2013年7月30日火曜日

ジジイ、中澤佑二だよ

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20130730 朝日新聞・スポーツ面

韓国戦でボールを追う柿谷=関田航撮影

 

20130728、韓国で行われた東アジア杯で男子の日本代表は初優勝をした。

今回の日本代表には欧州組は召集せず、国内組の新戦力で戦った。来年のワールドカップ(W杯)ブラジル大会に向けて、ザック・ジャパンの底上げが課題になっていたが、やっと、懸案だった新戦力のうち、攻撃陣には台頭がみられた。

先ずは、2試合で3得点したFW柿谷(セ大阪)が際立ってアピールした。2得点した大迫(鹿島)、1得点は斉藤(横浜マ)、工藤(柏)。彼らが、今後、常連FW陣をどれだけ脅かせるか。本田圭祐の星稜高校の1年先輩の大型FW豊田も高い評価を受けた。

しかし、相手攻撃に耐える粘り強さを見せたと思いきや、あっ気なくゴールを奪われる守備のもろさはこの代表チームも従来の日本代表と変わりがなかった。この弱点を克服しなければ、明日はない。私は学生時代、SB、CBのポジションをやっていたが、点を取らせないことに、私は勝負を懸けていた。だから必死だった。

守ってこそ、攻撃が成り立つのだ、と今でも確信している。

日本が点を取られたときに、テレビの前でガッカリするジジイの私に、小学三年のサッカー狂の孫・晴は、ジジイ、中澤だよ、中澤佑ニがいればあんなことにはならない、とザックの采配を批判する。

私は田中マルクス闘莉王みたいに感情を剥きだして、仲間を叱咤激励する選手か、磐田でプレーしてその後ブラジルの代表監督になったドゥンガのような強烈なリーダーが欲しいなあ。チームの心棒になるような個性的な選手がいないと、チームがまとまらないよ、とザックを批判した。

晴は、欧州のサッカー情報にも通じ、サッカーを見極める視点は私以上だ。彼は、プレーヤーとして理論と実践の間で苦悩している。將來の日本代表を背負うオールラウンドな若きエースだ。中澤のプレーを強く信じているようだ。

だが、守備陣の新しい駒の出現はなく、相変わらず薄い。今回の東アジア杯においても、森重(FC東京)の初々しさに目を引いたが、代表常連の駒野(磐田)と栗原(横浜マ)では、まだまだ人材不足、力不足だ。

 

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そんなことを考えていたら、20130730の朝日新聞・スポーツ面に、「知将からのメッセージ」(J1大宮 ベルデニックス監督)の談話の記事があった。大いに賛同する内容なので、一部をここに転載させてもらう。

いまのJリーグは攻撃、守備とも選手同士が共通理解をもったプレーが少ないと思う。ボールを持っているときも、相手がボールを持っているときも、選手間の共通理解がないと、判断のスピードもプレーのスピードも上げられない。

さらに感じるのは、競り合いや球際の強さを、もっと身につけていかなければならない点だ。特にセンターバックとセンターフォワードは、Jリーグや各クラブが優れた選手を見つけ、育てていくことが必要だ。

Jリーグの日本の選手には、質の高い中盤のサイドハーフやボランチはたくさんいる。しかし、センターバックやセンターフォワードは、その人数が少ない。

自分の経験から言えば、世界のトップリーグや欧州のリーグと比べて、日本のセンターバックはけがをする割合が高いのではないかと思う。相手と競り合いにいってけがをすることが少し多いような印象がある。

センターバックは自分からボールを奪いにいくポジション。けがをする確率はそんなに高くないはずだ。そう考えれば、Jリーグでは本当の意味で強さを持った選手が十分にはそろっていない。

印象に残る選手もいる。横浜マの中沢佑二選手だ。足元、空中戦どちらも強い。クレバーで読みも鋭い。ボールを奪うだけではなく、後ろから組み立てる力があるところもすばらしい。Jリーグでは一番のセンターバックだと思う。

2013年7月28日日曜日

水で血を見る

山口県周南市の連続殺人放火事件。殺人容疑で男が逮捕されたと、20130726の新聞記事で知った。山中を捜索していて発見された。容疑者は5人全員の殺害と2軒の放火を認めているという。

容疑者の知人らによると、容疑者と周辺住民とは、容疑者の飼っていた犬や水田の管理などをめぐって、長年いざこざが絶えなかったらしい。真相は今後の捜査で詳(つまび)らかにされるだろう。容疑者は、約2年半前には周南署に「悪口を言われて孤立している」と相談をしていた。

こんな記事を読んでいて、私の子供の頃の田舎でのことを思い出した。同じような閉鎖的な山間谷間(やまあいたにあい)の村のこと、私の村でもこんな凄惨なことが起こり得たかもしれないのだ。

