2017年9月30日の朝日新聞の社説を読んだ。
衆院選・対北朝鮮政策
「国難」あおる政治の危うさ
安倍首相は目下の北朝鮮情勢を「国難だ」という。
だとすればなぜ、衆院議員全員を不在ににする解散に踏み切ったのか。その根本的な疑問に、説得力ある答えはない。
「国難」を強調しながら、臨時国会の審議をすべて吹き飛ばし、1か月もの期間を選挙に費やす「政治空白」を招く。
まさに本末転倒である。
「国難」の政治利用、選挙利用と言うほかない。
政治空白の本末転倒
首相は言う。
「民主主義の原点である選挙が、北朝鮮の脅かしによって左右されることがあってはならない」「この国難とも呼ぶべき問題を私は全身全霊を傾け、突破していく」
朝鮮半島有事という事態になれば、日本は甚大な被害を受ける。北朝鮮にどう向き合うかは重要だ。
論点はいくつもある。圧力をかけたうえで、事態をどう収拾すべきか。圧力が軍事衝突に発展する事態をどう防ぐか。
その議論を行う場は選挙なのか。そうではあるまい。大事なのは関係国との外交であり、国会での議論のはずである。
首相はこうも言う。「国民の信任なくして毅然とした外交は進められない」
ならば問いたい。
いくつもの選挙で明確に示された「辺野古移設NO」の沖縄県民の民意を無視し、日米合意を盾に、強引に埋め立て工事を進めているのは安倍政権である。なのになぜ、北朝鮮問題では「国民の信任」がなければ外交ができないのか。ご都合主義が過ぎないか。
一昨年の安全保障関連法の国会論議で、安倍首相は、集団的自衛権の行使が認められる存立危機事態や、重要影響事態の認定に際しては「原則、事前の国会承認が必要」と国会の関与を強調していた。
なのにいざ衆院解散となると「事後承認制度がある」(小野寺防衛相)という。「国難」というならむしろ、いつでも国会の事前承認ができるよう解散を避けるのが当然ではないのか。
力任せの解決は幻想
自民党内では、有事に備えて憲法を改正し、緊急事態条項や衆院議員の任期延長の特例新設を求める声が強い。それなのに、解散による政治空白のリスクをなぜいまあえてとるのか。整合性がまるでない。
首相はさらにこう語る。
「ただ対話のための対話には意味はない」「あらゆる手段による圧力を最大限まで高めていくほかに道はない」
前のめりの声は自民党からも聞こえてくる。
「北朝鮮への新たな国連制裁に船舶検査が入れば、安保法に基づき、海上自衛隊の艦艇が対応すべきだ]「敵基地攻撃能力の保有や防衛費の拡大も進めなければならない」
今回の選挙で安倍政権が「信任」されれば、日本の軍事的な対応を強めるべきだという声は党内で一層力をもつだろう。
だが力任せに押し続ければ事態が解決するというのは、幻想に過ぎない。逆に地域の緊張を高める恐れもある。力に過度に傾斜すれば逆戻りできなくなり、日本外交の選択肢を狭めることにもなりかねない。
「解散風」のなか、朝鮮半島有事に伴う大量避難民対策をめぐって、麻生副総理・財務相から耳を疑う発言が飛び出した。
「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」
出口描く外交努力を
93~94年の第1次北朝鮮核危機以来、避難民の保護や上陸手続き、収容施設の設置・運営などの省庁間協力のあり方が政府内で検討されてきた。
避難民をどう保護するかが問われているのに、国家安全保障会議(NSC)の4大臣会合の一員である麻生氏が「射殺」に言及する。危機をあおりかねないのみならず、人道上も許されない発言である。
永田町では、北朝鮮がミサイルを発射するたびに「北風が吹いた」とささやかれる。国民の危機感が、内閣支持率の上昇につながるとの見方だ。
危機をあおって敵味方の区別を強調し、強い指導者像を演出する。危機の政治利用は権力者の常套手段である。安倍政権の5年間にもそうした傾向は見て取れるが、厳に慎むべきだ。
北朝鮮との間で、戦争に突入する選択肢は論外だ。圧力強化にもおのずと限界がある。
大事なのは、米国と韓国、さらに中国、ロシアとの間で問題の解決に向けた共通認識を築くことだ。日本はそのための外交努力を尽くさねばならない。
希望の党は「現実的な外交・安全保障政策」を掲げるが、北朝鮮にどう向き合うか、具体的に説明すべきだ。
問題の「出口」も見えないまま、危機をあおることは、日本の平和と安全に決してつながらない。
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同じ日、20170930(土)、朝日新聞1面の「問う 2017衆院選」を読む。その記事は以下の通りだ。
改憲の道理 主権者が吟味を
「『ただ一貫したる道理によってのみ支配せられる』これが立憲政治の精神である」(尾崎行雄「政治読本」)
1890年の第1回衆院選挙で初当選した「憲政の神様」は、憲法に基づく政治は元来「道理」を離れて運用できないと喝破した。
「政治は力なり」は専制政治の悪弊。勝敗や損得ではなく道理によって動く、それが立憲政治である、と。
はてさてそれから1世紀、当世の政治を眺めれば、「無理が通れば道理が引っ込む」専制の世に回帰したかのごとくである。
憲法53条に基づく臨時国会召集の要求を3か月もたなざらしにした揚句、演説も質疑もすっ飛ばして冒頭解散。三権分立をないがしろにし、議会制民主主義の根幹を揺るがす行状にみじんの道理も見いだせない。安倍晋三首相にも自覚はあるのだろう、「国難」を道理の穴埋めに利用している。
目的のためには手段を選ばず、勝てば官軍負ければ賊軍、道理は後ろからついてくるーーー。そんな首相の政治観は、憲法を扱う手つきによく表れている。
「国民の手に憲法を取り戻す」。憲法改正の要件を引き下げる96条改正を打ち出した時、こう胸を張った首相だが、批判を浴びるやスッと引っ込め、今度は「教育無償化」をあげて日本維新の会に秋波を送り、さらには歴代自民党政権が「合憲としてきた自衛隊を「合憲化」するため、9条に明記すると言い出した。
何でもいいからとにかく変えたい。そんな首相の情念に引きずられ、今回の選挙では憲法がかってなく重いテーマとなる。さすればまずもって自覚すべきは、主権者は私たちひとりひとりであり、憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ。
それがいつの間にか回答者席に座らされ、改憲に賛成か反対か、二つの札を持たされていることの不思議。「さあどっち?」と迫られるままつい札を上げてしまうようでは、主権者としていかにも怠慢である。
そもそも変える必要があるのか。何を成すためにどこを変えねばならぬのか。改憲自体の道理をよくよく吟味しなければならない。道理が引っ込む世の中とは詰まるところ、力に屈服するしかない世の中である。それでいいのかが、究極的には問われている。
立憲主義は、苛烈(かれつ)な主権者意識を抜きには成り立たない。自らの権利は自ら守る。そのための何よりの武器が、選挙権だ。
(編集委員・高橋純子)