2017年9月28日木曜日

敬老の日と結婚式 生家訪問


「敬老の日」は、「国民の祝日に関する法律」で9月の第3月曜日と定められている。
その年によって祝日が変わり、その範囲は9月15日から21日までの7日間のいずれかになる。
今年、2017年は9月18日だ。

この日の前日の17日は、妻の妹の長女(義理の姪っ子)の結婚式が京都であって、その結婚式に出ることと、そして翌日18日には、併せて郷里の兄貴夫婦と甥っ子夫婦が住む生家の訪問をした。

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★17日は結婚式と披露宴









鮒鶴・京都鴨川リゾート

結婚式と披露宴は「鮒鶴」、12時から。
場所は、京都市下京区木屋町通松原上ル美濃屋町180。

いただいた「鮒鶴」のパンフレットのコピーをここに使わしてもらった。
明治3年創業、147年の歴史ある。登録有形文化財。
京都の鴨川畔も佇む、歴史ある元老舗料亭旅館。五層楼閣の純和風建築の店内はモダンなインテリアに囲まれ、目の前を流れる鴨川と遠く東山の稜線を背景とした眺望には京都の四季が映し出されます。
夏は京都の風物詩「川床」を愉しむことも。地元京都の食材をふんだんに取り入れた「鮒鶴」スタイルのフレンチを。
この「川床」はゆったりした気持ちで、豊かさを味わえる。私自身は、こっちの方がイイ。

日ごと夜ごと、文人、墨客の粋人(すいじん)たちが、この建築にサロンとして集った。今風に言えば、木屋町のランドマークだった。
そして、京都の娘さんたちがここで結婚披露することは、大いなる憧れだった。
建物の隅々の仕口に古風な工夫がされていた。軸組も逞しい樹木が這うように畝(うね)っていた。
網膜に届くのは、全て奥がましいほどのモノばかりだ。

やってくる人たちは、半分は年老いた人。新郎・新婦の仲間と思われる若者が半分だった。これは、さぞかし愉快な披露宴になるだろうと想像した。 
案の定、結婚式も披露宴も若者が、主人公の2人に集まり、わっさか、わっさか、御祭りだった。私は、大学時代の何だかんだの宴会を思い出し、イイ気分を味わった。
二人とも同じ大学の同窓生と聞いている、ならば、このように激しくなるのも、当たり前だ。

本日はご多用のところお越しくださり
  誠にありがとうございます
未熟なふたりですが手を取り合い
 共に歩んでいきたいと思います
   今後とも末永いご指導と
    お付き合いのほど
  何卒よろしくお願いいたします



京野菜と魚介のテリーヌ モザイク仕立て

      「海と大地の恵み」

色々な甲殻類のビスク風 手長海老のソテー添え

スズキのポワレ サフラン香るブイヤベース風

黒毛和牛のフィレ肉のグリエ トリューフソース
       季節野菜のガルグイュ

       ほうじ茶のクレームブリュレ
    季節のフルーツを使ったパルフェを添えて


新郎は学校を卒業した時には、立派な会社に入社した。この会社は面白い薬を製造してそれを販売している会社。でも、絶対、京都以外何処にも住まないと思われる新婦と、結婚して一緒に暮らしていくためには、転勤が当たり前の会社よりも、自分も絶対京都を離れる訳にはいかない。今勤めて会社を辞めるしかないではないか、と結論した。
結果、地元の京都市役所に勤めることにした。

方(かた)や新婦の方はどうか。
学校を卒業して入社した会社は、これぞ日本一の電気電化の工業製品を製造して、販売する立派な会社だった。それも、総合的な知恵を求められるセクションに、抜け目なく入った。そのためか、全国の重要な然るべき箇所を職場にした。
入社当時、彼女から聞かされたことは、耳から鱗(うろこ)モノばかりで、感動して聞いた。
そして10年、この変身ぶりも鮮やかだったが、退社して父母の料理屋「味舌」を手伝うと言った。
これにも、驚いた。

立派な工業製品を製造・販売するのも大(たい)したものだが、彼女には何だか物足りないと思ったようだ。
それよりも、父と母のように、腕に技を鍛え上げていく料理の世界こそ、私が頑張る世界なのではないか、と思ってしまった。これ、全く私感なり。
新婦さんヨ、オジサン変なこと言わないで、と怒らないでください。

妻の着替えのために、横浜を早く出て、この「鮒鶴」に早く着いた。
えらく早いのに、新婦の父親はロビーで、着替えを待っていた。
少し前に横浜まで来てくれたものだから、新しく話さなくてはならないことはなかった。この「鮒鶴」の過去の話から、今に至るまでの経緯などを話してくれた。聴けば聞くほど立派な建物であることを知った。

