2011年9月10日土曜日

ウェスカーの「シャイロック」

シャイロックは 心優しい老人

      人肉1ポンドの証文は ジョーク

          シェイクスピアもびっくり!

「ヴェニスの商人」 ルネッサンス

これ、チラシ広告の文章です。

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0909 懸命に働いているスタッフを尻目に、私は早い目に仕事を終えて、練馬のブレヒトの芝居小屋に向かった。竹さんの車で、天王町を17:00スタート。

私は、過去色々あって招待されているのだが、私一人お邪魔しても、劇団にとって経済的(売上げ)には寄与したことにはならない。そんなわけで、前もって友人・アさんと行くことになっていたのだが、急遽、切迫した事情が発生したために、欠席。娘婿の竹さんに声を掛けたら、偶然にも休日なので、喜んで行きますということになった。

「文学作品やサカイに気合を入れて行こうや」、「そうですか、僕、寝ちゃうかもしれませんよ、構いませんか」、「ええよ、眠たくなるちゅうことは、作品の出来が悪いちゅうことやサカイに、気にせんでもええよ」。車中、こんな会話をしながら、芝居小屋に向かった。竹さんと一緒なら、車の運転は竹ちゃん、私はビールの1杯や2杯は飲むことができて、彼の同伴は私にとって、とっても有り難いと思いきや、やっぱり、阿吽(あうん)の呼吸じゃ。車の中には、ポケットウイスキーがちゃんと用意してくれていた。

劇団代表の入江洋佑氏・父と龍太氏・息子に会える。もう一人の代表者で、元気な志賀澤子さんにも会える。心は弾む。東京演劇アンサンブルのHPでは、本日の入場券は完売とあった。嬉しい限りだ。第三京浜を時速100キロで走り、環八の混雑を抜けて、青梅街道から西武新宿線・武蔵関駅を横に見て、新青梅街道ーーー、芝居小屋は間もなくだ。

18:50 開幕10分前に着いた。入江洋佑氏は相変わらず総合受付をしていた。いつまでも元気でいて欲しいと思う。

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入江洋佑氏、入江龍太氏と私

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 志賀澤子氏、氏の友人と私

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題名=「シャイロック」

20110909  19:00~終わったのが22時前だった。

東京演劇アンサンブル公演

ブレヒトの芝居小屋

アーノルド・ウェスカー・作  竹中昌宏・訳  入江洋佑・演出  林光・音楽

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(20110910)

頂いたプログラムの中から、訳者の竹中昌宏氏の文章を活用させてもらって、ストーリーを掻い摘んでおくことにしよう。

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芝居の前半は、台詞が嵐のように飛び交い、内容が余り理解できなかった。難しいなあ、と竹さんと苦笑い。

1976年の初演以来、10回の改稿を重ねてきたアーノルド・ウェスカーの最新版「シャイロック」の日本初演。ユダヤ人であるウェスカーによる「ヴェニスの商人」のアダプトだ。 アダピト、この業界では、このような言い方をするようだ。

金貸しで本の蒐集(しゅうしゅう)家であるシャイロックは、ヴェニスの商人アントウニオウの親友として登場。このシャイロックこそが、芝居の題名にもなっている主人公だ。

バサーニオウは、計算高く、ずる賢い。恐ろしい男だ。力とは、経済から生まれることを疑わず、広大な地所ではあるが今は廃墟となってしまった資産をを持つ貴族の娘・ポーシャにプロポーズする。これからは、貿易に直接携わるのではなく、金融だと先見の明がある。このプロポーズするための資金の調達に苦慮している。

バサーニオウは商人である友人のアントウニオウに資金を融通して欲しいと頼むが、アントウニオウは全財産を貿易船に投じていて、融通することができないが、シャイロックからの借り入れの保証人になると言って、安心させる。

結果、ユダヤ人のシャイロックから、バサーニオウが借金することになるが、シャイロックはアントウニオウの「胸の肉1ポンド」を担保とする証文を書かせた。「ほんの陽気な冗談」としてと言うが、本当はそうでもなかったのだ。

シャイロックはアントウニオウについて、このように言っているーーーーー

「あいつはごますり収税吏そっくりだ。 おれはあいつが嫌いだ。 キリスト教徒だからな。 もっと気に入らないのは、妙に仏心を出しやがって、ただで金を貸しやがる。 それで、このヴェニスで、われわれの金利を下げやがるのだ。  あいつの弱みを捕まえたら、つもる恨みを晴らしてやる。」                                                                                                                                                  

ところが、アントウニオウの全財産を積んだ船が遭難し、アントウニオウは破産する。

一方で、父を知的俗物と嫌うシャイロックの娘・ジェシカは、バサーニオウの友人・ロレンゾウと駆け落ちする。

シャイロックの要求を聞くための法廷が開かれる。

その法廷に、バサーニオウの婚約者・ポーシャが男装で出廷し、借金の十倍でも支払う用意があるので、証文を破棄するように申し出る。が、シャイロックは拒否し、アントウニオウの肉1ポンドを要求する。男装で出廷したというが、私には確認できなかった。

ポーシャはシャイロックが要求に固執するならどういう結果になるかよく知っているが、警告はせずに、慈善的な訴えを行い、慈悲を与え、正義を和らげるようにシャイロックに要求する。

それは、このポーシャの台詞からーーーー。

「慈悲は強制されるべきでものではない。 恵みの雨が降るように、この大地に降り注ぐものだ。 慈悲の喜びは倍となる。 慈悲を与える者は祝福され、慈悲を与えられた者も祝福されるからだ。」                                                                                                                                                     