それは水田用水のことだ。山の裾野のところに貯水池があって、そこから用水路を通って下流の方に配水している。この水に関しては、水田の耕作者たちでつくった水利組合が管理していた。

雨がよく降って、貯水池に水がたっぷりあるときは何も問題が起こらないが、降雨量が少なく、貯水池にも水が少なくなって、水田が干からびて亀裂が生じてくると、村の雰囲気が一気に重苦しいものになるのだ。その雰囲気は子供心にも怖かった。私の村の主要産物は米とお茶だ。村で人と人が出くわすと、話すことは雨のこと、水のことばかり。

水田への水は接している用水路から取水できる。ところが水量の少ないときは、下方の水田のことを考慮して、自分の水田への取水口を自らの判断で調整するのだが、これが難しい。一つの用水路からは、大小80枚から100枚の水田が利用する。

他人の水田のことなんて構っちゃいられない、自分の水田のために取水口を大きく開ける、他人の水田に水が不足していようが知るもんか、と考えるずうずうしい輩が必ず出てくる。そこまで乱暴ではなくても、自分びいきに取水口を開ける人もいる。上流の方で、各々がちょっとづつ大きめに取水口を開けると、下流の方には水がまわっていかない。その微妙な加減、開け方次第で、その水田の持ち主の意向や性格が丸見えだ。

水利組合の役員が昼夜パトロールして、公平に水が分配されるように管理していたが、その管理の目を盗んで、ズルイ親爺が奔走する。

ズルイ親爺のことは、その親爺の水田の水を見れば一目瞭然、当然、その親爺は皆から吊し上げを食わされる。大人同士のこと、丁寧に警告しても優しく注意しても、後味の悪い想いを互いに残すことになる。

穏やかでないときは、群れを作って一人の輩を責めたときのことだ。このときの危険を、双方の本人同士には解っていない。群れる方は比較的無頓着でも、責められ、追い込まれた方は鬼になり、修羅になる。閉ざされた狭い村落の中で、互いに誹謗中傷、問題の核心とは関係のないところへ火花は散り、複雑怪奇な様相を見せる。

私の生家の水田は、上流の方にあっていつも安全圏だったが、それでも、父が加減した取水口調整を、朝行って見ると、狂わされていたのはしょっちゅうだった。父は、不機嫌になって、これはアイツがやったのだ、と名前をあげて非難した。

大人たちは、揉めた時にどんな解決方法をとるのだろうか、嫌な事件が起こらなければいいが、と子ども心に心配したもんだ。

2013年7月27日土曜日

はらっぱのおはなし

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はらっぱのおはなし

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20130725 19:00~

私と孫2人で、東京・練馬区関町の東京演劇アンサンブル、ブレヒトの芝居小屋へ、「はらっぱのおはなし」を観に出かけた。孫とは長女の娘と次女の息子のことだ。長女が作ってくれたお握り弁当を持って、保土ヶ谷区権太坂の自宅を16:00にスタートした。

いつものように劇団から招待を受けたが、私だけで行っても劇団の売上にはならない。よって、いつも通り有料の人間を誘って行くことにしたが、今回は孫2人を指名した。孫2人のそれぞれの母親は、この企画に喜んでくれた。演劇小屋に、一番最初に着いた。まずは腹ごしらえ。ベストの席を選ぶのは難しい。熊ゴロウを観た時の経験から、リーダーの孫・晴は、真正面の一番前の席を選んだ。年少の孫は年長の孫の指示に従った。ジジイは背丈があるので、斜め後ろの席を選んだ。二人とも、行儀の善(い)い子ども、俺の自慢の孫たちだ。

このお芝居は、虫たちの原っぱでの一日の生活、虫たちのめくるめく命の大いなる讃歌だ。気を緩めるいとまもなく、俺たち3人はお芝居に釘付けだった。

芝居の始まりの演出は、みんなはらっぱにおいでよ、はらっぱに寝っ転がっていると、虫たちの話し声が聞こえてくるよ、と、こんな感じでぞろぞろと人が集まってくる。虫たちの声は、ただ鳴いているのではなく、ふざけて騒いでいたり、喧嘩したり、泣いたり、怒ったり、求愛したり、真剣にお話しているのだ。

そして、話は始まった。

性格の異なるわるわるバッタの三兄弟は、ズンチャカズンチャカ騒がしく動きまわる。はらっぱを駆け回る。孤独を楽しむオニグモじいさんは、一人でフムフム鼻歌を歌っている。長老としての威厳をもって、虫たちを見守っている。カナブンオヤブンは、ロックンローラーでギターを振り回す、激しい性格の親分だが優しいところもあって、困っている虫たちを見回って世話をしている。バッタの三兄弟も協力する。

