2013年の7月の或る日、横浜のちょっと(鳥渡?)いかがわしいちょっとエッチなエリアに、足を踏み入れた。
男の本能をソソる風変わりなキャッチコピーや、欲望を駆り立てる絵柄の看板が乱立している、そんな地域のことだ。奇妙奇天烈、奇異な街路を、客引きの視線に耐えながら顔を強張らせて歩いた。何故、ヤマオカよ、そんな所に行くことになったんだ、と聞きたがるだろうが、このてん末については、後日詳細に語る機会はあるだろうから、今回は省略させてくださいな。
このようなエッチな街の本家本元の店で、ちょっとエッチな女性店員と和やかな会話をしていたときのことだ。その彼女から、あなたの夢は何ですか? と聞かれた。唐突、突然の予想もしない質問に、一瞬呆気(あっけ)にとられ、彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。
この年になって、このような場所で、このような爆弾質問に遭うとは。
この質問には、正直面食らった。彼女は、仕事で接した全ての相手にこのような質問をするのが常なのだろうか? それとも、この変ちょこりんな初老の男にこそ、聞いてみたいと思ったのだろうか。彼女にも夢があって、私にその夢のことを聞いて欲しかったのだろうか。
実は、この夢って奴が、昨今、私の世界から縁遠いものになりかけていた。
かって数多(あまた)の夢への妄執に駆(か)られ、夢をむしゃぶり食って、夢見ることだけをエネルギー源として生きてきた私だ。だが、この20年間のとりわけ5年間は、弊社は経済不況の荒波にもまれ、食うや食わず、着の身着のまま、「夢」などを語る余裕はなかった。
だが、正直に言おう。
半年前に、恥ずかしくなるほど立派な夢が私の心の隅っこに発芽したのだ。最初、ほんの思いつきだった。経営責任者の中さんとの冗談から駒、そして、本気になった。この幼芽こそ蕾にまで育ててみたくなった。
日常的な仕事においては、これからの10年はきちんと働くこと、会社に一所懸命に貢献すること。とりわけ経営責任者の中さんのヘルプに徹して、パラディスハウスを横浜一の先鋭的な会社に仕上げること。私の前に彼女がいることも忘れて、そんな想いを趣(おもむ)くままに巡らせていた。
暫くして、ちょっとエッチな店の彼女は、ネエ、お客さん聞いてよ、私にも夢があるんですよ、で始まった。えっ、え~、意外な進行にエッチな気分は遠ざかる。
私には高校生になる2人の男の子が居まして、一人は剣道を、もう一人の子はサッカーをしているんです。私の子どもですから、頭はそれほど良くないし、スポーツだってそれほど優秀ではないんです、でも頑張っているんです。この子らが立派な大人になるまでは、女手一つで、できることはできるだけしてやろうと思っているんです。これが私の夢、と言って薄っすら涙を浮かべた。
それから、エッチな店のエッチな店員さんと、エッチな初老の男は子育て談義に火花を散らすことになった。
胸襟を必要以上に拡げてくれた彼女に、私の精神状態は丸裸、白状してしまった。私の夢を告白させられてしまった。この手の話は、手を抜くことはできない、、、、かくして、持ち時間のほとんどを費やしてしまった。
40年前に卒業した学校のサッカークラブに何かをプレゼントしたくなったこと。そのようなことで、サッカークラブに恩返しをするのが私の夢だと、言ってしまった。
今から45年前、1968年、私が二十歳の時のことだ。
当時、ずうっと、長い間、日本一強かった大学のサッカー部が、運動能力の乏しい私を「可能性のない男として淘汰しなかった」ことに対する感謝だ。何かをプレゼントして恩返しをすることを「夢」として思いついたのだ。私は入学、入部したグラウンドで、社会人になるための体力、気力、糞力に胆力、勇気など、素養を身につけることができた、このことにも感謝したい。
この恩返しを、半年後に着手して3、4年かけて実現したい。この詳細は夢を着手した暁に報告することにしよう。楽しみにしてください。