やはり、いつも、どこの、どのW杯も、人の心に深い感動を残して、幕を閉じる。今回のW杯南アフリカ大会もその例外ではなかった。この感動が嬉しくて、終わったというのに、最早、4年後の次回のブラジル大会に思いを馳せてしまう。観衆はいいかげんな、もんだ。歓喜と落胆、悲喜こもごも、国ごとに異なる感情が世界に渦巻いた。
サッカーは、国や民族、人種の違いや、政治も宗教も貧富の層の壁さえも乗り越えての交流に、何ものにも代えがたい役割を演じて見せた。サッカーの魔力とも言っていいのだろう。だからこそ、サッカーは素晴らしいのだ。サッカーは素晴らしい、でも友情はもっと素晴らしい、とペレーさんが言ったのか、誰かさんが言ったのか、兎に角素晴らしいのだ。
このW杯に関しての微笑ましい出来事を、記者は拾って、新聞記事に残しておいてくれた。それを読むだけでは勿体ない。マイファイルにして、記事も楽しみたい。一部の日経新聞を除き、全て20100713の朝日新聞からのもです。
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南アW杯国造りの力に
ナイロビ支局長・古谷祐伸
アフリカで初めて開催されたサッカー・ワールドカップ(W杯)が11日、事前の様ざまな不安をよそに1ヶ月間の日程を無事に終えた。開催国・南アフリカのズマ大統領は9日、一足早く「大会は大成功だ」と喜んだ。
AP通信によると、全64試合を318万人が競技場で観戦し、1994年のアメリカ大会、06年のドイツ大会に次ぐ入場者数を記録。地元紙によると、外国からの客は推計45万人で、南アに落としたお金は120億ランド(約1440億円)と見積もられている。いずれも想定外の高い数字だ。
成功の大きな理由は、予想された凶悪犯罪が大会期間中はなりを潜めたことにある。1日平均で50人が殺される危険な国でのW杯には、世界中が不安を抱いていた。
南ア政府は、警官18万8千人をW杯警備にあて、時にはストライキをおこした会場警備員の代役まで警官が買って出た。起きた事件についても、全国に設置したW杯特別裁判所がすばやい手続きで対応した。
その結果、盗難や強盗事件はあったものの、外国人が狙われた深刻な犯罪は、米国人バックパッカーが銃撃で負傷した事件ぐらいだった。大手警備会社によると、ヨハネスブルクでの犯罪は6月、前年比で60%も減った。大会が進むにつれ、外国人が続々と南アを目指した。
成果が表れるにつれ、南アの人たちは大会への自信と誇りを見せ始める。アフリカ出場国が次々に負けても、ブブゼラを懸命に吹き、大会を盛り上げ続けた。
この機をとらえ、アフリカの諸問題に取り組む動きも活発化した。ズマ大統領は11日にケニアやジンバブエなどアフリカ各国の首脳を招いて教育サミットを開き、「将来への最も大切な投資は教育」だと訴えた。アフリカで深刻なエイズウイルス[HIV]感染への支援を訴えようと、感染者自らによるサッカー大会も開かれた。
W杯が終わり、熱狂は遠からず冷めるだろう。日常に戻った南アが直面するのは相変わらずの貧困や犯罪、エイズなどの社会問題だ。W杯で思ったほどの恩恵が得られなかったとの不満も、貧困層には根強い。
南アが今後、W杯閉幕までのような集中力で社会問題に取り組んでいけるのか世界は注目する。だが、南アがW杯から、今後の国造りへの自信とヒントを勝ち得たのは確かだ。
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ゴール 亡き友へ
イニエスタ選手
W杯は11日、スペインがMFアンドレス・イニエスタ(26)の決勝ゴールで初優勝を飾り、幕を閉じた。イニエスタはユニホームの下に、亡き友へのメッセージを潜ませていた。0-0で迎えた延長後半11分。右足でゴールにたたき込むとイニエスタは警告覚悟でユニホームを脱いだ写真、ロイター。アンダーシャツには「ダニ・ハルケはいつもわれわれとともに」の文字。ダニエル・ハルキは昨年8月、心不全のために急死した親友で、スペインリーグのエスパニョール元主将。試合後は「勝利を彼にささげたかった」と語った。
イニエスタは、自らゴールを決めてユニホームを脱ぎ、観衆に亡き友人をアピールする好機を得た果報者だが、W杯に参加した選手の中には、何らかの思い入れを秘めて、勝負に臨んでいた選手は、きっと他にも何人もいたのではないだろうか。両親のこと、友人、先輩後輩、恋人たちへの思いを、いいプレーを見せることで伝えたいと。
