2009年9月5日土曜日

朗読者

 MX-3500FN_20090907_131447_001

友人が、ヤマオカ、お前でもこの本のことは知らないだろう、とウインクをしながら一冊の本を貸してくれた。

「朗読者」だった。

ペラペラと最初の2,3ページを読むと、若い少年とその子の母親の年齢ぐらいの女性との恋愛?が始まろうとしていた。私はすかさず、お前なあ、俺のような助平男を、この本で俺を充分満足させられるのか、と質(ただ)すと友人は読んでみたら解るよと言ったきりでした。

ページを飛ばして、後半の部分をちょこっと覗くと、アウシュヴィッツなる文字が飛び込んできた。ただのエロ本(小説)ではなさそうだ。友人は、私がナチスとユダヤに関する本を読み続けていたことを知っていたから、この本を私に是非読ませたかったのだよ、と過日私が本を返す時に言った。

そんなことから、読書は始まった。これからの文章作成にあたっては、述懐者としての主人公の男のことを、彼女が姿を消すまでは原作(訳本だが)のまま「ぼく」として、裁判所で彼女と巡り会ってからは「私」としましょ。

物語は、スピード感があって、スリルがあって、提供されるネタにワクワクしながら読めるのですが、読み進むにつれて内容が重くなって、読後感想はスッキリしない。割り切れない想いが、鉛のように頭の深部に沈殿したままだ。

主人公の男は、大学の法学部の先生なんだろう、苦い回想の物語だ。

15歳のぼくと36歳の路面電車の女車掌との肉体関係優先(性愛という方が品がありますか?)の恋愛から、そのうちズッポリ本格的な恋愛に嵌(はま)ってしまった。

会話の少ないお付き合いだった。そのうち性愛の前後にぼくが彼女に朗読する習慣ができてしまった。そんな日々を通して、「彼女」の実相が模糊然として、全て解き明かされるのは、後半部分です。

そして、突然ぼくの前から姿を消した。

大学生になった私は、法学のゼミで実際に行われているアウシュヴィッツに関連する裁判を傍聴に行った。その収容所の看守たちが裁かれていた。その被告人のなかに彼女、ハンナがいたのだ。

裁判が進んでいくに従って、彼女が自ら不利な状況に追い込んでいるように思えた。何故か。結果、行為の割には罪深く裁かれようとしていた。彼女の発言が、深みにはまって行こうとしているようだったのだ。

そんな彼女の振る舞いの不自然さから、私は彼女が文盲だったのだと、ハット気付いた。彼女は字を読めないことを隠し通してきた。

文盲だったことを裁判官に知らせなければと思いつき裁判官にも会った。哲学者であった父にも相談した。だが、具体的なアドバイスはもらえなかった。

無期懲役の判決が言い渡された。服役中の彼女に朗読したテープを送り続けた。方や彼女は、字を書くこと読むことの学習に励んだ。

やがて刑期を終え、刑務所から出ることになった。私は、彼女の刑務所を出てからの生活のために奔走した。彼女の暮らす部屋用に友人が保有しているものを借りることができた。生活費を稼ぐための仕事は、獄中で身につけた裁縫で、雇ってくれるところは決まった。

そして、出所する当日の朝にーーーーー。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本のカバーには、胸を締め付けられる残酷な愛の物語、などと書かれていた。

10時間の読書が、10分ですみますよ。でも、当たり前ダのクラッカーですが、本物を読んだ方が、もっと面白可笑しく楽しめますから、是非、そのようにしてくださいな。感想をお聞かせください。

この本を貸してくれた友人は、この春、この本を映画化したのを観たと言っていた。テンポが早く、ストーリーに意外性があって、映画にしやすい物語だ、とも想った。

*本を友人に返さなければならないので、それならば、あらすじ(ストーリー)を書き残そうと思いついた。

------------------------------

「朗読者」

ベルンハルト・シュリンク

松永美穂/訳

新潮社

*ドイツで刊行後、5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超える大ベストセラーになった。

------------------------------

ぼくが15歳の時に、黄疸を患っていた。学校からの帰り道に吐いた。そのとき一人の女性がほとんど乱暴と言っていい態度でぼくを面倒みてくれた。泣いているぼくを抱きしめた。ぼくを自宅まで送ってくれた。

