ作って、農業協同組合が主催する品評会に出展して、いい成績を得ていた。


イーハトーブは元々宅地で、深く掘り下げることができなくそれはそれで諦めた。
2か月半ほど前に蒔いた種から芽がを出て、その芽がものの見事に生育していることに、今の状態については十分満足している。
芽から茎、葉になるまでは異常に調子がいい、このことについては義父も感心した。
化学配合飼料を適当に撒いたものが、良かったのか悪かったのか、これからの生育振りを確認したい。
理解しないで肥料を上げるものだから、さ~てどう~なることやら。
営農の知恵の豊富な、隣で野菜を作っている義父は、ヤマオカさん、心配することないよ、間違いなく好い根ができますよ、と太鼓判を押してくれている。
義父を信頼してないわけではないが、今後の地中のことはワ・カ・ラ・ナ・イ。
私の貧困な脳は、余りに茎と葉が立派過ぎて心配度は高くなっている。

そう言えば、芽が大きくなってから、間引きをしてないことに気付いたが、今回はこのまま突き進んでいくことに腹をくくった。
3週間前に、根の部分に盛り土をした。
誰かに指導を受けたわけではないが、少しは土を盛り上げた方が豊かな根が生まれるんではないかと勝手に思い込んだ。

牛蒡はユーラシア大陸原産のキク科ゴボウ属の多年草。
日本へは平安時代に中国から薬草として伝わった。
食用にするのは日本と朝鮮半島の習慣で、ユーラシア大陸北部や中国では薬用として使っていた。


金平牛蒡

立派な牛蒡が出来て、立派な金平(きんぴら)牛蒡を作れたら、最高だなと夢見ている。
立派な創り方ではないが、何回か金平牛蒡を創ったことはある。
私の母は、牛肉と牛蒡と蒟蒻(こんにゃく)の炒め煮をよく作ってくれた。
生家の食事のおかずは少なくて、金平牛蒡をいっぱい作ってくれたのを、争うように食べた。
懐かしい田舎での思い出の光景だ。
牛蒡の香りや旨味は根皮に多く含まれているので、調理の際は皮を剥(む)かずに泥を洗い落とす程度にして使われる。

後方から、ほかの選手を一気に抜き去ること、または多数抜き去ることを「ごぼう抜き」と日常的に使った。
小中学校での私の英姿を思い出した。




★下は、ネットで得たものをそのまま転載させていただいた。

ゴボウとは

ゴボウを食用としているのはわが国くらいで、原産地であるユーラシア大陸北部や中国などにおいては薬用としての利用が大部分です。
シャキシャキした歯ざわりと独特の香りが日本人の嗜好に合うようで、きんぴらや天ぷらのかき揚げなどの他、煮物に用いたり、細切りにしサッとゆでてサラダにも利用します。
食物繊維は野菜の中で最も多く、低カロリーのため、ヘルシー野菜として見直され消費量も多くなってきています。

ゴボウには従来、根が長い滝の川群と太くて短い大浦群がありますが、大浦群は一般には見られません。
現在のゴボウ品種は、滝の川を代表とする長根種とそれらの改良型の短根種(太系も含む)が中心となっています。

家庭菜園では収穫までの日数が短く、掘り取りが容易な短根種(または太短根種)の栽培をおすすめしますが、耕土が深い畑では長根種の栽培に挑戦するのもよいでしょう。
他に、葉を食用にする葉ゴボウがあります。

ゴボウの生育適温は20~25℃で、地上部は3℃以下で枯れますが、根部は極めて耐寒性が強くマイナス20℃にも耐えます。

畑の準備

畑は水はけがよく、少なくとも3年はゴボウを作っていない畑を選びます。
タネまきの2週間以上前に、苦土石灰をまいて深く耕します。1週間前には完熟堆肥と化成肥料を施し、再びよく耕します。
その後、幅50~60cm、高さ10~30cmの畝を作ります。耕土が浅い場合は高畝にします。

〈POINT〉 堆肥は完熟したものを!

苦土石灰は1平方メートル当たり3握り(約150g)、堆肥(完熟)は約3kg、化成肥料(N:P:K=8:8:8)は2握り(約100g)とします。未熟堆肥や石ころ、かたい土塊などは岐根(また根)の原因となるので、完熟堆肥を用い、石ころやかたい土塊を取り除きます。

タネまき・発芽までの栽培管理

直径5cm、深さ1cmのまき穴を作り、あらかじめ吸水させたタネを1穴につき4~5粒まきます。
ゴボウのタネは好光性種子ですので、覆土はごく薄くします。
軽く押さえてからたっぷり水やりし、発芽まで水を切らさないようにします。
発芽(タネまき後10日~2週間)がそろったら1回目の中耕・土寄せをします。

〈POINT〉 こまめに除草する!

種皮がかたいので、タネを一晩水に浸して吸水させます。
株間は長根種と太短根種が10~15cm、短根種が3~8cmとします。
ゴボウは初期生育が遅いので、雑草に負けないようにこまめに除草します。

間引きから収穫までの栽培管理

間引きは、本葉1枚時(春まき:タネまき後30~40日)で2本立ちとし、本葉3~4枚時(50~60日)で1本立ちとします。
そして1回目の追肥・中耕・土寄せをします。その後、草丈が30cmになるまでに1~2回、追肥と中耕・土寄せを行います。
秋まきでの間引きは翌春本葉2~3枚の頃に1本立ちにします。

〈POINT〉 肥料不足にならないように!

追肥量は1平方メートル当たり化成肥料を軽く1握り(約30g)とします。
間引きは、葉が素直に上に伸びているものを残します。
ゴボウは比較的多肥条件が向いており、肥料不足になると、す入りが多くなります。

病虫害

ゴボウの病虫害では、連作による線虫の被害が大きく、岐根が多発するようになります。
この他、病害では黒斑細菌病、うどんこ病などが発生し、虫害ではアブラムシやヨトウムシ、ネキリムシ類などが発生しますので、早期発見、早期防除を心掛けます。

〈POINT〉 連作は避ける!

線虫の一種、ネコブセンチュウは多くの野菜に寄生繁殖するので、前作の野菜の根部を常に調べるよう心掛け、畑の選定に注意します。
イネ科植物、キャベツ、ネギなどとの輪作がおすすめです。

収穫

長根種は春まきでは150日前後、直径2cmほどまでに収穫します。
長期間収穫しないとすが入るので、適期に全部掘り取り、土をかぶせて保存します。
短根種はタネまき後約75日、太さ1.5~1.7cm、長さ30~40cmを目安に収穫します。
いずれも根が細くても(直径1cmほどから)若ゴボウとして利用できます。

〈POINT〉 若採りして風味を楽しもう!

収穫は葉を刈り取り、根の脇を30~40cmほど掘り下げ、根の首部を両手で持って、掘り下げた穴側にやや倒すようにして引き抜きます。
土つきゴボウの調理では風味を生かすため、皮はむかずにタワシなどでこする程度にします。