2017年9月30日の朝日新聞の社説を読んだ。
衆院選・対北朝鮮政策
「国難」あおる政治の危うさ
安倍首相は目下の北朝鮮情勢を「国難だ」という。
だとすればなぜ、衆院議員全員を不在ににする解散に踏み切ったのか。その根本的な疑問に、説得力ある答えはない。
「国難」を強調しながら、臨時国会の審議をすべて吹き飛ばし、1か月もの期間を選挙に費やす「政治空白」を招く。
まさに本末転倒である。
「国難」の政治利用、選挙利用と言うほかない。
政治空白の本末転倒
首相は言う。
「民主主義の原点である選挙が、北朝鮮の脅かしによって左右されることがあってはならない」「この国難とも呼ぶべき問題を私は全身全霊を傾け、突破していく」
朝鮮半島有事という事態になれば、日本は甚大な被害を受ける。北朝鮮にどう向き合うかは重要だ。
論点はいくつもある。圧力をかけたうえで、事態をどう収拾すべきか。圧力が軍事衝突に発展する事態をどう防ぐか。
その議論を行う場は選挙なのか。そうではあるまい。大事なのは関係国との外交であり、国会での議論のはずである。
首相はこうも言う。「国民の信任なくして毅然とした外交は進められない」
ならば問いたい。
いくつもの選挙で明確に示された「辺野古移設NO」の沖縄県民の民意を無視し、日米合意を盾に、強引に埋め立て工事を進めているのは安倍政権である。なのになぜ、北朝鮮問題では「国民の信任」がなければ外交ができないのか。ご都合主義が過ぎないか。
一昨年の安全保障関連法の国会論議で、安倍首相は、集団的自衛権の行使が認められる存立危機事態や、重要影響事態の認定に際しては「原則、事前の国会承認が必要」と国会の関与を強調していた。
なのにいざ衆院解散となると「事後承認制度がある」(小野寺防衛相)という。「国難」というならむしろ、いつでも国会の事前承認ができるよう解散を避けるのが当然ではないのか。
力任せの解決は幻想
自民党内では、有事に備えて憲法を改正し、緊急事態条項や衆院議員の任期延長の特例新設を求める声が強い。それなのに、解散による政治空白のリスクをなぜいまあえてとるのか。整合性がまるでない。
首相はさらにこう語る。
「ただ対話のための対話には意味はない」「あらゆる手段による圧力を最大限まで高めていくほかに道はない」
前のめりの声は自民党からも聞こえてくる。
「北朝鮮への新たな国連制裁に船舶検査が入れば、安保法に基づき、海上自衛隊の艦艇が対応すべきだ]「敵基地攻撃能力の保有や防衛費の拡大も進めなければならない」
今回の選挙で安倍政権が「信任」されれば、日本の軍事的な対応を強めるべきだという声は党内で一層力をもつだろう。
だが力任せに押し続ければ事態が解決するというのは、幻想に過ぎない。逆に地域の緊張を高める恐れもある。力に過度に傾斜すれば逆戻りできなくなり、日本外交の選択肢を狭めることにもなりかねない。
「解散風」のなか、朝鮮半島有事に伴う大量避難民対策をめぐって、麻生副総理・財務相から耳を疑う発言が飛び出した。
「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」
出口描く外交努力を
93~94年の第1次北朝鮮核危機以来、避難民の保護や上陸手続き、収容施設の設置・運営などの省庁間協力のあり方が政府内で検討されてきた。
避難民をどう保護するかが問われているのに、国家安全保障会議(NSC)の4大臣会合の一員である麻生氏が「射殺」に言及する。危機をあおりかねないのみならず、人道上も許されない発言である。
永田町では、北朝鮮がミサイルを発射するたびに「北風が吹いた」とささやかれる。国民の危機感が、内閣支持率の上昇につながるとの見方だ。
危機をあおって敵味方の区別を強調し、強い指導者像を演出する。危機の政治利用は権力者の常套手段である。安倍政権の5年間にもそうした傾向は見て取れるが、厳に慎むべきだ。
北朝鮮との間で、戦争に突入する選択肢は論外だ。圧力強化にもおのずと限界がある。
大事なのは、米国と韓国、さらに中国、ロシアとの間で問題の解決に向けた共通認識を築くことだ。日本はそのための外交努力を尽くさねばならない。
希望の党は「現実的な外交・安全保障政策」を掲げるが、北朝鮮にどう向き合うか、具体的に説明すべきだ。
問題の「出口」も見えないまま、危機をあおることは、日本の平和と安全に決してつながらない。
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同じ日、20170930(土)、朝日新聞1面の「問う 2017衆院選」を読む。その記事は以下の通りだ。
改憲の道理 主権者が吟味を
「『ただ一貫したる道理によってのみ支配せられる』これが立憲政治の精神である」(尾崎行雄「政治読本」)
1890年の第1回衆院選挙で初当選した「憲政の神様」は、憲法に基づく政治は元来「道理」を離れて運用できないと喝破した。
「政治は力なり」は専制政治の悪弊。勝敗や損得ではなく道理によって動く、それが立憲政治である、と。
はてさてそれから1世紀、当世の政治を眺めれば、「無理が通れば道理が引っ込む」専制の世に回帰したかのごとくである。
憲法53条に基づく臨時国会召集の要求を3か月もたなざらしにした揚句、演説も質疑もすっ飛ばして冒頭解散。三権分立をないがしろにし、議会制民主主義の根幹を揺るがす行状にみじんの道理も見いだせない。安倍晋三首相にも自覚はあるのだろう、「国難」を道理の穴埋めに利用している。
目的のためには手段を選ばず、勝てば官軍負ければ賊軍、道理は後ろからついてくるーーー。そんな首相の政治観は、憲法を扱う手つきによく表れている。
「国民の手に憲法を取り戻す」。憲法改正の要件を引き下げる96条改正を打ち出した時、こう胸を張った首相だが、批判を浴びるやスッと引っ込め、今度は「教育無償化」をあげて日本維新の会に秋波を送り、さらには歴代自民党政権が「合憲としてきた自衛隊を「合憲化」するため、9条に明記すると言い出した。
何でもいいからとにかく変えたい。そんな首相の情念に引きずられ、今回の選挙では憲法がかってなく重いテーマとなる。さすればまずもって自覚すべきは、主権者は私たちひとりひとりであり、憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ。
それがいつの間にか回答者席に座らされ、改憲に賛成か反対か、二つの札を持たされていることの不思議。「さあどっち?」と迫られるままつい札を上げてしまうようでは、主権者としていかにも怠慢である。
そもそも変える必要があるのか。何を成すためにどこを変えねばならぬのか。改憲自体の道理をよくよく吟味しなければならない。道理が引っ込む世の中とは詰まるところ、力に屈服するしかない世の中である。それでいいのかが、究極的には問われている。
立憲主義は、苛烈(かれつ)な主権者意識を抜きには成り立たない。自らの権利は自ら守る。そのための何よりの武器が、選挙権だ。
(編集委員・高橋純子)
2017年9月30日土曜日
2017年9月28日木曜日
敬老の日と結婚式 生家訪問
「敬老の日」は、「国民の祝日に関する法律」で9月の第3月曜日と定められている。
その年によって祝日が変わり、その範囲は9月15日から21日までの7日間のいずれかになる。
今年、2017年は9月18日だ。
この日の前日の17日は、妻の妹の長女(義理の姪っ子)の結婚式が京都であって、その結婚式に出ることと、そして翌日18日には、併せて郷里の兄貴夫婦と甥っ子夫婦が住む生家の訪問をした。
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★17日は結婚式と披露宴
鮒鶴・京都鴨川リゾート
結婚式と披露宴は「鮒鶴」、12時から。
場所は、京都市下京区木屋町通松原上ル美濃屋町180。
いただいた「鮒鶴」のパンフレットのコピーをここに使わしてもらった。
明治3年創業、147年の歴史ある。登録有形文化財。
京都の鴨川畔も佇む、歴史ある元老舗料亭旅館。五層楼閣の純和風建築の店内はモダンなインテリアに囲まれ、目の前を流れる鴨川と遠く東山の稜線を背景とした眺望には京都の四季が映し出されます。
夏は京都の風物詩「川床」を愉しむことも。地元京都の食材をふんだんに取り入れた「鮒鶴」スタイルのフレンチを。
この「川床」はゆったりした気持ちで、豊かさを味わえる。私自身は、こっちの方がイイ。
日ごと夜ごと、文人、墨客の粋人(すいじん)たちが、この建築にサロンとして集った。今風に言えば、木屋町のランドマークだった。
そして、京都の娘さんたちがここで結婚披露することは、大いなる憧れだった。
建物の隅々の仕口に古風な工夫がされていた。軸組も逞しい樹木が這うように畝(うね)っていた。
網膜に届くのは、全て奥がましいほどのモノばかりだ。
やってくる人たちは、半分は年老いた人。新郎・新婦の仲間と思われる若者が半分だった。これは、さぞかし愉快な披露宴になるだろうと想像した。
案の定、結婚式も披露宴も若者が、主人公の2人に集まり、わっさか、わっさか、御祭りだった。私は、大学時代の何だかんだの宴会を思い出し、イイ気分を味わった。
二人とも同じ大学の同窓生と聞いている、ならば、このように激しくなるのも、当たり前だ。
本日はご多用のところお越しくださり
誠にありがとうございます
未熟なふたりですが手を取り合い
共に歩んでいきたいと思います
今後とも末永いご指導と
お付き合いのほど
何卒よろしくお願いいたします
京野菜と魚介のテリーヌ モザイク仕立て
「海と大地の恵み」
色々な甲殻類のビスク風 手長海老のソテー添え
スズキのポワレ サフラン香るブイヤベース風
黒毛和牛のフィレ肉のグリエ トリューフソース
季節野菜のガルグイュ
ほうじ茶のクレームブリュレ
季節のフルーツを使ったパルフェを添えて
新郎は学校を卒業した時には、立派な会社に入社した。この会社は面白い薬を製造してそれを販売している会社。でも、絶対、京都以外何処にも住まないと思われる新婦と、結婚して一緒に暮らしていくためには、転勤が当たり前の会社よりも、自分も絶対京都を離れる訳にはいかない。今勤めて会社を辞めるしかないではないか、と結論した。
結果、地元の京都市役所に勤めることにした。
方(かた)や新婦の方はどうか。
学校を卒業して入社した会社は、これぞ日本一の電気電化の工業製品を製造して、販売する立派な会社だった。それも、総合的な知恵を求められるセクションに、抜け目なく入った。そのためか、全国の重要な然るべき箇所を職場にした。
入社当時、彼女から聞かされたことは、耳から鱗(うろこ)モノばかりで、感動して聞いた。
そして10年、この変身ぶりも鮮やかだったが、退社して父母の料理屋「味舌」を手伝うと言った。
これにも、驚いた。
立派な工業製品を製造・販売するのも大(たい)したものだが、彼女には何だか物足りないと思ったようだ。
それよりも、父と母のように、腕に技を鍛え上げていく料理の世界こそ、私が頑張る世界なのではないか、と思ってしまった。これ、全く私感なり。
新婦さんヨ、オジサン変なこと言わないで、と怒らないでください。
妻の着替えのために、横浜を早く出て、この「鮒鶴」に早く着いた。
えらく早いのに、新婦の父親はロビーで、着替えを待っていた。
少し前に横浜まで来てくれたものだから、新しく話さなくてはならないことはなかった。この「鮒鶴」の過去の話から、今に至るまでの経緯などを話してくれた。聴けば聞くほど立派な建物であることを知った。
新婦の母からも、私の妻からも、今日はどんなことがあっても、新婦の父が酒の飲み過ぎで他人に迷惑をかけないことが肝心なので、あなた、絶対変なことを彼に言ったり、飲ましたりしないでよ、と強く指示されていた。
そんなことを、私が心配することもなく、彼は彼自身気を使っていた。顏は堅く張りつめ、姿勢は乱れず、立派な父のままだった。
新郎の実家は、祖父と父親がお医者さんで弟さんも立派なお医者さんを続けていて、申し分のないおうちの出だ。新郎は立派な地方公務員。
姪っ子は、妻の妹夫婦が経営する京都料理のお店「味舌」を手伝っている。
先日、新郎は横浜に住んでいる叔母(私の妻)夫婦はどんな奴やろう、それに自分の顏も見せたくて来てくれた。姪のことは、度々お店に出かけているので、顔かたちから風貌はよく知っている。気量(この字に間違いはないか)の好(い)い子だ。
新郎さんも、それなりに品が好い青年だ。
新婦の父母は、南座の斜め前辺りの、古都を思わせる祇園の名店街で、立派なお店をやり繰りしている。このお店で出る料理の数々は、私には大層目出度く、私などにはいただける資格はないほどだ。「味舌」だ。
料理店の作りは古風で、料理は高級品でかつ料理人の挌が高過ぎる。私には、もったいなさ過ぎる。
立派な結婚式と披露宴であろうことは、十分想像がついていた。
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★17日は独りで生家に向かった。そして翌日は敬老の日。

生家の近所、維考館中学校の周辺だ。
生家では、17日の夜は甥っ子が一人だった。
お嫁さんは京都へ中学校時代の同期会に出かけていた。腹はいっぱいだし、何も食うものはいらない。
それよりもビールでもあれば頼むよと言っておいたので、約束通り、缶ビールを出してくれた。
話す内容は、私の兄貴と兄貴の嫁さんの健康状態。お茶のこと、米のこと。
甥っ子が製造しているお茶の状態、お茶の販売会社への売りの都合。茶畑の傾斜による肥料の種類と施肥の仕方。お米の生産は余り面白くないと言っていた。
お嫁さんは、夜中2時頃のお帰りだった。私はビールのせいで、5回ばかりトイレに行った。
隣村の母の実家(宇治田原町名村)へ挨拶に行くことも思いついたので、私一人は、会社を2日間休むことにした。従兄(いとこ)と他愛のない血迷いごとをなんざかんざと話すことも楽しみの一つだ。
18日の朝、4時過ぎ、私は生家を出て、昔、楽しんだ郷里の里を散歩した。3時間半、飽きることなくゆっくりゆっくり歩き続けた。目に入るものが、全て懐かしいのだ。
5時、まさか従兄は起きていないだろうと思って、母の姉と母の姉のお母さんの仏壇に供えてもらおうと、横浜より供物だけを持ってきた。
ところが、従兄の家の前を過ぎて、早死にした後輩の家に向かったところ、従兄が家の前の畑で茄子の収穫と草刈りをしている最中だった。
従兄は私より12歳上のネズミ。
朝早くから働いて、昼飯を食ったら、俺の1日は終わりなんだよ。
私は、甥っ子夫婦を連れて、祇園の京料理店に行くので、ここでゆっくりさせてもらえないんです。
未だ寝ているかと思ったが、ちょっとでも会えて話ができたのが嬉しかった。私が仕事で怪我をしたことを真剣に心配してくれていた。頭の一部が可笑しくなっていること、落下の際のショックで歯並びが狂っていることも説明した。
今度、必ずゆっくりお邪魔しますので、よろしくと言って別れた。
従兄の奥さん、サッチャンも元気だった。私が小学6年生の頃、お嫁さんに来てくれた。農協に勤める娘さんだった。
早死にをした枡の家には、誰も住んでいないように見えたが、枡の息子が一人で住んでいるようでもあった。が、扉にノックすることはしなかった。
友人は病気で苦しみ、その息子は決して好い男ではない。世の中のためになるどころか、世の中を馬鹿にしたような生き方をしていた。
枡は私がこの田舎に居た時は、毎日のように我が家に遊びにきていた。枡の父は、大きな地山(じやま)を何処かの資産家に売って、手元には大金を確保していた。
思い出話ばかりが、幾らでも蘇る。
それから隣の村に入った。同級生の生家が幾つも見つけることはできたが、誰の家にも入る勇気は生まれなかった。
小さん、吉さん、奥さん、沢さん、福さん、矢さん、金さん、中さん、1キロ歩くだけで、これだけの友人の生家があった。
ただ一人、小林だけには声をかけたかった。が、未だ寝ているようで、勇気が出なかった。
私の高校生時代、コバヤシ君は地元のバス会社の車掌さんをしていた。
雨が降らないときには自転車で高校に通っていたが、雨が降った時には止むを得ずバスに乗った。勤めた会社は、京阪宇治交通株式会社。
父母から強い要望があった訳ではない。
お金を持ってない私は乗車代を払いたくなくて、にっこりコバヤシの顔を見ると、彼はすかさず、早やく降りてと顏付きと手振りで合図してくれた。
無賃乗車だ。二人はこんな、嘘っぽい甘い関係だった。
こんなことが身について、その後京都でも東京でも、たまの旅行気分でフ~ラフ~ラと、電車やバスに平気で無賃乗車をやることになって仕舞った。
厚顔無恥、悪罪深い坊主になってしまった。
大学時代、東京から福岡まで入場券だけで行ったこともある。貨物専用の出入り口をハードルを飛び越えるようにして、すっ飛んだ。走って奔って、20分ばかりを夢中で駅から逃げた。静かになったところで、後ろから追いついてきた後輩に面倒をみてもらった。
ところが驚くこと勿れ、各家がそれぞれに改装したり、建て替えたり、道路が広くなったり、舗装がされていたり、サマはがらんと変わっている。進化が甚だしい。
金持ちの家は、さらに晴れ晴れしく麗しくなっている。
お金持ちお茶販売会社は、今は以前ほどの気合が感じられない。
きっと、上手くいっていないのだろう。
私が学んだ田原小学校。
入り口に「維考館」と書かれた校門があった。
この維考館は隣村の荒木にあった村の学校の校名だったようだ。由緒ある筆使いで書かれたものを、材木に彫り上げたものだ。
この田舎では、勉強なんてそんなに気にしなかった。特に我が家は、いいお百姓さんになってもらうのが、一番大事な子育てだった。
勉強はしなかったけれど、馬鹿なほど元気者だった。
先生から怒られたことは、誰よりも多かったけれど、褒められたことはない。だが、6年生の時は、組で一番成績が良かった。父も母も喜びも悲しみも味わっていなかった。
宇治田原農協。私の父が何事かあった時には、この農協を訪ねて用を済ませていた。貯金から送金、旅行、農具の買い入れ、精米、農作物の種苗、農薬、農作物を届けた。
郷の口の商店街に向かった。
友人の生家は元々パン屋さんで、村での行事には必ずかかわっていた。ババトだ。友人も家に居る時は、店前での仕事は手伝っていた。
彼がこの家にいる間は、何度もお邪魔した。友人のお兄さん二人にお姉さんがパンや菓子を作っていた。
そのパン屋さんは、友人の甥っ子がパン屋さんを止めて、洋菓子屋さんになっている。寂しい田舎だけれど、その洋菓子屋さんは今、流行っているんだと教えられた。
それからある酒屋さんの店の前がガラス戸になっていて、少し開いていたので、誰でもいい、オバサンか娘さんかその養子?がいたら、何か話したくなって、じろじろ眺めていた。
そしたら、オバサンが、あら!ヤマオカさんじゃない、久しぶりね、と言われた。
このオバサンは、私を養子にくれませんか、と人を介して私の父に要請した。そのことに、父は大いに起こって、うちの息子は、養子なんかには全然出しませんからね、と宣言した。それから、このオバサンは私だけにはにっこり笑ってくれた。
今、横浜に居て、何とか頑張っていますと話した。このオバサンの表情は明るく朗らかだ。
そして、花屋だ。
すみません、花屋さんを出されたのは最近ですよね。8年ほど前に帰ってきた時はなかったのです。今、お店を見て、どうしてもお話したくなったのです。
店を出して、もう10年以上もなっているんですよ。
何でどうなったのか分からないが、維考館中学校の時代の話が転がっていき、私が城南高校ではサッカーに嵌まってしまい、大学へもその嵌まりが続いてしまったことを話すと、この花屋が急に私の顔を見る目の色が変わってきた。
花屋は、中学校でサッカー部、それから洛南高校でもサッカーをやって、サッカーリーグの古河工業のサッカー部に入ったことを話した。
東京とメキシコのオリンピックでは、日本サッカーチームは古河電工のメンバーが主力だった。日本サッカー協会の会長も勿論、古河電工出身だった。
横浜の三ツ沢サッカー場の傍にある古河工業の社員住宅に住んでいたんですよ、ときた。
この三ツ沢サッカー場は、私も大学時代に何度も使わせてもらった。
私が働いている会社は、この競技場から歩いて30分ばかりの相鉄の「天王町」駅だ。
そんな話にも、華が咲いた。
ヤマオカさんは巧(うま)かった。
私も一所懸命頑張ったけれど、どうも一人前にはなれなかった。
花屋は奥寺の話をしたが、私が3年生のときに、奥寺は高校を卒業して古河に入ってきた。私が彼をマークしたけれど、どうもきっちりマークしきれなかった。
こんなところで、ヤマオカさんに会えたのが、非常に嬉しい、と言いながら名刺をくれた。
