2012年4月15日日曜日

桜は、咲いて散った

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私が住んでいる安アパートの真裏に、上の写真のような大きな桜が数本ある小さな公園がある。休日に時々、その公園のベンチで、本や新聞、雑誌を読んで、午後ならビールか焼酎のお湯割りを、午前ならコーヒーを片手に時間を過ごす、私のお気に入りの場所だ。夏には上半身裸で、冬には使い捨てカイロを腹の後ろに忍ばせて。

20120412の木曜日、20:00、おでんの入ったユキヒラ鍋、とり皿、からし、お箸、そして缶ビールを、この公園のベンチに並べた。まだ花のツボミもあった。小さな葉の幼芽も出ていた。花冷えに冷えたビール。2週間ほど前のこと、高知で桜の開花があったと聞いて、桜前線はよちよち歩きの幼児の足取り並み、時速2~3キロで北上するので、まだまだと思っていたら、入学式の4月10日前後、一気に咲き出した。

一気に咲き出すのが桜だ。

そして、13日夜に雨が降って、散り始めた。そして翌日14日には花びらが吹雪になって散っていた。欧米では、咲き誇る盛りを大いに愛でる、が日本では咲き始めや散り際にこそ感慨を深める傾向がある。

一気に散るのも桜だ。

たまたま、この時期に私の心情は、メランコリーだった。昨年201101に私の身の上に経済的ショックが発生した。それから、2度目の桜だ。静かに大人しく粛々と生きてきた。それでも、桜の花は咲いて、散る。ただそれだけのことなのに、今年の私は異常に心が揺れた。無常観と言う奴にだ。

先日、このブログで書いたことを思い出した。劇作家の山崎正和さんが、東日本大震災について過去の震災との文化的な違いを、朝日新聞の記者とのインタービュで語っていた記事を抜粋してまとめた。そこでは、山崎氏が無常観のことを、鴨長明の「方丈記」を材に次のように語っていた。方丈記は鎌倉時代の、大火や飢饉、震災などを扱ったもので、吉田兼好の「徒然草」と並んで評される随筆だ。

人間と言うのは実に弱いものだという自覚。無常観に執着するのは仏の教えに反するので、執着してはいけない。日本人には、無常観を抱きつつ積極的に生きようとする不思議な伝統がある。

そんな文章を思い出しながら、散る桜吹雪をアパートの通路から眺めた。勿論、焼酎のお湯割りを片手に。15日、今日の公園は、散った桜の花が白いジュータンを広げたように真っ白になった。

明日は16日の月曜日。朝8:30から営業部の定例の打ち合わせだ。今月も半分は終わってしまった。

慎み深く、強く生きることだ。