20100720の朝日新聞の夕刊のことだ。今夜の夕刊は濃かった。その①は『「障害者のW杯」支援を』だ。そして、その②は、『殺すところを、撮ってください。「ゆきゆきて、神軍」』だった。その①は、自宅のPCで作成したのですが、そのPCが少し夏ばてのようで、私の言うことを聞いてくれない。よって、公開したのは②からになりました。お釈迦様ではないのですが、順序が逆になりました。
〔原一男さん〕
なんで、この時期にこの記事が掲載されたのだろうか、私がこの映画を観たのは、約20年ほど前のことだ。映画好きの友人に誘われた。今はもうなくなったが、関内アカデミーという映画館だった。
当時、この映画を観た時の驚きは、相当深いものがあった。映画が終了しても席から立ち上がれなかったことを思い出す。恐かった。
映画の最初のうちは乗用車の上に、まるで選挙の宣伝カーのように看板を四方に組み上げて、その看板には、確か田中角栄を殺すとか書いてあって、その看板を掲げた車自体も、走っていく都会から農村までの光景も、私には何か牧歌的な雰囲気に思えて、なかなかいいんじゃないの、ぐらいにのんびり構えていたら、ところがどっこい、主人公の奥崎謙三さんが一度(ひとたび)「敵」に向かうと、彼は阿修羅に豹変する。周辺の空気は一変する。
家庭では、静かな夫なのに。戦争が終わって、30年以上も経っているのに、彼の天皇や軍に対する戦争責任追求の思惟はますます純粋を究(きわ)め、それに基づく抗議行動は、廃(すた)るどころか弱まるどころか、激化の一途をたどる。我等は、戦後、平和と言われる時代をのんびり過ごしていた。そんな平和な1983年、終戦何日後かに兵士仲間に処刑の命を下した上官、中隊長の命さえ、奪いかねない行動に駆られた奥崎兵士は、現実に発砲事件を起こした。何故だ、この時期になってまで。日本で一番過激な反軍、反帝、反天皇の烽火(のろし)を挙げた奥崎は、前進、前進していく。映画もそのように前に、前に進んだ。俺の肝は冷え、金玉(きんたま)は縮(ちぢ)み上がる。
奥崎さんは憑かれているぞ、と思った。
映画は今村昌平が企画して、監督は原一男、制作は原の奥さん小林佐智子だ。
奥崎さんは、独立工兵第36連隊に配属され、1943年当時大激戦地だったイギリス領ニューギニアに派遣される。部隊は敗走を重ねながら飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名だった。
1982年から、この映画の撮影が始まる。1983年西ニューギニアとパプアニューギニアへ慰霊に赴く。終戦直後に独立工兵第36連隊内で、戦病死した兵士の死の真相を追ううち、元中隊長や上官、他3名の殺害を決意する。戦病死でなく、上官による部下射殺事件だった。
殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。奥崎さんは暴力を振るいながら証言を引き出し、ある中隊長が処刑命令を下したと結論づけ、その中隊長殺しの行動に走る。
奥崎さんは元中隊長宅に銃を持って押しかけるが、たまたま応対に出た元中隊長の息子に向け発砲し、殺人未遂罪で逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。
1969年1月2日、皇居で6年ぶりに行なわれた一般参賀で、昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射した。昭和天皇がバルコニーにいたところ、15メートル先から手製のゴムパチンコでオアチンコ玉を3個発射。さらに「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て」と声を挙げ、パチンコ玉をもう1個放った。
(映画を思い出しながら、wikipediaを参考に文章にした。)
〔映画「ゆきゆきて、神軍」の一シーン。右が奥崎謙三さん=疾風プロ提供〕
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20100720
朝日夕刊
人・脈・記 毒に愛嬌あり
