2007年5月30日水曜日

蟻の兵隊

2007年5月24日 19:15   テアトル大森(西友大森店 5階)にて


映画「蟻の兵隊」を観た。

監督:池谷 薫   製作:権 洋子   撮影:福居正治・外山泰三                  


音楽:内池秀和   音楽効果:鈴木利之   コーディネーター:劉 慶雲・大谷龍司


編集:田山祐介



この映画のことを語るには、まず「日本軍山西省残留」とは何なのか、ナンデ、そんなことが起こり得たのかを知らないと、理解できない。


よって、次の文章を読んでいただきたい。映画のプログラム(映画評論家・佐藤忠雄)から、転記させていただきました。一部に私が手を加えさせていただきました。


日本軍山西省残留問題とは?

日中戦争で敗北した日本軍・陸軍第一軍は、山西省で、その地にいた国民党系の軍閥に投降した。が、将兵59、000人のうち約2,600人がポツダム宣言に違反して、武装解除を受けることなく中国国民党軍に合流させられた。


中国国民党系軍閥の将軍・閻錫山(えん しゃくざん)は共産党軍との戦いに日本軍を必要とした。


終戦直後の8月31日、閻錫山は第一軍司令官・澄田中将を訪ね、第一軍全軍の残留を要請した。翌日、軍司令官・澄田中将は、全軍を残すことは不可能だが、一部であれば残すことも考えられると返答し、残る際には、自分の意志で残ったようにすることが、望ましいと伝えた。


軍司令官・澄田中将は、戦犯指名を受けていたので、本来なら軟禁状態であったはずなのに、閻錫山の顧問に就任し、作戦指導もした。


閻錫山から、残留を強固に要請された軍司令官・澄田中将と参謀長・山岡少佐は1万5000人にのぼる「特務団」の編成を命令した。


これらの命令は、閻錫山から第一軍に対する命令に基づき、参謀長・山岡少佐の名で指揮部隊に対する指示として出された。その内容は、軍司令官・澄田中将からの各兵団長に対する命令と考えられる。


こうした第一軍の不穏な動きは、やがて南京の支那派遣軍総司令部の知るところとなり、日本軍全体の復員を担当していた作戦参謀・宮崎中佐が急遽、山西省に派遣されることになった。


到着した参謀長・宮崎中佐は、ポツダム宣言や天皇にも背く特務団編成の事実に驚愕し、軍司令官・澄田中将や参謀長・山岡少佐に「閣下は、閻錫山が天皇を殺せといえば、殺すおつもりですか」と激しく詰め寄った。これに対し、二人は耳を傾けなかった。」


この企ては、アメリカ軍、国民政府軍、および日本の支那派遣軍総司令部の反対で一度は中止になったが、軍首脳はじめとする残留首謀者の画策は地下深く潜行した。


結果、4年間共産党軍と戦い約550人が戦死、700人以上が捕虜となった。



果たして、残留は軍の命令によるものだったのか、それとも現地除隊となった後に自分の意志で残ったものなのか。



政府が「軍命はなかった」とする根拠は、1956年12月3日付の厚生省引揚援護局未帰還調査部「山西軍参加者の行動の概況について」という文書と、同日に行われた「第25回特別国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」での参考人、澄田元第一軍司令官と山岡元参謀長の発言である。


質疑応答に立った澄田元司令官は「私は全員帰還の方針を堅持し、あらゆる努力をしたつもり」と述べ、山岡元参謀長に至っては「終戦後、軍の規律が乱れる中で、一部には飛び出した者もおり」と述べ、残留兵があたかも逃亡兵であるかのような発言をした。


この委員会には百々和(どどかず)元少将ら3人の下級将校も出席し、残留は軍の命令だったと口々に訴えたが、政府側は、高級幹部2人の意見を汲み、残留は兵士本人の意志によるものという見解を支持、