生まれたばかりの雨ふりのチョウに一目惚れしてしまった青年くわはちは、或る日、傷ついて倒れる。そんなくわはちを他の虫たちが一所懸命に励ます。そのかいあって、元気を取り戻すと、チョウとダンスに興じる。このチョウは不幸せということを全く知らない、果てしなく無垢なのだ。

チョウは、目に映るものすべてが素敵で面白く、いっときもじっとしていない。劇中、チョウは、いつも楽しく一輪車で走り回り、はらっぱを踊りまくった。このチョウを演じる役者さんの一輪車の操作の余りの巧さに、私も子どももみんな驚いた。

虫たちは、それぞれに色んな想いを抱いて一生懸命生きている。その虫たちのいのちの物語が、絶え間なく、それぞれに何らかの楽器でリズムをとって、時にはドンチャカドンチャカ時には静かに、進行する。

原作者の松居スーザンさんのことを初めて知った。当然、作品にお目にかかるのも初めてだ。

脚本の篠原久美子さんは、このお芝居を構成し直しながらも、なにかの価値観に向かって感情をもっていくのではなく、「自然ないのち」の交流が、嘘なく「存在」し合えたらと思いながら、楽しく書き進めることができた。また、嘘も、ひねくれも、傲慢も、怠慢も、利害も、ずるさも知っている大人だからこそ、「いのちのこと」だけは、嘘のないまっすぐな瞳で語らなきゃいけないんじゃないかと思い始めています、といただいたパンフレットにあった。

音楽を担当した菊池大成さんが作ったのは、オープニング曲とエンデイング曲で、その他の曲は役者さんに稽古場で鼻歌を歌ってもらい、それを聴音、菊池さんが後に楽譜を作成した。役者自身が舞台上で楽器を演奏。その楽器類とは、アコーデオンやギターもあったが、ほとんどジャンク品、手拍子あり、膝たたきあり、玩具類だ。虫たちの、虫たちによる、虫たちのための音楽劇。この楽器類が、一般的な楽器類よりも、深く豊かでこのお芝居の世界観や虫たちの想いを伝えるのにはるかに適している、と菊池さんは語っている。このように奏(かな)でられる音は、どれもシンプルでありながら虫の世界に、生き生きと溶け込む。

明樹由佳さんが担当したダンスの振り付けも必見ですよ、と劇団の代表・入江洋佑さんに案内された。

帰途、車の中では三人三様に、劇中歌を歌った。記憶した部分を何度も何度も繰り返して歌っては、笑った。しかし、ここでも、私は孫たちに、歌の記憶力で負けてしまった。私が憶えた部分は、孫たちの半分程度だった。

第三京浜に入るころには、孫たちは後部座席で眠り込んでしまった。

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志賀澤子共同代表。8月25日、ローザをやるから観に来てくださいと頼まれた。ローザは80歳なの、だから私も80歳まではローザを演じていいよといわれているの、と仰っていた。彼女の歳は聞かなかった。

 

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アマゾンで、この原作本を購入した。

私らは回し読みをして、今日を迎えた。実はこの本を買う前に、下の追記にあるような失敗をしたのだが、二人にはいい読書の機会を提供したことになって、さぞかし母親たちからは感謝してくれていることだろう。夏休みの宿題に使われそうだ。

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雨ふりのチョウ、オニグモじいさん、わるわるバッタのブッタ。ブッタは銀河鉄道のジョバンニだ。

 

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入江洋佑共同代表。 78歳と仰った。今回、お歳を聞こうと思っていた。いつまでも、元気でいてください。

 

追記

東京演劇アンサンブルから、「はらっぱのおはなし」のお芝居の案内をもらって、これは、夏休み中の2人の孫には丁度イイワイと思った。

いただいたパンフレットの内容を吟味するまでもなく、アマゾンで下の本(作・椋鳩十)を予約した。届いた本を、孫たちは喜んで回し読みをした。1年生の銀杏(いちょう)は熟読、精読したと銀杏の母から聞いた。3年生の晴には、楽ちんだったようだ。

私は、今回のお芝居はこの本が原作だと思い込んでしまって、椋ワールドを勝手に楽しみにしていた。今までこの児童文学者・椋鳩十(むくはとじゅう)さんの作品を読んだこともなく、今回はいい機会だと喜んでいた。

間違いの原因は私の早トチリ。松井スーザンさんと椋鳩十さんは、「はらっぱのおはなし」という同じ題名の本を著しておられたのだ。

恥ずかしい!! ジジイ得意のフライングだ。

 はらっぱのおはなし (とっておきのどうわ)

 