田舎に帰ってきた暁には、必ず、この花屋に顔をだすようにしようと決意した。
宝国寺の母と父と祖母の墓参りをした。決して好い息子ではなかったし、良い孫でもなかったが、誰にも、痛々しい迷惑をかけるようなことはしなかった。迷惑はかけなかったが、決して悪い子供ではなかった。
繰り返す。怒られたことはなく、他所(よそ)様には自慢して回っていた。
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★18日の午後
甥っ子(兄貴の長男)夫婦を、祇園「味舌」に招待した。
味舌さんの1階

味舌さんご夫妻のお店「味舌」を紹介する。
ご夫妻の長女である姪っ子が現在、このお店で頑張って働いている。
言うまでもないが、姪っ子と言うのは、昨日結婚したばかりの新婦のこと。そして、味舌さんと言うのは姪っ子の父母。その名字がそのまま、店舗名になっている。
祇園四条北側にひっそりと暖簾を掲げながら、激戦区の京都和食界でも、その味と温かなもてなしに高い信頼を重ねる、いぶし銀的存在だ。
味が解る人には解るということだ。
名の知れた著名な作家もよく来てくれた。この作家のお忘れ会には味舌の妻も出席した。
滋賀県の名料亭で培った腕を持つ店主の和菓子まで、手製に拘る繊細なコース料理は、お昼の気楽な点心仕立てから充実し、夜の季節毎に飽きさせない素材と味わいの妙を創出する。
また結納等、慶弔時にも、細やかな室札やもてなしがいき届く名店だ。
私の郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。
京都府と滋賀県の国境にある、山と山に囲まれた集落だ。正確には、滋賀県の石山と京都府の宇治市を、瀬田川から宇治川になるまでの間に存する。
私が生まれて東京へ出るまでは、山林と田畑と住宅だけ、交通機関の貧しい村だった。道路には信号はなかったし、銀行もなかった。な~んにもない、ひなびた寒村だった。
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★17日は結婚式と披露宴
鮒鶴・京都鴨川リゾート
結婚式と披露宴は「鮒鶴」、12時から。
場所は、京都市下京区木屋町通松原上ル美濃屋町180。
いただいた「鮒鶴」のパンフレットのコピーをここに使わしてもらった。
明治3年創業、147年の歴史ある。登録有形文化財。
京都の鴨川畔も佇む、歴史ある元老舗料亭旅館。五層楼閣の純和風建築の店内はモダンなインテリアに囲まれ、目の前を流れる鴨川と遠く東山の稜線を背景とした眺望には京都の四季が映し出されます。
夏は京都の風物詩「川床」を愉しむことも。地元京都の食材をふんだんに取り入れた「鮒鶴」スタイルのフレンチを。
この「川床」はゆったりした気持ちで、豊かさを味わえる。私自身は、こっちの方がイイ。
日ごと夜ごと、文人、墨客の粋人(すいじん)たちが、この建築にサロンとして集った。今風に言えば、木屋町のランドマークだった。
そして、京都の娘さんたちがここで結婚披露することは、大いなる憧れだった。
建物の隅々の仕口に古風な工夫がされていた。軸組も逞しい樹木が這うように畝(うね)っていた。
網膜に届くのは、全て奥がましいほどのモノばかりだ。
やってくる人たちは、半分は年老いた人。新郎・新婦の仲間と思われる若者が半分だった。これは、さぞかし愉快な披露宴になるだろうと想像した。
案の定、結婚式も披露宴も若者が、主人公の2人に集まり、わっさか、わっさか、御祭りだった。私は、大学時代の何だかんだの宴会を思い出し、イイ気分を味わった。
二人とも同じ大学の同窓生と聞いている、ならば、このように激しくなるのも、当たり前だ。
本日はご多用のところお越しくださり
誠にありがとうございます
未熟なふたりですが手を取り合い
共に歩んでいきたいと思います
今後とも末永いご指導と
お付き合いのほど
何卒よろしくお願いいたします
京野菜と魚介のテリーヌ モザイク仕立て
「海と大地の恵み」
色々な甲殻類のビスク風 手長海老のソテー添え
スズキのポワレ サフラン香るブイヤベース風
黒毛和牛のフィレ肉のグリエ トリューフソース
季節野菜のガルグイュ
ほうじ茶のクレームブリュレ
季節のフルーツを使ったパルフェを添えて
新郎は学校を卒業した時には、立派な会社に入社した。この会社は面白い薬を製造してそれを販売している会社。でも、絶対、京都以外何処にも住まないと思われる新婦と、結婚して一緒に暮らしていくためには、転勤が当たり前の会社よりも、自分も絶対京都を離れる訳にはいかない。今勤めて会社を辞めるしかないではないか、と結論した。
結果、地元の京都市役所に勤めることにした。
方(かた)や新婦の方はどうか。
学校を卒業して入社した会社は、これぞ日本一の電気電化の工業製品を製造して、販売する立派な会社だった。それも、総合的な知恵を求められるセクションに、抜け目なく入った。そのためか、全国の重要な然るべき箇所を職場にした。
入社当時、彼女から聞かされたことは、耳から鱗(うろこ)モノばかりで、感動して聞いた。
そして10年、この変身ぶりも鮮やかだったが、退社して父母の料理屋「味舌」を手伝うと言った。
これにも、驚いた。
立派な工業製品を製造・販売するのも大(たい)したものだが、彼女には何だか物足りないと思ったようだ。
それよりも、父と母のように、腕に技を鍛え上げていく料理の世界こそ、私が頑張る世界なのではないか、と思ってしまった。これ、全く私感なり。
新婦さんヨ、オジサン変なこと言わないで、と怒らないでください。
妻の着替えのために、横浜を早く出て、この「鮒鶴」に早く着いた。
えらく早いのに、新婦の父親はロビーで、着替えを待っていた。
少し前に横浜まで来てくれたものだから、新しく話さなくてはならないことはなかった。この「鮒鶴」の過去の話から、今に至るまでの経緯などを話してくれた。聴けば聞くほど立派な建物であることを知った。
新婦の母からも、私の妻からも、今日はどんなことがあっても、新婦の父が酒の飲み過ぎで他人に迷惑をかけないことが肝心なので、あなた、絶対変なことを彼に言ったり、飲ましたりしないでよ、と強く指示されていた。
そんなことを、私が心配することもなく、彼は彼自身気を使っていた。顏は堅く張りつめ、姿勢は乱れず、立派な父のままだった。
新郎の実家は、祖父と父親がお医者さんで弟さんも立派なお医者さんを続けていて、申し分のないおうちの出だ。新郎は立派な地方公務員。
姪っ子は、妻の妹夫婦が経営する京都料理のお店「味舌」を手伝っている。
先日、新郎は横浜に住んでいる叔母(私の妻)夫婦はどんな奴やろう、それに自分の顏も見せたくて来てくれた。姪のことは、度々お店に出かけているので、顔かたちから風貌はよく知っている。気量(この字に間違いはないか)の好(い)い子だ。
新郎さんも、それなりに品が好い青年だ。
新婦の父母は、南座の斜め前辺りの、古都を思わせる祇園の名店街で、立派なお店をやり繰りしている。このお店で出る料理の数々は、私には大層目出度く、私などにはいただける資格はないほどだ。「味舌」だ。
料理店の作りは古風で、料理は高級品でかつ料理人の挌が高過ぎる。私には、もったいなさ過ぎる。
立派な結婚式と披露宴であろうことは、十分想像がついていた。
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★17日は独りで生家に向かった。そして翌日は敬老の日。
生家の近所、維考館中学校の周辺だ。
生家では、17日の夜は甥っ子が一人だった。
お嫁さんは京都へ中学校時代の同期会に出かけていた。腹はいっぱいだし、何も食うものはいらない。
それよりもビールでもあれば頼むよと言っておいたので、約束通り、缶ビールを出してくれた。
話す内容は、私の兄貴と兄貴の嫁さんの健康状態。お茶のこと、米のこと。
甥っ子が製造しているお茶の状態、お茶の販売会社への売りの都合。茶畑の傾斜による肥料の種類と施肥の仕方。お米の生産は余り面白くないと言っていた。
お嫁さんは、夜中2時頃のお帰りだった。私はビールのせいで、5回ばかりトイレに行った。
隣村の母の実家(宇治田原町名村)へ挨拶に行くことも思いついたので、私一人は、会社を2日間休むことにした。従兄(いとこ)と他愛のない血迷いごとをなんざかんざと話すことも楽しみの一つだ。
18日の朝、4時過ぎ、私は生家を出て、昔、楽しんだ郷里の里を散歩した。3時間半、飽きることなくゆっくりゆっくり歩き続けた。目に入るものが、全て懐かしいのだ。
5時、まさか従兄は起きていないだろうと思って、母の姉と母の姉のお母さんの仏壇に供えてもらおうと、横浜より供物だけを持ってきた。
ところが、従兄の家の前を過ぎて、早死にした後輩の家に向かったところ、従兄が家の前の畑で茄子の収穫と草刈りをしている最中だった。
従兄は私より12歳上のネズミ。
朝早くから働いて、昼飯を食ったら、俺の1日は終わりなんだよ。
私は、甥っ子夫婦を連れて、祇園の京料理店に行くので、ここでゆっくりさせてもらえないんです。
未だ寝ているかと思ったが、ちょっとでも会えて話ができたのが嬉しかった。私が仕事で怪我をしたことを真剣に心配してくれていた。頭の一部が可笑しくなっていること、落下の際のショックで歯並びが狂っていることも説明した。
今度、必ずゆっくりお邪魔しますので、よろしくと言って別れた。
従兄の奥さん、サッチャンも元気だった。私が小学6年生の頃、お嫁さんに来てくれた。農協に勤める娘さんだった。
早死にをした枡の家には、誰も住んでいないように見えたが、枡の息子が一人で住んでいるようでもあった。が、扉にノックすることはしなかった。
友人は病気で苦しみ、その息子は決して好い男ではない。世の中のためになるどころか、世の中を馬鹿にしたような生き方をしていた。
枡は私がこの田舎に居た時は、毎日のように我が家に遊びにきていた。枡の父は、大きな地山(じやま)を何処かの資産家に売って、手元には大金を確保していた。
思い出話ばかりが、幾らでも蘇る。
それから隣の村に入った。同級生の生家が幾つも見つけることはできたが、誰の家にも入る勇気は生まれなかった。
小さん、吉さん、奥さん、沢さん、福さん、矢さん、金さん、中さん、1キロ歩くだけで、これだけの友人の生家があった。
ただ一人、小林だけには声をかけたかった。が、未だ寝ているようで、勇気が出なかった。
私の高校生時代、コバヤシ君は地元のバス会社の車掌さんをしていた。
雨が降らないときには自転車で高校に通っていたが、雨が降った時には止むを得ずバスに乗った。勤めた会社は、京阪宇治交通株式会社。
父母から強い要望があった訳ではない。
お金を持ってない私は乗車代を払いたくなくて、にっこりコバヤシの顔を見ると、彼はすかさず、早やく降りてと顏付きと手振りで合図してくれた。
無賃乗車だ。二人はこんな、嘘っぽい甘い関係だった。
こんなことが身について、その後京都でも東京でも、たまの旅行気分でフ~ラフ~ラと、電車やバスに平気で無賃乗車をやることになって仕舞った。
厚顔無恥、悪罪深い坊主になってしまった。
大学時代、東京から福岡まで入場券だけで行ったこともある。貨物専用の出入り口をハードルを飛び越えるようにして、すっ飛んだ。走って奔って、20分ばかりを夢中で駅から逃げた。静かになったところで、後ろから追いついてきた後輩に面倒をみてもらった。
ところが驚くこと勿れ、各家がそれぞれに改装したり、建て替えたり、道路が広くなったり、舗装がされていたり、サマはがらんと変わっている。進化が甚だしい。
金持ちの家は、さらに晴れ晴れしく麗しくなっている。
お金持ちお茶販売会社は、今は以前ほどの気合が感じられない。
きっと、上手くいっていないのだろう。
私が学んだ田原小学校。
入り口に「維考館」と書かれた校門があった。
この維考館は隣村の荒木にあった村の学校の校名だったようだ。由緒ある筆使いで書かれたものを、材木に彫り上げたものだ。
この田舎では、勉強なんてそんなに気にしなかった。特に我が家は、いいお百姓さんになってもらうのが、一番大事な子育てだった。
勉強はしなかったけれど、馬鹿なほど元気者だった。
先生から怒られたことは、誰よりも多かったけれど、褒められたことはない。だが、6年生の時は、組で一番成績が良かった。父も母も喜びも悲しみも味わっていなかった。
宇治田原農協。私の父が何事かあった時には、この農協を訪ねて用を済ませていた。貯金から送金、旅行、農具の買い入れ、精米、農作物の種苗、農薬、農作物を届けた。
郷の口の商店街に向かった。
友人の生家は元々パン屋さんで、村での行事には必ずかかわっていた。ババトだ。友人も家に居る時は、店前での仕事は手伝っていた。
彼がこの家にいる間は、何度もお邪魔した。友人のお兄さん二人にお姉さんがパンや菓子を作っていた。
そのパン屋さんは、友人の甥っ子がパン屋さんを止めて、洋菓子屋さんになっている。寂しい田舎だけれど、その洋菓子屋さんは今、流行っているんだと教えられた。
それからある酒屋さんの店の前がガラス戸になっていて、少し開いていたので、誰でもいい、オバサンか娘さんかその養子?がいたら、何か話したくなって、じろじろ眺めていた。
そしたら、オバサンが、あら!ヤマオカさんじゃない、久しぶりね、と言われた。
このオバサンは、私を養子にくれませんか、と人を介して私の父に要請した。そのことに、父は大いに起こって、うちの息子は、養子なんかには全然出しませんからね、と宣言した。それから、このオバサンは私だけにはにっこり笑ってくれた。
今、横浜に居て、何とか頑張っていますと話した。このオバサンの表情は明るく朗らかだ。
そして、花屋だ。
すみません、花屋さんを出されたのは最近ですよね。8年ほど前に帰ってきた時はなかったのです。今、お店を見て、どうしてもお話したくなったのです。
店を出して、もう10年以上もなっているんですよ。
何でどうなったのか分からないが、維考館中学校の時代の話が転がっていき、私が城南高校ではサッカーに嵌まってしまい、大学へもその嵌まりが続いてしまったことを話すと、この花屋が急に私の顔を見る目の色が変わってきた。
花屋は、中学校でサッカー部、それから洛南高校でもサッカーをやって、サッカーリーグの古河工業のサッカー部に入ったことを話した。
東京とメキシコのオリンピックでは、日本サッカーチームは古河電工のメンバーが主力だった。日本サッカー協会の会長も勿論、古河電工出身だった。
横浜の三ツ沢サッカー場の傍にある古河工業の社員住宅に住んでいたんですよ、ときた。
この三ツ沢サッカー場は、私も大学時代に何度も使わせてもらった。
私が働いている会社は、この競技場から歩いて30分ばかりの相鉄の「天王町」駅だ。
そんな話にも、華が咲いた。
ヤマオカさんは巧(うま)かった。
私も一所懸命頑張ったけれど、どうも一人前にはなれなかった。
花屋は奥寺の話をしたが、私が3年生のときに、奥寺は高校を卒業して古河に入ってきた。私が彼をマークしたけれど、どうもきっちりマークしきれなかった。
こんなところで、ヤマオカさんに会えたのが、非常に嬉しい、と言いながら名刺をくれた。
田舎に帰ってきた暁には、必ず、この花屋に顔をだすようにしようと決意した。
宝国寺の母と父と祖母の墓参りをした。決して好い息子ではなかったし、良い孫でもなかったが、誰にも、痛々しい迷惑をかけるようなことはしなかった。迷惑はかけなかったが、決して悪い子供ではなかった。
繰り返す。怒られたことはなく、他所(よそ)様には自慢して回っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★18日の午後
甥っ子(兄貴の長男)夫婦を、祇園「味舌」に招待した。
味舌さんの1階

味舌さんご夫妻のお店「味舌」を紹介する。
ご夫妻の長女である姪っ子が現在、このお店で頑張って働いている。
言うまでもないが、姪っ子と言うのは、昨日結婚したばかりの新婦のこと。そして、味舌さんと言うのは姪っ子の父母。その名字がそのまま、店舗名になっている。
祇園四条北側にひっそりと暖簾を掲げながら、激戦区の京都和食界でも、その味と温かなもてなしに高い信頼を重ねる、いぶし銀的存在だ。
味が解る人には解るということだ。
名の知れた著名な作家もよく来てくれた。この作家のお忘れ会には味舌の妻も出席した。
滋賀県の名料亭で培った腕を持つ店主の和菓子まで、手製に拘る繊細なコース料理は、お昼の気楽な点心仕立てから充実し、夜の季節毎に飽きさせない素材と味わいの妙を創出する。
また結納等、慶弔時にも、細やかな室札やもてなしがいき届く名店だ。
私の郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。
京都府と滋賀県の国境にある、山と山に囲まれた集落だ。正確には、滋賀県の石山と京都府の宇治市を、瀬田川から宇治川になるまでの間に存する。
私が生まれて東京へ出るまでは、山林と田畑と住宅だけ、交通機関の貧しい村だった。道路には信号はなかったし、銀行もなかった。な~んにもない、ひなびた寒村だった。
それに、私にとって、生家に長年感謝なしに生きていることに不満があった。
兄と会っても、そんなに気に入ったことを話すこともないし、甥っ子に会っても、何か面白い話を用意できているわけではない。
兄に話すことはもう決まっている。
中学校を出て、今まで、百姓仕事に専念してきた。体に気を付けてくださいということと、お嫁さん(義姉)の体にも気を付けてくださいね、の二つだけだった。
もう一つ、今回の帰郷には訳があった。
敬老の日に、横浜で同居している妻の母(義母)に敬老を講じなくてはいけないのに、何故、生家まで足を延ばしたのかと言うと、私の兄にお礼を言わなければならない、と気を揉んだからだ。肝心(かんじん)要(かなめ)のことだ。
私の父と母の老後における面倒をよく見てくれた。祖母のことは、母が面倒をみた。
私の父母が亡くなったのは、今から20年ほど前、今更と思われるかも知れないが、どうしてなのか?今の私は、兄貴にどうしてもお礼をしたいのだ。
兄の父母に対する気配りは、大変なものだった。村じゅうの評判だった。
山岡家の親孝行は、村一番の好事(こうじ)!!
私は、仕事が忙しいとか、何とか言いながら、兄にその話をしなかった。
それから、同時に、横浜で同居する義母に対する「敬老の日」対策だ。義母に何かをしたい、これが上手く考えられない。
年老いた義母に俺たち夫婦がやれることな何だ。
92歳で体の不自由が可愛そうな義母。
彼女の頭の中にあるのは、結婚するまでの実家での生活まではクッキリ、ハッキリしているのだが、それ以降の65年のことに関しては、話にもならない。
好いことやら悲しいことやら、思い出そうとしないのか、思い出せないのか。
私の都合で何やら聞き出したいと思っても、無理な話。
小学校や女学校の友達から電話があったときには、何もないような快活さでお話できるのに、同じことばかり何度も繰り返されると、この私は面白くなく感じてしまい、これは親不孝をしているのではないか、と反省する。
私は兄の子供、甥っ子夫婦を味舌さんに招待した。
甥っ子は、季節ごとの農産物を随時、横浜まで送ってくれるので、そのためのお礼をしなくてはいけないと思っていた。
料理については、私同然余り口数がない。満足してくれていたことは間違いない。
味舌さんが客席に現れて、甥っ子夫婦に挨拶してくれた。このオジサンはお酒のみで変な人だからねえ、と笑い飛ばしてくれた。私は味舌さんのことを、味舌さんは私のことをよ~く理解してくれているようだ。
兄と会っても、そんなに気に入ったことを話すこともないし、甥っ子に会っても、何か面白い話を用意できているわけではない。
兄に話すことはもう決まっている。
中学校を出て、今まで、百姓仕事に専念してきた。体に気を付けてくださいということと、お嫁さん(義姉)の体にも気を付けてくださいね、の二つだけだった。
もう一つ、今回の帰郷には訳があった。
敬老の日に、横浜で同居している妻の母(義母)に敬老を講じなくてはいけないのに、何故、生家まで足を延ばしたのかと言うと、私の兄にお礼を言わなければならない、と気を揉んだからだ。肝心(かんじん)要(かなめ)のことだ。
私の父と母の老後における面倒をよく見てくれた。祖母のことは、母が面倒をみた。
私の父母が亡くなったのは、今から20年ほど前、今更と思われるかも知れないが、どうしてなのか?今の私は、兄貴にどうしてもお礼をしたいのだ。
兄の父母に対する気配りは、大変なものだった。村じゅうの評判だった。
山岡家の親孝行は、村一番の好事(こうじ)!!