そして、映画は

日本中では、戦争が終わって新たなスタートを切ろうとしているのに、中国山西省では、日本軍の残留兵は、まだ戦争に関わっていたことに、私は驚いた。


日本兵はアメリカには負けたが、国民党軍に負けたとは思っていなかった。そこで、心無い司令官は、ここで日本軍を再建するのだと言い、共産党軍と戦うのだと煽った。


そんなことがどうして、起こりえたのか、不思議でもあった。


主人公役の奥村和一さんは、1948年(昭和23年)共産党軍との戦闘で重傷を負い、人民軍に見つかり捕虜となり、1954年(昭和29年)帰国を許される。


映画は、靖国神社の初詣の人ごみから始まる。初詣に来た高校生に、靖国神社には誰が奉られているのか知っていますか、と聞く老人が奥村さんである。


戦争で亡くなった人が奉られているんだよ、と知らされ、初めて知ったと言っては、屈託がない。


奥村さんは、独り言をつぶやく、「国に捕(と)られていって、人を殺した者が、何で神様になるんじゃ」と。上手く聞き取れなかったが、そんなことを言って、神殿には背を向ける。


ストーリーの後半でも靖国神社の初詣の様子が写され、小野田寛郎氏が朗々と何やら参拝者相手に演説をしている。本人は「生き神さま」のように振る舞い、観衆は大いに盛り上げていた。


喝采を受けて降壇した小野田さんに、奥村さんが質問する。「あなたは、靖国を~~」この内容はよく聞き取れなかったが、その奥村さんの質問に、顔を極端にこわばらせ、聞こうともしないで、奥村さんを罵倒した。


内容は聞き取れなかったが、私は、スクリーンを見ながら、この小野田という男の正体に疑問をもった。いかにも偉そうに、英雄然として、人を見下した態度は、全く旧日本軍の上官そのものだった。私がこの世で一番軽蔑する類の人物だ。


口論の内容は兎も角、私は、小野田氏を人間として直感的に尊敬できないと思った。恐ろしい人だ。


質問の内容は、多分、小野田氏に対して「あなたにとって、靖国神社は何ですか?戦争で亡くなった人のことをどう思いますか?人を殺してきた者がどうして英霊といわれ神として奉られるのですか?」このようだった、と推測できた。


そして、


奥村さんは、上官からの指示で初めて人を殺した中国山西省への旅にでる。初年兵の仕上げだと言われ、銃剣で中国人を刺し殺した。自分が殺したところを見取った中国人はいないか、と探し回る。奇しくも、奥村さんが中国人を殺したことを、その状況を見取った人が現れた。


自分の罪と真剣に向き合う奥村さんが美しく、その真剣さを大きく受け止める中国の人々がさらに美しい。真摯に自分の行動を悔い、厳しく自分を責める奥村さんに、中国の人は、どこまでも優しく、静かに応える。


その旅で、日本軍の司令官が部下を閻錫山に売って逃亡したことを証拠立てる文章が地方の公文書館の協力を得て見つかる。


と、同時に、日本軍が中国人に対して行った数々の残虐、残酷な行為を、自分が告白した文書まで出てきた。こうして旧日本軍を告発するために始めたものが、告発する本人自身の罪を白日の下にさらす自己批判となる。



奥村さんは宮崎舜一さんを病床に訪ねた、このシーンが脳裏から網膜から剥がれない。病院は、鎌倉だと思われた。私の知っている風景が、所どころで見受けられた。


宮崎さんは当時南京にあった支那派遣軍総司令部の作戦参謀・中佐だった。


山西省で歩兵残留の不穏な動きがあるのを察知して急遽、太原に乗り込み、第一軍司令官・澄田中将、参謀長・山岡少佐ら軍首脳部に残留部隊編成の中止を強く迫った。


彼の働きによって、組織的な残留工作は一度は撤回されるが、秘密裏に進められ、多くの将兵が悲劇に巻き込まれた。


病床に臥している宮崎さんは、撮影当時は97歳の高齢。脳梗塞で倒れてから、植物人間に近い状態。娘さんは優しく看護の手を添える。臥してはいるが、かっての軍人としての威厳ある雰囲気だけは、その寝姿にも衰えはなかった。