このメッセージを書いたイニエスタのアンダーシャツを見て、以前、私が見たドラガン・ストイコビッチのことを思い出した。ユーゴスラビア(現在のセルビア共和国)出身のストイコビッチは、7年間、名古屋グランパスエイトに籍を置いた。1999年のNATOのセルビア空爆に対して、3月27日のヴィッセル神戸戦の試合終了間際にユニホームを脱いだ。
そのアンダーシャツには、[NATO Stop Strikes]〔NATOは空爆を中止せよ〕と銘記されていた。メッセージを伝えるパフォーマンスを行なったのだ。政治とスポーツは互いにくみしないことにはなってはいたのだが。
彼の生まれはユーゴスラビア。冬季オリンピックがかって行なわれた、平和だったサラエボの町の教会や住宅、全ての建物が雨のように降る爆弾や銃弾によって廃虚化されてしまった、その悲しみを、そんな悲惨な現状と、二度とこんな戦争を繰り返さないでくれ、と彼は訴えたかったのだろう。戦渦とは遠く離れたところで、平和ボケの私には、強烈なパンチだった。
ここまで、ストイコビッチのことを書くと、もう少し付け加えたくなった。ユーゴスラビア代表チームは、1990年のW杯イタリア大会、私の大好きな元日本代表監督のイビチャ・オシムが監督で、ストイコビッチが主力のメンバーだった。戦前の不安をもろともせず、快進撃を続けベスト8に進出した。この大会では、ストイコビッチは世界に名を知られるようになった。当然、この監督さんもだ。
その後、サラエボが戦火にまみれ、オシム家は奥さん一人がこの町に閉じ込められ、家族が無事に揃うのは、その後数年経ってからのことだ。
今から丁度20年前のことだ。私は大学のサッカー部の同期の友人たちと、生まれて初めてW杯イタリア大会を観に行ったのでした。その時には、これほどまで心酔させられてしまうことになるオシムのオジサンのことは、知らなかった。その後のW杯には行くことができなくて、悔しい思いをいている。次回のブラジル大会には是非、行きたいものだ。
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南ア 融和進んだ
人種超え みんな笑顔
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「白人がこれほど国旗を振る姿を見たことがない」--。西ケープ州ワイナリーで働くビクター・タイタス(60)は、W杯期間中、南アを応援する白人達を見て胸を熱くした。
現在の国旗は、アパルトヘイト(人種隔離)政策が終わり、民主選挙が実現した1994年に制定された。6色の旗は人種の融合を象徴する。南アでは長い間、「サッカーは黒人、ラグビーは白人のスポーツだった」
しかし、今回、多くの白人もサッカーに熱狂した。スタンドで、街角で、車の上で、レインボーフラッグがはためいた。
教師だったタイタスさんは、カラード〔混血〕として黒人と同様に差別されて育った。民主化後、南アで初めて黒人によるワイナリーが立ち上がった際、字が読めない黒人農夫の指導を担った。ワインづくりや経営を学び、98年に非白人による初のワインを誕生させた。
決勝戦があったヨハネスブルクのサッカーシティー競技場。露店でソーセージを焼いていた黒人女性は、国旗を掲げて行き交う南アの黒人や白人たちを見渡しながら両手を広げた。「見て、みんな笑顔。この国にW杯が必要だったことを、世界の人たちにも分ってもらえたと思う」
片側2~4車線の高速道路が各都市を縦横に結び、携帯電話は喜望峰まで通じる。
W杯を機に、南アのインフラは大きく向上した。政府が投じた整備費は総額1兆円以上。ヨハネスブルクの都市部と空港を15分で結ぶ高速鉄道もできた。ズマ大統領は、2020年の五輪招致を目指す考えを表明した。
今回の大会の会場建設にかかわった約13万人の次の雇用先も不透明で、貧富の格差やエイズといった社会問題も未解決のままだ。
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20100711
日経朝刊
スペイン地域主義変化
代表に熱狂、高まる一体感