私は、仕事が忙しいとか、何とか言いながら、兄にその話をしなかった。
それから、同時に、横浜で同居する義母に対する「敬老の日」対策だ。義母に何かをしたい、これが上手く考えられない。
年老いた義母に俺たち夫婦がやれることな何だ。
92歳で体の不自由が可愛そうな義母。
彼女の頭の中にあるのは、結婚するまでの実家での生活まではクッキリ、ハッキリしているのだが、それ以降の65年のことに関しては、話にもならない。
好いことやら悲しいことやら、思い出そうとしないのか、思い出せないのか。
私の都合で何やら聞き出したいと思っても、無理な話。
小学校や女学校の友達から電話があったときには、何もないような快活さでお話できるのに、同じことばかり何度も繰り返されると、この私は面白くなく感じてしまい、これは親不孝をしているのではないか、と反省する。
私は兄の子供、甥っ子夫婦を味舌さんに招待した。
甥っ子は、季節ごとの農産物を随時、横浜まで送ってくれるので、そのためのお礼をしなくてはいけないと思っていた。
料理については、私同然余り口数がない。満足してくれていたことは間違いない。
味舌さんが客席に現れて、甥っ子夫婦に挨拶してくれた。このオジサンはお酒のみで変な人だからねえ、と笑い飛ばしてくれた。私は味舌さんのことを、味舌さんは私のことをよ~く理解してくれているようだ。
2017年9月24日日曜日
読後感想って?不思議だ!!
我が家のちっちゃな改装で、2階にあった本箱を1階に移動して、必要のない本は友人にあげたり、古本屋さんに売ったりして、少なくなった本を再読するために残した。
再読しないと堪(こら)えられない本が、いくつもあるのです。
この家から持ち出す本と再読する本の選択は難しかった。
貧乏人暮らしに慣れていて、身辺(しんぺん)から本を引き離すことが、異常に嫌だった。
そうは言っても、そんな私の本質にいつまでも構っては要られない。
手元に残った本は、どれもそう簡単には離れられない、忘れられない重要なモノばかりだ。
これからは新刊本は買わない、できる限り再読に励むんだと決心した。
そして、これから再読しようと選んだ本の中から、一番最初に手をつけたのはやっぱり太宰治だった。
先週、妻の妹の娘(次女)の結婚式に京都へ行くことになって、これは最善のチャンスだと思った。
読んだ本は太宰治全集2の「ダス・ゲマイネ」だった。この本については次稿にて読後感想を書きます。
今、読書中なのは「走れメロス」だ。これの読後感想も次次稿に書きますので待っていてください。
今回のブログは、何もこの読後感想のことではなく、私が今一番悩んでいることをここに書いて、認識してもらいたい。重要なことだ。
こんなことになったのは、きっと3年前のちょっとした怪我の「せい」ではないか、と疑っている。
どんなことが原因になっていようが、やはり、一番最初に読んだ時と今再読している時が、余りにも違うことが嫌なのだ。
小説は始まりがあって終わりがある。その始まりの部分から、少しづつ部分的に材料を提供し、その材料の成長や失敗を幾度も繰り返し、最後にはその総括を創りあげる。それが、私でも考えられる一般則なのだ。
言っておきますが。私程度の一般則なので、もっともっと豊かに仕組みを考えている人が大多数だと思う。
前記の少しづつ部分的なものを、小説の中での小論としよう。
その小論の中では、句読点を含んだ文節がある。そんな文節があっち向きこっち向きしている。
その文節たちの小論が、これまたあっちこっちで傾注したり反動したり、同意、合意の上での大運動に転じる。この中に作者の肯定的否定的なエッセンスが混じり合う。
このようにして、作者はそれなりに意味を持った文章を作り上げ、相手にしらしめることを著作という。
今稿の主題に入る。
在庫にした本の再読で気づいたことが、はなはだ激しいものだから、どうしても文章にして、その原因らしきものを量り得たいと思った。
文章を読む時間が、以前と現在では随分違う。以前は、文章の面白さに奇異を得ながら、どんどん進んだ。が、現在は頭があっち向きこっち向きして、なかなか進まない。
そこから、文章の作意、語意について、考えるようになってしまった。
在庫にしてある本は、大きな感動を得たものばかり。
よって、その感動をもう一度味わいたくなると感じるのは、当然だろう。
一つ一つの小論にある文節が、かって感じた感動と違うように感じることがある。元元、文節の背景にあるものに興味を持ち過ぎるきらいがあるのかしれません。
そして、行間の意味も充分に考えたい。
次に興味を持つのが、語彙、漢字や述語や慣用句、修飾語に感嘆符だ。この一つ一つの言葉にさえ、興味が沸くのだ。
太宰治の「山月記」で、こんな文章があった。50年前のことだ。
俺が書こうとしているのは、「赤い」なのか、「紅い」なのか、「朱い」なのか。「緋い」いや「赫い」かもしれん。俺は結局どの「あかい」も書けなかった。
もう一文(ひとぶん)。
呻吟していた俺は、目の前の白紙に脈略もない言葉だけを延々と書き連ねていたに過ぎなかった。
「もんどり」、「韋駄天」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「海砂利水魚」、「蛇足」、「融通無碍」、「画龍点睛を欠く」などと。
これらの言葉はてんで勝手に散らばっているだけで、いっこうに繋がろうとはしなかった。ただそこへ投げ出され、ことごとく死んでいるように見えた。
鍛錬の末に俺が目指していたものは、こんなわけの分らぬ言葉の羅列ではなかったはずだ。
最初にこの本を読んだとき、この主人公は何を考えていたのだろうか、と何時間もかけて考えた。太宰治は何で、何を表現したかったのだろう。そして、今回読んだときには、以前のように感じなかった。感性の鈍りか、心が腐ってしまったのか。
太宰治の作意、作風、作想は何だったんだ?
方言にも興味がある。
慣れないモノの言い方にも関心がある。
これらの言葉の裏の背景、作者の心の裡(うち)を窺(うかが)いたくなる。
この背景や心の裡は、限りないのだ。だから、面白い。
30,40,50年前の私と今の私では、人の世のなかで、肝要なヒト、モノ、カネが変わってしまったのか。それらの重要性についても変わったのか。
考え方にも変化が生まれたのか。
言葉遊び、文章? 文節遊びもできなくなった。
正直に告白する。
あの時、あれ程感動したのに、なんだろう、今の俺の脳の中は?
★下記はインターネットから拝借した。
脳の各部がそれぞれに働き合って、工夫が生まれる。そんなことを思うと、どうもその辺に故障が生じているのだろう。

再読しないと堪(こら)えられない本が、いくつもあるのです。
この家から持ち出す本と再読する本の選択は難しかった。
貧乏人暮らしに慣れていて、身辺(しんぺん)から本を引き離すことが、異常に嫌だった。
そうは言っても、そんな私の本質にいつまでも構っては要られない。
手元に残った本は、どれもそう簡単には離れられない、忘れられない重要なモノばかりだ。
これからは新刊本は買わない、できる限り再読に励むんだと決心した。
そして、これから再読しようと選んだ本の中から、一番最初に手をつけたのはやっぱり太宰治だった。
先週、妻の妹の娘(次女)の結婚式に京都へ行くことになって、これは最善のチャンスだと思った。
読んだ本は太宰治全集2の「ダス・ゲマイネ」だった。この本については次稿にて読後感想を書きます。
今、読書中なのは「走れメロス」だ。これの読後感想も次次稿に書きますので待っていてください。
今回のブログは、何もこの読後感想のことではなく、私が今一番悩んでいることをここに書いて、認識してもらいたい。重要なことだ。
こんなことになったのは、きっと3年前のちょっとした怪我の「せい」ではないか、と疑っている。
どんなことが原因になっていようが、やはり、一番最初に読んだ時と今再読している時が、余りにも違うことが嫌なのだ。
小説は始まりがあって終わりがある。その始まりの部分から、少しづつ部分的に材料を提供し、その材料の成長や失敗を幾度も繰り返し、最後にはその総括を創りあげる。それが、私でも考えられる一般則なのだ。
言っておきますが。私程度の一般則なので、もっともっと豊かに仕組みを考えている人が大多数だと思う。
前記の少しづつ部分的なものを、小説の中での小論としよう。
その小論の中では、句読点を含んだ文節がある。そんな文節があっち向きこっち向きしている。
その文節たちの小論が、これまたあっちこっちで傾注したり反動したり、同意、合意の上での大運動に転じる。この中に作者の肯定的否定的なエッセンスが混じり合う。
このようにして、作者はそれなりに意味を持った文章を作り上げ、相手にしらしめることを著作という。
今稿の主題に入る。
在庫にした本の再読で気づいたことが、はなはだ激しいものだから、どうしても文章にして、その原因らしきものを量り得たいと思った。
文章を読む時間が、以前と現在では随分違う。以前は、文章の面白さに奇異を得ながら、どんどん進んだ。が、現在は頭があっち向きこっち向きして、なかなか進まない。
そこから、文章の作意、語意について、考えるようになってしまった。
在庫にしてある本は、大きな感動を得たものばかり。
よって、その感動をもう一度味わいたくなると感じるのは、当然だろう。
一つ一つの小論にある文節が、かって感じた感動と違うように感じることがある。元元、文節の背景にあるものに興味を持ち過ぎるきらいがあるのかしれません。
そして、行間の意味も充分に考えたい。
次に興味を持つのが、語彙、漢字や述語や慣用句、修飾語に感嘆符だ。この一つ一つの言葉にさえ、興味が沸くのだ。
太宰治の「山月記」で、こんな文章があった。50年前のことだ。
俺が書こうとしているのは、「赤い」なのか、「紅い」なのか、「朱い」なのか。「緋い」いや「赫い」かもしれん。俺は結局どの「あかい」も書けなかった。
もう一文(ひとぶん)。
呻吟していた俺は、目の前の白紙に脈略もない言葉だけを延々と書き連ねていたに過ぎなかった。
「もんどり」、「韋駄天」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「海砂利水魚」、「蛇足」、「融通無碍」、「画龍点睛を欠く」などと。
これらの言葉はてんで勝手に散らばっているだけで、いっこうに繋がろうとはしなかった。ただそこへ投げ出され、ことごとく死んでいるように見えた。
鍛錬の末に俺が目指していたものは、こんなわけの分らぬ言葉の羅列ではなかったはずだ。
最初にこの本を読んだとき、この主人公は何を考えていたのだろうか、と何時間もかけて考えた。太宰治は何で、何を表現したかったのだろう。そして、今回読んだときには、以前のように感じなかった。感性の鈍りか、心が腐ってしまったのか。
太宰治の作意、作風、作想は何だったんだ?
方言にも興味がある。
慣れないモノの言い方にも関心がある。
これらの言葉の裏の背景、作者の心の裡(うち)を窺(うかが)いたくなる。
この背景や心の裡は、限りないのだ。だから、面白い。
30,40,50年前の私と今の私では、人の世のなかで、肝要なヒト、モノ、カネが変わってしまったのか。それらの重要性についても変わったのか。
考え方にも変化が生まれたのか。
言葉遊び、文章? 文節遊びもできなくなった。
正直に告白する。
あの時、あれ程感動したのに、なんだろう、今の俺の脳の中は?
★下記はインターネットから拝借した。
脳の各部がそれぞれに働き合って、工夫が生まれる。そんなことを思うと、どうもその辺に故障が生じているのだろう。

大脳・間脳・中脳・延髄について
大脳…大脳は脳のなかで最も主要な部分で、主な溝によって前頭葉(ぜんとうよう)、側頭葉(そくとうよう)、頭頂葉(とうちょうよう)、後頭葉(こうとうよう)に分けられています。大脳皮質には運動野、体性感覚野、視覚野、聴覚野、嗅覚野(きゅうかくや)、味覚野、言語野など、機能の諸中枢が特定の部分に分布しています。
これを大脳皮質の機能局在といっています。深部は白質で大脳髄質といわれ、各部を連絡する有髄線維でできています。
間脳…大脳におおわれていて一部が見えるだけです。視床脳(ししょうのう)と視床下部(ししょうかぶ)などに分けられ、嗅覚を除くすべての感覚線維を中継します。
中脳…大脳と脊髄、小脳を結ぶ伝導路ですが、同時に視覚反射および眼球運動に関する反射の中枢、聴覚刺激に対し反射的に眼球や体の運動をおこす中枢、身体の平衡、姿勢の保持に関する中枢などがあります。
延髄…延髄には循環や呼吸運動を制御し、生命の維持に重要な自律神経の中枢があります。
小脳…平衡(へいこう)機能、姿勢反射の総合的調整、随意運動の調整など運動系の統合を行っています。障害されると歩けなくなったりします。
2017年9月22日金曜日
待つのが仕事 身に染む戒め
2017年9月21日 朝日新聞(夕刊)3版6の「一語一会」より。

私の頭脳のほんの一部分だけれど、高倉健さんを知り、この石倉三郎を知っているから、だから、この記事に感動したのだろう。身勝手のことだ。記事そのものを転載
させてもらった。
俳優 石倉三郎さん
出し抜けに高倉健さんから電話がかかってきた。東京・木場の当時の住まいへ結婚祝いを届けに来るという。1986年のことだ。
「式に行けなくて悪かったな」
そう言って祝いの品を差し出すと、部屋に上がろうともせず、土砂降りの雨の中を去って行った。贈り物はロレックスの腕時計。添えられたペンダントの裏に漢文が刻まれていた。曰(いわ)く、〈冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、競わず、争わず、以って大事を成すべし〉。
「健さんは、これを自分の戒めにしていらっしゃったんでしょう」
出会いは、その20年ほど前である。バイト先の東京・青山のスーパーから昼休み、近所の喫茶店へ通っていた。事務所が近い健さんは常連客だった。ある日、声をかけられた。「よお、何してるの?バイトか。本職は何なの?」
言い淀んでいたら女性店主が俳優志望だと口を挟んだ。「劇団に入っていても月謝が払えない。世の中は結局カネですかね」。胸の内を語ると、「東映に来るか。最初は端役だけれど、ギャラは出るよ。芝居の勉強をすればいいじゃないか」
東映に入ったものの芽が出ず退社し、美空ひばりさん、島倉千代子さんらの座長公演に立った。やがてお笑いに軸足を移し、80年代初めの漫才ブームに乗って世に出る。
92年秋からのNHKの朝の連続ドラマ「ひらり」で主人公の叔父の鳶職を演じ、役者として生きる手応えをつかんだ。この演技が名匠、市川崑監督の目に留まる。84年公開の映画「四十七人の刺客」で大石内蔵助の家臣・瀬戸孫左衛門役に起用された。主役の内蔵助は健さんだった。撮影初日、あいさつに行くと、我がことのように喜んでくれた。「さぶちゃん、潮が満ちてきたなあ」
撮影セットに入ったら休憩中も腰かけない、そんな修行僧のような健さんには及びもつかぬが、結婚祝いに贈られた言葉は常に心にある。
「特に『閑に耐え』が難しい。ぼくらは待つのが仕事っていわれるけれど、役がくるのをあんまり長く待ってると精神が腐ってくるんですよ。もう、ダメなんじゃないか、と」
こうした雑念を払い、ひたすら耐える―――、戒めを残して逝った恩人に感謝している。
(田中啓介)

私の頭脳のほんの一部分だけれど、高倉健さんを知り、この石倉三郎を知っているから、だから、この記事に感動したのだろう。身勝手のことだ。記事そのものを転載
させてもらった。
俳優 石倉三郎さん
高倉 健さんからの言葉
出し抜けに高倉健さんから電話がかかってきた。東京・木場の当時の住まいへ結婚祝いを届けに来るという。1986年のことだ。
「式に行けなくて悪かったな」
そう言って祝いの品を差し出すと、部屋に上がろうともせず、土砂降りの雨の中を去って行った。贈り物はロレックスの腕時計。添えられたペンダントの裏に漢文が刻まれていた。曰(いわ)く、〈冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、競わず、争わず、以って大事を成すべし〉。
「健さんは、これを自分の戒めにしていらっしゃったんでしょう」
出会いは、その20年ほど前である。バイト先の東京・青山のスーパーから昼休み、近所の喫茶店へ通っていた。事務所が近い健さんは常連客だった。ある日、声をかけられた。「よお、何してるの?バイトか。本職は何なの?」
言い淀んでいたら女性店主が俳優志望だと口を挟んだ。「劇団に入っていても月謝が払えない。世の中は結局カネですかね」。胸の内を語ると、「東映に来るか。最初は端役だけれど、ギャラは出るよ。芝居の勉強をすればいいじゃないか」
東映に入ったものの芽が出ず退社し、美空ひばりさん、島倉千代子さんらの座長公演に立った。やがてお笑いに軸足を移し、80年代初めの漫才ブームに乗って世に出る。
92年秋からのNHKの朝の連続ドラマ「ひらり」で主人公の叔父の鳶職を演じ、役者として生きる手応えをつかんだ。この演技が名匠、市川崑監督の目に留まる。84年公開の映画「四十七人の刺客」で大石内蔵助の家臣・瀬戸孫左衛門役に起用された。主役の内蔵助は健さんだった。撮影初日、あいさつに行くと、我がことのように喜んでくれた。「さぶちゃん、潮が満ちてきたなあ」
撮影セットに入ったら休憩中も腰かけない、そんな修行僧のような健さんには及びもつかぬが、結婚祝いに贈られた言葉は常に心にある。
「特に『閑に耐え』が難しい。ぼくらは待つのが仕事っていわれるけれど、役がくるのをあんまり長く待ってると精神が腐ってくるんですよ。もう、ダメなんじゃないか、と」
こうした雑念を払い、ひたすら耐える―――、戒めを残して逝った恩人に感謝している。
(田中啓介)
2017年9月19日火曜日
栗のお祀りだ
栗のことを、皆が、これほど喜ぶなんて知らなかった。

穂が生まれる田畑、これこそが私の踊り場なのだ。
踊り場なんて変な言葉を使う奴と嫌がられそうだが、これこそ私の我儘な踊り場だから、許されるだろう。悪いヤツは弓矢で刺し殺し、富を生むヤツには甘酒と美味い御馳走でも用意したい。
毎週水曜日の早朝は、マイ果樹園「イーハトーブ」に行っている。私の体には百姓の血が流れている。野良仕事、働いてこそ血肉沸起(わきお)こる立派な仕事だ。
生まれて、長年の私の慣習だ。目が覚めたら、次の作業の準備に入る。
2017年、8月の中頃のことだ。
畑行きは、特別の用事がない限り、習慣になっている。朝、ご飯を食べてコーヒーを飲むと、体は自然に畑に向かっている。畑は、どのようになっているだろうか、と考えだして、次から次と妄想は広がる広がる、伸びる伸びる。
畑まで、自宅から歩いて30分、電気自転車で10分はかからない。
保土ヶ谷区の権太坂や境木本町の線路を挟んで反対側の今井町。
大根の成長を見極めるのと虫退治。そして、ほうれん草と大豆(枝豆)、里芋の様子を見るのが目的だった。体に余裕があれば、できるだけ雑草を取る。
ところが、畑に着いて、目の前に現れたのは栗の毬栗(いがぐり)姿だった。まさか、熟して落ちてくる頃に入っているとは、想像していなかった。
こちらの方では鬼皮と呼ぶらしいが、私の郷里では毬栗と言った。鬼皮に張りがあり、光沢もある。栗が地面にゴロゴロ転がっているのを想像しなかった。
栗の樹木を上に下に横を見て、これからドンドン落ちてくるだろうと思うだけで、嬉しくなった。
胸がどき~んどき~んと鳴るのが聞こえた。嬉しいことは、先ずは手元で固めることだ。取り敢えず、20個ほど摑まえて、鬼皮を剥いた栗だけをビニール袋に入れた。
この栗のお話をしたくて、この文章を書きだした。
此の夏は、沢山の栗に追われ、その栗をあの人、この人と、貰ってもらった。貰ってくれた人からは満面の笑みと謝辞をいっぱい返された。この件について思うことがあって、字を拾っている。
