新潟県生まれ、元陸軍兵長。
体内の砲弾の破片は、今も空港の金属探知機を通るたびに反応する。
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「山西省残留」の真相究明に生きる、奥村和一さん(85)。私には、この顔に見覚えがあった。
20091017 毎日新聞朝刊の経済・社会6面に、かって私のブログでも紹介したことのあるドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」の奥村和一さんのことを「ひと」で紹介されていた。世間は、もっとこの件に注目しなくてはいけないのではないか、と思うのです。以前、映画を観た時に手に入れたパンフレットを出してきて、復習してみた。
何故、今、こんな時期にこのような記事を毎日新聞が取り扱ったのか、その理由は判らないのですが、この事件の実態を、行動を共にした戦友たち、無念な思いで亡くなった戦友のためにも、その真相を世に訴え続ける奥村さんにエールを送りたい。一緒に裁判を起こしていた戦友は、次から次に亡くなっていくなかで、資料整理に勤(いそ)しむ。奥村さんの奮闘記だ。
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この事件を、ここでもう一度おさらいしておきたい。
日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾し降伏したが、中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第1軍の将兵5万9,000人のうち約2,600人は、その後も武装解除を受けることもなく残留し、中国国民党系軍閥に合流、共産党と戦った。国民党系軍閥の閻錫山〈えんしゃくざん〉将軍から残留を強く要請された第1軍は、軍司令官・澄田中将や参謀長・山岡道武少将の企図、命令で特務団を編成した。このような不穏な動きに、日本軍全体の復員を担当していた作戦参謀の宮崎舜市中佐が派遣されたが、澄田や山岡は耳を傾けなかった。誤魔化したのだ。宮崎中佐は悔しがった。そして、残留兵は、敗戦後3年半も、共産党の軍と戦い続けた。映画の中で宮崎さんは、奥村さんの問いかけに、病院のベッドに寝込んだまま、当時の悔しさが蘇り、悲鳴まじりの聞き取れぬ声音と息を発し100歳近い老体を震(ふる)わせた。目には涙が溢れてきて、顔をぐじゃぐじゃにして怒っていた。
こんな馬鹿なことが事実として、あったのだ。
澄田は軍閥・閻錫山の軍の最高顧問に就いて指揮をとった。国民党軍の雲行きが怪しくなった頃、澄田や山岡は多くの将兵を残して、飛行機で脱出し日本に帰国した。結局、戦犯になるのを免れた。
捕虜となり抑留されて、1953年から54年に帰国したが、待っていたものは終戦翌年3月に「現地除隊」の手続きがとられ、軍籍を抹消されていた。
そして奥村さんたちは、国と政府を訴えた。残留兵らは、軍の命令によって残留したのであり現地除隊させられたことも身に覚えのないのだから、日本に復員するまでの軍籍が認められるべきであり、軍人恩給や戦死者遺族への扶助金も支払うべきだと主張した。
だが、政府見解としては、軍首脳の言い分をそのまま支持している。軍命はなかった。残留は兵士本人の意志によるものだと結論した。
この訴えは、2005年9月、最高裁は上告を棄却。口頭弁論は行われなかった。
(映画「蟻の兵隊」のパンフレットより。一部山岡が書き加えました。)
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以下は新聞記事のまま、転載させていただいた。
20091017
毎日新聞・朝刊。「ひと」
「山西省残留」の真相究明に生きる元日本兵
奥村和一さん(85)
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左耳は聞こえない。時折、体内に残った砲弾の破片が暴れだす。そのたびに「ウソの歴史を正すまで、死ぬわけにはいかない」と思う。
終戦後、中国山西省で国民党系の軍閥に合流した日本軍2600人の一人として戦った。上官から「共産化を防ぐことが日本の国体を守ることになる」と命じられての残留だった。砲弾の直撃で重傷を負ったのは、戦争放棄をうたった日本国憲法が施行された翌年。故国の土を踏んだ時は終戦から9年がたっていた。
待ち構えていたのは、ねぎらいではなく、厳しい仕打ちだった。軍命で戦ったのに、国は残留・抑留期間の軍歴を認めず逃亡兵扱いした。
戦友とともに国を訴えた裁判は05年に敗訴が確定。けれども、その経緯をまとめたドキュメンタリー「蟻の兵隊」(池谷薫監督)をきっかけに、日本軍の山西省残留問題が世に知られるようになった。
支援の声に後押しされて改めて裁判を起こすはずだったーーー。だが、「仲間の多くは亡くなり、1人になってしまいました」。今は資料の整理と、軍命の存在を裏付ける公文書の発掘に力を注ぐ。
「軍隊時代、兵舎で物が盗まれると、泥棒ではなく盗まれた兵隊が悪いという論理がまかり通ってた。このままでは残留命令に従ったものが悪いということになってしまう」
1ヶ月前、がんと診断された。予期せぬもう一つの戦いが始まった。「どちらも逃げるわけにはいきません」