2010年6月10日木曜日

責任をとって辞めるって、あり?

先日の鳩山由紀夫首相の辞任に関して、早稲田大学教授の豊永郁子教授が朝日新聞(20100608)に「首相職の私物化は許せない」と題して、論じられていた。その文章の大半は、首相は国民が付託した国会議員によって選ばれたのだから、そう簡単に辞任しないでくれよ、そんな内容だったのですが、たまたま昨夜、友人・中と会社の取締役の責任論について話し合っていたものだから、この早大教授の意見が、私と友人の意見に裏書されたことになったのですが、このことを文字にして確認しておくのも後のためにも何かと有益だろう。

誰にだって、「責任」はある。会社ならば掃除のオバサンにも、社員でも、中間管理職なら尚更、まして取締役なら義務と責任からは、どうしても逃げようがない。社員は、給料の対価として義務と責任のもとで仕事を遂行するものだ。仕事の内容、職階の違いがあろうとも、働いている誰もが、その企業の中での責任は負わなければならない。立場に寄って責任の大小、軽重はあるのは当然だ。代表取締役ならその義務と責任は果てることなく続くものだ。

そして我が社にも、「責任をとって辞める」と言った取締役が発生した。私には、彼が言っていることが理解できなかった。責任をとるということは、心身を投げ打って役務に徹することだと思っていたのですが、責任をとって辞めて、どうして責任がとれるのですか。私生活において、一時的には経済的に不安な状態に陥ることだってあるだろう。取締役の役務と、カネとか給料とかとは、全然別の次元の問題ですよね。そのように振舞った元取締役のことが未だに理解できないまま、今に至っていた。昨夜、友人と「責任」について話し、朝の新聞で当意即妙な記事にぶち当たったものだから、こんなコーナーになってしまった。

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20100608

私の視点

鳩山首相辞任/首相職の私物化許せない

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鳩山首相は普天間問題の迷走について「責任をとって」辞めたともされる。しかし職務に関して生じる責任とは何かを行なうことであり、職を辞することは責任を果たすことの対極にある。さらに自ら勝手に「責任をとって」辞められてしまうと、責任を客観的に問うことができなくなるのではないか。責任を問う(とらせる)ことは、本人ではなく他者に、首相職の場合は国民に留保されるべき機能である。この権能が、鳩山氏の性急な判断によって、あるいは密室の3人によって、奪われた格好となった。

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