20091103。
保土ヶ谷区神戸町にある神明社で、孫2人の七五三詣りをした。神明社は、旧伊勢神宮領榛谷(はんがや)御厨(みくり)総鎮守)だ。
七五三詣りは、満年齢で男の子は三、五歳、女の子は三、七歳になると、これまでの子供たちの成長と健康を感謝するとともに、さらなる今後の成長と健康を祈願する儀式として行われることになったようだ。昔?は数え年だったようです。
前日は雨が降った。本番、雨が降れば困るなあ、と心配していたが、今日は、雨(あま)っけがすっかりなくなって、よく晴れた。
今日、11月3日は文化の日だ。新聞〈朝日)を読んでいたら、「今日はなぜ『文化の日』?」という記事を見つけたので、その記事から今日の日のことを抜書きさせてもらう。文化の日は、48年の「祝日法」制定当時から続く祝日。11月3日は明治天皇の誕生日で、戦前は明治節だった。どんな経緯で明治節が文化の日に生まれかわったのか。憲法記念日とする考え方もあったようだ。山本勇造・参院文化委員長(作家の山本有三、「路傍の石」の著者だ)は、当時、11月3日をこう理由づけた。戦争放棄を盛り込んだ新憲法公布の日で忘れがたく、『自由と平和を愛し、文化を進める』、そういう『文化の日』ということに我々は決めた」。やや強引。ややこじつけ。自由や平和の日でもよかったのに---。
今日の七五三の主役のうち、七はなしで、五は私たち夫婦の次女・花の長男「ハ」で、三は長女・実の長女「カ」。
お祈りされる当の二人は、朝早くから初めて着せられた着物がうれしく、うきうきした気分でいたのは、傍にいる我らにも伝わってきた。カは、さすがに女の子で、頭に飾りの櫛をさしてもらい、和物の手提げを持って、気持ち良さそうだった。袴姿のハは、テレビの時代劇に出てくる侍にでもなったつもりで、家人の母の貴重な杖を借りて、バカ殿のチャンバラのフリをして遊んでいた。ハは、用意していた草履は、どうしても慣れなくて、いつものトラックシューズだ。そのバカ殿も、神前に行く前には、もう飽きた、と言っていた。神社の境内で、記念写真をバカバカ撮った。
京都から義母(家人の母)が来てくれた。この七五三詣りと、長男・草のお嫁さんの出産、あかちゃんを見るためだ。家族がふえて皆、楽しく暮らしている光景を、嬉しいと言ってくれた。静かに、我らの撮影会を眺めていた。義母には、横浜に滞在中、これ以外にも忙しい今後の予定が入っているのです。水戸に住んでいる堀川女学校時代の友達と東京駅大丸で食事会、飯能と府中に住んでいる小学校時代の友達と池袋東武百貨店でフランス料理で食事会、川崎の亡くなった夫の妹と、横浜駅で食事だ。82歳。私には、父も母も亡くなってもういない。どうか、健康でもっともっと長生きして欲しいと思っています。
いつもいる巫女さんが、特別な日なのにいなかった。神主さん一人で、何もかもこなしていた。式次第の説明から、神事の細事まで。宮参りの人もいたのですが、この若夫婦は子供に着物をうまく着せられなくて苦労していた。気付いた神主さんはその世話もやいていた。この赤ちゃんのおじいさん、おばあちゃんもいたのだが、この老夫婦は何も出来なかった。
主役の二人は、神前では恭(うやうや)しく、頭(こうべ)を垂れていた。神主さんからお札入りの袋と千歳飴を、ありがとう、と大きな声で受取っていた。今日の二人は、行儀良くできました。
千歳飴は、鶴亀松竹梅の模様が描かれた袋に入っていた。きっとお多福顔が描かれた飴で、切っても切っても同じ絵柄があらわれる長い飴だ。長く長く、幸せに暮らせるようにと願いが込められているのでしょう。
神明社は、私の会社の傍にあって、日ごろ何かとお世話になっている氏神様です。横浜市内で、いくつもある同名の神社の中でも、最も由緒の古い神社の一つとされている。天照皇大神宮を祀り、伊勢神宮同様、天照皇太神宮、豊受大神宮(外宮)がある。
★神明社のパンフレットに保土ヶ谷・神戸の地名の由来が書いてあったので、ここに転記させていただいた。
一説によりますと、保土ヶ谷の地は昔、幡屋郷(はたやごう)と言われていましたが、平安時代の末期に伊勢神宮に寄進され「榛谷(はんがや)御厨(みくり)」と呼ばれるようになりました。そして榛谷がなまって保土ヶ谷に、また神戸とは神宮のご料地であったことからきていると言われています。