以下は、東京演劇アンサンブルのホームページから引用しました。

上演にあたって

東京演劇アンサンブルこどもの劇場公演『音楽劇・はらっぱのおはなし』は、劇団待望の新作公演となります。
ここ数年は、再演ものが多かった子どものための公演ですが、新たな出会いによって、いよいよ実現することとなりました。

昨年の児演協合による震災後の児童・青少年演劇を考えるプロジェクト『空の村号』のスタッフを迎えての新作となります。
原作は松居スーザン(絵・スズキコージ)。アメリカ人児童文学者で、日本語で多数の絵本・児童文学を書いています。
あるはらっぱのムシたちの一日を描くことにより、日常で営まれるさまざまな生きる喜びや大切なこと、そして悲しみも描かれています。
“はらっぱ”との出会いが少なくなってきた現代で、小さな子どもたちから、
ずっと昔に子どもだった人たちまで、もう一度“はらっぱ”と出会いなおしてもらいたいのです。

初めて演出をお願いした関根さんは、ワークショップのような劇団内オーディションを行い、出演を希望する劇団員の中から7人のキャストを選びました。
この作品に登場してくる登場人物? ムシたちのキャラクターに見合うような、おもしろい、キャストになっています。

脚本は篠原久美子さん。前述の『空の村号』では斎田喬戯曲賞を受賞され、その他にも数々の賞を受賞されています。
自ら震災後にボランティアを行い、“はらっぱ”に寝ころべない現実を目の当たりにし、この作品と向き合うこととなりました。
いま、劇団劇作家の主宰でもあり、注目の劇作家の一人です。
マイノリティーの存在にやさしい目を向ける姿勢が、とても好ましく、
みんなが同じでなければならないことへの不安や葛藤、常識的でかたずけられない大切なものを見落とすことのないような、
あたたかい脚本になっています。

タイトルに“音楽劇”とあるように、たくさんのソングで芝居を彩っています。作曲は、やはり、『空の村号』で出会った菊池大成さん。
自身の本業はピアニストだとおっしゃいますが、劇団風の子などで多くの作品を作曲されています。
今回の作品は、短い曲やアレンジ曲も含めると、20曲ものソングがあります。
足しげく稽古場に通い、みんなで音楽作りをしています。
俳優の内面から生まれる音を大事にしたいということで、俳優たちと一緒になって作曲に取り組み、演奏もすべて生演奏ということに挑戦しています。

その他、ニブロールの高橋啓祐さんは、映像作家として参加。
できるだけ照明機材を減らし、プロジェクターの光線を使った新たな試みをしています。
一輪車を使った振付もおもしろく、元劇団四季・キャラメルボックスにいた明樹由佳さんにお願いしています。

子どもたちにはとっても楽しく、贅沢な時間を過ごしてほしい。また、凛とした思いで、子どもたちに向き合う大人の姿を舞台で見てほしいと思います。

東京演劇アンサンブルの新たな挑戦です。どうかお見逃しなく!!

2013年7月25日木曜日

吉田所長に国民栄誉賞を

20130709夜、東京電力福島第一原子力発電所の事故発生時の所長、吉田昌郎(まさお)さんが58歳で亡くなった。最後の砦(とりで)、死の淵で、陣頭指揮を執(と)った男だ。

享年58歳とは若過ぎる、身内の方々や彼をよく知る人たちは、さぞかし悔しい想いだろう。誰よりも本人こそが、オサマル現場を見届けられなかったことに、悔いを残したままの天寿(てんじゅ)を全(まっと)うされた。私も衷心より悼(いた)む。

食道ガンの闘病中に脳出血をおこして緊急入院、悪化、死去されたと知った。新聞を読んでいて、缶ビールを握る指に力が入る。私は、暢気に9月に65歳になろうとしている。それにしても彼の死は若過ぎる。

死因が食道ガンだって? 原発が原因しているのではないかと勘ぐってしまう。新聞記事を前に、彼こそ国民栄誉賞を授与されるべきだと、訪れてきた友人にビールを注(つ)ぎながら叫んだ。

インターネットや通信網を駆使して業容を拡大、立派な会社に育てた経営者や衣服の販売会社を世界的な企業に育てた経営者はいる。彼らはその成功を収入で報われている。が、命そのものにかかわる修羅場で、死の淵にさらされた現場の責任者として、吉田元所長ほどの人がかっていただろうか。

酒量が増えるごとに、こういう人にこそ、政府は国民栄誉賞を授与するべきだと繰り返し叫んだ、ようだ。酒の神バッカスが体中大暴れ、思考は支離滅裂。私にしても、訃報を聞いて、国民栄誉賞を思いつくようでは随分失礼な話だ。