元気になってから、ぼくは花束を買って彼女の所へお礼を言いに出かけた。目的の建物に入って、彼女の部屋をさがしていたら、それはシュミッツさんだと教えられた。彼女の部屋に入れてもらった。そこで、何をどのようにお礼を言ったのか、挨拶したのか覚えていない。

帰ろうとすると、私も町まで出るので少し待ってくれるようにと言って、彼女は身支度を始めた。ぼくは玄関の手前で待った。玄関は少し開いていて、彼女の女らしい豊満な体が、妖(あや)しげに動くのが目に映り、彼女もぼくの視線を感じ取っていた。ぼくは顔から火の出る思いで、我慢できなくなって、その部屋から飛び出した。

この俺様(ヤマオカ)にだって、このような経験はある。ぼく(主人公)のように、時間たっぷりに覗き見できたわけではないが、ほんの数秒程度の出来事でさえ、心臓がパクパク破裂しそうになった経験はある。

だが、一週間後ぼくはまた彼女の部屋にやってきた。どうやってやってきたのか。道徳的な教育に対する反動か。「情欲をもって女を見ることが欲望を満たすのと同じく悪いことであり、自分で想像することが想像上の行為と同じく悪いというのなら、満足と行為の両方を選んだってかまわないんじゃないか?」。生憎(あいにく)留守だったが、帰りを待った。

彼女は帰って来た。彼女の着ていた服装から路面電車の車掌であることが解った。地下室の石炭を取って来てくれないかと頼まれた。その作業で自分の服を汚してしまう。お風呂に入りなさいよと言われ、恥ずかしながらも風呂に入った。洗って出てきたところにタオルを拡げたシュミッツさんが待っていて拭いてくれた。拭き終えたときには、シュミッツさんも裸だった。彼女はぼくの体に腕を回し、一方の手を胸に、もう一方の手を固くなった部分に置いた。そして「このために来たんでしょう!」。彼女はぼくを受け容れた。彼女は、何のためにこのようなことをしたのだろうか。

その夜、ぼくは恋に落ちた。そうだろうか?本当に恋に落ちたのだろうか。性のお目覚めか?。不思議な女の体にいっとき、甘い官能をくすぐられただけではなかったのか?とエッチな先輩(ヤマオカ)は想ったのだが、どうもそうではないらしい。真剣な恋愛が始まった。彼女が早番の時は、学校の最後の授業をさぼって帰った。遅番の時は、我が家の食事が終わったころに帰った。そして来る日も、来る日も愛し合った。

ぼくがこんなに愛しているのに。彼女はぼくのことをどう思っているのだろうか。彼女を愛するためにぼくは授業をサボってやってきた、と言うと勉強するまではここに来るなと叱られた。強い口調で叱った。やはり、勉強ということに彼女はこだわっていたのだ。

またお互いに苗字は知っていたが、名前を呼び合ってないことに気付いて、彼女からはハンナと聞き、ぼくはミヒャエル・ベルクだと告げた。ぼくのどの持ち物にも名前が書かれていたのに、ハンナは気が付かなかったようだ。

ぼくは病気で出席日数が足りなかったにもかかわらず、ハンナから勉強しろと叱られたこともあって、バカみたいに猛勉強した、結果、進級試験に合格できた。そしてハンナと愛し合った。先生も親も、喜んでくれたし自分には相当の自信がついた。

ぼくがハンナに生い立ちについて尋ねた。17歳でベルリンに出てきて、ジーメンスという会社の労働者になり、21歳で軍隊に務めた。そして2,3年前から路面電車の車掌をしている。この仕事では制服が着られること、いろいろな動きや景色の変化があることなどが気に入っているとのことだった。