新婦の母からも、私の妻からも、今日はどんなことがあっても、新婦の父が酒の飲み過ぎで他人に迷惑をかけないことが肝心なので、あなた、絶対変なことを彼に言ったり、飲ましたりしないでよ、と強く指示されていた。
そんなことを、私が心配することもなく、彼は彼自身気を使っていた。顏は堅く張りつめ、姿勢は乱れず、立派な父のままだった。

新郎の実家は、祖父と父親がお医者さんで弟さんも立派なお医者さんを続けていて、申し分のないおうちの出だ。新郎は立派な地方公務員。
姪っ子は、妻の妹夫婦が経営する京都料理のお店「味舌」を手伝っている。

先日、新郎は横浜に住んでいる叔母(私の妻)夫婦はどんな奴やろう、それに自分の顏も見せたくて来てくれた。姪のことは、度々お店に出かけているので、顔かたちから風貌はよく知っている。気量(この字に間違いはないか)の好(い)い子だ。
新郎さんも、それなりに品が好い青年だ。

新婦の父母は、南座の斜め前辺りの、古都を思わせる祇園の名店街で、立派なお店をやり繰りしている。このお店で出る料理の数々は、私には大層目出度く、私などにはいただける資格はないほどだ。「味舌」だ。
料理店の作りは古風で、料理は高級品でかつ料理人の挌が高過ぎる。私には、もったいなさ過ぎる。

立派な結婚式と披露宴であろうことは、十分想像がついていた。


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★17日は独りで生家に向かった。そして翌日は敬老の日。

ファイル:京都府道783号・国道307号線合流交差点.JPG
生家の近所、維考館中学校の周辺だ。

生家では、17日の夜は甥っ子が一人だった。
お嫁さんは京都へ中学校時代の同期会に出かけていた。腹はいっぱいだし、何も食うものはいらない。
それよりもビールでもあれば頼むよと言っておいたので、約束通り、缶ビールを出してくれた。
話す内容は、私の兄貴と兄貴の嫁さんの健康状態。お茶のこと、米のこと。
甥っ子が製造しているお茶の状態、お茶の販売会社への売りの都合。茶畑の傾斜による肥料の種類と施肥の仕方。お米の生産は余り面白くないと言っていた。
お嫁さんは、夜中2時頃のお帰りだった。私はビールのせいで、5回ばかりトイレに行った。

隣村の母の実家(宇治田原町名村)へ挨拶に行くことも思いついたので、私一人は、会社を2日間休むことにした。従兄(いとこ)と他愛のない血迷いごとをなんざかんざと話すことも楽しみの一つだ。

18日の朝、4時過ぎ、私は生家を出て、昔、楽しんだ郷里の里を散歩した。3時間半、飽きることなくゆっくりゆっくり歩き続けた。目に入るものが、全て懐かしいのだ。
5時、まさか従兄は起きていないだろうと思って、母の姉と母の姉のお母さんの仏壇に供えてもらおうと、横浜より供物だけを持ってきた。

ところが、従兄の家の前を過ぎて、早死にした後輩の家に向かったところ、従兄が家の前の畑で茄子の収穫と草刈りをしている最中だった。
従兄は私より12歳上のネズミ。
朝早くから働いて、昼飯を食ったら、俺の1日は終わりなんだよ。
私は、甥っ子夫婦を連れて、祇園の京料理店に行くので、ここでゆっくりさせてもらえないんです。
未だ寝ているかと思ったが、ちょっとでも会えて話ができたのが嬉しかった。私が仕事で怪我をしたことを真剣に心配してくれていた。頭の一部が可笑しくなっていること、落下の際のショックで歯並びが狂っていることも説明した。
今度、必ずゆっくりお邪魔しますので、よろしくと言って別れた。
従兄の奥さん、サッチャンも元気だった。私が小学6年生の頃、お嫁さんに来てくれた。農協に勤める娘さんだった。

早死にをした枡の家には、誰も住んでいないように見えたが、枡の息子が一人で住んでいるようでもあった。が、扉にノックすることはしなかった。
友人は病気で苦しみ、その息子は決して好い男ではない。世の中のためになるどころか、世の中を馬鹿にしたような生き方をしていた。
枡は私がこの田舎に居た時は、毎日のように我が家に遊びにきていた。枡の父は、大きな地山(じやま)を何処かの資産家に売って、手元には大金を確保していた。
思い出話ばかりが、幾らでも蘇る。