授賞対象者として、歌やお芝居、スポーツで、国民に勇気や楽しい気分にさせてくれた人もいいけれど、国民の安全のために命を張って頑張った人にも考慮して欲しいもんだ。

原子炉建屋の水素爆発に直面しながらも、際限のない事故拡大を食い止めようとした。未曾有の危機に向かい合い陣頭指揮をとった。本社からの命令に逆らって海水注入を続けなければ、結果はさらに悲惨だったかもしれない。あの人だから団結できた、という現場の声も聞く。

それから2、3日後の20130713 車での出勤途中にラジオからは、吉田元所長にこそ国民栄誉賞をあげるべきだと、鬼の首を取ったようにパーソナリティーが力説していたのを聞いた。偉大な男の死に、口調が軽薄過ぎて嫌な気分になった。私の想いとはちょっと違う感じを受けた。ちゃらちゃら、喋るもんではないぞ、この馬鹿野郎!!

この馬鹿がどんな奴か知らないが、軽々しく表現する奴を、何だか無性に腹が立った。

織姫と彦星は夫婦だった

    (天の川の写真)

七夕(たなばた)が、どうしてこのように「七」と「夕」の漢字で表すのか、知りたくて大きな声で叫んでみたが、誰も教えてくれない。

だがヒントはあった。七夕を「棚機」ともあり、織姫から機(はた)織りの機を連想して、何となく理解したようでも、たなばたが、何故「七」と「夕」なのかは判然としないままだ。七月の夕べ、程度では済まされない。

もともとは、中国の織女(しょくじょ)と牽牛(けんぎゅう)の伝説と、これも中国の裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事とが混ざりあって伝わったものといわれているとネットで知った。

日本には棚機津女(たなばたつめ)の伝説があって、中国から持ち込まれた伝説にさらに加わって、上手い具合に溶け合ったのだろうか。棚機津女は、少女で、水辺で機を織りながら神の訪れを待ち、神の精を妊み神の妻となる巫女のことらしい、これもネットで知った。伝説というものは、私のような頭の硬い人間には、よう解(わか)らんわ !!

織女(織姫)と牽牛(彦星)は働き者同士、来る日も来る日も働き詰めの織女と、牛飼いの仕事に精を出す牽牛。天帝が、そんな織女の婿を探していた矢先に、働き者の牽牛を見つけ、夫婦になることをすすめた。

ところが、結婚してからの二人は、仲が好過ぎて、ひとときも離れることなく仕事を怠けて遊んでばかりいたので、天帝は怒って二人を引き離させた。でも、それでは余りにも可哀想に思えて、1年に1度だけの逢瀬(おうせ)だけは許した。その1年に1度のデートの日が七月七日、いわゆる七夕の日だ。

2013七夕の日の天声人語に、07年の意識調査で、この伝説が織姫と彦星が夫婦だと正しく理解していた人は1割もなく9割超が恋人として誤解していた、と書いてあった。

以下も、天声人語のまま。

年に一度しか許されない星合(ほしあい)の物語が、恋の成就が阻まれ、一緒になれない2人というイメージを定着させてしまった。元々の意味合いが、時とともに忘れられていくのは仕方のないことかもしれない。願い事を短冊に書いて笹竹に飾るのも、かっては裁縫や書道の上達を祈ったものという。今は自分や家族の健康を願ったり、仕事や就職がうまくいくよう祈ったりーーー。

2013年7月24日水曜日

あなたの夢って何ですか?

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2013年の7月の或る日、横浜のちょっと(鳥渡?)いかがわしいちょっとエッチなエリアに、足を踏み入れた。

男の本能をソソる風変わりなキャッチコピーや、欲望を駆り立てる絵柄の看板が乱立している、そんな地域のことだ。奇妙奇天烈、奇異な街路を、客引きの視線に耐えながら顔を強張らせて歩いた。何故、ヤマオカよ、そんな所に行くことになったんだ、と聞きたがるだろうが、このてん末については、後日詳細に語る機会はあるだろうから、今回は省略させてくださいな。

このようなエッチな街の本家本元の店で、ちょっとエッチな女性店員と和やかな会話をしていたときのことだ。その彼女から、あなたの夢は何ですか? と聞かれた。唐突、突然の予想もしない質問に、一瞬呆気(あっけ)にとられ、彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。

この年になって、このような場所で、このような爆弾質問に遭うとは。

この質問には、正直面食らった。彼女は、仕事で接した全ての相手にこのような質問をするのが常なのだろうか? それとも、この変ちょこりんな初老の男にこそ、聞いてみたいと思ったのだろうか。彼女にも夢があって、私にその夢のことを聞いて欲しかったのだろうか。