思わぬことに、此の夏は栗が平年よりも2,3割収穫が少なかったそうだ。よって、デパートなどで売っている栗の売値は、2,3割以上に高く、買い渋った人が多かったようだ。
作物のことについて話そう。
大根は、7月に同じ畑で隣のオジサンが作ったことが私の頭の隅っこに残っていて、葉に襲い掛かる虫が異常に多いのには驚いた。根は大きく育ち、私は沢山いただいた。
害虫は、黄色い羽根を持った蝶々だった。大根は甘辛くて、美味しかった。
そして、俺にだってやれないことはないと思い込み、種類は違うけれど、同じことをしただけのことだ。
虫の種類は違うけれど、葉はそれなりに痛んだ。それでも、何とか決行した。うちの大根はひょっとして、鳥にやられたのかもしれない。
成長は、少しづつ少しづつで、でも、俺の腹だけは気にするどころか、ひたすら待っていた。
ほうれん草は土壌のアルカリ調整が上手く合っていないのか、成長が芳しくない。消石灰はたっぷり撒いたのだけど。成長を待つまでもなく、小さいままでどんどん採集して、御浸(おひた)しにして食った。
次は、里芋だ。この畑では初めての栽培になる。里芋の成長が著しく怏々(おうおう)している。
枝なのか葉なのか柄なのか、その色は緑り緑りしていて、その伸びがまたイイのだ。郷里で、見覚えのある光景に、気分がいい。私の感覚は田舎モノに弱いのだ。
この芋の味は今でも明確に憶えているので、収穫はいつの日になるのだろう、楽しみだ、食べるのが愉しみだ。
大豆は、皆さんお馴染みのビールの摘まみ。枝豆として可愛がられている。
今日はみんな曳き抜いて帰ろう。この枝豆には食い頃と言うものがあって、みんな持って帰ろう。我が家の北側の家と西側の人にあげよう。いつもいつもお世話になっているから、当たり前のことだ。
北側の兄さんも、西側のオジサンも大層喜んでくれた。醜いオヤジなのに、こんなものをくれるとは、夢にも思っていなかったようだ。
栗の話に戻る。
昨年は私の家族、それ以外には長女、三女の家庭用に貰ってもらった。少しだけの栗を消費するだけなら、なんてこともなかったのだろう。でも、父が持ってくる栗の量は、今年も変りない。そして、皆は嫌な顔をせず、何とか食ってくれた。
そして、今年ことだ。
私には思うことがあって、近所の吉さんと松さん、会社のスタッフにもあげようと決めた。食べ物だから、付き合いの薄い人には差し控えようと考えた。
会社の人間と言っても、妙齢の女性なら喜んでくれるだろう。そして、栗の話だけをして彼女の顔を見れば、喜んでいるのか悲しんでいるのか、直ぐにわかるだろう。
彼女は、嬉しいと言うだけではなく、ゲット後の料理のメニューまでも私に話してくれた。
こんな彼女に貰ってもらえることは、私にとっても嬉しい限りだ。
畑で立派な栗を見つけたとき、携帯電話で明日は楽しみにしてくれ、ちょっとばかり持っていくサカイに。そして、翌日楽しく会えた。
彼女は作り上げようとするメニューを言った。栗ご飯、栗の甘煮、栗きんとんの作り方を話してくれた。
それから2,3日して、仕上がった料理にイタリア語なのかフランス語なのかわからないが、珍しいメニューを話してくれた。そうか、そうなんだ!! そんなに喜んでくれたのか。
近所の吉さんのお家に届けに行った。少し前にブドウをくれたので、そのお返しですよと言った。吉さんは、夫婦だけなので、スーパーなんかで買うこともないのよ。
山口の私の生家には、いっぱい栗があるのよ。買うこともない。その日はそれで終わった。
2,3日後に会ったとき、ヤマオカさん、あの栗、美味しかったよ。
わかったよ、来年はもっと持ってくるので、楽しみにしてください。いいオバサンだ。
松さんは、持って行ったその日に、甘煮をつくった。その作品を我が家に持って来てくれた。美味しかった、娘にも電話をして取りにくるように言ったよ。
娘も喜んで、ヤマオカさんによろしく言っといてよ、だった。松さんにも、来年はもっともっと多く持ってくるサカイにと言った。
いいオバアちゃん、だ。
この松さんは和歌山出身で、私たちには関西弁で不自由はなかった。
長女の家庭用には私が渋皮を剥いた。
4人家族だけれども少ないのは寂しい、少しでも多ければ、それなりに喜んでもらえるだろうと、多い目に皮むきをした。
圧力鍋なら10分ぐらい加熱すれば、渋皮はきれいに剥けるらしい。長女の家庭には圧力鍋があるのを知っていながら、醜(ひど)い指あつかいで頑張って剥いた。
栗ご飯は、上手く炊けて美味しかったそうだ。ここでも、私は懲りずに来年はもっと多く持ってくるサカイにと言っておいた。
最後は我が家の栗ご飯のことだ。三女家族と一緒暮らしになったので、鬼皮と渋皮を剥く仕事は私がやった。大人5人に2歳が一人。最低に50個は剥かなくてはいかんだろうと思って始めたが、それ以上は剥けなかった。
割と難しくて2時間は要した。栗ご飯を妻が立派に仕上げてくれた。喜んでくれた。
義理の母が、私も小さいころはよく剥いたよ、底の方から剥いて、それから少しずつ先に向かっていくのよ、と言われたので、オバアチャンちょっとやってみると仕掛けた。
指の不自由さが極まり、包丁を持つのも、栗を強く持つのもできなかった。ハッハッアーと笑い転げて、一貫の終わりだった。
3年前に植えた栗の樹もおおきくなっている。今年は30個ぐらいしか生らなかったが、これからが楽しみだ。

穂が生まれる田畑、これこそが私の踊り場なのだ。
踊り場なんて変な言葉を使う奴と嫌がられそうだが、これこそ私の我儘な踊り場だから、許されるだろう。悪いヤツは弓矢で刺し殺し、富を生むヤツには甘酒と美味い御馳走でも用意したい。
毎週水曜日の早朝は、マイ果樹園「イーハトーブ」に行っている。私の体には百姓の血が流れている。野良仕事、働いてこそ血肉沸起(わきお)こる立派な仕事だ。
生まれて、長年の私の慣習だ。目が覚めたら、次の作業の準備に入る。
2017年、8月の中頃のことだ。
畑行きは、特別の用事がない限り、習慣になっている。朝、ご飯を食べてコーヒーを飲むと、体は自然に畑に向かっている。畑は、どのようになっているだろうか、と考えだして、次から次と妄想は広がる広がる、伸びる伸びる。
畑まで、自宅から歩いて30分、電気自転車で10分はかからない。
保土ヶ谷区の権太坂や境木本町の線路を挟んで反対側の今井町。
大根の成長を見極めるのと虫退治。そして、ほうれん草と大豆(枝豆)、里芋の様子を見るのが目的だった。体に余裕があれば、できるだけ雑草を取る。
ところが、畑に着いて、目の前に現れたのは栗の毬栗(いがぐり)姿だった。まさか、熟して落ちてくる頃に入っているとは、想像していなかった。
こちらの方では鬼皮と呼ぶらしいが、私の郷里では毬栗と言った。鬼皮に張りがあり、光沢もある。栗が地面にゴロゴロ転がっているのを想像しなかった。
栗の樹木を上に下に横を見て、これからドンドン落ちてくるだろうと思うだけで、嬉しくなった。
胸がどき~んどき~んと鳴るのが聞こえた。嬉しいことは、先ずは手元で固めることだ。取り敢えず、20個ほど摑まえて、鬼皮を剥いた栗だけをビニール袋に入れた。
この栗のお話をしたくて、この文章を書きだした。
此の夏は、沢山の栗に追われ、その栗をあの人、この人と、貰ってもらった。貰ってくれた人からは満面の笑みと謝辞をいっぱい返された。この件について思うことがあって、字を拾っている。
思わぬことに、此の夏は栗が平年よりも2,3割収穫が少なかったそうだ。よって、デパートなどで売っている栗の売値は、2,3割以上に高く、買い渋った人が多かったようだ。
作物のことについて話そう。
大根は、7月に同じ畑で隣のオジサンが作ったことが私の頭の隅っこに残っていて、葉に襲い掛かる虫が異常に多いのには驚いた。根は大きく育ち、私は沢山いただいた。
害虫は、黄色い羽根を持った蝶々だった。大根は甘辛くて、美味しかった。
そして、俺にだってやれないことはないと思い込み、種類は違うけれど、同じことをしただけのことだ。
虫の種類は違うけれど、葉はそれなりに痛んだ。それでも、何とか決行した。うちの大根はひょっとして、鳥にやられたのかもしれない。
成長は、少しづつ少しづつで、でも、俺の腹だけは気にするどころか、ひたすら待っていた。
ほうれん草は土壌のアルカリ調整が上手く合っていないのか、成長が芳しくない。消石灰はたっぷり撒いたのだけど。成長を待つまでもなく、小さいままでどんどん採集して、御浸(おひた)しにして食った。
次は、里芋だ。この畑では初めての栽培になる。里芋の成長が著しく怏々(おうおう)している。
枝なのか葉なのか柄なのか、その色は緑り緑りしていて、その伸びがまたイイのだ。郷里で、見覚えのある光景に、気分がいい。私の感覚は田舎モノに弱いのだ。
この芋の味は今でも明確に憶えているので、収穫はいつの日になるのだろう、楽しみだ、食べるのが愉しみだ。
大豆は、皆さんお馴染みのビールの摘まみ。枝豆として可愛がられている。
今日はみんな曳き抜いて帰ろう。この枝豆には食い頃と言うものがあって、みんな持って帰ろう。我が家の北側の家と西側の人にあげよう。いつもいつもお世話になっているから、当たり前のことだ。
北側の兄さんも、西側のオジサンも大層喜んでくれた。醜いオヤジなのに、こんなものをくれるとは、夢にも思っていなかったようだ。
栗の話に戻る。
昨年は私の家族、それ以外には長女、三女の家庭用に貰ってもらった。少しだけの栗を消費するだけなら、なんてこともなかったのだろう。でも、父が持ってくる栗の量は、今年も変りない。そして、皆は嫌な顔をせず、何とか食ってくれた。
そして、今年ことだ。
私には思うことがあって、近所の吉さんと松さん、会社のスタッフにもあげようと決めた。食べ物だから、付き合いの薄い人には差し控えようと考えた。
会社の人間と言っても、妙齢の女性なら喜んでくれるだろう。そして、栗の話だけをして彼女の顔を見れば、喜んでいるのか悲しんでいるのか、直ぐにわかるだろう。
彼女は、嬉しいと言うだけではなく、ゲット後の料理のメニューまでも私に話してくれた。
こんな彼女に貰ってもらえることは、私にとっても嬉しい限りだ。
畑で立派な栗を見つけたとき、携帯電話で明日は楽しみにしてくれ、ちょっとばかり持っていくサカイに。そして、翌日楽しく会えた。
彼女は作り上げようとするメニューを言った。栗ご飯、栗の甘煮、栗きんとんの作り方を話してくれた。
それから2,3日して、仕上がった料理にイタリア語なのかフランス語なのかわからないが、珍しいメニューを話してくれた。そうか、そうなんだ!! そんなに喜んでくれたのか。
近所の吉さんのお家に届けに行った。少し前にブドウをくれたので、そのお返しですよと言った。吉さんは、夫婦だけなので、スーパーなんかで買うこともないのよ。
山口の私の生家には、いっぱい栗があるのよ。買うこともない。その日はそれで終わった。
2,3日後に会ったとき、ヤマオカさん、あの栗、美味しかったよ。
わかったよ、来年はもっと持ってくるので、楽しみにしてください。いいオバサンだ。
松さんは、持って行ったその日に、甘煮をつくった。その作品を我が家に持って来てくれた。美味しかった、娘にも電話をして取りにくるように言ったよ。
娘も喜んで、ヤマオカさんによろしく言っといてよ、だった。松さんにも、来年はもっともっと多く持ってくるサカイにと言った。
いいオバアちゃん、だ。
この松さんは和歌山出身で、私たちには関西弁で不自由はなかった。
長女の家庭用には私が渋皮を剥いた。
4人家族だけれども少ないのは寂しい、少しでも多ければ、それなりに喜んでもらえるだろうと、多い目に皮むきをした。
圧力鍋なら10分ぐらい加熱すれば、渋皮はきれいに剥けるらしい。長女の家庭には圧力鍋があるのを知っていながら、醜(ひど)い指あつかいで頑張って剥いた。
栗ご飯は、上手く炊けて美味しかったそうだ。ここでも、私は懲りずに来年はもっと多く持ってくるサカイにと言っておいた。
最後は我が家の栗ご飯のことだ。三女家族と一緒暮らしになったので、鬼皮と渋皮を剥く仕事は私がやった。大人5人に2歳が一人。最低に50個は剥かなくてはいかんだろうと思って始めたが、それ以上は剥けなかった。
割と難しくて2時間は要した。栗ご飯を妻が立派に仕上げてくれた。喜んでくれた。
義理の母が、私も小さいころはよく剥いたよ、底の方から剥いて、それから少しずつ先に向かっていくのよ、と言われたので、オバアチャンちょっとやってみると仕掛けた。
指の不自由さが極まり、包丁を持つのも、栗を強く持つのもできなかった。ハッハッアーと笑い転げて、一貫の終わりだった。
3年前に植えた栗の樹もおおきくなっている。今年は30個ぐらいしか生らなかったが、これからが楽しみだ。
2017年9月15日金曜日
俺って、風に多感か!
風に感じる!!

風とは空気の流れ、又は空気自体の動きということ。時には、全体的な雰囲気の方向のような意味でもある。
風って、人間の感覚にとって、不思議なモノだ。内省的な私こそ、難しいこともある。
人間が風について、内情的・内省的に感じたこと思ったことを喋ったり書いたり表現することが、非常に難しく感じることがある。
風は何処で生まれて、何処まで吹いていくのだろう。何処までも一緒に歩きたいと歌い続けている歌手がいたな。
風は変幻自在だ。
天候的には、現在では「気流」が類義語だ。
最後には、風を使った言語や文節その他も合わせて書き足した。
・風が全くない無風状態のことを「凪(なぎ)」という。凪とは本の中ではよく見かけたが、日常的に使ったことはない。ネットで、本当の意味を知った。
凪の意味は、漢字の形をよく見れば分る。
風という漢字の中身が「止まる」になっている。つまり「風が止んだ状態」を表現している。
そこから、凪からは「風や波が静まること」、「平穏でのんびりした雰囲気」が感じられる。
「凪」は日本で作られた和製漢字で、中国で成立した他の多くの漢字と比べると歴史が浅いため、熟語がほとんどない。
・ここで、何故、風のことを書きだしたのかと言うと、7月の或る夜のこと、窓から室内に吹き荒(すさ)ぶ突風に悩まされたことがあって、この風という奴の本体は何ぞやと思った。
多少の気温や湿度の高さや低さぐらいでは、我が家では、私はエアコンを使用しない。
2階で独りぼっちで寝ていた。横浜で、風と共に、熱く、強く、激しく、そして長く雨が窓に打ち続けた。
愛知から岐阜、中部地方では大雨で、その影響があった。雨戸や窓に降りつける雨風は、容赦なかった。
本でも読んで気を晴らそうとしたけれど、夢中になれず、夜が明けるまで無駄だった。
糞!と思ったけれど、仕方がなく、眠たい頭のまま会社に行った。
肌を静かにさする風は、実に快いものだけど、肌を攻撃的に突き点(つ)けてくる風ほど嫌な奴はない。
・先月のいつのことだったか、東京・銀座で味わったビル風の恐ろしさにも空いた口が塞がらないだけでなく、いつものように頭に血が上り、血の熱は沸点基準になった。
天候の激変になんか一々文句を言っているわけではない。
群馬から山形にかけて大雨が降った日のことだ、仕事で出かけた東京・銀座のビル群の中で、少しばかりの雨よりも酷い激風に困った。
私のような野放図な男野郎なら、根性だけでも何とか耐えられるが、女性にとっては大敵だ。スカートや上着が、異常な強さの風から、何とか逃げようとするのだが、私にとっても可愛そうでならなかった。
自宅の窓に打ちつけてきた雨風は、ちょっとばかりの怪我で、意識が薄らいでいる私を馬鹿にしたのだろうか。東京・銀座のビル風は、恰好に気づかう女性たちを、雨風は薄ら笑いでもしているのだろうか。
憎(に)っくき雨風の馬鹿野郎。
・ブリタニカ国際大百科事典で「ビル風」を調べてみた。
高層ビル近くで吹く強風。高層ビルに風があたると,空気が上下,左右に分かれる。
特に左右に分かれた風がビルの側面を回り込む際に,建物の側面を上方から下方に斜めに向かう速い流れをつくり,地上付近に局部的に強風を発生させる。
また,風は建物にあたると壁面に沿って流れるが,建物の隅角部までくるとそれ以上壁面に沿って流れることができず,建物からはがれて流れ去る。
はがれた風はその周囲の風よりも強くなるため,局部的に強風が発生する。
さらに,複数の高層ビル周辺では,ビルとビルの間を吹き抜ける強風の発生もある。
今日では強いビル風が発生しないよう,形状を工夫したビルも建設されている。
そんなこんなで、面白くない話はここらで終わりにして、楽しい、ちょっとくすぐったい感覚を味わう「風」だってある。
私らしくなく、ハイカラに風をなめるように生きたいと思うことがある。
これらは、内緒の話にして置いてくださいね。
なめるって? 感覚的過ぎて悪いが、「舐める」と書きたい。
なめるって? みくびるわけではなく、甘くかるく見て見なす。
これは、生半可な関係ではなく、恋人なのか妹なのか母なのか、特殊な親近感を抱いた者同士のお付き合いのサマだ。感覚に繊細でないと、アカンのよ。
俺の心は風まかせ、だ。誰も、な~んにも解ってくれない。これ、詩人感覚? いやはやちょっとぐらいは詩人になってみたい。
誰も応援してくれなくていい、それでいいのだ。ちょっと独りで生きたいと思うことがある、でも、でも、そんなこと言ったって、必ず寂しくなってくる。
・「無党派の風が吹いた」とか、「逆風が強かった」の風ならば、感覚の嫌味苦味とは関係なく味わえる。
・ファッションなどでは、「●○風(ふう)」ということもある。
これも通常の会話の中で、変則的ではない。
気になる「風」について、少し付け加える。
ちょっと気になる言葉としては、風邪、風疹だ。これは風を空気として、その役目を考えてこのような使われ方を仕出したのだろう。
・肺に出入りする空気の通り道を気道と言う。
鼻や口から声帯までを上気道。風邪は、上気道の炎症性の病気。
・風疹は「三日ばしか」とも言われる。
ウイルス性の良性発疹性の伝染病。母性が妊娠初期にかかると、先天異常児を高率で出産する危険がある。
・風薫る(かぜかおる)とは。
“風薫る五月”といったように、今日では決り文句化しているが、この「風薫る」は、もとは漢語の「薫風」で、訓読みして和語化したものである。
新緑をわたる風、初夏のさわやかに吹く風のさま。
風が「薫る」程度の風速から、もう少し強くなると「青嵐」になる。セイランと音読すると「晴嵐」と混同してしまうので、俳句ではアオアラシと訓読することが多い。
風、枝を鳴らさず(社会が平和なたとえ)
風に付く(風に乗る。風に任せる)
風の便り(うわさ、風聞)
風に柳(ほどよく応対して、さからわないたとえ)
風が吹けば桶屋が儲かる
風に乗って行っちゃった
風、破窓を射る(窓の破れているところから風が吹きこむ)
風と共にさりぬ(南北戦争を主題に、南部の大農場主の娘・スカーレット・オハラの愛の変遷を描いた長編小説)
風が過ぎ去る
風光る(春の陽光の中を風がさわやかにふきわたるさま)
風は吹けども山は動かず(混乱した状態の中にあっても動じない)
風のように過ぎ去る、疾風のごとく
風は何でも知っている
風を吹かす(何らかの地位や身分を鼻にかけて、いばる)
風を掴む(てがかりがなく、つかまえどころのないことを言う)
風は吹き、炎は燃える
肩で風を切る(威勢のよいたとえ)
風を入れる(風が入るようにする。外部から新しいものを入れて、内部がその影響を受けるようにする)
・フーテンの寅次郎のフーと上記の「風」(ふう)とは違うのか。
「男はつらいよ」は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷・葛飾柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。
ところでフーテンは、漢字では「瘋癲(ふうてん)」だ。
・次に、関連して思い出した言葉が風来坊(ふうらいぼう)だ? どこからともなくやって来た人。
定まった居場所や仕事もなくぶらぶらしている人のことを言う。
風来坊の「風」は、フーテンの寅の「フー」で、瘋癲の「瘋」か?