いつも、ちぐはぐな会話だった。ある日ハンナから本を読んで欲しいとせがまれ、そのうち朗読することが習慣になった。「坊や、あたしは自分で読むよりあんたが読むのを聞きたいわ」。シャワーを浴び、愛し合い、それからまたしばらく横になる、そんな逢引の式次第ができてしまった。でも、依然としてハンナの気持ちがわからない。

復活祭の翌週、自転車で四日間の旅行をした。両親には嘘をついた。ハンナは道の方向や選択をぼくに任せただけではなく、泊まる宿も、宿帳に母子と書き込みハンナはそれにサインするだけだった。レストランでのメニューもハンナの分まで選んだ。ハンナが眠っている間に、バラでも買ってこようと思って、「おはよう、朝食を取りに行って、すぐ戻ってくるから」とメモを残しておいた。ぼくが戻ってくると、「なんで、黙って行っちゃうのよ」と怒った。ベルトでぼくの顔を殴った。なんぜ、こんなに怒るのか不思議だった。

ある日愛し合った後、ハンナのふくらはぎに触った時、筋肉がびくびく動いていた。それは、馬がハエを追い払おうとするときの馬の皮膚の動きを思い出し、「馬だね」と言ったら、彼女はぎょっとした鋭い視線をぼくに向けた。

 ぼくはハンナのことがとっても好きになってしまったのに、彼女からはハッキリした愛情の表現を受け取っていない。でも、性愛の後か前に習慣になった朗読をぼくがするときは、ハンナは本当に喜んでくれて、二人の間にしっかりとした交流を実感できた。

ハンナは、いつも妙な雰囲気で気まぐれで威圧的なだけでなく、プレッシャーを感じていて非常に苦しみ、敏感で傷つきやすくなっていた。朗読を終えて、次の本の候補を持ってきていたが、なぜかハンナは選ばなかった。その日の愛し方はまるでぼくと一緒に溺れていこうとするかのようだった。愛し合った最後の日のことだ。

そして彼女は突然姿を消した。突然の彼女の失踪は、耐え難くつらかった。

5年後、私は大学生になった。

私が法学のゼミで、裁判所に行った。法廷では、被告人5人のうちの一人としてハンナが出廷していた。私の前から姿を消したころから、アウシヴィッツ関連の裁判がたくさん行われていた。その一つの裁判だった。私は毎日のように裁判所に通った。今では、彼女のことを何も感じなくなっていた。

ハンナは戦争のとき、ジーメンスで働いていた時に親衛隊の募集に応じ、強制収容所の看守になった。裁判での主要な起訴理由は、アウシュヴィッツ収容所へ送り込む女性達を選別したことに関わったことだ。もう一つの起訴理由は、ある空襲の夜、衛兵と看守は何百人もの女性からなる囚人を教会堂の中に閉じ込めた。落ちた爆弾は教会の塔に当たった。屋根が焼け教会堂は落ちた。重たい扉だけ焼け残った。被告人たちには、その扉を開けてやることができたはずだ、というのが起訴理由だ。

その空襲の夜は、囚人達を西へ向かって移動させていたのです。衛兵や看守の幾人かは死に、幾人かは逃げた。囚人達は全員死んだことになっている。しかし、二人の母娘だけ生存者がいて、娘の方が収容所と西への行軍について本を書き、アメリカで出版した。この本がもとになって、告発されたのだ。

ハンナの公判は苦しいものだった。が、私は、ただの一法学生として、裁判を見続けた。

起訴状朗読の後、彼女は事実に反することがあると発言した。裁判長は困惑した。公判の開廷前に充分読む時間ぐらいあったのだから、そのときに抗弁できたはずだと。証拠調べで、証人の娘が出版した本のドイツ語訳を朗読するのは省略したい、と提案した。閲覧可能だからという理由で。ハンナは同意したくなかった。

彼女がサインしたはずの司法尋問の調書には、彼女の考えとは別のことが書かれていた。だから尋問の確認においても、裁判官とのちぐはぐな応答で、いい印象を与えることができなかった。