それから隣の村に入った。同級生の生家が幾つも見つけることはできたが、誰の家にも入る勇気は生まれなかった。
小さん、吉さん、奥さん、沢さん、福さん、矢さん、金さん、中さん、1キロ歩くだけで、これだけの友人の生家があった。
ただ一人、小林だけには声をかけたかった。が、未だ寝ているようで、勇気が出なかった。
私の高校生時代、コバヤシ君は地元のバス会社の車掌さんをしていた。
雨が降らないときには自転車で高校に通っていたが、雨が降った時には止むを得ずバスに乗った。勤めた会社は、京阪宇治交通株式会社。
父母から強い要望があった訳ではない。
お金を持ってない私は乗車代を払いたくなくて、にっこりコバヤシの顔を見ると、彼はすかさず、早やく降りてと顏付きと手振りで合図してくれた。
無賃乗車だ。二人はこんな、嘘っぽい甘い関係だった。
こんなことが身について、その後京都でも東京でも、たまの旅行気分でフ~ラフ~ラと、電車やバスに平気で無賃乗車をやることになって仕舞った。
厚顔無恥、悪罪深い坊主になってしまった。
大学時代、東京から福岡まで入場券だけで行ったこともある。貨物専用の出入り口をハードルを飛び越えるようにして、すっ飛んだ。走って奔って、20分ばかりを夢中で駅から逃げた。静かになったところで、後ろから追いついてきた後輩に面倒をみてもらった。

ところが驚くこと勿れ、各家がそれぞれに改装したり、建て替えたり、道路が広くなったり、舗装がされていたり、サマはがらんと変わっている。進化が甚だしい。
金持ちの家は、さらに晴れ晴れしく麗しくなっている。
お金持ちお茶販売会社は、今は以前ほどの気合が感じられない。
きっと、上手くいっていないのだろう。

私が学んだ田原小学校。
入り口に「維考館」と書かれた校門があった。
この維考館は隣村の荒木にあった村の学校の校名だったようだ。由緒ある筆使いで書かれたものを、材木に彫り上げたものだ。
この田舎では、勉強なんてそんなに気にしなかった。特に我が家は、いいお百姓さんになってもらうのが、一番大事な子育てだった。
勉強はしなかったけれど、馬鹿なほど元気者だった。
先生から怒られたことは、誰よりも多かったけれど、褒められたことはない。だが、6年生の時は、組で一番成績が良かった。父も母も喜びも悲しみも味わっていなかった。

宇治田原農協。私の父が何事かあった時には、この農協を訪ねて用を済ませていた。貯金から送金、旅行、農具の買い入れ、精米、農作物の種苗、農薬、農作物を届けた。

郷の口の商店街に向かった。
友人の生家は元々パン屋さんで、村での行事には必ずかかわっていた。ババトだ。友人も家に居る時は、店前での仕事は手伝っていた。
彼がこの家にいる間は、何度もお邪魔した。友人のお兄さん二人にお姉さんがパンや菓子を作っていた。
そのパン屋さんは、友人の甥っ子がパン屋さんを止めて、洋菓子屋さんになっている。寂しい田舎だけれど、その洋菓子屋さんは今、流行っているんだと教えられた。

それからある酒屋さんの店の前がガラス戸になっていて、少し開いていたので、誰でもいい、オバサンか娘さんかその養子?がいたら、何か話したくなって、じろじろ眺めていた。
そしたら、オバサンが、あら!ヤマオカさんじゃない、久しぶりね、と言われた。
このオバサンは、私を養子にくれませんか、と人を介して私の父に要請した。そのことに、父は大いに起こって、うちの息子は、養子なんかには全然出しませんからね、と宣言した。それから、このオバサンは私だけにはにっこり笑ってくれた。
今、横浜に居て、何とか頑張っていますと話した。このオバサンの表情は明るく朗らかだ。

そして、花屋だ。
すみません、花屋さんを出されたのは最近ですよね。8年ほど前に帰ってきた時はなかったのです。今、お店を見て、どうしてもお話したくなったのです。
店を出して、もう10年以上もなっているんですよ。
何でどうなったのか分からないが、維考館中学校の時代の話が転がっていき、私が城南高校ではサッカーに嵌まってしまい、大学へもその嵌まりが続いてしまったことを話すと、この花屋が急に私の顔を見る目の色が変わってきた。

花屋は、中学校でサッカー部、それから洛南高校でもサッカーをやって、サッカーリーグの古河工業のサッカー部に入ったことを話した。
東京とメキシコのオリンピックでは、日本サッカーチームは古河電工のメンバーが主力だった。日本サッカー協会の会長も勿論、古河電工出身だった。
横浜の三ツ沢サッカー場の傍にある古河工業の社員住宅に住んでいたんですよ、ときた。
この三ツ沢サッカー場は、私も大学時代に何度も使わせてもらった。

私が働いている会社は、この競技場から歩いて30分ばかりの相鉄の「天王町」駅だ。
そんな話にも、華が咲いた。
ヤマオカさんは巧(うま)かった。
私も一所懸命頑張ったけれど、どうも一人前にはなれなかった。
花屋は奥寺の話をしたが、私が3年生のときに、奥寺は高校を卒業して古河に入ってきた。私が彼をマークしたけれど、どうもきっちりマークしきれなかった。
こんなところで、ヤマオカさんに会えたのが、非常に嬉しい、と言いながら名刺をくれた。
田舎に帰ってきた暁には、必ず、この花屋に顔をだすようにしようと決意した。