・「風の谷のナウシカ」。
アニメーション監督で演出家の宮崎駿による日本の漫画作品。
戦争による科学文明の崩壊後、異形の生態系に覆われた終末世界を舞台に、人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカの姿を描く。
・風水とは。
風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御する思想。
「堪輿(かんよ)」ともいう。
・最後に判らずじまいで終わりそうなのが、「風たちぬ」だ。
堀辰雄の小説の題名でもある。胸を患う婚約者と「私」とのサナトリウムでの愛の生活を描く。
この「風」はどのように理解すればいいのだろうか。
・風神(ふうじん)とは。

風とは空気の流れ、又は空気自体の動きということ。時には、全体的な雰囲気の方向のような意味でもある。
風って、人間の感覚にとって、不思議なモノだ。内省的な私こそ、難しいこともある。
人間が風について、内情的・内省的に感じたこと思ったことを喋ったり書いたり表現することが、非常に難しく感じることがある。
風は何処で生まれて、何処まで吹いていくのだろう。何処までも一緒に歩きたいと歌い続けている歌手がいたな。
風は変幻自在だ。
天候的には、現在では「気流」が類義語だ。
最後には、風を使った言語や文節その他も合わせて書き足した。
・風が全くない無風状態のことを「凪(なぎ)」という。凪とは本の中ではよく見かけたが、日常的に使ったことはない。ネットで、本当の意味を知った。
凪の意味は、漢字の形をよく見れば分る。
風という漢字の中身が「止まる」になっている。つまり「風が止んだ状態」を表現している。
そこから、凪からは「風や波が静まること」、「平穏でのんびりした雰囲気」が感じられる。
「凪」は日本で作られた和製漢字で、中国で成立した他の多くの漢字と比べると歴史が浅いため、熟語がほとんどない。
・ここで、何故、風のことを書きだしたのかと言うと、7月の或る夜のこと、窓から室内に吹き荒(すさ)ぶ突風に悩まされたことがあって、この風という奴の本体は何ぞやと思った。
多少の気温や湿度の高さや低さぐらいでは、我が家では、私はエアコンを使用しない。
2階で独りぼっちで寝ていた。横浜で、風と共に、熱く、強く、激しく、そして長く雨が窓に打ち続けた。
愛知から岐阜、中部地方では大雨で、その影響があった。雨戸や窓に降りつける雨風は、容赦なかった。
本でも読んで気を晴らそうとしたけれど、夢中になれず、夜が明けるまで無駄だった。
糞!と思ったけれど、仕方がなく、眠たい頭のまま会社に行った。
肌を静かにさする風は、実に快いものだけど、肌を攻撃的に突き点(つ)けてくる風ほど嫌な奴はない。
・先月のいつのことだったか、東京・銀座で味わったビル風の恐ろしさにも空いた口が塞がらないだけでなく、いつものように頭に血が上り、血の熱は沸点基準になった。
天候の激変になんか一々文句を言っているわけではない。
群馬から山形にかけて大雨が降った日のことだ、仕事で出かけた東京・銀座のビル群の中で、少しばかりの雨よりも酷い激風に困った。
私のような野放図な男野郎なら、根性だけでも何とか耐えられるが、女性にとっては大敵だ。スカートや上着が、異常な強さの風から、何とか逃げようとするのだが、私にとっても可愛そうでならなかった。
自宅の窓に打ちつけてきた雨風は、ちょっとばかりの怪我で、意識が薄らいでいる私を馬鹿にしたのだろうか。東京・銀座のビル風は、恰好に気づかう女性たちを、雨風は薄ら笑いでもしているのだろうか。
憎(に)っくき雨風の馬鹿野郎。
・ブリタニカ国際大百科事典で「ビル風」を調べてみた。
高層ビル近くで吹く強風。高層ビルに風があたると,空気が上下,左右に分かれる。
特に左右に分かれた風がビルの側面を回り込む際に,建物の側面を上方から下方に斜めに向かう速い流れをつくり,地上付近に局部的に強風を発生させる。
また,風は建物にあたると壁面に沿って流れるが,建物の隅角部までくるとそれ以上壁面に沿って流れることができず,建物からはがれて流れ去る。
はがれた風はその周囲の風よりも強くなるため,局部的に強風が発生する。
さらに,複数の高層ビル周辺では,ビルとビルの間を吹き抜ける強風の発生もある。
今日では強いビル風が発生しないよう,形状を工夫したビルも建設されている。
そんなこんなで、面白くない話はここらで終わりにして、楽しい、ちょっとくすぐったい感覚を味わう「風」だってある。
私らしくなく、ハイカラに風をなめるように生きたいと思うことがある。
これらは、内緒の話にして置いてくださいね。
なめるって? 感覚的過ぎて悪いが、「舐める」と書きたい。
なめるって? みくびるわけではなく、甘くかるく見て見なす。
これは、生半可な関係ではなく、恋人なのか妹なのか母なのか、特殊な親近感を抱いた者同士のお付き合いのサマだ。感覚に繊細でないと、アカンのよ。
俺の心は風まかせ、だ。誰も、な~んにも解ってくれない。これ、詩人感覚? いやはやちょっとぐらいは詩人になってみたい。
誰も応援してくれなくていい、それでいいのだ。ちょっと独りで生きたいと思うことがある、でも、でも、そんなこと言ったって、必ず寂しくなってくる。
・「無党派の風が吹いた」とか、「逆風が強かった」の風ならば、感覚の嫌味苦味とは関係なく味わえる。
・ファッションなどでは、「●○風(ふう)」ということもある。
これも通常の会話の中で、変則的ではない。
気になる「風」について、少し付け加える。
ちょっと気になる言葉としては、風邪、風疹だ。これは風を空気として、その役目を考えてこのような使われ方を仕出したのだろう。
・肺に出入りする空気の通り道を気道と言う。
鼻や口から声帯までを上気道。風邪は、上気道の炎症性の病気。
・風疹は「三日ばしか」とも言われる。
ウイルス性の良性発疹性の伝染病。母性が妊娠初期にかかると、先天異常児を高率で出産する危険がある。
・風薫る(かぜかおる)とは。
“風薫る五月”といったように、今日では決り文句化しているが、この「風薫る」は、もとは漢語の「薫風」で、訓読みして和語化したものである。
新緑をわたる風、初夏のさわやかに吹く風のさま。
風が「薫る」程度の風速から、もう少し強くなると「青嵐」になる。セイランと音読すると「晴嵐」と混同してしまうので、俳句ではアオアラシと訓読することが多い。
風、枝を鳴らさず(社会が平和なたとえ)
風に付く(風に乗る。風に任せる)
風の便り(うわさ、風聞)
風に柳(ほどよく応対して、さからわないたとえ)
風が吹けば桶屋が儲かる
風に乗って行っちゃった
風、破窓を射る(窓の破れているところから風が吹きこむ)
風と共にさりぬ(南北戦争を主題に、南部の大農場主の娘・スカーレット・オハラの愛の変遷を描いた長編小説)
風が過ぎ去る
風光る(春の陽光の中を風がさわやかにふきわたるさま)
風は吹けども山は動かず(混乱した状態の中にあっても動じない)
風のように過ぎ去る、疾風のごとく
風は何でも知っている
風を吹かす(何らかの地位や身分を鼻にかけて、いばる)
風を掴む(てがかりがなく、つかまえどころのないことを言う)
風は吹き、炎は燃える
肩で風を切る(威勢のよいたとえ)
風を入れる(風が入るようにする。外部から新しいものを入れて、内部がその影響を受けるようにする)
・フーテンの寅次郎のフーと上記の「風」(ふう)とは違うのか。
「男はつらいよ」は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷・葛飾柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。
ところでフーテンは、漢字では「瘋癲(ふうてん)」だ。
・次に、関連して思い出した言葉が風来坊(ふうらいぼう)だ? どこからともなくやって来た人。
定まった居場所や仕事もなくぶらぶらしている人のことを言う。
風来坊の「風」は、フーテンの寅の「フー」で、瘋癲の「瘋」か?
・「風の谷のナウシカ」。
アニメーション監督で演出家の宮崎駿による日本の漫画作品。
戦争による科学文明の崩壊後、異形の生態系に覆われた終末世界を舞台に、人と自然の歩むべき道を求める少女ナウシカの姿を描く。
・風水とは。
風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御する思想。
「堪輿(かんよ)」ともいう。
・最後に判らずじまいで終わりそうなのが、「風たちぬ」だ。
堀辰雄の小説の題名でもある。胸を患う婚約者と「私」とのサナトリウムでの愛の生活を描く。
この「風」はどのように理解すればいいのだろうか。
・風神(ふうじん)とは。
自然現象の中でも、風は特別な存在といえるのではないでしょうか。
というのは、雨や雪とは違って目に見えないものだからです。
そのため「風神(ふうじん)」のように神格化されることもあります。
風をつかさどる神。風袋を担いでいる姿に描かれている。
・「解散風」
思わぬ風?だ! 解散風が新聞やテレビで騒がれている。
来月に衆議院を解散して、20日以降のある日に、投開票を行いたいと与党の自民党と公明党が主張しだした。
決定は間もなくされるのだろうが、私にはこの「風」という文字が気になった。支持率の下がった自民党が、野党の調整がまとまらないうちに、投票をやっつけてしまいたいと思っているようだ。
私には与党である自民党・公明党に有り余る支持をしていない。同時に野党にも惚れている党派はない。
優秀な人材は、いるのか?いないのか?
・風合い。
設置の施設が「風合い、評判」。 20170921朝日新聞(夕刊)より。
木製いすを導入済みだったり、予定していたりするスタジアムもある。サッカーJ1のセレッソ大阪のホーム「キンチョウスタジアム」は15年度以降、大阪府などの補助金を受けて約1万8千席のベンチやグループシートにした。担当者は「風合いやぬくもりがある。評判も良く、リピーターが期待できる」。
柱など人が触れる部分には国産ヒノキを使った。
・風の歌が聞こえますか、という文章を読んだ。
風の歌って何だろうか?
というのは、雨や雪とは違って目に見えないものだからです。
そのため「風神(ふうじん)」のように神格化されることもあります。
風をつかさどる神。風袋を担いでいる姿に描かれている。
・「解散風」
思わぬ風?だ! 解散風が新聞やテレビで騒がれている。
来月に衆議院を解散して、20日以降のある日に、投開票を行いたいと与党の自民党と公明党が主張しだした。
決定は間もなくされるのだろうが、私にはこの「風」という文字が気になった。支持率の下がった自民党が、野党の調整がまとまらないうちに、投票をやっつけてしまいたいと思っているようだ。
私には与党である自民党・公明党に有り余る支持をしていない。同時に野党にも惚れている党派はない。
優秀な人材は、いるのか?いないのか?
・風合い。
設置の施設が「風合い、評判」。 20170921朝日新聞(夕刊)より。
木製いすを導入済みだったり、予定していたりするスタジアムもある。サッカーJ1のセレッソ大阪のホーム「キンチョウスタジアム」は15年度以降、大阪府などの補助金を受けて約1万8千席のベンチやグループシートにした。担当者は「風合いやぬくもりがある。評判も良く、リピーターが期待できる」。
柱など人が触れる部分には国産ヒノキを使った。
・風の歌が聞こえますか、という文章を読んだ。
風の歌って何だろうか?
2017年9月10日日曜日
ロシアW杯 日本サッカー出場決定②
2017年9月2日の朝日新聞の記事転載第2号だ。
紙上の写真も、後日転載するので、しばらくお待ちください。
サムライブルー 4年で変わった
W杯アジア最終予選 データで振り返る
球際の攻防 勝ちきる強さ
激しいタックル2割増
「厳しい球際での攻防」と「縦への速い攻撃」。この二つを意識して戦ったサッカー日本代表が、6大会連続のワールドカップ(W杯)出場を勝ち取った。バヒド・ハリルホジッチ監督(65)が就任してから約2年半)。指揮官が求める戦い方は選手たちにどこまで浸透し、結実したのか。アルベルト・ザッケローニ氏が率いていた4年前のW杯アジア最終予選と比較しながら振り返った。
(データはデータスタジアム社提供)
W杯行きを決めた8月31日の豪州戦。身長171センチのMF井手口(ガ大阪)は、開始直後から190センチの前後あある豪州の選手たちに果敢に体をぶつけ、彼らの足元から次々と球を奪い取った。「監督の指示。チームの戦術だった」と井手口。W杯予選での対豪州戦8試合目にして、初めて無失点で勝った。
2015年3月に就任したハリルホジッチ監督は、球際の競り合いにひるむことなく挑み、勝ちきる強さを選手に求めた。好んで使う言葉は、フランス語の「デュエル」(決闘)」だ。
それを表すデータの一つが、体を投げ出して相手の球を奪いにいくタックル数。今回の最終予選では、1試合平均23・1回試みており、4年前から約2割増えた。タックルを含めて、相手から球を奪った回数についても4年前の平均69・3回から76・5回に。特に、ピッチをセンターラインで2分割したとき、相手ゴールのある敵陣で球を奪った回数は、平均13・3回から19回になった。31日の豪州戦でもFW大迫(ケルン)やFW乾(エイバル)が、豪州のペナルティーエリア付近まで球を追いかけ、相手が苦し紛れに蹴りだすシーンが何度も見られた。
10秒未満でシュート3倍
縦への速い攻撃 精度に課題
攻撃面で目指したのは、「縦への速さ」。球を奪い、余計な手数をかけず、相手の守備が整わない間にシュートまで持ち込み、得点につなげようとした。今回の最終予選では、球を奪ってからは10秒たたないうちにシュートまで持ち込んだプレーが1試合平均で3回あった。細かいパスをつなぎながらボールを保持し、試合の主導権を握るスタイルだった4年前のおよそ3倍。昨年10月に敵地でああった豪州戦で、FW原口(ヘルタ)が相手DFの裏へ抜け出してGKとの1対1に持ち込み、冷静に蹴り込んだゴールは、ハリルホジッチ監督が理想とする形から生まれたものだった。
「我々はボール保持率が50%以下のときにいい試合ができている」と普段から話しているハリルホジッチ監督。あえて相手に球を保持させ、隙を見て奪っては攻撃につなげるスタイルを好んだ。1試合平均の保持率は、4年前の58・2%から48・3%に下がった。31日の豪州の保持率は38・6%。しかし、相手に打たれたシュート数は5本しかなく、逆に日本が18本放って2点を挙げた。選手たちが攻守にわたって監督の求めるスタイルを実践していたことが分る。
ただし、速い攻撃が必ずしも効果的だったとは言い切れない。FW本田(パチューカ)が「監督がやりたいサッカーがあって、それをストレートに伝える。若手が聞きすぎて消化しきれない」と振り返ったことがあるように、速さにこざわるすぎて攻めが雑になるシーンが少なくなかった。
球を奪ってから10秒たたないうちにシュートまで持ち込んだプレーが、得点に結びついたのは27回中4回で、成功率は約15%。4年前の22%から落ちてしまった。精度の向上が、本大会での1次リーグ突破や初の8強入りを狙うには欠かせない。
前回のザッケローニ氏が最終予選で先発させた選手は19人(全8試合)。主力の固定化が目立ち、ときに批判を浴びることもあった。これに対してハリルホジッチ監督は「その時点でベストと思える、プレーするに値する選手を使う」と繰り返してきた。31日の豪州戦でも乾を左サイドに置くなど、26人(9試合平均時点』を先発で起用した。新陳代謝を活性化させ、若手の成長を促した。
(清水寿之)
本田「僕や真司が出なくても勝てたのは収穫」
サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会出場を決めた日本代表の選手たちが1日、さいたま市内で報道陣の取材に応じ、アジア最終予選を振り返り、本番への抱負を語った。FW本田圭佑(パチューカ)はイタリア1部ACミランで活躍できなかったことを念頭に「イタリアの人たちの大半を認めさせることができなかった悔しさがある」とイタリアとの対戦を熱望した。
31日の豪州戦ではこれまで日本の攻撃の主軸を担った本田とMF香川真司(ドルトムント)に出番がなかった。今予選で2人に出番がないのは初めてで、本田は「予選の一番の収穫は僕や真司はそこに危機感を持っている」。
今月5日に最終戦が行われるサウジアラビア・ジッダに旅立つ前の練習で、ハリルホジッチ監督は10分余、「今日からはW杯へ向けてのスタート。成長しなくてはいけない」と訓示。W杯1次リーグでアジア勢との対戦はなく、予選以上の強敵と対戦することになる。
生き残りへ「新たな本田見せる」
w杯アジア最終予選、6日未明サウジ戦
サッカーのワールドカップ(W杯)アジア最終予選で、日本代表は5日(日本時間6日未明)に敵地でサウジアラビアとの最終戦に臨む。W杯出場を決め、選手にとっては本大会に向けて自らをアピールする重要な場になる。31歳の本田圭祐も、生き残りをかける一人。
本田は「これまでと努力の仕方も変え、今までと違った挑戦をしていきたい。新たな本田圭祐をみなさんにみせたい」と語る。
W杯出場を決めた8月31日の豪州戦で、今最終予選で初めて出番がなかった。定位置の再奪取は台頭する若手との競争になるが、「それとは少し違った視点でレギュラーを取り戻そうとしている。自分自身に挑戦し、勝ちたい」。豪州戦で抜擢された29歳の浅野のスピードや走力に「刺激をうけた」と話しており、不得手とされてきた運動量などのアップに取り組む構えもうかがえる。
W杯まで約9ヶ月。瀬戸際の立場に追い込まれての「変身宣言」ともとれる。らだ、焦りはないと明言した。「選手としての先が明確に見えている分だけ、劇的に体力が上がるわけではなく、成り上がるためのサッカーキャリアではもうない。考える余裕がある」
(ジッダ=藤木健)
紙上の写真も、後日転載するので、しばらくお待ちください。
サムライブルー 4年で変わった
W杯アジア最終予選 データで振り返る
球際の攻防 勝ちきる強さ
激しいタックル2割増
「厳しい球際での攻防」と「縦への速い攻撃」。この二つを意識して戦ったサッカー日本代表が、6大会連続のワールドカップ(W杯)出場を勝ち取った。バヒド・ハリルホジッチ監督(65)が就任してから約2年半)。指揮官が求める戦い方は選手たちにどこまで浸透し、結実したのか。アルベルト・ザッケローニ氏が率いていた4年前のW杯アジア最終予選と比較しながら振り返った。
(データはデータスタジアム社提供)
W杯行きを決めた8月31日の豪州戦。身長171センチのMF井手口(ガ大阪)は、開始直後から190センチの前後あある豪州の選手たちに果敢に体をぶつけ、彼らの足元から次々と球を奪い取った。「監督の指示。チームの戦術だった」と井手口。W杯予選での対豪州戦8試合目にして、初めて無失点で勝った。
2015年3月に就任したハリルホジッチ監督は、球際の競り合いにひるむことなく挑み、勝ちきる強さを選手に求めた。好んで使う言葉は、フランス語の「デュエル」(決闘)」だ。
それを表すデータの一つが、体を投げ出して相手の球を奪いにいくタックル数。今回の最終予選では、1試合平均23・1回試みており、4年前から約2割増えた。タックルを含めて、相手から球を奪った回数についても4年前の平均69・3回から76・5回に。特に、ピッチをセンターラインで2分割したとき、相手ゴールのある敵陣で球を奪った回数は、平均13・3回から19回になった。31日の豪州戦でもFW大迫(ケルン)やFW乾(エイバル)が、豪州のペナルティーエリア付近まで球を追いかけ、相手が苦し紛れに蹴りだすシーンが何度も見られた。
10秒未満でシュート3倍
縦への速い攻撃 精度に課題
攻撃面で目指したのは、「縦への速さ」。球を奪い、余計な手数をかけず、相手の守備が整わない間にシュートまで持ち込み、得点につなげようとした。今回の最終予選では、球を奪ってからは10秒たたないうちにシュートまで持ち込んだプレーが1試合平均で3回あった。細かいパスをつなぎながらボールを保持し、試合の主導権を握るスタイルだった4年前のおよそ3倍。昨年10月に敵地でああった豪州戦で、FW原口(ヘルタ)が相手DFの裏へ抜け出してGKとの1対1に持ち込み、冷静に蹴り込んだゴールは、ハリルホジッチ監督が理想とする形から生まれたものだった。