実は、この夢って奴が、昨今、私の世界から縁遠いものになりかけていた

かって数多(あまた)の夢への妄執に駆(か)られ、夢をむしゃぶり食って、夢見ることだけをエネルギー源として生きてきた私だ。だが、この20年間のとりわけ5年間は、弊社は経済不況の荒波にもまれ、食うや食わず、着の身着のまま、「夢」などを語る余裕はなかった。

だが、正直に言おう。

半年前に、恥ずかしくなるほど立派な夢が私の心の隅っこに発芽したのだ。最初、ほんの思いつきだった。経営責任者の中さんとの冗談から駒、そして、本気になった。この幼芽こそ蕾にまで育ててみたくなった。

日常的な仕事においては、これからの10年はきちんと働くこと、会社に一所懸命に貢献すること。とりわけ経営責任者の中さんのヘルプに徹して、パラディスハウスを横浜一の先鋭的な会社に仕上げること。私の前に彼女がいることも忘れて、そんな想いを趣(おもむ)くままに巡らせていた。

暫くして、ちょっとエッチな店の彼女は、ネエ、お客さん聞いてよ、私にも夢があるんですよ、で始まった。えっ、え~、意外な進行にエッチな気分は遠ざかる

私には高校生になる2人の男の子が居まして、一人は剣道を、もう一人の子はサッカーをしているんです。私の子どもですから、頭はそれほど良くないし、スポーツだってそれほど優秀ではないんです、でも頑張っているんです。この子らが立派な大人になるまでは、女手一つで、できることはできるだけしてやろうと思っているんです。これが私の夢、と言って薄っすら涙を浮かべた。

それから、エッチな店のエッチな店員さんと、エッチな初老の男は子育て談義に火花を散らすことになった。

胸襟を必要以上に拡げてくれた彼女に、私の精神状態は丸裸、白状してしまった。私の夢を告白させられてしまった。この手の話は、手を抜くことはできない、、、、かくして、持ち時間のほとんどを費やしてしまった。

40年前に卒業した学校のサッカークラブに何かをプレゼントしたくなったこと。そのようなことで、サッカークラブに恩返しをするのが私の夢だと、言ってしまった。

 

今から45年前、1968年、私が二十歳の時のことだ。

当時、ずうっと、長い間、日本一強かった大学のサッカー部が、運動能力の乏しい私を「可能性のない男として淘汰しなかった」ことに対する感謝だ。何かをプレゼントして恩返しをすることを「夢」として思いついたのだ。私は入学、入部したグラウンドで、社会人になるための体力、気力、糞力に胆力、勇気など、素養を身につけることができた、このことにも感謝したい。

この恩返しを、半年後に着手して3、4年かけて実現したい。この詳細は夢を着手した暁に報告することにしよう。楽しみにしてください。

2013年7月21日日曜日

今度の富士山は富士宮ルート

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我が生涯4度目の富士山行は富士宮ルートを選んだ。

1ヶ月半前に、ギックリ腰になって、そいつが質(たち)の悪い奴で、丸々1ヶ月激痛に襲われ、仕事ではスタッフに迷惑をかけてしまった。そんなことがあっての今回の富士登山なので、皆が心配してくれることに恐縮した。4月中頃から次女の婿・竹ちゃんに同行を求めると、早速観光会社に予約をしてくれた。夏休みに入る前を狙った。富士山が世界文化遺産に選ばれてからは、俄然人気が沸騰して、土日の山登りの混雑ぶりが新聞等で報道されて少しは心配していた。

ところが、今回は富士宮ルートを選んだことや、水・木曜日ということもあってさほど混んでいなかった。今までの3回の富士山は全て人気の高い吉田ルートだったので、この空(す)き様は気分好かった。

世界遺産に選ばれたこともあってか、どこのトイレも綺麗になった。この5年間で3度目の富士山だが、年々歳々改善されているのが嬉しい。環境に配慮したバイオトイレだ。維持管理に協力金200円は安い。

今回初めて知ったことに、山室(やまむろ)という言葉がある。富士山のような樹木のない山では、樹木で小屋を組み建てることは無理で、斜面に横穴を掘って部屋を作ったことからこのような名称がついたようだ。日常的には山小屋と呼ばれているが、印刷物には山室と書かれている。でも、どの山室も木造で表面は石で保護したものが多かった。

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新5合目 富士登山富士宮ルートの出発点

 

5合目には富士山総合指導センターがあって、前を通った私たちに、今夜から明日にかけて天候が荒れることを知らせてくれた。

富士宮口・新五合目

17日、竹ちゃんとは05:30に横浜駅の天理ビル前で集合。専用のバスに6人乗り込み、新宿を回ってそこでバスは満員、東名高速道路、富士山スカイラインを一路富士宮(ふじのみや)口に向った。途中、足柄パーキングでオシッコ休憩。