このように慈悲を与えるべきだと、ポーシャはシャイロックに訴えるが、シャイロックは無視して、ナイフを手に取る。

その瞬間、ポーシャはシャイロックを制止し、「待て、証文は肉1ポンドのみを要求している。それ以上でも、それ以下でもない、血は一滴も流してはならない!」と。

シャイロックは、ポーシャの言葉を理解するや、拒否した金額を渡すように改めて要求したが、遅すぎた。

シャイロックは元金を取り戻せないだけでなく、財産の半分は国家に没収され、残りの半分はジェシカを「盗んだ」ロレンゾウに与えなければならない。ここが、私にはよく分らなかった。

そして、「慈悲は強制されるべきものではない」ということを示すために、キリスト教徒に改宗するという条件で、シャイロックの命は救われる。

この芝居の最後の最後にきて、キリスト教だとか、ユダヤ教だとかに、アレッと思った。シェクスピアが反ユダヤ主義を意図していたわけではないだろうが、結果として、この劇は反ユダヤ主義になっている。この辺りが、私らには、まだまだこの芝居の理解が足りないところだろうか。

ウェスカーは、シェクスピアの名作「ヴェニスの商人」を借りて、反ユダヤ社会を曝(さら)け出そうとしたのだろう。

訳者の竹中昌宏氏は、このような文章を付け加えている。

肉1ポンドを切り取れないとポーシャが宣言した時、私の知っているユダヤ人なら、髪の毛を逆立て、怒り狂ったりしないで、人の命を奪うことになる重荷から解放されて「神に感謝!」と叫んだであろうと私は考えました、とある。

私は、視点を元のシェクスピアの「ヴェニスの商人」に戻して、読み返そうと思っている。

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「ウェスカーのエネルギー」

                            入江洋祐

幕が開く。シャイロックが親友アントウニオウに熱く語る。愛する本について、ユダヤ人が発明した神について。人間の叡智が何千年の時間を経て甦り泉のようにあふれ出て新しい世界を作ることを。その言葉は果てしなく魅力的だ。えーっ、シャイロックが(親友)アントウニオウと、、、。誰もがそう思われるに違いない。それがこの芝居を書いたウェスカーの狙いでもあるようだ。

「ベニスの商人」のシャイロックといえば、意地悪で、欲張りで、残酷なユダヤ人の高利貸し。世界中の人がそう思っている。中にはユダヤ人だから残酷なんだと民族性にまで置き換え、差別の正当性を主張する国も、人もいる。少し前のナチスのように。その意味では400年にわたって全世界で上演された「ベニスの商人」はユダヤ人差別を助長したといえるだろう。しかし、シェイクスピアがこの芝居を書いた1596年頃、イギリスでは、ユダヤ人によるエリザベス女王暗殺の計画があり(デッチアゲだったという説もある」社会的感情の波はユダヤ人排斥に大きく傾いていった。その興奮の波が冷え切らないうちに大当たりを狙って、「ベニスの商人」を書き、見事に大当たりを取ったということだ。これもまた時代の要請だったのだ。

ハンガリー系ユダヤ人であるウェスカーがシェイクスピアの名作喜劇の屋台を借りてユダヤ人差別を裏側から照射してみようと試みたのが、この10回にわたって改稿を繰り返した「シャイロック」なのだ。しかし、プロット、登場人物はそのままで、シャイロックを学問好きの心優しい老人、肉1ポンドの証文は親友アントウニオウと話し合いの上で、ヴェニスの不当な法律をからかってやろうという冗談なのだという話を成立させるのは大変な力技だ。悪戦苦闘している。そのジタバタが稽古している時身に沁みて嬉しい。そこにいかにもウエスカーらしいエネルギーが満ちているからだ。でも結末はひどく暗い。イギリス=現代社会、恐れる若者たちがいま全く保守的に変質してしまったことへの「絶望」なのだろうか。しかし、ウエスカーは、この戯曲「シャイロック」の冒頭にポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの言葉を掲げている。

「絶望という言葉を私は使いたくない。この言葉は私のものではなく、委託されて預かっている言葉に過ぎない」。

最後に差別されている人の心の悲鳴を、いやウェスカーの怒りの声を、この戯曲の中から紹介しよう。少し長くなるが。

「わたしの目が悲しげなのはひどく憎まれてしまうのをわたしたちが知っているからなの。わたしたちがいるだけで毒が発生し、白痴のような振る舞い、信じがたい人間の堕落が生じるの。だから、わたしたちはいつも恐れと非難と恐怖の混じった目で他人を見るの」。シャイロックの娘、大切に愛されて育ったジェシカがある時に呟いた言葉だ。

 追伸  でもステキな、未来社会をつくるだろうステキな4人の女性が登場します。乞う御期待。

(20110724) 

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ヴェネツィアゲットーについてーーー

1516年ヴェネツィア共和国にゲットー(ユダヤ人居留地区)が設けられた。ユダヤ人がいることによって、もたらされる利益(重いユダヤ人特別税、運河の維持費など)を最大限に確保する一方で、ユダヤ人と外界の接触を最小限に抑えるのが目的であった。ユダヤ人は日中だけゲットーを出て商売を行なうことを許されたが、夜は事実上ゲットーに閉じ込められた。外出の際は一目でユダヤ人とわかるように黄色い帽子の着用が義務付けられた。