先日、仲間と酒を飲んでの談笑のなかで、子どもから大人になる過程において褒められることの重要性について話し合った。
今回は私の場合のことを話しておこう。高校三年のとき、「芸術」と言う選択科目があって、音楽か書道、美術のどれか一科目を履修しなければならなかった。単位数は1でした。音楽は小学生のころからひどい音痴やなあ!と笑われ続けてきた。中学生になっても、いくら耳を澄ましてもドミソ、ドフャラ、シレソの和音を聞き分けられなかった。珍しいほどに音感が悪いと、先生は感心していた。ヤマオカさんは、天才的音痴やなあ、とも言われた。その先生は、我が家の遠縁にあたる人でした。美術は、準備が大変で時間がかかり過ぎる。最初のうちはアイデアや構成に興味が湧くのですが、描いてるうちに面倒臭くなって、エイヤーと仕上げてしまって後悔する。
そういう消去法で、残ったのが書道でした。通った学校は、美女と天才が絶対生まれない学校として有名だった。宇治にあった名門京都府立城南高校です。立ち食い弁当だけが有名だった。昼時になると、大半の生徒が弁当を食いながら、廊下や教室をウロウロするのです。勉強もひどかった。京都市内の学校とは、学力において随分差があった。スポーツも駄目だった。
そんなダメダメの学校なのに、どういうわけか、書道の先生は大家だったのです。今から45年ほど前のことです。日展では毎年何らかの賞を受賞していた。入選の常連だった。言葉遣いはオカマっぽかったけれど、容姿は充分オッサンで、髪が多く、髭が濃かった。表情は柔和で出てくる言葉が、ちょっと甘い物言いをするのが、それだけは嫌だった。
勉強嫌いな私は、どの授業でもコテンパにやられっ放しだった。レベルの低い学校なのに、そのなかでも特別できの悪い生徒だったようです。書道の最初の日に、先生は書道と習字の違いを説明してくれた。書道は絵画や彫刻、彫像と同じように美を極めることなのですーー、字を習う、習字とは根本的に違うのです、とのことでした。私はその説明に息を吹き返したのです。そのときだけはヤマオカらしさの復活だった。
今日は「風」と言う字を好きなように書いてみよう、何枚も書いてみて、自分がこれだと思う自慢の書を黒板に張ってください。
私は、自分の作品の良し悪しの程度は解らないのですが、態度はいつも図々しく、書を張り付ける仕草は堂に入ったものだった、ようです。内心自信があったのかも知れません。
学習コーナーです。堂に入る=『(堂に昇り室に入る)の略で、学問・技芸などに習熟し、その深度を窮める意から』そのことに十分熟達し、非の打ち所がなくなる。(三省堂)「慣用句 ことわざ辞典」より
そして、褒められたのです。
小学校の6年間、運動会の徒競争では負け知らず、卒業式では皆勤賞。中学校でも皆勤賞はもらったが、それ以外は褒められたことはない。中3のときは酷(ひど)かった、英語の採点後の答案用紙を配られた後、必ず2,3人は教壇に呼びつけられ、皆の前で、試験にサボった奴はこいつ等だ、と言われながら先生に桜の棒で頭を叩かれるのです。私は、いっつもこの仲間にいた。後で皆に聞いてみたら、私よりも成績の悪い奴は何人もいたというのに。叱ラレ易イ、ボーイだったのでしょう。
書道の先生に褒められたのには、吃驚(びっくり)こいた。初めての経験だった。そのときの私の字は美しいのだった? そうだ。でも、この部分がこうなっていて、ここがこうなっていたら、最高だったんだけどね、と言いながら朱で私の書に上書きした。私が審査委員長なら、とか言いながら順番を並び変えた。私の書が一番上だった。
その後は、特別褒められる機会はなかったけれど、いつも私の字はチェックされた。心がけたことと言えば、字の持つ意味を考えながら、筆を揮(ふる)うことだった。例えば「男と女」を書くときは、男はゴツゴツと骨太く、女は優しく柔(やわ)らかく、書きました。だから、一葉の書としての字並びは、実にアンバランスなものになるのですが、先生はそんなことも面白がってくれた。「男と女」の「と」をふざけて「ト」にして「男ト女」なんかにしても、喜んでくれた。私の遊び心と書と、そのときの先生とは相性のいい関係だったようだ。
こんなことがあってから、私は決して上手ではないが、堂々と主張したい言葉を書にして衆目にさらして、見せてきた。人前で筆を揮うのは、平気どころか快感を味わえるぐらいだ。
今、会社の壁に張ってあるのは
”愚直に、強い意志をもって、復活だ”。
そろそろヤマオカおじさんも、人を褒め上手にならにゃイカンなあ。イカの金玉か。