5合目富士宮口レストハウスでいくつかの注意事項の他に、高山病予防のために、1時間ぐらいは高地での慣れが必要ですと言われたけれど、無視して10:47に二人はスタートした。いくつになっても治らない、利(き)かん気なオヤジと義息だ。バスが降りた時点で、標高が既に2400メートルだ。欠伸をして、耳の中だけは調整した。

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 富士宮ルートは、登りと下りが同じコースだ。登りは兎も角、下りっ放しは膝に負担が重く、辛く、面白くない、それならば、宝永山を迂回してゆっくり下ろうと登り口で決めた。

このルートは他の3ルートに比べて、登りも下りも5キロメートルと一番距離が短いので、当然、登り下りは急坂だ。

  雲海荘

 

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新六合目には、雲海荘と宝永山荘の二軒の山小屋があって、山小屋の裏手からは登山道が険しくなる。心臓がパクパク唸り出すのはしょうがない、パクパク、ハアハアしながら、進んだ。休み時間を含まなければ、頂上までは5時間、下りは3時間とあったので、宿泊予定の9合目の万年雪山荘までなら、4時間もあれば着くだろうと想定した。

ここから、宝永山へ行くコースもあるが、宝永山へのアタックを望むならば、私たちのように、頂上から御殿場ルートを通る方をお勧めする。上からの眺望がすこぶるいいのだ。思わぬ豪快な風景に魅入られた。

 

新六合目からは、砂礫の斜面が多くて滑りやすかった。

竹ちゃん家系の大握り飯を2個食った。昼飯時間は正午なので、確か新七合目だったと思うが、勘違いかもしれない。

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「竹ちゃん家系」のお握りは、大きくがっちり握られていて、2個も食えば満腹になった。

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この辺りから、空に雲が増えてきた。

 

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七合目を過ぎると岩場になり斜度がきつく、八合目(標高3250m)の山小屋、池田館の直下までは、むき出しの歩きにくい岩場が続いた。

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万年雪山荘が見え出してから、急に足が重たくなった。九合目(標高3410m)の万年雪山荘に着いたのは、02:00頃。登り出してから3時間10分。曇(ガス)ってきたが、雨が降らないうちに着けた。

富士宮ルートで最大クラスの山小屋。食堂スペースが広くてゆったりしていた。宿泊者でなくても利用できる食堂は午前3時から営業、オーダーストップは19:00。消灯は20:00。

今、オイラはにわか作りの山男、いつもは切った張ったの企業戦士だ。なかなかこの小屋は繁盛しているわなあ、と、つい胸算用してしまう。働いている人も、経営者と思われる赤いジャンパーのオヤジも表情がいい。このオヤジさん、夢中で計算機を叩いていた。小屋の改修や増築が現在進行中、まさに投資中とは恐れいった。最大収容人員は250名、私の見立てでは、この日は100名ぐらいが宿泊しただろうと勘定した。それに比べて、その他の小屋は、けっして経営が楽そうではなかった。休館の小屋もあった。低いところの山小屋は総じて人の出入りが少ないようなので、私は敗者復活のための挽回作戦を思いついた。これは別の稿で触れたい。

5時か6時か、私は床に寝転び、竹ちゃんは食堂でビールを飲んで過ごした。飯は何時でもいいですよ、と言われたので確か18:00頃、定食のカレーを食った。用意された温かいお茶が美味しかった。

富士宮口・下山風景 

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9合目 万年雪山荘到着

私たちがカレーを食い終わった頃に、小屋にたどり着いた人たちは雨に打たれたと言っていた。私は疲れたので、タイツにホカロン、完全防寒して本格的に寝る体制に入った。

深夜、屋根を打つ雨音がしたので、心配になって外に出てみたら、小屋は霧にすっぽり包まれて、風が強く吹付け、雨が横殴りに降っていた。竹ちゃん鼾(いびき)が、私の耳に心地良くない。雨のことは、自宅を出た時から覚悟をしていたが、冷たく強い風雨には少しビビった。でも、今は、静かに体を休めるしかない。

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宿泊所に着いたことを、身重の妻にメールをしているのでは、、、

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万年雪

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02:00、団体で行動しているチームのリーダーは早々に、頂上に登頂することを断念するとメンバーに指示していた。中止にして06:00から下山するらしい。

私はキャップテンとして、竹ちゃんに04:00には朝飯を済ませて出発することを、強い意志をもって告げた。それでも心配で、3時頃からしょっちゅう外に出ては様子を伺っていたが、天候は変わらずじまい。朝飯の弁当の内容は憶えていない、それほど緊張していたようだ。温かいお茶を何杯もいただいた。美味しかった。