殺す場面、撮って下さい
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「私は中隊長を殺そうと思うんです。殺す場面を撮影していただきたいんです」
奥崎謙三が身を乗り出し、狂気に燃えた眼光で言い放った時、映画監督の原一男(65)は絶句し、すくみ上がった。
ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」の撮影が進み、打ち合わせ中のことだ。
奥崎は原の目を見据え、たたみかけるように言った。
「そんなシーンは、今までの映画で絶対ありませんよ」
原の体は小刻みに震えた。様様なことが脳裏をかすめる。
おれはカメラを回せるだろうか。警察が駆けつけ、共犯で逮捕されるだろう。それはいいとしてフイルムは守りきれるか。
ハタと気付いてギョっとした。今、撮っている相手は犯罪者。それも確信犯だ。
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奥崎が主人公の映画を原が撮り始めたのは、1982年のことだ。奥崎、62歳。原、37歳。
その13年前、奥崎は皇居の新年参賀で昭和天皇めがけてパチンコ玉を撃ち、懲役1年6ヶ月の刑を受け、服役している。
戦時中、1等兵としてニューギニア戦線に送り込まれ、敗戦の1年前、捕虜に。所属していた独立工兵第36連隊の約千人のうち、戦闘と餓死者続出の地獄から生還できた数少ない一人。
戦友たちの慰霊には、天皇にパチンコ玉を撃つことこそがふさわしと決意し、皇居に向かったのだと、自著「ヤマザキ、天皇を撃て!」で書いている。
敗戦直後、第36連隊で不可解な兵士の処刑事件が起きていた。映画では、処刑を命じた中隊長ら元上官宅を訪ね歩き、真相を問い詰めていく奥崎の姿をカメラが追う。
迷惑そうに口を閉じる上官たち。「貴様、その態度は何だ!」と殴りかかる奥崎。そのうち、人々の重い口から語られ始める、飢餓地獄での人肉を食った話ーーー。
自ら16ミリカメラを回しながら原は不思議な思いに突き動かされた。「ニューギニアの死者たちがこの世に出たがっている」
原の妻で制作者の小林佐智子(64)も似たような思いを感じていた。毎朝6時になると、奥崎は神戸の自宅から長電話をかけてきて、取り憑かれたようにしゃべりまくった。
「あっ、奥崎さんは戦友の霊がさまようニューギニアから、いつも電話してきているんだ」
冒頭のシーンに戻ろう。
「私は怖いんです撮れる自信はありません」。原は小刻みに震えながら、その場は断った。
その後、ドキュメンタリーに携わる人間として、撮るべきではないか、と正直、迷っている。弁護士や映画監督の今村昌平にも相談した。
妻の小林は猛反対した。「考えるだけでもおぞましい。撮るんなら、映画から私は降りる」
結論が出ないまま時間が過ぎた、83年12月15日の昼過ぎ。中隊長宅を一人で訪れた奥崎は、応対に出た長男を改造拳銃で撃って重傷を負わせ、逮捕された。
「本当にやったんだ」。衝撃を受けた原は何も手につかなくなり、撮影済みの膨大なフイルムは2年近く、自宅の片隅でほこりをかぶったままとなる。
原が振り返る。
「戦争を忘れようとする日常の中で、見えない戦争を撮るにはどうすればいいか。罪を犯してまでも戦争責任を追及し続ける奥崎さんでないと、絶対撮れなかった。毒は人の嫌がるところに塩を塗りたくる作業。我々スタッフも、その猛毒を相当浴びたということです」
87年、原はやっとのことで映画を完成させた。上映時間2時間2分。
映画の題名かを考えた小林は「こんな暗い内容の映画、観てくれる人がいるんだろうか」と心配だった。ところが、映画はヒットし、ベルリン映画祭カリガリ映画賞をはじめ、日本の映画賞も総なめにした。
2年後、昭和が終わる。
「ぎりぎりのタイミングで、この映画は世に出た感じがする。昭和の日本人はまだ、奥崎さんという猛毒を理解することができた。10年遅れたら、受け入れられることはなかった」
原も、小林も、今でもそう思っている。
奥崎は出所後、95年に85歳で亡くなっている。
(加藤明)