2009年9月23日水曜日

核密約

朝日新聞で、核密約がどのようにして、なぜ生まれたのか、その経緯が関係者の証言で浮かび上がってきたことを報じていた。

自民党政権が、外務省高官らと長く有耶無耶(うやむや)していた問題だ。この件については、私も前から真相を知りたかった。非核三原則を国是として、多国に対して世界から核兵器をなくそうと、日本は先んじて宣言してきた。今回も、鳩山由紀夫首相は、日本時間で25日未明、国連総会と安保理首脳会合において、唯一の被爆国として、世界から核の廃絶を訴えた。この演説の中でも、日本は非核三原則を堅持することを誓う、と言い切った。民主党は15人程の調査担当を決めて本格的に取り組みだした。証言者から、その真実が漏れ聞こえる。それを伝える新聞の記事をダイジェストで転載させていただいた。

国連安全保障理事会でも、核不拡散条約(NPT)で核兵器の保有が認められている米ロ英仏中5カ国全ての指導者が、安保理議長国の米国が提起した「核兵器のない世界」を目指す歴史的な決議を全会一致で採択した。

日本は、非核三原則をどう堅持していくのか、私は期待したい。

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朝日・朝刊

20090921

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核兵器を積んだ米国の船や航空機の寄港・通過を認める「核密約」が成立した経緯が、関係者の証言で判明した。60年の安保条約改定で始まった「事前協議制度」で、日本側は当初、寄港・通過を協議対象になると理解。米国側は対象外と解釈していた。その後日本政府はひそかに解釈を米側に合わせ、寄港・通過を黙認。非核三原則(67年)の「持ち込ませず」は最初から空洞化していた。(本田博)

「これが核密約の日米合意です、という文書はない」。核密約にかかわる重要な文書は、①条約本体②事前協議制度について定めた「岸・ハーター交換公文」③その解釈を記し、米側でいったん公開された後に再度極秘指定された「討議記録」の三つだ。そのいずれにも密約の核心部分となる「核搭載艦船・航空機の寄港や領海・領空の通過は、事前協議の対象となる『核持ち込み』には該当しない」ということは明確に示されていない。

安保改定交渉の際に、何が事前協議の対象になるかを具体的に詰めなかったために、日米間に深刻な「解釈の食い違い」が生まれていた。

核搭載艦船の寄港・通過は50年代から繰り返されており、米軍部はこの既得権を譲らないよう強く求めていた。

当時の日米は戦後間もない小国と超大国の関係。しかも日本は安全保障を全面的に米国に依存していた。米国が示した文案を問いただすことはできず、都合よく解釈していたのかもしれない。

日米の解釈のずれは、新安保条約を批准するための60年の安保国会で表面化した。藤山愛一郎外相が核搭載艦船の入港を「事前協議の対象になる」と明言。63年には池田勇人首相が「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわない」と答弁した。

米側の解釈に反する日本側の理解に気付いたジョンソン国務副次官の問題提起を受けて、ケネディ大統領は3月26日、国務省、国防総省、軍部などの担当者を集めて対策会議を開いた。

その結果、ライシャワー駐日大使は4月4日、大平正芳外相を朝食会に招き、米側の懸念を伝えた。米側文書によれば、大平外相は米側の解釈を受け入れたという。

しかし、これで密約が成立したわけではなかった。66年に赴任したジョンソン駐日大使は、米側解釈が三木武夫外相に全く引き継がれていないことを知る。ジョンソン氏は68年1月26日、牛場信彦外務次官、東郷文彦北米局長とともに小笠原諸島と硫黄島に視察に行くことにし、機中で約3時間、問題の経緯を話した。東郷氏は大使の話に驚愕し、自らの不明を認める内部文書を省内に残したという。

69年11月21日、佐藤栄作首相が訪米してニクソン大統領と署名した「沖縄返還に関する共同声明」では、大統領が核兵器に対する日本の政策に理解を示す一方で「安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく」沖縄返還実施を確約する内容になった。「米国政府の立場」が、沖縄に限らない核搭載艦船の寄港・通過を含むことを、日本側は十分理解していた。

このとき「核密約」が成立したと見ることができる。

68年前後の外務省条約課の内情を知る次官経験者は「当時から、核の寄港・通過を核持ち込みから除外することを公に認める『正面突破論』が省内で何度も浮上している。だが、国内が紛糾して沖縄返還がおかしくなるということで、結局あきらめたのだろう。その後、70年代、80年代、冷戦後の90年代にも『正面突破論』は議論されたが、国会に持ち出せば内閣がつぶれるということで、出来なかった」と証言する。

「正面突破」が現実味を帯びたのは、74年に米海軍退役少将ラロック氏が核搭載艦船の寄港を米議会で証言したときのことだ。当時の田中角栄首相と木村俊夫外相が内密に米側と交渉を進めたが、日の目を見る前に内閣が金脈問題で倒れてしまった。

こうして日本政府は、横須賀や佐世保などに核搭載艦船が寄港していることを認識しながら、①寄港・通過も核持ち込みに含まれ事前協議の対象になるということは、日本政府が当初から言っている② 米国もそれを承知している③米国が事前協議を求めてこないので、持ち込みはないと信じるーーとのごまかしの答弁を繰り返すことになった。

実態を把握していたのは、外務省の事務次官、北米局長、条約局長(現国際法局長)日米安保課長、条約課長、時の首相や外相にも必ずしも全容は報告されていなかった。

92年に、父ブッシュ政権が「地上、海洋配備戦術核の米国本土への撤去完了」を宣言。日本政府はこれ以降、核持ち込みの可能性はなくなったとしている。01年には 、外務省幹部が関連文書の廃棄を指示。実行されたかは不明だが、その後は担当者間の引継ぎも途絶えているという。