「我々はボール保持率が50%以下のときにいい試合ができている」と普段から話しているハリルホジッチ監督。あえて相手に球を保持させ、隙を見て奪っては攻撃につなげるスタイルを好んだ。1試合平均の保持率は、4年前の58・2%から48・3%に下がった。31日の豪州の保持率は38・6%。しかし、相手に打たれたシュート数は5本しかなく、逆に日本が18本放って2点を挙げた。選手たちが攻守にわたって監督の求めるスタイルを実践していたことが分る。
ただし、速い攻撃が必ずしも効果的だったとは言い切れない。FW本田(パチューカ)が「監督がやりたいサッカーがあって、それをストレートに伝える。若手が聞きすぎて消化しきれない」と振り返ったことがあるように、速さにこざわるすぎて攻めが雑になるシーンが少なくなかった。
球を奪ってから10秒たたないうちにシュートまで持ち込んだプレーが、得点に結びついたのは27回中4回で、成功率は約15%。4年前の22%から落ちてしまった。精度の向上が、本大会での1次リーグ突破や初の8強入りを狙うには欠かせない。
前回のザッケローニ氏が最終予選で先発させた選手は19人(全8試合)。主力の固定化が目立ち、ときに批判を浴びることもあった。これに対してハリルホジッチ監督は「その時点でベストと思える、プレーするに値する選手を使う」と繰り返してきた。31日の豪州戦でも乾を左サイドに置くなど、26人(9試合平均時点』を先発で起用した。新陳代謝を活性化させ、若手の成長を促した。
(清水寿之)
本田「僕や真司が出なくても勝てたのは収穫」
サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会出場を決めた日本代表の選手たちが1日、さいたま市内で報道陣の取材に応じ、アジア最終予選を振り返り、本番への抱負を語った。FW本田圭佑(パチューカ)はイタリア1部ACミランで活躍できなかったことを念頭に「イタリアの人たちの大半を認めさせることができなかった悔しさがある」とイタリアとの対戦を熱望した。
31日の豪州戦ではこれまで日本の攻撃の主軸を担った本田とMF香川真司(ドルトムント)に出番がなかった。今予選で2人に出番がないのは初めてで、本田は「予選の一番の収穫は僕や真司はそこに危機感を持っている」。
今月5日に最終戦が行われるサウジアラビア・ジッダに旅立つ前の練習で、ハリルホジッチ監督は10分余、「今日からはW杯へ向けてのスタート。成長しなくてはいけない」と訓示。W杯1次リーグでアジア勢との対戦はなく、予選以上の強敵と対戦することになる。
生き残りへ「新たな本田見せる」
w杯アジア最終予選、6日未明サウジ戦
サッカーのワールドカップ(W杯)アジア最終予選で、日本代表は5日(日本時間6日未明)に敵地でサウジアラビアとの最終戦に臨む。W杯出場を決め、選手にとっては本大会に向けて自らをアピールする重要な場になる。31歳の本田圭祐も、生き残りをかける一人。
本田は「これまでと努力の仕方も変え、今までと違った挑戦をしていきたい。新たな本田圭祐をみなさんにみせたい」と語る。
W杯出場を決めた8月31日の豪州戦で、今最終予選で初めて出番がなかった。定位置の再奪取は台頭する若手との競争になるが、「それとは少し違った視点でレギュラーを取り戻そうとしている。自分自身に挑戦し、勝ちたい」。豪州戦で抜擢された29歳の浅野のスピードや走力に「刺激をうけた」と話しており、不得手とされてきた運動量などのアップに取り組む構えもうかがえる。
W杯まで約9ヶ月。瀬戸際の立場に追い込まれての「変身宣言」ともとれる。らだ、焦りはないと明言した。「選手としての先が明確に見えている分だけ、劇的に体力が上がるわけではなく、成り上がるためのサッカーキャリアではもうない。考える余裕がある」
(ジッダ=藤木健)
2017年9月9日土曜日
ハリル 1年越しの反撃
2017年9月8日(金)の朝日新聞夕刊、「サッカーのミカタ」を転載させてもらう。
9月11日には、紙上の写真も転載させてもらう。
サッカー狂いのキチガイ頭の私は、日本代表がロシアW杯に出場が決定したときから、何も考えられない程、冷静にして置いて欲しい心境だ。
テレビ中継を観た。
顔面は狂ったようにヘナヘナ形相、凝視は鋭い、肩や腕は相手の攻撃陣の背中にも腹にも回れるよう、腰も相手の腰をやっつけられるように、手は相手の体の一部分を掴み、自由にはさせない。足は四方八方どこへでも早く強く厳しくスタートできる、そんな状態で観た。これって!私の観ている姿、実体だ。
俺って、可笑しくなっているのではと心配した。
これから暫らくは、今までのこと、これからのことを考えたい。
実に難しいことではあるのだが。きっと、ハリルホジッチ監督はさぞかし悩んでいることだろう。
日本のサッカーの輝く未来のために、志ある人は賢いご意見を述べて欲しい。
ハリル 1年越しの反撃
「解任」報道の裏であったこと
1年越しの反撃だった。8月31日に豪州を破ってワールドカップ(W杯)ロシア大会出場を決めた直後、記者会見室で拍手に迎えられた日本のハリルホジッチ監督が言い放った。
「ジャーナリストのみなさんの中には、一部の人かもしれないが、私がここから出ていくことを望んでいる人がいるかもしれない。
私はここに残るかもしれないし、残らないかもしれない」。
翌日、日本サッカー協会の田嶋幸三会長を伴って改めて記者会見を開いて辞任を否定し、「昨日の発言は、私を批判していた方々、私に敬意を払っていなかった方々、私の仕事を評価していなかった方々へ向けたもの」と説明した。
「批判」とは昨年10月、敵地の豪州戦の結果次第で「解任」と報じられたこと。
フランス1部のパリ・サンジェルマンなど政財界につながる名門を率いた監督が、批評の裏に何もない、と思うはずがない。
実際に昨秋、日本協会のある幹部は、ハリルホジッチ監督の「後任」に声をかけ、敵地の豪州戦で負けた場合の準備をした。
その豪州戦で引き分けると、田嶋会長はハリルホジッチ監督を支える考えを本人に伝えた。
その後の連勝で「解任話」は立ち消えになった。
ピッチ上では、日本協会とハリルホジッチ監督の方針は一致している。
2014年W杯ブラジル大会の惨敗後、日本協会は、指導者や若手選手の育成で、個人の強化の重視を明確にした。
連係や戦術では個人の非力を補えないという考えだ。
1対1の戦い「デュエル(決闘)」に重きを置くハリルホジッチ監督も、同じ方向を向いている。
良いことのようだが、問題もある。
現在の選手は、連係や戦術を重視する環境で育ってきた。
たとえばハリルホジッチ監督は、FWがMFにバックパスすることを半ば禁じ、個人の力で攻勢を維持するよう求めている。
しかし、選手の中には、FWがMFと連係し、戦術的に不利な状況を避けるのが当然という考えも根強い。
W杯出場の23人が絞られる過程で、監督と選手、または選手同士の、せめぎ合いがあるかもしれない。
そこを発端に、批判の声が再び生まれるかもしれない。
ブラジル大会では、シンプルに攻撃したいザッケローニ監督と、パスワークにこだわる選手との溝が理まらなかった。
大会中、主力選手に近い関係者が「監督の指示を無視して、選手が勝手にプレーしている」と証言した。
チーム関係者によると、試合の終盤に敵陣ゴール前にロングパスを蹴るよう求めた監督の指示に従わなかった選手が、「そんな練習はしていなかった」と言い訳した。
当時の選手がよく口にした「自分たちのサッカー」には、「監督のサッカー」と対立する意味があった。
ザッケローニ監督の采配も選手を信頼していないものだった。
初戦の前日に先発組で練習させた遠藤保仁を当日になって外した時は「試合会場に向かう直前に知らされ、選手たちは動揺した」(チーム関係者)。
第2戦で同じように、香川真司が先発から外された。
本番まで順風満帆に見えたブラジル大会。
すでに波風が立っているロシア大会。
監督が権威を保ち、チームを掌握しているなら、後者の方がいい。
(忠鉢信一)
9月11日には、紙上の写真も転載させてもらう。
サッカー狂いのキチガイ頭の私は、日本代表がロシアW杯に出場が決定したときから、何も考えられない程、冷静にして置いて欲しい心境だ。
テレビ中継を観た。
顔面は狂ったようにヘナヘナ形相、凝視は鋭い、肩や腕は相手の攻撃陣の背中にも腹にも回れるよう、腰も相手の腰をやっつけられるように、手は相手の体の一部分を掴み、自由にはさせない。足は四方八方どこへでも早く強く厳しくスタートできる、そんな状態で観た。これって!私の観ている姿、実体だ。
俺って、可笑しくなっているのではと心配した。
これから暫らくは、今までのこと、これからのことを考えたい。
実に難しいことではあるのだが。きっと、ハリルホジッチ監督はさぞかし悩んでいることだろう。
日本のサッカーの輝く未来のために、志ある人は賢いご意見を述べて欲しい。
ハリル 1年越しの反撃
「解任」報道の裏であったこと
1年越しの反撃だった。8月31日に豪州を破ってワールドカップ(W杯)ロシア大会出場を決めた直後、記者会見室で拍手に迎えられた日本のハリルホジッチ監督が言い放った。
「ジャーナリストのみなさんの中には、一部の人かもしれないが、私がここから出ていくことを望んでいる人がいるかもしれない。
私はここに残るかもしれないし、残らないかもしれない」。
翌日、日本サッカー協会の田嶋幸三会長を伴って改めて記者会見を開いて辞任を否定し、「昨日の発言は、私を批判していた方々、私に敬意を払っていなかった方々、私の仕事を評価していなかった方々へ向けたもの」と説明した。
「批判」とは昨年10月、敵地の豪州戦の結果次第で「解任」と報じられたこと。
フランス1部のパリ・サンジェルマンなど政財界につながる名門を率いた監督が、批評の裏に何もない、と思うはずがない。
実際に昨秋、日本協会のある幹部は、ハリルホジッチ監督の「後任」に声をかけ、敵地の豪州戦で負けた場合の準備をした。
その豪州戦で引き分けると、田嶋会長はハリルホジッチ監督を支える考えを本人に伝えた。
その後の連勝で「解任話」は立ち消えになった。
ピッチ上では、日本協会とハリルホジッチ監督の方針は一致している。
2014年W杯ブラジル大会の惨敗後、日本協会は、指導者や若手選手の育成で、個人の強化の重視を明確にした。
連係や戦術では個人の非力を補えないという考えだ。
1対1の戦い「デュエル(決闘)」に重きを置くハリルホジッチ監督も、同じ方向を向いている。
良いことのようだが、問題もある。
現在の選手は、連係や戦術を重視する環境で育ってきた。
たとえばハリルホジッチ監督は、FWがMFにバックパスすることを半ば禁じ、個人の力で攻勢を維持するよう求めている。
しかし、選手の中には、FWがMFと連係し、戦術的に不利な状況を避けるのが当然という考えも根強い。
W杯出場の23人が絞られる過程で、監督と選手、または選手同士の、せめぎ合いがあるかもしれない。
そこを発端に、批判の声が再び生まれるかもしれない。
ブラジル大会では、シンプルに攻撃したいザッケローニ監督と、パスワークにこだわる選手との溝が理まらなかった。
大会中、主力選手に近い関係者が「監督の指示を無視して、選手が勝手にプレーしている」と証言した。
チーム関係者によると、試合の終盤に敵陣ゴール前にロングパスを蹴るよう求めた監督の指示に従わなかった選手が、「そんな練習はしていなかった」と言い訳した。
当時の選手がよく口にした「自分たちのサッカー」には、「監督のサッカー」と対立する意味があった。
ザッケローニ監督の采配も選手を信頼していないものだった。
初戦の前日に先発組で練習させた遠藤保仁を当日になって外した時は「試合会場に向かう直前に知らされ、選手たちは動揺した」(チーム関係者)。
第2戦で同じように、香川真司が先発から外された。
本番まで順風満帆に見えたブラジル大会。
すでに波風が立っているロシア大会。
監督が権威を保ち、チームを掌握しているなら、後者の方がいい。
(忠鉢信一)
2017年9月6日水曜日
9月はどういう月だったけ?
ヤマオカさん、9月というのは、どういう月ですか?
質問者は、同業の友達だ。
9月と言うのは、先ず24日は私の誕生日ですよ、そして、驚くことなかれ、9月は特に子どもたちの自殺が多いんですよ、何故だか判らないんですが、悲しい月でもあるんですよ。
そして、翌日。
2017年9月6日の朝日新聞の32面に、『「登校つらい子たち 大人が受け止めて」 9月1日前後 今年も自殺発生』の題字で次のような記事が出ていた。
私は、夏休みが終わって、仲間が教室に戻って来て、どんな時間をどのように過ごしたのか、そんなことを話すのが楽しみだった。皆に会うのが、心の中から楽しみだった。1学期の成績がいまいち悪かったことなんて、気にもしなかったし、それよりも2学期での授業が楽しみだった。
質問者は、同業の友達だ。
9月と言うのは、先ず24日は私の誕生日ですよ、そして、驚くことなかれ、9月は特に子どもたちの自殺が多いんですよ、何故だか判らないんですが、悲しい月でもあるんですよ。
そして、翌日。
2017年9月6日の朝日新聞の32面に、『「登校つらい子たち 大人が受け止めて」 9月1日前後 今年も自殺発生』の題字で次のような記事が出ていた。
私は、夏休みが終わって、仲間が教室に戻って来て、どんな時間をどのように過ごしたのか、そんなことを話すのが楽しみだった。皆に会うのが、心の中から楽しみだった。1学期の成績がいまいち悪かったことなんて、気にもしなかったし、それよりも2学期での授業が楽しみだった。
まさか、こんなに楽しい夏休みを終えて始業するのが、そんなに苦しいものなのか、と想像もできない能天気な子供だった。何よりも、何よりも友達に会うのが楽しかっただけだ。
そして、60余年後、こんな幸せな人生を過ごしながら、まさか、よくも、こんなに苦しい思いをしている子どもたちがいたなんて、知らなかった。
成績評価書とか歩みとか、そんなものはどうでも良かった。健康で、大きくなってからは、元気な百姓になってくれればそれでいい、と親たちは思っていたし、私もそのように思っていた。
それは、田舎だったからなのか。
この子どもの自殺には、色々あるようだ。その色々を下記のネットでの記事をお読みください。それにしても、どうも都会的なような気がする。
そして、60余年後、こんな幸せな人生を過ごしながら、まさか、よくも、こんなに苦しい思いをしている子どもたちがいたなんて、知らなかった。
成績評価書とか歩みとか、そんなものはどうでも良かった。健康で、大きくなってからは、元気な百姓になってくれればそれでいい、と親たちは思っていたし、私もそのように思っていた。
それは、田舎だったからなのか。
この子どもの自殺には、色々あるようだ。その色々を下記のネットでの記事をお読みください。それにしても、どうも都会的なような気がする。
■新聞記事の転載よりも前に、インターネットで新聞記事の題字に近いものを見つけたので、その拾い記事を先に流用させてもらう。
★内閣府によると、昭和47年~平成25年の42年間で、18歳以下の子どもの自殺者は1万8048人にのぼるそうです。
そして自殺した日を分析してみると、9月1日が131人、9月2日が94人、8月31日が92人と他の月に比べて多いことがわかりました。
なぜ、9月1日前後なのでしょうか。
★内閣府によると、昭和47年~平成25年の42年間で、18歳以下の子どもの自殺者は1万8048人にのぼるそうです。
そして自殺した日を分析してみると、9月1日が131人、9月2日が94人、8月31日が92人と他の月に比べて多いことがわかりました。
なぜ、9月1日前後なのでしょうか。
★自殺理由
1)家庭環境
「親子関係の不和」「家族からのしつけ」などが理由に挙げられます。自分では、やりたくないと思っていても、「塾に行きなさい」「ピアノの練習は?」と親の意思で行動を決められることがありますよね。「子どものため」と思ってやっていることが、反対に子どもを精神的に追い込んでいることも…。
2)学業の悩み
「進路の悩み」や「学業不振」などが、学業の悩みの代表。思うように成績が伸びなかったり、やりたいことがあるのに、親に相談できない・反対されるなどして悩んだ末、うつ病に転じてしまうこともあるそうです。
3)家族以外の人間関係
とくに注目すべきは「いじめ」ではないでしょうか。いじめられている子どもは、誰にも相談できず、ひとりで抱え込むことが多いといいます。夏休み中は、せっかくいじめから解放されていたのに、また地獄の日々が始まる…。気が重くなるのも無理はありませんね。
自殺理由の多くが、「学校」にかかわるもの。大人でも、会社の長期休み後は、「出社したくない」と思うことがあるはず。プレッシャーや不安、動揺…子どもひとりで背負うには、重すぎるのかもしれません。
先日、9月6日の朝日新聞の社会面の記事の転載にはいる。
★9月1日前後は、子どもの自殺が最も増える時期で、今年も発生した。ただ、こうした傾向が知られるようになり、相談も増えている。不登校などにかかわる団体は引き続き、相談を呼びかけたり、居場所を開放したりしている。
「全国不登校新聞社」(東京)など5団体は、9月1日を前に、「学校へ行きたくないあなたへ、味方はココにいます」という合同メッセージを出した。その後、多くの人がツイッターで自殺防止を呼びかけるメッセージを発信するなど、同調する動きが広がった。
それでも自殺が起きたことについて、不登校新聞の石井志昴(しこう)編集長(35)は「気持ちを受け止めてくれる大人に出会っていない子が多いのでは。解決を急ぐのではなく、話を最後まで聞いてあげてほしい」と求める。
通常のメール相談に代わり、8月27日~9月9日はLINEで相談を受けている「子ども110番」は、9月1日の相談件数が突出して多かったという。電話やチャットで相談にのるチャイルドラインによると、8月29日~9月3日はチャット画面が1日平均約370回閲覧され、昨年同時期の1・3倍だったという。フリースクールの東京シューレは8月30日から部屋を居場所として無料開放している。
8月30日~9月4日、東京都内では中高生5人がマンションから飛び降りるなどし、4人が死亡した。警視庁は、いずれも自殺を図ったとみている。
警視庁は「ヤング・テレホン・コーナー」(03・3580・4970)を設置し、24時間体制で子どもや保護者の相談に応じている。
(片山健志 荒ちひろ)
2017年9月4日月曜日
ロシアW杯、日本サッカー出場決定①
今、スポーツの各種において、世界大会でも優秀な成績が乱発と表現すれば叱られるのかな。この頑張りには、頭が下がる。
男子も女子もみんな同じ。
水泳、卓球、バドミントン、テニス、柔道、レスリング、陸上、新体操。
どの種目にも深い関心をもって、新聞やテレビの報道を楽しみにしている。この類の報道については、並々ならぬ関心だけではなく、情熱に狂いを帯びた状態。
そんな折、情熱が狂化しているどころか、その情熱から火が噴きだしていたのは、サッカーのロシアW杯への出場可否がハッキリしないことだった。それが、決定的になるのが、このオーストラリア戦だ。私にとって、このサッカー問題だけは別項目だ。
そして、2017年8月31日、日本はオーストラリアに2-0で快勝して、6大会連続のロシアW杯出場を決定した。
こんなに嬉しいことはない。8月30日から私の魂は高ぶっていた。妻に、明日のテレビ中継は頗(すこぶ)る緊張して応援するので、日本代表のユニフォームを出しておいてくれ、それを着なくては力が入らない、わかるやろ!と言っておいた。
妻は、夫がまた血が上ってきたようだ、仕方がないワイ、と好く理解していてくれる。
日本チームにとってはホームグラウンド。
私は高校、大学とサッカーをやってきたが、全てが守り本業だったので、相手の攻撃をいかに早く抑え込むことに先ず集中した。そのためか、日本の防御の凄(すさ)まじさが、気に入った。徹底的に殺すことに徹した。
先陣、中盤から、相手よりも早くボールの動きを察知し、遅れても相手の動きを封じる。いくら自陣に、攻められっ放しの厳しいボールでも、相手の思うようには絶対させない。
このようなことが、今までよりも鋭かった。
終盤では、自らの体を張って、相手の攻撃を壊す。
