2010年6月16日水曜日

ピナのいない「私と踊って」

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20100611 横浜駅17:50 発の湘南新宿ライン、上り電車に乗った。会社のスタッフは、まだ仕事している時間なのに、私は厚かましく職場を後にした。新宿文化センターに向かったのだ。

開演は19:00。

昨年、ピナ・バウシュが亡くなって、恒例の日本公演はどうなるのだろうかと心配していたら、3月の頃友人が、天国のピナさんは来れないが、ヴッパタール舞踊団が6月に来るけど、行くのだったら入場券を買っておくがどうだ、と電話があった。この誘いは嬉しかった。

私が一人前にピナのことを、他人様に話すなんてことが、許されることではないということは十二分に理解している。それは、私の頭の中で、整然と理解されていないからです。彼女の舞踊の意味を語彙をもって表現できないのです。が、やはり、新宿文化センターに向かう私の足は軽い。

今回の演目は「私と踊って」だった。今回は、難しかった。ピナの舞踊を見た後は、いっつものことだけれど、その舞踊に私の体は激しく感応するばかり。舞台での言葉を解せない私は、必死で思いを巡らせ、ガタガタ、ブルブル、喉が渇いて頭が重い。

歌が多用されていた。

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女は踊って欲しいと男に求めている。男と女ーーー。山が荒れる。樹木がなぎ倒される。雪原が広がる。風が暴れる。そして、男と女の心が乱れる。

男と女が巡り会う。私たち何処かで会ったことない?/邪魔なんだよ、出て行け。さっさと、消えろ/来て、来て。私と踊ってよ、エプロンにアナがあくほど、強く。男と女は抱擁する。町には、男と女がたくさん乱れて愛し合っている/男はよかったと言い、女もうなずく/静かな島に男は椅子に座って、女は心地いい、恥ずかしい、よく夢を見るのと言い、男は愛の行為のとき、一番大事な部分は舌なんだ、と/また会えてうれしい。君にただ話をしようとしているだけだ。女は寒さに悲鳴をあげる/女七人が、他人の意思を自分を通じて又他人に伝える、その過程で意味は奇怪に変質する/男が女に話したーー眼の不自由な男が、美しい自分の妻に言い寄ってくるのを怖れていた。夜寝るときに彼女の両足を縛った、こんな話を聞いたことがあると/男は女を呼んだ。来るんだ。ゆっくり、横たわれ、仰向けに。俺に嫉妬させろ/さあ、脱ぐんだ、愛してるって言うんだ。愛してるわ。こっちへ来い。外へ出て戻ってきて、愛してるわって言うんだ/もう一度、僕を抱きしめろ。もっと強く/僕のせいだ、いいえ私のせいよ。私のせいよ、いや僕のせいだ/僕をどうして座らせておくんだ。座らせておかないでくれ。君の事なんて嫌いだ/ここへ来なさいと男は女を呼ぶ/来て、来て、私と踊って。

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そして、友人からプログラムを借りて読んで、やっとストーリは何となく理解は出来た。私には、考える力と感応する能力が連携して作用していないようだ。

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ピナ・バウシュのことばよりーー。

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思い起こせば、私は長いこと旅をしてきました。

私のダンサーたちと、そして一緒に働く人々すべてと。

 

私達の旅と友情を通して、私の人生は豊かで幸運に恵まれました。私が多くの人々に望むことは、自分と違う文化、その生活を知るということです。他人に対して恐怖や不安をもたずに、私達すべてをつないでいるものをはっきり見るようになることです。異なる人々が住んでいる世界を知ることが大切だと思います。

 

舞台の上でこそ得られるすばらしいことは、普通の日常生活で許されていない、またはできないことをしてもよいということです。時々、私達自身が、知らないことに向き合うことで初めて明確になることがあります。問いかけてうまくいくかどうか、自分達の文化に由来するものだけでなく、また今ここでやっているのではない、もっと古いときの体験に私達を連れ戻すことがあります。あたかも、まさに私達がいつも持っており、しかしいつもは意識せず表れてもこないような、ある知恵を思い出すかのように。これが私達に大きな力を与えてくれるのです。

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朝日・夕刊

be アート 舞踊 ブッパタール舞踊団「私と踊って」

前人未踏の作品群の原点 石井達朗(舞踊評論家)

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演劇的なシーンが脈略なく連続する「タンツテアター」の手法で国際的に衝撃を与え続けたピナ・バウシュが昨年急逝。ピナ亡き後のブッパタール舞踊団の来日公演「私と踊って」を見た。(13日、東京・新宿文化センター)

舞台は白一色。後方が急斜面でせりあがる。雑然と置かれた白樺の枝がうら寂しく、冬景色を思わせる。時には媚びるように時にはヒステリックに、トーンを変えながら「私と踊って」と執拗に繰り返すのは、1977年の初演から主役を踊ってきたJ・Aエンディコットである。すでに若くはないが、動きは闊達、存在感は熱気に満ちる。彼女の懇願は聞き入れられず、荒涼とした風景の中に、虚しく吸い込まれるだけ。

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〔高橋忠志氏(エー・アイ)撮影〕

黒い帽子、ロングコートの男の集団が、ギリシャ劇のコロスのごとく展開に関与する。女たちが違った色のドレスを着け多様な表情をみせるのに、男たちはすっかり個性を隠したままだ。これは、支配的なジェンダーを匿名化しているのだろうか。後半、男が大枝でバッシバッシと床を叩きながら女を追い払う。虫ケラのように逃げ惑う女は斜面を這い上がろうとする。なんとも殺伐としたシーンだ。

男と女の不毛な交感。その溝は絶望的に深いばかりか、支配、屈辱、暴力を孕む。そんなシーンの連鎖の中を縫うように流れるのが、ダンサーたちが歌うドイツの古い民謡やわらべ歌の数々である。

荒涼とした舞台の光景とは裏腹の、清澄な歌声が全編に通奏低音のように響く。救いがないほどに通じ合えなくても、必死に「私と踊って」と叫び続けずにはいられない孤立感。それをそっと背後で見つめるピナの優しいまなざしがある。前人未踏の作品群の原点にある本作は、彼女の魂からの問いかけなのだろう。