2011年11月20日日曜日

野の涯

20111119〈土〉 14:00からの一人芝居を観に行く予定だったが、突発的な出来事のために、行くことができなかった。

「野の涯」/東京演劇アンサンブル・ブレヒトの芝小屋/作・演出=広渡常敏/出演=伊藤 克

katumi-HP

11月に入ったばかりの或る日の夕刻、大学時代の後輩・マサ(昌)から電話がかかってきた。ソニーの下請け会社の優秀な三代目の社長さんだ。

私が大学2年の時、サッカー部の新入部員の彼に、お前の出身校はなんちゅう学校やと聞くと、私の出た高校はジュンシン(純真?)学園です、ときた。ジ・ュ・ン・シ・ン?、それって?、なんじゃ、と失礼なことを言ってしまった。私は純真な男ではなかったようだ。

彼は、私が恥ずかしくなるほどジュンシンな奴だった。銭湯の帰りに、肉屋さんで手羽の焼き鳥を、金欠の私にご馳走してくれた。私の懐事情まで分っている奴だった。それからの付き合いが、40余年にもなる。

東京演劇アンサンブルの毎年年末恒例の「銀河鉄道の夜」の案内を劇団から貰ったのですが、ヤマオカさん一緒に観に行きませんかとのことだった。

「銀河鉄道の夜」と聞けば、宮沢賢治の四次元の世界、現実世界は銀河の夜の彼方に広がる世界の世界の影らしいーーー。この辺がファンタジーなのだ。

決して引き返すことのない軽便鉄道とか

本当のさいわいを見つけだす旅とか

人間の愛の愛が、歴史の歴史が

生命の生命が燃えている

歴史などというものを、もうきまったものと信じるな、掘り返せ、え~んやら、ヤットット

こんな台詞を諳(そら)んじていて、すらすらと口に出てくる。

マサ、悪いんだけれど俺、「銀河鉄道の夜」はもう12、3回観ていて、ジョバンニ役さんも4代に亘って観て来たし、去年も一昨年もその前の年も観て来たので、今回は観に行かない心算なんだ。

でもその前に、「野の涯」をやるでしょ、これを観に行く予定はしているんだけれど、これ、お前はどうだ、と投げ返したら、マサは思案ロッポウの末だろう、行きましょと2、3日おいて返答があった。マサ、俺達の血が騒ぐ秩父事件の主要な人物、井上伝蔵の話だ。

この劇団の舞台装置の制作や構成、道具担当の龍太(リュウタ)がお前に凄く会いたがっているんだよ、お前が顔を出せば、きっと彼は大いに喜ぶこと間違いなしだ。本当に会いたがっている。龍太も巨匠岡本太郎の工房から巣立ち、この劇団で代表者の入江洋祐さんのお助け役も担っているのだろう、日頃の仕事のことや四方山(よもやま)の苦労話でも、気心の知れたマサに聞いて欲しいのかもしれないよ、と。

そして、本番の昨日20日は、朝から外気は生暖かく、雨が降った。そして午後、大雨になり強風が吹き出して、雨は横殴りになった。

早朝から、経営責任者の中さんと、相模原、湘南、西湘地域の物件を6件ほど下見を終え、何とか仕事を昼までに切り上げ、練馬のブレヒトの芝居小屋に向かう心算だった。

お芝居の後、1杯のスープを飲んで、芝居のことを話し合おうという企画になっていた。私は、スープではなくて焼酎を頂くことに必ずなると思ったので、今回は電車で行くことにしていた。

マサを交えて、劇団の龍太、入江洋佑さんや志賀さんとも、少しは話をしたかったのだ。

ところが、大雨の中、仕事のことでちょっとしたハプニングが発生して、観劇は断念せざるを得なくなって仕舞った。直ぐに、劇団に連絡をして、入江親子にスマンと伝言をお願いした。

 

denzokitoku 

井上伝蔵の臨終

劇団から頂いたパンフレットの文章です。

1884年の秩父事件の戦いは、蜂起後10日間で軍隊によって弾圧、崩壊してしまったが、中心人物のひとり井上伝蔵は官憲の追い手を逃れ、その後の消息を絶つ。

欠席裁判で死刑の判決を受けたが、実は彼は北海道・野付牛(現在の北見市)に身を沈め、1918年に65歳の生涯を閉じていた。

「恐れながら、天朝様に敵対するから、加勢しろ」とむしろ旗に大書し、秩父市下吉田の椋神社に3000人が集結し、大宮郷をめざして進軍した。年号も自由自治元年と謳い、時の明治国家に対峙した。「秩父事件」は、フランスのパリ・コミューンに比せられる革命運動だった。

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Wikipediaより「井上伝蔵」

幼名は治作。後の埼玉県秩父郡吉田町(現秩父市)に生まれ、長男が早く亡くなったので、商家「井上」、代々の「伝蔵」を名乗った。明治16年、自由民権運動に参加、秩父自由党の幹事になる。後に困民党に組織替え。1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を務めた。総理は田代栄助。