そして、前半41分、FW浅野拓磨がDF長友佑都の左からのパスを決めた。
後半37分、MF井手口陽介がミドルシュートを決めた。
2-0で試合は終了した。
この記念すべき試合の内容等について、9月1日の朝日新聞の記事を丸丸転載させてもらう。
でも、新聞社が社運を賭けて手に入れた報道写真をこのブログにも挿入したいと思っているが、仕事がちょっとばかり忙しくて、間に合っていない。来週の月曜日にはかんせいさせますので、今回は文字だけ。
★先ずは1面から。
日本、ロシアW杯決定
豪州に快勝6大会連続
サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会アジア最終予選で、B組の日本(世界ランキング44位9は、31日、埼玉スタジアムで豪州(同45位)を2-0で破り、6大会連続6回目のW杯出場を決めた。通算成績を6勝1敗2分けの勝ち点20とし、1試合を残して、W杯出場権を得られる同組2位以内が確定した。日本は豪州に過去の予選で2敗5分けで、今回が初勝利となった。
日本は、前半41分にFW浅野拓磨(シュツットガルト)が、DF長友佑都(インテル・ミラノ)の左からのパスを決めて、先取点を奪った。後半37分にはMF井手口陽介(ガ大阪)がミドルシュートを決めた。W杯ロシア大会の抽選会は12月1日に行われ、本大会は来年6月14日に開幕する。
連係より「決闘」求めた
日本代表のバヒド・ハリルホジッチ監督(65)が好んで使う言葉はフランス語の「デュエル」だ。
意味は「決闘」。選手には球際の強さと、最後まで全力でプレーし続けられる気迫を求めた。「侍になってもらいたい。どんな相手でも対等なんだ、とぶつかっていけば必ず結果がでる」
過去の多くの監督は日本人の良さである連係を高め、世界との差を埋めようとした。ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の指揮官は、屈強な海外勢と真っ向から渡り合おうとした。
選手の体脂肪率にまでこだわり走り込みなどを課した。「これで勝てるのか」とこぼす選手もいたが、調子のいい選手を見極め、使うことで反発を抑えた。ときに本田圭佑らスター選手を外し、久保裕也らを抜擢。この日も最終予選2回目の先発となった22歳の浅野拓磨、21歳の井手口陽介が得点するなど、若手に自信を与えてチームを底上げした。
表情はいつも厳しい。強い口調も相まって、親しみを抱きにくい印象の監督だ。W杯アジア最終予選で戦術を批判され、解任を求める声も上がった。「うまくいかなかったらすべて監督のせい」攻撃されるほど、批判が多いほど、それに応えるために強くなる」
逆境を生き抜いてきた。約20万人が犠牲になった祖国の内戦に巻き込まれ、命を狙われ、自宅を焼かれた。えぐられるような心の痛みを知るからこそ、どん底から立ち直る人々の強さを知っている。来日後は被爆地の広島、被災地の熊本を訪れ、手を合わせ、人々を励ましてきた。
就任からおよそ2年半。日本サッカーへ注ぐ情熱には、こんな思いが込められている。「国民が誇りを持てる日本代表にしたい。
(清水寿之)
★31面
列島 全開アシスト
「一緒にロシアへ」スタンド総立ち
6大会連続の本大会出場がかかった強敵との大一番を、日本は見事に勝ち抜いた。31日、埼玉スタジアムであったサッカーワールドカップ(W杯)ロシア大会アジア最終予選の豪州戦。ピッチを駈ける青いユニホームに、日本の各地から声援が送られた。
「夢」の文字が書かれた旗がスタンドにはためく。約6万人のサポーターで埋め尽くされた埼玉スタジアムは、熱気に包まれた。
家族らと鹿児島県から応援にかけつけた自営業の小牧大介さん(39)は、日本がW杯に初出場した1998年のときの代表ユニホームを着て応援。「ずっと勝てなかった相手。倒して出場を決め、アジアの代表として胸を張って世界で躍動してほしい」
前半終了前、浅野拓磨選手がボレーで流し込んで先制。スタンドは総立ちになって喜びを爆発させた。
大学1年の大山千晶さん(19)は跳びはねて喜んだ。父親の影響で子どもの頃からのサッカーファン。「必ず決めてくれると信じていた。サッカーほど胸が熱くなるスポーツはない。一緒にロシアに行きたい」
浅野選手を三重県立四日市中央工業高時代に指導した樋口士郎さん(57)は、自宅のテレビの前で叫んだ。「思わず自宅を走り回った」と興奮気味に語った。
浅野選手は2か月ほど前にも同県菰野町で講演するなど、今も故郷を大切にする。樋口さんが8月、「代表戦もがんばれよ」とLINEでメッセージを送ると「がんばります」とすぐに返事が来たという。「あの状況できっちりゴールを決めた。ここ一番の勝負強さを持っている」
後半。チーム最年少の21歳、井手口陽介選手が豪快なシュートを決める。
約600人が集まった大阪市浪速区のライブハウス「ZePPなんば大阪」は、盛り上がりが最高潮に達した。井手口選手がガンバ大阪所属。大阪大の黒田輝さん(21)は「井手口選手はガンバの誇り。さらに成長した姿をW杯で見たい」。
試合終了の笛が鳴った。埼玉スタジオのスタンドで、埼玉県川口市の理学療法士、寺島優さん(30)は両手を突き上げた。「本当に苦しい予選だった。強敵を倒してつかんだみんなの希望。ロシアで決勝トーナメントまで勝ち進む雄姿を見たい」
「誇」と書かれた旗が振られる。歓声は響き続け、選手たちへの拍手は鳴りやまなかった。
喜びに沸く渋谷 DJポリス出場
豪州に勝利し、W杯出場が決まると、東京・渋谷のスクランブル交差点付近は、大勢の人たちであふれた。
若者らが輪になって「ニッポン」コールをしたり、ハイタッチをしたり。ユニホーム姿のサポーターも続々と増え、信号が青になるたびに、交差点の中でもハイタッやコールが起こった。何十人もの警察官が警備にあたり、車上からマイクで呼びかける「DJポリス」も出動。「喜びを分かち合いたい気持ちはわかりますが、良識ある行動をしてください]「肩車はやめてください」などと丁寧に呼びかけていた。
近くのバーで試合を見ていた会社員の中村晋也さん(25)は、勝利を見届けると交差点に駆けつけ「日本代表は最高です。明日仕事だけど、ずっと今夜は飲み続けます」と語った。
控えでも 本田がいるだけで
日本代表で長くエースだったMF本田圭佑選手(31)は、今回のW杯アジア最終予選で控えに回ることが増え、豪州戦ではついに出番が訪れなかった。それでもチームを支え、世界の舞台に導いた。
この日の豪州戦もベンチから試合開始を見守った。前半41分に日本が先取点を挙げると、DF昌子選手を呼んでピッチサイドから声をかけた。勝ちへ向けて万全を期す姿をみせた31歳も、後半に2点目が入ると、得点した21歳の井手口選手を押し倒す輪に加わって喜びを爆発させた。
最終予選の先発は、9試合のうち5試合。昨年9月を最後に得点がなく、ときに不要論も持ち上がった。だが、日本代表のハリルホジッチ監督は「存在自体が重要」。精神的な柱として代表に呼び続けていた。
今年6月13日のアジア最終予選のイラク戦。勝てばW杯出場に大きく近づくアウェーの試合で、日本は先制しながら格下にまさかの引き分けに終わった。チームには重苦しさが漂った。
その日は、代表戦で9試合ぶりに先発フル出場した本田圭祐選手の31歳の誕生日。夜、宿舎での祝いの席で、仲間を前に切り出した。
「先輩に引っ張られた1度目、中心で出た2度目。どちらのW杯も予選で余裕だった試合はない」「今日は若い選手も悪くなく、厳しい環境で勝ち点1。俺も若手から学びたい。次、勝てばいいだけ」
若手の一人は振り返る。「あの本田さんがあの状況で発した言葉が、チームを前向きにさせてくれた」
22歳で代表デビューを果たした本田選手も、豪州戦ではフィールド選手で2番目の年長世代だ。先発は監督が決めることと分かってはいても、周囲にこうもらしたことがあった。「俺が外れて日本が勝つならそれでいい。でも、負けたら許せない」
熱い思いは秘めつつ、和は乱さなかった。練習では全力でチャンスをつかもうとする姿勢をみせ、ベンチや宿舎で、若手へのアドバイスを欠かさなかった。
自身3度目のW杯出場をめざすロシア大会は、立場は約束されていない。仲間と喜びを分かち合ったこの日からまた、本田選手の新たな戦いが始まる。
(藤木健)
難病と闘う君へ 原口の約束
重い心臓病を患い、東京都内の病院に入院中の菊地秋也(しゅうや)君(11)は、この日の試合を心待ちにしてきた。大ファンの原口元気選手が6月、病室を訪れ、「オーストラリア戦で1点決める」と誓ってくれたからだ。
「拘束型心筋症」という突然死のリスクも高い難病だ。小学1年の時に異常が見つかり、投薬などの治療をしてきたが、昨夏ごろから病状が悪化。米国での移植手術の関係費用約1億2700万円が必要で、知人らによる「秋也くんを救う会」が寄付を募ってきた。
会によると、その活動を知った原口選手が6月中旬、会いに来てくれた。原口選手の、諦めずにボールを取りに行くところが好き」という菊地君は「オーストラリア戦、がんばってください」と伝えた。得点を誓った原口選手は「早くよくなってサッカー一緒にしよう」と話したという。
いま、病室には原口選手のメッセージ入り色紙やサイン入りのスパイク、ボールが飾られている。会った際に原口選手が持ってきてくれたものだ。原口選手はこの日、後半から出場し、献身的にボールを追った。
寄付金は目標額に達した。菊地君は、米国へ渡る準備を始めている。
(高島曜介)
★第16面と17面、スポーツ
新世代世界へ導いた
W杯6大会連続出場
アジア最終予選
先発に起用された浅野、井手口の2ゴールが、日本をロシアに導いた。2018年ワールドカップ(W杯)ロシア大会にあと一歩に迫っていた日本は、W杯予選で初めて豪州を破り、1試合を残して6大会連続6回目の出場を決めた。
22歳浅野 苦悩払う先制弾
いままでの苦しみを、不安を、すべて振り払うような快勝だった。
前半41分、右FWの浅野が相手最終ラインの背後めがけて斜めに走った。そこへ、長友からの浮き球パスがぴたり。相手DFは誰もついてこない。左足で触れてGKの脇へ転がした。
ロシア行きを手繰り寄せた先取点。跳びはねて喜びを爆発させた22歳は「活躍できていなかった分、ゴールで貢献したかあった」。昨年9月のタイ戦で得点するも、同11月以降の最終予選は出番なし。「代表に選ばれるのか。メンバー発表前はいつも危機感ばかり」というのが本心だ。
ここまでの9戦でハリルホジッチ監督が読んだ園主は40人超。生き残りをかけ、おのおのが自らの武器に向き合い、磨く。浅野にしても、「守備などで課題が多くてチームに負担もかけるけど、自分の特長の裏への抜けだし。その一点でゴールに絡む」と臨んだのが吉と出た。
抜擢に応え、持ち味を存分に出したもう一人がMF井手口。開始直後から相手へ猛然と寄せ、何度もボールを刈り取った。終盤には豪快なミドリシュートを決め、勝利を決定づけた。
本拠でアラブ首長国連邦(UAE)に逆転負けを喫して始まった日本の今回の最終予選。本田、香川ら実績ある選手を「聖域」とせず、新たな起用があるたびに緊張感が漂った。21歳で最年少井手口が言う。「下から出てこない環境は、やっぱり緩(ゆる)みが出る」。
苦しみながら成長を重ね、ロシアへ。浅野は「日本としてスタート地点。そこに立てる準備を続けたい」。競争を重ねた先に、さらなる伸びしろが期待できる。
(藤木健)
海外勢16人と国内組 難しかった融合
日本サッカー界がW杯出場に本気で乗り出したのは、1994年米国大会だった。残り十数秒で夢を絶たれた「ドーハーの悲劇」と呼ばれる93年の最終予選から、楽なものなどひとつもなかった。
最終予選が厳しいことはいつも変わりないが、難しさの中身は明らかに変わった。
ちょうど1年前、今回のアジア最終予選がスタートするときに聞いた、ふたりの言葉を思い出す。
岡崎は「海外組が増えて、チームとして合わせる時間は少ない。今までで一番厳しい最終予選になる」と予言した。「最終予選が難しくなっているとすれば、他国に比べて成長率が落ちていることになる」と語ったのは本田だ。
初出場した98年W杯にひとりもいなかった海外組は、02年には4人、06年6人、10年4人、前回の14年に12人に増えた。6回連続出場を決めた豪州戦では登録23人のうち、16人が海外クラブの所属だ。
時差と移動時間を抱え、また所属先で出番の確保に苦しんでいる海外組と、出場機会はあっても序列の低い国内組をどう組み合わせテピッチに解き放つか。個人の能力や戦術よりも、試合勘を含めた個々のコンディションがこれほど代表監督を悩ませ、注目された予選はこれまでなかった。
本田が案じた危機感は現実のものとなった。同じB組では最下位のタイを含め。他国の追い上げは急だ。A組では韓国が苦しんでいる。指定席が用意サレテイル」チームなどない。本田の問う成長率は上がっているが、世代交代が遅れている状況を考えれば、Jリーグの質を上げることも、選手育成の見直しも急務だろう。
最終予選の足取りを冷静に振り返れば、取り組むべきことはいくらでもある。
(潮智史)
21歳井手口 追加点
後半37分、MF井手口は左サイドからドリブルで中心に切り込み、右足を降り抜いた。「入らないと思った。枠内にいって、シュートで終わればいい」と打ったミドルシュート。ゴール右隅に決まり、試合を決める追加点となった。
この試合が代表通算3試合目。W杯出場がかかる大一番に、チーム最年少の21歳ながら起用された。ボールを奪い取る守備が持ち味だが、これまで本田らが務めていたFKやCKのキッカーも任された。誰よりも積極的に動き、日本の中盤を引き締め、得点も奪う出色の出来。「客観的にいえば『持っている』と思いますけど、実感はない」。自身の活躍に驚いた。
乾 「ほっとしている。守備でDFを助けられた。攻撃では自分の良さを出せなかった。満足していない」
長谷部復帰 際立つ安定感
右ひざの手術で、最終予選の出場は4試合ぶり。だが、長谷部はその影響を感じさせなかった。「主将を任されて、それほど時間が経っていなかった頃は手探りだった。今回は自分により責任と重圧をかけていたので喜びも大きい」。
主将を担うのは、16強入りした2010年南アフリカ大会の直前から。その南アでは、控えのベテランが盛り上がり役に徹し、日本は16強に進出。そういう周りに安心感を与えられる存在になりたいという。
自身不在の間、大一番の舞台を整えてくれた仲間の存在は頼もしく映った。そして、この日は若い浅野と井手口が殊勲者に。「堂々としていて頼もしい。彼らが中心になってくれれば、日本のサッカーはもっと良くなっていく」。
次の目標は自身3度目のW杯出場。経験豊かな33歳は、大舞台でのチーム舵取りに思いをはせた。
(冨山正浩)
ハリル監督 質疑応ぜず
「家族の事情」
日本をW杯に導いたハリルホジッチ監督。試合の会見で「プライベートの大きな問題を抱えていた。本当は試合の前に(国に)帰ろうと思ったほど]と明かした。その上で「聞きたいことがいろいろあると思いますが、今日は選手に聞いてあげてください。すいません」と報道陣の質疑には応じず、足早に会見場を後にした。協会関係者によると「家族の事情」。5日のサウジアラビア戦は指揮を執るという。
無失点勝利 吉田の存在感
最終予選8試合 フル出場
日本、豪州破りロシアW杯へ
サッカー日本代表が、2018年ワールドカップ(W杯)ロシア大会への出場を決めた。8月31日のアジア最終予選で、これまでのW杯予選で2敗5分けの豪州を相手に2-0.初勝利を無失点で飾った立役者は、最終予選8試合で唯一、フル出場のDF吉田だ。
31日の豪州戦。定位置のセンターバックに入った吉田はDFの最終ラインで的確にカバーリング。相手をゴールから遠ざけた。イングランド・プレミアリーグでプレーする29歳は「総じていうと、うまくできた」と振り返った。
W杯予選は前回のブラジル大会で初めて臨み、安定感ある内容で本大会への出場を決めた。しかし今回の最終予選は初戦のアラブ首長国連邦(UAE)戦で敗れるなど厳しい船出。6月のイラク戦では、GK川島との連係が取れず、自陣ゴール前を突破してきたイラク選手にこぼれ球を押し込まれて同点に持ち込まれた。苦しんで突破した予選だけに、「うれしさは前回よりすごく大きい」とほっとしたように話した。
今や代表試合出場数は76。今回の予選では、負傷していた長谷部に代わって主将を務めるなど、強い存在感を示した。そうしたなか、チームの変化も感じている。今回の最終予選では31日の豪州戦ゴールを決めた浅野、井手口ら若手が台頭。吉田「フェアな競争があるのは成長を促してくれる。新しい選手がポジションを乗っ取るような戦いが常にあれば、チームにはプラスになる。競争は歓迎」と話す。
ロシア大会に向けて、吉田は「それぞれの選手が各クラブで出場時間を確保して、良い状態で臨まなければならない。これからの強化が重要になってくる」。浮かれることなく、1年後の大舞台へ意識を高めている。
(堤之剛)
★18面 スポーツ
サムライブルー エースの系譜
原口 最終予戦チーム最多4得点
サッカーは1点の重みがほかの競技以上に大きい。ワールドカップ(W杯9をかけたアジア最終予選となれば試合数も少なく、なおさらだ。W杯ロシア大会を目指す今回のアジア最終予選で日本は9試合を終えて、FW原口元気(26)=ヘルタ=がチーム最多の4得点をマークしてチームを引っ張っている。
若手の成長、底上げという点で停滞感があった日本代表の中で、原口は最終予選に入って一気に花開いた。昨年9月の第2戦、敵地のタイ戦で先制ゴールを決めると、続くイラク、豪州戦でも得点し、5戦目のサアウジアラビア戦でも貴重な追加点を奪った。アジア最終予選では日本初となる「4試合連続得点」の記録を樹立。切れ味鋭いドリブルによる攻撃だけでなく、全力で走って自陣に戻る献身的な守備も、ハリルホジッチ監督に評価された。31日の豪州戦では後半31分から出場し、左サイドを奔走。守備に全力で戻り、チャンスと見れば、ゴール前へ走り込んだ。
過去の日本代表の戦いを見てみると、W杯アジア最終予選でゴールを重ねた選手が、そのまま本大会でエース的な役割を担うケースが珍しくない。
2014年ブラジル大会の最終予選はあ、FW本田圭佑(パチューカ)が5得点とチームをリードした。本大会では、初戦のコートジボウール戦で先制点を挙げ、2戦目のギリシャ戦では、最も活躍した「マン・オブ・ザ・マッチ」に国際サッカー連盟(FIFA)から選ばれた。
10年南アフリカ大会の最終予選では、初めて予選を戦った闘莉王(現J2京都9が、DFにもかかわらず日本最多タイの2得点。本大会でも守備の柱として、2大会ぶりの16強入りに貢献した。
一方で、最終予選での活躍が、そのまま本大会に結びつかないこともある。大黒将志(現J2京都)が、06年ドイツ大会の最終予選の初戦、北朝鮮戦の試合終了間際に劇的な決勝点を奪うなど、チーム最多の3得点。本大会では途中出場で3試合に出て無得点に。1998年フランス大会の最終予選で、三浦知良(現J2横浜FC)にいたっては、代表落ちした。
3試合で決勝トーナメント進出が決まるW杯の1次リーグは、アジア最終予選以上に1店の重みが増す。現代表でW杯本番で点を取ったことがあるのは、本田と岡崎慎司(レスター)だけだ。2人はすでに31歳。原口も「いままでの延長線だと来年活躍できる保証はない」と戒める。18年ロシア大会で日本が勝ち抜くためには原口を含め、2人に続く「点取り屋」の出現が待たれる。
(河野正樹)
男子も女子もみんな同じ。
水泳、卓球、バドミントン、テニス、柔道、レスリング、陸上、新体操。
どの種目にも深い関心をもって、新聞やテレビの報道を楽しみにしている。この類の報道については、並々ならぬ関心だけではなく、情熱に狂いを帯びた状態。
そんな折、情熱が狂化しているどころか、その情熱から火が噴きだしていたのは、サッカーのロシアW杯への出場可否がハッキリしないことだった。それが、決定的になるのが、このオーストラリア戦だ。私にとって、このサッカー問題だけは別項目だ。
そして、2017年8月31日、日本はオーストラリアに2-0で快勝して、6大会連続のロシアW杯出場を決定した。
こんなに嬉しいことはない。8月30日から私の魂は高ぶっていた。妻に、明日のテレビ中継は頗(すこぶ)る緊張して応援するので、日本代表のユニフォームを出しておいてくれ、それを着なくては力が入らない、わかるやろ!と言っておいた。