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サッカーの南ア大会でスペイン代表が初の決勝進出を決めたことが、同国社会に地殻変動をもたらしている。バルセロナを州都とするカタルーニャ自治州など地域主義が強く、これまでスペイン代表に関心を示してこなかった地域で「ロハ」(赤の意味。ユニホームの色にちなんだ代表の愛称)フアンが急増、国内にかってない一体感をもたらしている。
カタルーニャや北部バスクなどの地域は、独自の言語や文化を持ち、政治的にも自治政府を有してマドリードの中央政府から距離を置いてきた。サッカーでもスペイン1部リーグの強豪バルセロナなど地元チームを熱烈に応援、スペイン代表に熱狂することはなかった。
だが、W杯準決勝が行なわれた7日、バルセロナでは代表のユニホームを着た数千人が街に繰り出し勝利を祝った。「驚いた。スペイン国旗を振ることは、ここではタブーなのに。これまでに見たことのない光景だった」とバルセロナに住むサンチェスさん(35)。
地域主義政党が支配する市当局は市内に観戦用の大スクリーンを設置していない。だが、バルセロナの選手が先発の半数以上を占める代表への関心は高まるばかり。自治政府はブログに「決勝の日は、カタルーニャ旗より多くのスペイン国旗が翻るかもしれない」と不満げに書き込んだ。
分離独立派のテロが続くバスクでも状況は同じだ。中心都市ビルバオでは準決勝の日、数百人が街に出てスペイン代表の勝利を祝い「ビバ、エスパーニャ(スペイン)」を叫んだ。
スペイン代表ノデルボスケ監督は準決勝後の会見で「スペイン代表は、バルセロナでもなければ、(スペイン1部リーグ強豪の)レアル・マドリードでもない。スペイン・サッカー全体の勝利なのだ」と一体感を強調した。
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社説/W杯閉幕
スポーツが結ぶ人と社会
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サッカーのワールドカップ(W杯)南ア大会は、スペインが初の栄冠を手にして幕を閉じた。
1次リーグ初戦を落としながらも、攻めの姿勢を貫いたスペイン。研ぎ澄まされた美しさを感じさせる戦いぶりは、南アの民族楽器ブブゼラの音と共に、長く記憶されるだろう。
日本代表の躍進で人々が勇気づけられたように、今大会はスポーツと、人々や社会との豊かな関係をかいま見る場面が数多くあった。スペインの優勝も、その一つである。
これまでスペインがW杯で優勝できない原因の一つに挙げられてきたのが、独立意識の強い地域の存在だった。たとえばカタルーニャ自治州には、歴史的ないきさつから中央への反発が強い。サッカーでも、クラブのFCバルセロナは応援するが、スペイン代表チームを支える雰囲気は乏しい地域だった。
だが、2年前に代表が欧州選手権を制したころから、社会の受け止めが変わってきたという。選手にも国代表としての意識が育まれてきた。W杯決勝後、バルセロナでは、州旗だけでなく、国旗を振る人々も目立った。
スポーツは人々の心を溶かし、つなぎ合わせる力を秘めている。
南アの国づくりにもスポーツが一役買った歴史がある。自国開催した1995年ラグビーW杯で初優勝し、アパルトヘイト(人種隔離)政策撤廃後の民族融和を進めるきっかけとなった。
ズマ大統領は今大会の終盤、夏季五輪招致への意欲も示した。南アは高い失業率やエイズ問題などを今も抱えるが、サッカーW杯の成功もまた、社会の新たな活力を引き出すだろう。
アフリカ初の4強を逃したガーナ代表を南アのマンデラ元大統領がねぎらったのもすてきな光景だった。スポーツは人種、国境を超えて人を結ぶ。
一方で、代表チームが政治に翻弄される場面も目についた。前回準優勝のフランスが今回、監督と選手との確執で揺れ、1次リーグで敗退すると、チームの立て直しに、サルコジ大統領や議会まで介入し始めた。
また、ナイジェリアのジョナサン大統領は決勝トーナメントに進めなかった代表チームに怒り、2年間、国際大会参加を禁じると言明した。数日後に撤回したが、政治家の身勝手にはあぜんとする。
スポーツは人々を熱狂させ一体感を与える。それだけに政治家の目には、利用したい道具と映り、ときに介入へと暴走させるのだろう。
W杯は次回14年、ブラジルで開かれる。同国は16年に南米初となるリオデジャネイロ五輪の開催も控える。
政治の思惑を軽々と超えて、人々の心を結びつける競技の数々を、今から楽しみにしたい。