自分に不正が加えられていると思われる箇所では反論し、正しい主張や告発がなされていると思う箇所では罪状を認めた。私と顔を合わすことがあったが、その顔は無表情だった。

裁判長に、「(選別されて、殺されるために送られていく者たちに)あなたとあなたは殺されるのよ」と言ったわけですか?と聞かれ、ハンナは「わたしが言いたいのは、あなたなら何をしましたか?」と尋ね返した。ドイツの刑事訴訟で被告が裁判長に質問するなどというのはあり得ないことだった。

優秀な弁護士ならば、起訴理由になっているその罪状に反駁(はんばく)することぐらい、それ程困難なことではなかった。他の被告たちの弁護士は、ハンナの積極的な罪状肯定によって破綻していくことに気付き、作戦を変更して、ハンナの態度を逆に利用し、ハンナに罪を押し付け、他の被告人たちの罪を軽くしようとした。

生き延びた娘が、収容所にいたときのことを書いた本のドイツ語版が、裁判が終わったころ出版された。その娘が収容所で「雌馬」と呼ばれていた女看守に出会ったことが述べられていた。ハンナらしき女看守の登場はなかったが、以前に性愛の後、私が彼女のことを馬にたとえたとき、あんなにも激しくうろたえたことを思い出した。

親衛隊の記録書類のなかにある報告書の検証がなされた。間違いだらけのその報告書をハンナが書いたことにさせられようとした。筆跡鑑定をしようとする前に、彼女は、自分が書いたのだと発言した。自ら、罪の深みに入ることを選んだ。

そして、私はある日森での散策中、ある場所で、ハンナが文盲であるという彼女の秘密を解き明かした。文盲であるとしたら、全てのことが辻褄(つじつま)が合ってくる。文盲であるという罪の無い告白の代わりに、犯罪者であるという恐ろしい自白をしてしまったのは、何故か。

父に相談した。父ほ、「その人がそのことに目を開こうとしないなら、目を開かせる努力ををする必要はある。最後の決断はその人に任せるにしても、その人と話さなくちゃいかんよ、その人の知らないところで他の人と話すんじゃなくて、その人自身とね」と言った。私には、ハンナと話すことは、どうしてもできなかった。

裁判官にもハンナが文盲であることを伝えたかったが、法学の勉強のことや裁判官の心構えについての話だけで、文盲のことについては話し出せなかった。

そして、無期懲役の判決が下された。他の被告は軽い罪でおさまった。そのことに、私は何も感慨はなかった。

私は、修習生の時に修習生仲間と結婚した。子どもが生まれた。

修習期間が終わり、妻は裁判官として働き始めた。私は、ハンナに対する裁判で法律家たちが演じた役割のどれにも、自分を当てはめることはできなかった。告発という行為は弁護と同じくらいグロテスクな単純化に思えたし、裁くことは単純化のなかでもそもそも一番グロテスクな行為だった。行政部門で働く公務員になるのは耐えがたかった。裁判所の中で働くのは灰色で不毛で陰鬱だった。教授の勧めがあって、法史学的な関心を追究することにした。

急に思い立って、ハンナに朗読したものをカセットに吹き込んで送った。ケラーやフォンターネ、ハイネやメーリケの作品が多かった。市民的教養のある人には馴染みのあるものばかりだった。個人的コメントは入れなかった。

カセットによる多弁で寡黙な私たちの接触の4年目に、彼女からの挨拶が届いた。「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」。その紙には線が引いてあって、書き方練習帳から1ページを破って、皺を伸ばしたものだった。

ぱっと見るとまるで子どもが書いたような字だった。ハンナの字だ。書ける、書けるようになったのだ。彼女にとって、字を書くことがどれほどの力と戦いを必要とすることだったか、理解した。

私は離婚した。憎しみ合ったりしたわけではない。互いに尊敬し合っていたが、何かが違うと感じ続けていたのだ。

それからは、刑務所の様子や、窓から眺めた様子などを書いてきた。私は何も書くことはせずに、どんどん朗読のカセットを送り続けた。1年間アメリカで過ごしたときも、そこから送り続けた。