妻は、夫がまた血が上ってきたようだ、仕方がないワイ、と好く理解していてくれる。
日本チームにとってはホームグラウンド。
私は高校、大学とサッカーをやってきたが、全てが守り本業だったので、相手の攻撃をいかに早く抑え込むことに先ず集中した。そのためか、日本の防御の凄(すさ)まじさが、気に入った。徹底的に殺すことに徹した。
先陣、中盤から、相手よりも早くボールの動きを察知し、遅れても相手の動きを封じる。いくら自陣に、攻められっ放しの厳しいボールでも、相手の思うようには絶対させない。
このようなことが、今までよりも鋭かった。
終盤では、自らの体を張って、相手の攻撃を壊す。
そして、前半41分、FW浅野拓磨がDF長友佑都の左からのパスを決めた。
後半37分、MF井手口陽介がミドルシュートを決めた。
2-0で試合は終了した。
この記念すべき試合の内容等について、9月1日の朝日新聞の記事を丸丸転載させてもらう。
でも、新聞社が社運を賭けて手に入れた報道写真をこのブログにも挿入したいと思っているが、仕事がちょっとばかり忙しくて、間に合っていない。来週の月曜日にはかんせいさせますので、今回は文字だけ。
★先ずは1面から。
日本、ロシアW杯決定
豪州に快勝6大会連続
サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会アジア最終予選で、B組の日本(世界ランキング44位9は、31日、埼玉スタジアムで豪州(同45位)を2-0で破り、6大会連続6回目のW杯出場を決めた。通算成績を6勝1敗2分けの勝ち点20とし、1試合を残して、W杯出場権を得られる同組2位以内が確定した。日本は豪州に過去の予選で2敗5分けで、今回が初勝利となった。
日本は、前半41分にFW浅野拓磨(シュツットガルト)が、DF長友佑都(インテル・ミラノ)の左からのパスを決めて、先取点を奪った。後半37分にはMF井手口陽介(ガ大阪)がミドルシュートを決めた。W杯ロシア大会の抽選会は12月1日に行われ、本大会は来年6月14日に開幕する。
連係より「決闘」求めた
日本代表のバヒド・ハリルホジッチ監督(65)が好んで使う言葉はフランス語の「デュエル」だ。
意味は「決闘」。選手には球際の強さと、最後まで全力でプレーし続けられる気迫を求めた。「侍になってもらいたい。どんな相手でも対等なんだ、とぶつかっていけば必ず結果がでる」
過去の多くの監督は日本人の良さである連係を高め、世界との差を埋めようとした。ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の指揮官は、屈強な海外勢と真っ向から渡り合おうとした。
選手の体脂肪率にまでこだわり走り込みなどを課した。「これで勝てるのか」とこぼす選手もいたが、調子のいい選手を見極め、使うことで反発を抑えた。ときに本田圭佑らスター選手を外し、久保裕也らを抜擢。この日も最終予選2回目の先発となった22歳の浅野拓磨、21歳の井手口陽介が得点するなど、若手に自信を与えてチームを底上げした。
表情はいつも厳しい。強い口調も相まって、親しみを抱きにくい印象の監督だ。W杯アジア最終予選で戦術を批判され、解任を求める声も上がった。「うまくいかなかったらすべて監督のせい」攻撃されるほど、批判が多いほど、それに応えるために強くなる」
逆境を生き抜いてきた。約20万人が犠牲になった祖国の内戦に巻き込まれ、命を狙われ、自宅を焼かれた。えぐられるような心の痛みを知るからこそ、どん底から立ち直る人々の強さを知っている。来日後は被爆地の広島、被災地の熊本を訪れ、手を合わせ、人々を励ましてきた。
就任からおよそ2年半。日本サッカーへ注ぐ情熱には、こんな思いが込められている。「国民が誇りを持てる日本代表にしたい。
(清水寿之)
★31面
列島 全開アシスト
「一緒にロシアへ」スタンド総立ち
6大会連続の本大会出場がかかった強敵との大一番を、日本は見事に勝ち抜いた。31日、埼玉スタジアムであったサッカーワールドカップ(W杯)ロシア大会アジア最終予選の豪州戦。ピッチを駈ける青いユニホームに、日本の各地から声援が送られた。
「夢」の文字が書かれた旗がスタンドにはためく。約6万人のサポーターで埋め尽くされた埼玉スタジアムは、熱気に包まれた。
家族らと鹿児島県から応援にかけつけた自営業の小牧大介さん(39)は、日本がW杯に初出場した1998年のときの代表ユニホームを着て応援。「ずっと勝てなかった相手。倒して出場を決め、アジアの代表として胸を張って世界で躍動してほしい」
前半終了前、浅野拓磨選手がボレーで流し込んで先制。スタンドは総立ちになって喜びを爆発させた。
大学1年の大山千晶さん(19)は跳びはねて喜んだ。父親の影響で子どもの頃からのサッカーファン。「必ず決めてくれると信じていた。サッカーほど胸が熱くなるスポーツはない。一緒にロシアに行きたい」
浅野選手を三重県立四日市中央工業高時代に指導した樋口士郎さん(57)は、自宅のテレビの前で叫んだ。「思わず自宅を走り回った」と興奮気味に語った。
浅野選手は2か月ほど前にも同県菰野町で講演するなど、今も故郷を大切にする。樋口さんが8月、「代表戦もがんばれよ」とLINEでメッセージを送ると「がんばります」とすぐに返事が来たという。「あの状況できっちりゴールを決めた。ここ一番の勝負強さを持っている」
後半。チーム最年少の21歳、井手口陽介選手が豪快なシュートを決める。
約600人が集まった大阪市浪速区のライブハウス「ZePPなんば大阪」は、盛り上がりが最高潮に達した。井手口選手がガンバ大阪所属。大阪大の黒田輝さん(21)は「井手口選手はガンバの誇り。さらに成長した姿をW杯で見たい」。
試合終了の笛が鳴った。埼玉スタジオのスタンドで、埼玉県川口市の理学療法士、寺島優さん(30)は両手を突き上げた。「本当に苦しい予選だった。強敵を倒してつかんだみんなの希望。ロシアで決勝トーナメントまで勝ち進む雄姿を見たい」
「誇」と書かれた旗が振られる。歓声は響き続け、選手たちへの拍手は鳴りやまなかった。
喜びに沸く渋谷 DJポリス出場
豪州に勝利し、W杯出場が決まると、東京・渋谷のスクランブル交差点付近は、大勢の人たちであふれた。
若者らが輪になって「ニッポン」コールをしたり、ハイタッチをしたり。ユニホーム姿のサポーターも続々と増え、信号が青になるたびに、交差点の中でもハイタッやコールが起こった。何十人もの警察官が警備にあたり、車上からマイクで呼びかける「DJポリス」も出動。「喜びを分かち合いたい気持ちはわかりますが、良識ある行動をしてください]「肩車はやめてください」などと丁寧に呼びかけていた。
近くのバーで試合を見ていた会社員の中村晋也さん(25)は、勝利を見届けると交差点に駆けつけ「日本代表は最高です。明日仕事だけど、ずっと今夜は飲み続けます」と語った。
控えでも 本田がいるだけで
日本代表で長くエースだったMF本田圭佑選手(31)は、今回のW杯アジア最終予選で控えに回ることが増え、豪州戦ではついに出番が訪れなかった。それでもチームを支え、世界の舞台に導いた。
この日の豪州戦もベンチから試合開始を見守った。前半41分に日本が先取点を挙げると、DF昌子選手を呼んでピッチサイドから声をかけた。勝ちへ向けて万全を期す姿をみせた31歳も、後半に2点目が入ると、得点した21歳の井手口選手を押し倒す輪に加わって喜びを爆発させた。
最終予選の先発は、9試合のうち5試合。昨年9月を最後に得点がなく、ときに不要論も持ち上がった。だが、日本代表のハリルホジッチ監督は「存在自体が重要」。精神的な柱として代表に呼び続けていた。
今年6月13日のアジア最終予選のイラク戦。勝てばW杯出場に大きく近づくアウェーの試合で、日本は先制しながら格下にまさかの引き分けに終わった。チームには重苦しさが漂った。
その日は、代表戦で9試合ぶりに先発フル出場した本田圭祐選手の31歳の誕生日。夜、宿舎での祝いの席で、仲間を前に切り出した。
「先輩に引っ張られた1度目、中心で出た2度目。どちらのW杯も予選で余裕だった試合はない」「今日は若い選手も悪くなく、厳しい環境で勝ち点1。俺も若手から学びたい。次、勝てばいいだけ」
若手の一人は振り返る。「あの本田さんがあの状況で発した言葉が、チームを前向きにさせてくれた」
22歳で代表デビューを果たした本田選手も、豪州戦ではフィールド選手で2番目の年長世代だ。先発は監督が決めることと分かってはいても、周囲にこうもらしたことがあった。「俺が外れて日本が勝つならそれでいい。でも、負けたら許せない」
熱い思いは秘めつつ、和は乱さなかった。練習では全力でチャンスをつかもうとする姿勢をみせ、ベンチや宿舎で、若手へのアドバイスを欠かさなかった。
自身3度目のW杯出場をめざすロシア大会は、立場は約束されていない。仲間と喜びを分かち合ったこの日からまた、本田選手の新たな戦いが始まる。
(藤木健)
難病と闘う君へ 原口の約束
重い心臓病を患い、東京都内の病院に入院中の菊地秋也(しゅうや)君(11)は、この日の試合を心待ちにしてきた。大ファンの原口元気選手が6月、病室を訪れ、「オーストラリア戦で1点決める」と誓ってくれたからだ。
「拘束型心筋症」という突然死のリスクも高い難病だ。小学1年の時に異常が見つかり、投薬などの治療をしてきたが、昨夏ごろから病状が悪化。米国での移植手術の関係費用約1億2700万円が必要で、知人らによる「秋也くんを救う会」が寄付を募ってきた。
会によると、その活動を知った原口選手が6月中旬、会いに来てくれた。原口選手の、諦めずにボールを取りに行くところが好き」という菊地君は「オーストラリア戦、がんばってください」と伝えた。得点を誓った原口選手は「早くよくなってサッカー一緒にしよう」と話したという。
いま、病室には原口選手のメッセージ入り色紙やサイン入りのスパイク、ボールが飾られている。会った際に原口選手が持ってきてくれたものだ。原口選手はこの日、後半から出場し、献身的にボールを追った。
寄付金は目標額に達した。菊地君は、米国へ渡る準備を始めている。
(高島曜介)
★第16面と17面、スポーツ
新世代世界へ導いた
W杯6大会連続出場
アジア最終予選
先発に起用された浅野、井手口の2ゴールが、日本をロシアに導いた。2018年ワールドカップ(W杯)ロシア大会にあと一歩に迫っていた日本は、W杯予選で初めて豪州を破り、1試合を残して6大会連続6回目の出場を決めた。
22歳浅野 苦悩払う先制弾
いままでの苦しみを、不安を、すべて振り払うような快勝だった。
前半41分、右FWの浅野が相手最終ラインの背後めがけて斜めに走った。そこへ、長友からの浮き球パスがぴたり。相手DFは誰もついてこない。左足で触れてGKの脇へ転がした。
ロシア行きを手繰り寄せた先取点。跳びはねて喜びを爆発させた22歳は「活躍できていなかった分、ゴールで貢献したかあった」。昨年9月のタイ戦で得点するも、同11月以降の最終予選は出番なし。「代表に選ばれるのか。メンバー発表前はいつも危機感ばかり」というのが本心だ。
ここまでの9戦でハリルホジッチ監督が読んだ園主は40人超。生き残りをかけ、おのおのが自らの武器に向き合い、磨く。浅野にしても、「守備などで課題が多くてチームに負担もかけるけど、自分の特長の裏への抜けだし。その一点でゴールに絡む」と臨んだのが吉と出た。
抜擢に応え、持ち味を存分に出したもう一人がMF井手口。開始直後から相手へ猛然と寄せ、何度もボールを刈り取った。終盤には豪快なミドリシュートを決め、勝利を決定づけた。
本拠でアラブ首長国連邦(UAE)に逆転負けを喫して始まった日本の今回の最終予選。本田、香川ら実績ある選手を「聖域」とせず、新たな起用があるたびに緊張感が漂った。21歳で最年少井手口が言う。「下から出てこない環境は、やっぱり緩(ゆる)みが出る」。
苦しみながら成長を重ね、ロシアへ。浅野は「日本としてスタート地点。そこに立てる準備を続けたい」。競争を重ねた先に、さらなる伸びしろが期待できる。
(藤木健)
海外勢16人と国内組 難しかった融合
日本サッカー界がW杯出場に本気で乗り出したのは、1994年米国大会だった。残り十数秒で夢を絶たれた「ドーハーの悲劇」と呼ばれる93年の最終予選から、楽なものなどひとつもなかった。
最終予選が厳しいことはいつも変わりないが、難しさの中身は明らかに変わった。
ちょうど1年前、今回のアジア最終予選がスタートするときに聞いた、ふたりの言葉を思い出す。
岡崎は「海外組が増えて、チームとして合わせる時間は少ない。今までで一番厳しい最終予選になる」と予言した。「最終予選が難しくなっているとすれば、他国に比べて成長率が落ちていることになる」と語ったのは本田だ。
初出場した98年W杯にひとりもいなかった海外組は、02年には4人、06年6人、10年4人、前回の14年に12人に増えた。6回連続出場を決めた豪州戦では登録23人のうち、16人が海外クラブの所属だ。
時差と移動時間を抱え、また所属先で出番の確保に苦しんでいる海外組と、出場機会はあっても序列の低い国内組をどう組み合わせテピッチに解き放つか。個人の能力や戦術よりも、試合勘を含めた個々のコンディションがこれほど代表監督を悩ませ、注目された予選はこれまでなかった。
本田が案じた危機感は現実のものとなった。同じB組では最下位のタイを含め。他国の追い上げは急だ。A組では韓国が苦しんでいる。指定席が用意サレテイル」チームなどない。本田の問う成長率は上がっているが、世代交代が遅れている状況を考えれば、Jリーグの質を上げることも、選手育成の見直しも急務だろう。
最終予選の足取りを冷静に振り返れば、取り組むべきことはいくらでもある。
(潮智史)
21歳井手口 追加点
後半37分、MF井手口は左サイドからドリブルで中心に切り込み、右足を降り抜いた。「入らないと思った。枠内にいって、シュートで終わればいい」と打ったミドルシュート。ゴール右隅に決まり、試合を決める追加点となった。
この試合が代表通算3試合目。W杯出場がかかる大一番に、チーム最年少の21歳ながら起用された。ボールを奪い取る守備が持ち味だが、これまで本田らが務めていたFKやCKのキッカーも任された。誰よりも積極的に動き、日本の中盤を引き締め、得点も奪う出色の出来。「客観的にいえば『持っている』と思いますけど、実感はない」。自身の活躍に驚いた。
乾 「ほっとしている。守備でDFを助けられた。攻撃では自分の良さを出せなかった。満足していない」
長谷部復帰 際立つ安定感
右ひざの手術で、最終予選の出場は4試合ぶり。だが、長谷部はその影響を感じさせなかった。「主将を任されて、それほど時間が経っていなかった頃は手探りだった。今回は自分により責任と重圧をかけていたので喜びも大きい」。
主将を担うのは、16強入りした2010年南アフリカ大会の直前から。その南アでは、控えのベテランが盛り上がり役に徹し、日本は16強に進出。そういう周りに安心感を与えられる存在になりたいという。
自身不在の間、大一番の舞台を整えてくれた仲間の存在は頼もしく映った。そして、この日は若い浅野と井手口が殊勲者に。「堂々としていて頼もしい。彼らが中心になってくれれば、日本のサッカーはもっと良くなっていく」。
次の目標は自身3度目のW杯出場。経験豊かな33歳は、大舞台でのチーム舵取りに思いをはせた。
(冨山正浩)
ハリル監督 質疑応ぜず
「家族の事情」
日本をW杯に導いたハリルホジッチ監督。試合の会見で「プライベートの大きな問題を抱えていた。本当は試合の前に(国に)帰ろうと思ったほど]と明かした。その上で「聞きたいことがいろいろあると思いますが、今日は選手に聞いてあげてください。すいません」と報道陣の質疑には応じず、足早に会見場を後にした。協会関係者によると「家族の事情」。5日のサウジアラビア戦は指揮を執るという。
無失点勝利 吉田の存在感
最終予選8試合 フル出場
日本、豪州破りロシアW杯へ
サッカー日本代表が、2018年ワールドカップ(W杯)ロシア大会への出場を決めた。8月31日のアジア最終予選で、これまでのW杯予選で2敗5分けの豪州を相手に2-0.初勝利を無失点で飾った立役者は、最終予選8試合で唯一、フル出場のDF吉田だ。
31日の豪州戦。定位置のセンターバックに入った吉田はDFの最終ラインで的確にカバーリング。相手をゴールから遠ざけた。イングランド・プレミアリーグでプレーする29歳は「総じていうと、うまくできた」と振り返った。
W杯予選は前回のブラジル大会で初めて臨み、安定感ある内容で本大会への出場を決めた。しかし今回の最終予選は初戦のアラブ首長国連邦(UAE)戦で敗れるなど厳しい船出。6月のイラク戦では、GK川島との連係が取れず、自陣ゴール前を突破してきたイラク選手にこぼれ球を押し込まれて同点に持ち込まれた。苦しんで突破した予選だけに、「うれしさは前回よりすごく大きい」とほっとしたように話した。
今や代表試合出場数は76。今回の予選では、負傷していた長谷部に代わって主将を務めるなど、強い存在感を示した。そうしたなか、チームの変化も感じている。今回の最終予選では31日の豪州戦ゴールを決めた浅野、井手口ら若手が台頭。吉田「フェアな競争があるのは成長を促してくれる。新しい選手がポジションを乗っ取るような戦いが常にあれば、チームにはプラスになる。競争は歓迎」と話す。
ロシア大会に向けて、吉田は「それぞれの選手が各クラブで出場時間を確保して、良い状態で臨まなければならない。これからの強化が重要になってくる」。浮かれることなく、1年後の大舞台へ意識を高めている。
(堤之剛)
★18面 スポーツ
サムライブルー エースの系譜
原口 最終予戦チーム最多4得点
サッカーは1点の重みがほかの競技以上に大きい。ワールドカップ(W杯9をかけたアジア最終予選となれば試合数も少なく、なおさらだ。W杯ロシア大会を目指す今回のアジア最終予選で日本は9試合を終えて、FW原口元気(26)=ヘルタ=がチーム最多の4得点をマークしてチームを引っ張っている。
若手の成長、底上げという点で停滞感があった日本代表の中で、原口は最終予選に入って一気に花開いた。昨年9月の第2戦、敵地のタイ戦で先制ゴールを決めると、続くイラク、豪州戦でも得点し、5戦目のサアウジアラビア戦でも貴重な追加点を奪った。アジア最終予選では日本初となる「4試合連続得点」の記録を樹立。切れ味鋭いドリブルによる攻撃だけでなく、全力で走って自陣に戻る献身的な守備も、ハリルホジッチ監督に評価された。31日の豪州戦では後半31分から出場し、左サイドを奔走。守備に全力で戻り、チャンスと見れば、ゴール前へ走り込んだ。
過去の日本代表の戦いを見てみると、W杯アジア最終予選でゴールを重ねた選手が、そのまま本大会でエース的な役割を担うケースが珍しくない。
2014年ブラジル大会の最終予選はあ、FW本田圭佑(パチューカ)が5得点とチームをリードした。本大会では、初戦のコートジボウール戦で先制点を挙げ、2戦目のギリシャ戦では、最も活躍した「マン・オブ・ザ・マッチ」に国際サッカー連盟(FIFA)から選ばれた。
10年南アフリカ大会の最終予選では、初めて予選を戦った闘莉王(現J2京都9が、DFにもかかわらず日本最多タイの2得点。本大会でも守備の柱として、2大会ぶりの16強入りに貢献した。
一方で、最終予選での活躍が、そのまま本大会に結びつかないこともある。大黒将志(現J2京都)が、06年ドイツ大会の最終予選の初戦、北朝鮮戦の試合終了間際に劇的な決勝点を奪うなど、チーム最多の3得点。本大会では途中出場で3試合に出て無得点に。1998年フランス大会の最終予選で、三浦知良(現J2横浜FC)にいたっては、代表落ちした。
3試合で決勝トーナメント進出が決まるW杯の1次リーグは、アジア最終予選以上に1店の重みが増す。現代表でW杯本番で点を取ったことがあるのは、本田と岡崎慎司(レスター)だけだ。2人はすでに31歳。原口も「いままでの延長線だと来年活躍できる保証はない」と戒める。18年ロシア大会で日本が勝ち抜くためには原口を含め、2人に続く「点取り屋」の出現が待たれる。
(河野正樹)
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