4時に勇気を振り絞って外に出たら、スタートの準備をしていた男5人組みが、もう少し様子を見てから出ることにしましょう、と小屋の中に戻った。意気地なしの奴らだ。私たちは意気消沈することなく、削がれることなく、真っ暗闇の中、足元は竹ちゃんのヘッドランプを頼りに歩き出した。冷たい雨が横殴りに二人に吹き付ける。視界、目先3メートル。

この時の決意を、下山してから、竹ちゃんがあの時のお父さんの「行こう」の言葉が嬉しかったと言った。彼には、今回の山行には並々ならぬ覚悟を秘めていたようなのだ。

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夕食は定食のカレー。この写真は朝飯(弁当)の様子

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山頂まで最後の山小屋が九合五勺(標高3550m)の胸突山荘。

 

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頂上に到着

 

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そして、ついに登頂! 気温は4度。浅間大社奥院に無事登頂したことを感謝。主祭神は浅間大神(木花之佐久夜毘賣命・このはなさくやひめのみこと)。なぜか女性の神様だ。8合目以上は奥院の御神域。5合目以上は浅間大社の社有地と聞いたことがあるが、それはきちんと確かめていない。

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浅間大社奥院の中で会った僧侶。許可を頂いて、写真に撮らせてもらった。

 

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日本の最高峰・剣が峰 3776メートル

 

視界2メートル。冷たい雨で軍手はびちょびちょ、手はかじかんで感覚なし。富士山では、100メートル高度を上げるごとに0.6度気温が下がる。この時、私はメガネをかけていて、手元しか見えなくて困ったとメガネを外すと、視界が急に2メートルに広がった。メガネはびっしょりの雨粒で視界を妨げていたのだ。

日本の最高峰を示す碑に、竹ちゃんは水天宮で貰ってきた出産の無事を祈願する腹帯を巻きつけ、自らも祈った。私の次女で竹ちゃんの女房は、今年の12月に出産する予定だ。私にとって6人目の孫だ。その後、浅間大社奥院でも帯を差し出し、神様のご加護をお願いした。お守りも求めた。杖に、富士登山山頂の焼印を押してもらった。

私は、頭の中で、家族、友人、先輩後輩、会社のスタッフ、協力会社の皆さんの顔を浮かべ、それぞれの名前を口ずさみながら、頭(こうべ)を深くニ礼、かじかんだ手の平を力強くニ拍、浅間大社の神のご加護をお願いした。

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下山に入る。

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宝永山

 

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宝永山山頂

 

山頂から御殿場ルートを下り、宝永第一、第二火口経由で富士宮口新五合目に戻るコースを選んだ。途中からは砂地なので下山しやすかった。

途中から雨が止みガスが消え、視界が広がった。雨具を脱いだ。上から、宝永山のなだらかな山容を眺めながら下った。馬の背では、見晴らしが好かった。宝永山の頂上から、一気に火口の底まで下りて行くコースだが、振り返り振り返り、歩いた。火口の底からの壁が聳(そび)え立つ光景は、飛ばされることなく残った岩が無骨に浮き出させていて、その迫力に登山者は目を奪われた。竹ちゃんは、愛息・晴にも見せてやりたいなあ、と独り言。

歩く距離が約2キロメートル増えたが、貴重な体験だった。いったん火口の底まで下りたので、最後に再び高低差50m程度を登らなければならなかった。
20091011、宝永火口で大落石が発生したことは知っていた。落石は、登山者のすぐ近くの登山道を横切ったそうだ。

火口の底で、タイツと上着を脱ぎ、軽装になった。宝永山に向かう小学5,6年生の団体に出くわした。

これらの火口は、宝永噴火によってできたもので、その宝永噴火のことを、富士山に向かう前日の20130716の日経新聞の記事にあったので、ここに転載させてもらう。

宝永噴火=1707年に富士山南東部の山腹で起きた大規模な爆発的噴火。南海トラフが震源の宝永地震(M8.6)が起きた49日後に発生。1703年には相模トラフが震源の元禄地震が起きていた。噴火は2週間ほど続き現在の静岡県では家が焼けたり、農地に積もった火山灰で深刻な不作に見舞われたりした。降った灰で火口から100キロ離れた江戸でも空が暗くなったとされる。

下方にレストハウスの駐車場が見えて、ここでも急に足が重たくなった。確実に、加齢による体力というか、筋力に衰えを実感した。今回は、直前に腰痛に襲われ、準備不足だったこともあるだろうが、やはり、日々の精進が肝要だ。

 

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富士宮口5合目レストハウス前に到着  10:00

 

帰途、どこかの温泉で湯を浴び昼飯を食って、バスで新宿へ。新宿からJRで東戸塚駅。駅隣接の居酒屋で、日本酒少々飲んで反省会、解散。

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東戸塚の居酒屋で反省会 20:00~21:00