再読しないと堪(こら)えられない本が、いくつもあるのです。
この家から持ち出す本と再読する本の選択は難しかった。
貧乏人暮らしに慣れていて、身辺(しんぺん)から本を引き離すことが、異常に嫌だった。
そうは言っても、そんな私の本質にいつまでも構っては要られない。
手元に残った本は、どれもそう簡単には離れられない、忘れられない重要なモノばかりだ。
これからは新刊本は買わない、できる限り再読に励むんだと決心した。
そして、これから再読しようと選んだ本の中から、一番最初に手をつけたのはやっぱり太宰治だった。
先週、妻の妹の娘(次女)の結婚式に京都へ行くことになって、これは最善のチャンスだと思った。
読んだ本は太宰治全集2の「ダス・ゲマイネ」だった。この本については次稿にて読後感想を書きます。
今、読書中なのは「走れメロス」だ。これの読後感想も次次稿に書きますので待っていてください。
今回のブログは、何もこの読後感想のことではなく、私が今一番悩んでいることをここに書いて、認識してもらいたい。重要なことだ。
こんなことになったのは、きっと3年前のちょっとした怪我の「せい」ではないか、と疑っている。
どんなことが原因になっていようが、やはり、一番最初に読んだ時と今再読している時が、余りにも違うことが嫌なのだ。
小説は始まりがあって終わりがある。その始まりの部分から、少しづつ部分的に材料を提供し、その材料の成長や失敗を幾度も繰り返し、最後にはその総括を創りあげる。それが、私でも考えられる一般則なのだ。
言っておきますが。私程度の一般則なので、もっともっと豊かに仕組みを考えている人が大多数だと思う。
前記の少しづつ部分的なものを、小説の中での小論としよう。
その小論の中では、句読点を含んだ文節がある。そんな文節があっち向きこっち向きしている。
その文節たちの小論が、これまたあっちこっちで傾注したり反動したり、同意、合意の上での大運動に転じる。この中に作者の肯定的否定的なエッセンスが混じり合う。
このようにして、作者はそれなりに意味を持った文章を作り上げ、相手にしらしめることを著作という。
今稿の主題に入る。
在庫にした本の再読で気づいたことが、はなはだ激しいものだから、どうしても文章にして、その原因らしきものを量り得たいと思った。
文章を読む時間が、以前と現在では随分違う。以前は、文章の面白さに奇異を得ながら、どんどん進んだ。が、現在は頭があっち向きこっち向きして、なかなか進まない。
そこから、文章の作意、語意について、考えるようになってしまった。
在庫にしてある本は、大きな感動を得たものばかり。
よって、その感動をもう一度味わいたくなると感じるのは、当然だろう。
一つ一つの小論にある文節が、かって感じた感動と違うように感じることがある。元元、文節の背景にあるものに興味を持ち過ぎるきらいがあるのかしれません。
そして、行間の意味も充分に考えたい。
次に興味を持つのが、語彙、漢字や述語や慣用句、修飾語に感嘆符だ。この一つ一つの言葉にさえ、興味が沸くのだ。
太宰治の「山月記」で、こんな文章があった。50年前のことだ。
俺が書こうとしているのは、「赤い」なのか、「紅い」なのか、「朱い」なのか。「緋い」いや「赫い」かもしれん。俺は結局どの「あかい」も書けなかった。
もう一文(ひとぶん)。
呻吟していた俺は、目の前の白紙に脈略もない言葉だけを延々と書き連ねていたに過ぎなかった。
「もんどり」、「韋駄天」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「海砂利水魚」、「蛇足」、「融通無碍」、「画龍点睛を欠く」などと。
これらの言葉はてんで勝手に散らばっているだけで、いっこうに繋がろうとはしなかった。ただそこへ投げ出され、ことごとく死んでいるように見えた。
鍛錬の末に俺が目指していたものは、こんなわけの分らぬ言葉の羅列ではなかったはずだ。
最初にこの本を読んだとき、この主人公は何を考えていたのだろうか、と何時間もかけて考えた。太宰治は何で、何を表現したかったのだろう。そして、今回読んだときには、以前のように感じなかった。感性の鈍りか、心が腐ってしまったのか。
太宰治の作意、作風、作想は何だったんだ?
方言にも興味がある。
慣れないモノの言い方にも関心がある。
これらの言葉の裏の背景、作者の心の裡(うち)を窺(うかが)いたくなる。
この背景や心の裡は、限りないのだ。だから、面白い。
30,40,50年前の私と今の私では、人の世のなかで、肝要なヒト、モノ、カネが変わってしまったのか。それらの重要性についても変わったのか。
考え方にも変化が生まれたのか。
言葉遊び、文章? 文節遊びもできなくなった。
正直に告白する。
あの時、あれ程感動したのに、なんだろう、今の俺の脳の中は?
★下記はインターネットから拝借した。
脳の各部がそれぞれに働き合って、工夫が生まれる。そんなことを思うと、どうもその辺に故障が生じているのだろう。
大脳・間脳・中脳・延髄について
大脳…大脳は脳のなかで最も主要な部分で、主な溝によって前頭葉(ぜんとうよう)、側頭葉(そくとうよう)、頭頂葉(とうちょうよう)、後頭葉(こうとうよう)に分けられています。大脳皮質には運動野、体性感覚野、視覚野、聴覚野、嗅覚野(きゅうかくや)、味覚野、言語野など、機能の諸中枢が特定の部分に分布しています。
これを大脳皮質の機能局在といっています。深部は白質で大脳髄質といわれ、各部を連絡する有髄線維でできています。
間脳…大脳におおわれていて一部が見えるだけです。視床脳(ししょうのう)と視床下部(ししょうかぶ)などに分けられ、嗅覚を除くすべての感覚線維を中継します。
中脳…大脳と脊髄、小脳を結ぶ伝導路ですが、同時に視覚反射および眼球運動に関する反射の中枢、聴覚刺激に対し反射的に眼球や体の運動をおこす中枢、身体の平衡、姿勢の保持に関する中枢などがあります。
延髄…延髄には循環や呼吸運動を制御し、生命の維持に重要な自律神経の中枢があります。
小脳…平衡(へいこう)機能、姿勢反射の総合的調整、随意運動の調整など運動系の統合を行っています。障害されると歩けなくなったりします。