刑務所の女性所長から手紙が届いた。私へのお願い事や、ハンナの出所が近づいていること、出所後の生活のことなど相談したいので、一度お目にかかりたい、という内容だった。ハンナは果たして喜んでいたのだろうか。私は、嬉しくなかったのだろうか。

出所後の住まい探しや、仕事のことに関しては、私が手伝うべき内容だと思っていたが、会うことに躊躇(ためら)いはあった。私たちの間にあったことを蒸し返さないまま、顔を合わせることがどうやってできるのだろうか。

恩赦の決定が下りた。

所長が私に電話してきた。

私は刑務所に初めて出かけた。ハンナは灰色の髪で、額にも口にも頬にも深い縦皺が刻まれていた。彼女の表情のなかに、私を認めたときの期待が喜びに変わって輝くのを見た。「大きくなったわね、坊や」。匂いは、老人のものだった。私は帰り際、彼女を抱きしめたが、しっかりした手応えはなかった。何故だ。

出所の前日。「明日はどうするか考えておいてよ。直ぐに家に行きたいか、それとも森か川にでも行きたいか」、「考えてみるわ。あんたは相変わらずすごい計画家なのね?」、と電話で話した。

翌朝、ハンナは死んだ。夜が明けるころに首を吊ったのだった。どうして、私の傍に来ることを拒んだのか。私の態度が、彼女を苦しめていたのだろうか。

ハンナの独房に案内された。身の回りの小物の他には、テープレコーダーとカセットがびっしり並んでいた。カセットは目の見えない囚人の介助をしている人たちに貸していた。本棚には、有名な作家の本に混ざり、ナチの犠牲者たちの本、ルドルフ・ヘスの伝記、エルサレムでのアイヒマン裁判のレポート、強制収容所についての研究書もあった。

私が送ったカセットに吹き込んだ本を図書室から借りてきて一語一語、一文一文自分で聞いたところをたどることで、字を学んだ。所長曰く、「彼女は、あなたから手紙をいただけることを期待していたのです」。

私がギムナジウム卒業試験に合格し、卒業式の際に校長から何かの賞を贈られ、そのことを報じた地元の写真入りの新聞記事をハンナは大事に保管していた。

遺書のようなものが残されていた。それを所長は読み上げた。「紫色のお茶の缶にまだお金が入っています。それをミヒャエル・ベルクに渡してください。銀行に入っている七千マルクと一緒に、教会の火事の際に母親とともに生き延びたあの娘さんに渡して欲しいのです。そのお金をどうするかは、その娘さんに決めてもらってください。ミヒャエル・ベルクに、わたしからの挨拶を伝えてください」

所長は、「どうして自殺するか、シュミッツさんは書きませんでした。そしてあなたも、あなたがた二人の間に起こったこと、あなたが迎えに来る前の夜にシュミッツさんが自殺する原因になったかもしれないことを話そうとはされません」と。所長の言葉には、怒りが込められているように感じた。

ハンナの遺志を実現するために、生き延びた娘さんにお金を届けにニューヨークに行った。私たちは話し合った結果、読み書きを習いたがっている文盲の人の為に、それもユダヤ人関係の団体に振り込むことにした。ハンナ・シュミッツの名前で振り込んで構いませんと言われた。

 

ナチの暗い時代を引きずった、もどかしい男と女の物語でした。

-------------------------------------------------

090921追加した。

その後、次女が61歳の誕生祝いにくれた、五木寛之の「運命」を読んでいたら、一部にこの「朗読者」をとりあげていた。そこでは、ハンナが字を読み書きできないので、彼女のことを非識字人という文字を使っていた。私は文盲(もんもう)という文字を使って、文章を綴っていたのですが、この「文盲」は適切な文字ではないのでしょうか。適切でないならば、上の文章の全ての「文盲」を「非識字人」と改めなくてはならんのだろう。

私のP,C,からは、monnmouと打っても文盲はでてこない。やはり、あまり好ましくない言葉のようだ。