宝国寺の母と父と祖母の墓参りをした。決して好い息子ではなかったし、良い孫でもなかったが、誰にも、痛々しい迷惑をかけるようなことはしなかった。迷惑はかけなかったが、決して悪い子供ではなかった。
繰り返す。怒られたことはなく、他所(よそ)様には自慢して回っていた。



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★18日の午後
甥っ子(兄貴の長男)夫婦を、祇園「味舌」に招待した。 1階カウンター席
味舌さんの1階

味舌 - 初午の八寸

味舌さんご夫妻のお店「味舌」を紹介する。

ご夫妻の長女である姪っ子が現在、このお店で頑張って働いている。
言うまでもないが、姪っ子と言うのは、昨日結婚したばかりの新婦のこと。そして、味舌さんと言うのは姪っ子の父母。その名字がそのまま、店舗名になっている。

祇園四条北側にひっそりと暖簾を掲げながら、激戦区の京都和食界でも、その味と温かなもてなしに高い信頼を重ねる、いぶし銀的存在だ。
味が解る人には解るということだ。
名の知れた著名な作家もよく来てくれた。この作家のお忘れ会には味舌の妻も出席した。

滋賀県の名料亭で培った腕を持つ店主の和菓子まで、手製に拘る繊細なコース料理は、お昼の気楽な点心仕立てから充実し、夜の季節毎に飽きさせない素材と味わいの妙を創出する。
また結納等、慶弔時にも、細やかな室札やもてなしがいき届く名店だ。


私の郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。
京都府と滋賀県の国境にある、山と山に囲まれた集落だ。正確には、滋賀県の石山と京都府の宇治市を、瀬田川から宇治川になるまでの間に存する。
私が生まれて東京へ出るまでは、山林と田畑と住宅だけ、交通機関の貧しい村だった。道路には信号はなかったし、銀行もなかった。な~んにもない、ひなびた寒村だった。

それに、私にとって、生家に長年感謝なしに生きていることに不満があった。
兄と会っても、そんなに気に入ったことを話すこともないし、甥っ子に会っても、何か面白い話を用意できているわけではない。
兄に話すことはもう決まっている。
中学校を出て、今まで、百姓仕事に専念してきた。体に気を付けてくださいということと、お嫁さん(義姉)の体にも気を付けてくださいね、の二つだけだった。

もう一つ、今回の帰郷には訳があった。
敬老の日に、横浜で同居している妻の母(義母)に敬老を講じなくてはいけないのに、何故、生家まで足を延ばしたのかと言うと、私の兄にお礼を言わなければならない、と気を揉んだからだ。肝心(かんじん)要(かなめ)のことだ。
私の父と母の老後における面倒をよく見てくれた。祖母のことは、母が面倒をみた。

私の父母が亡くなったのは、今から20年ほど前、今更と思われるかも知れないが、どうしてなのか?今の私は、兄貴にどうしてもお礼をしたいのだ。
兄の父母に対する気配りは、大変なものだった。村じゅうの評判だった。
山岡家の親孝行は、村一番の好事(こうじ)!!
私は、仕事が忙しいとか、何とか言いながら、兄にその話をしなかった。

それから、同時に、横浜で同居する義母に対する「敬老の日」対策だ。義母に何かをしたい、これが上手く考えられない。
年老いた義母に俺たち夫婦がやれることな何だ。
92歳で体の不自由が可愛そうな義母。
彼女の頭の中にあるのは、結婚するまでの実家での生活まではクッキリ、ハッキリしているのだが、それ以降の65年のことに関しては、話にもならない。

好いことやら悲しいことやら、思い出そうとしないのか、思い出せないのか。
私の都合で何やら聞き出したいと思っても、無理な話。
小学校や女学校の友達から電話があったときには、何もないような快活さでお話できるのに、同じことばかり何度も繰り返されると、この私は面白くなく感じてしまい、これは親不孝をしているのではないか、と反省する。

私は兄の子供、甥っ子夫婦を味舌さんに招待した。
甥っ子は、季節ごとの農産物を随時、横浜まで送ってくれるので、そのためのお礼をしなくてはいけないと思っていた。
料理については、私同然余り口数がない。満足してくれていたことは間違いない。

味舌さんが客席に現れて、甥っ子夫婦に挨拶してくれた。このオジサンはお酒のみで変な人だからねえ、と笑い飛ばしてくれた。私は味舌さんのことを、味舌さんは私のことをよ~く理解してくれているようだ。