この威厳が突発するのです。


奥村さんが、宮崎さんに「宮崎中佐は、澄田中将や山岡少佐らに、残留させてはならない、と説得に行かれたのですよね」と質問したときに、宮崎さんは、言葉にはならない、あっああ~ともの凄い肉声を発した。死んだように静かに横たわっていたのが、奥村さんの質問に答えて、真っ赤な顔をして、気が狂ったのではないかと思われるほど、興奮した。


私は、こんな興奮状態が、後、少しでも続けば、宮崎さんは死ぬのではないかと心配だった。


が、奥村さんは、何回も質問を繰り返す。そのたびに、あっああ~と絶叫。当時のことに、担当軍人として、悔しさや憤りが一気に噴出したのだろう。


スクリーンを見ていて、怖かった。


ここまで書いてきて、忘れていたことがある。残留を画策した澄田中将、山岡少佐は、命を下しながら、自分たちは秘かに日本に帰国していたのです。卑劣な奴等だ。


人間一人ひとりを、鬼畜化した軍を憎む。


A級もB級も、松岡洋右も(元外相)、白鳥(元駐イタリア大使)も、東条英機から一兵卒、新米兵まで、人を殺せと指示した者、素直に従った者、誰もが自己批判せねばならないのでは、ないのか。そういう者たちの墓場が、何故、英霊として靖国神社なのだろう。


明治天皇がお決めになった「軍事的な局面で死を迎えた人を鎮魂するための靖国神社」だった、筈なのに。





映画の内容は、

日本軍の心無い司令官と参謀長に対する糾弾


国家への責任追求、政府の欺瞞


軍隊、戦争の持つ人を狂わせる魔物性


戦争に参加した罪と真剣に向き合う人間の姿と、何も反省し             ていない政治的側面


原告団、境遇を同じくした者同士の連帯


人間愛、家族 


靖国神社 人を殺した者が、殺せと言った者が、何故英霊


戦争被害者としての中国人


このようなものなのではないかと、思われた。


登場人物

・金子 傳(かねこ・でん)元中尉 


残留兵、人民解放軍の捕虜、1956年(昭和31年)帰国


・村山隼人(むらやま・はやと)元中尉


残留兵、大隊長から残留を命じられ、自分も残留するこ伝え                               部下42人に残留命令を下した。原告団長


・宮崎舜一(みやざき・しゅんいち)元中佐


支那派遣軍総司令部・作戦主任参謀


・劉面煥(りゅう・めんかん)


日本軍に拉致、軍事拠点に40日間監禁、強姦、暴行の被害を受ける。1955年、日本政府に損害賠償を請求訴訟をおこす。事実関係は全面的に認められた.


山岡様  残暑お見舞い申し上げます。 それにしましても暑いですね。  昨日終戦記念日に池袋新文芸座で〔蟻の兵隊〕を見てきました。 以前ブログで山岡さんが大森で観られた感想を読ましてもらって、 自分の会社でやっていた作品にもかかわらず、山岡さんから 初めて知らされたわけですが、残念ながら他ではやっておらず、 ネットで探していましたら8月15日に池袋でやることを知って いってきました。 びっくり仰天、開演ぎりぎりに着きましたが、なんと立ち見!! 久しぶりで立って映画を観ました。  奥村和一の筋金入りの闘う姿勢に感銘。 84歳で国を相手に、上官を相手に、戦友を相手に、そして 自分を相手に闘っている。しかもそれがこれからの国を憂いて 、これからの人たちのためにそして自分が生きてきた証のために 闘っている姿を見て、このエネルギーや精神力はどこから出てくるのか? 戦争の体験と不条理な国の仕打ちを後世に伝えようと老体に鞭打って 懸命に頑張っている姿。 憲法9条を軽々しく論じている今の政治家に怒りすら覚える。  62歳の洟垂れ小僧も闘う力をもらった気がしました。 有難うございました。                                  東京 T                                 まみむめも、