毎朝の散歩の楽しみの一つは、路傍の野花を摘むことだ。今朝はムラサキツユクサの花を摘んで机の上の花瓶に挿した。
一年のうち早春の候は百花繚乱、野草から畑の作物まで、色んな花が咲き出し、寒い冬を越えてきた気楽さもあって、散歩は格別に楽しい。そして夏が過ぎ、今、昼間の気温こそ真夏並みだけれど、朝夕には秋が忍び寄る。朝の明けるのが少し遅くなった。私が今住んでいる泉区弥生台の家の周りには、1ヶ月前まではユリの花があっちこっちに咲いていた。神奈川県の県花だ。当然、失敬して、私の机の上にも咲いていた。でも、昨日までは、韮(ニラ)の花だった。相模鉄道が都市開発を手がけるまでは、この周辺はユリの群生があったのだろう。
だが、今の時季、路傍や畑に花が少ない。私の机の花瓶に、常に何らかの花を挿して楽しんでいるが、この2ヶ月は寂しい限りだ。そりゃ、花屋さんに行けば、満足以上の花が手に入るのでしょうが、田舎育ちの私はそんな下種(げす)なことはできない。外国からの輸入物などには、特別馴染めない。私の感性は、大和の国の和そのものらしい。やはり、畑も同様で秋にかけて収穫期に入った作物が多く、花モノは少ない。端境期なのだろうか、作物の植えていない露地のままの畑が目立つ。見える野菜はキャベツ、薩摩芋(サツマイモ)、蒟蒻(コンニャク)、牛蒡(ゴボウ)、人参らだ。
畑の隅っこに韮(ニラ)の花が咲いていた。白い小さな花が集まって、テニスボール並みの大きさには驚かされた。私の家のベランダの韮とは、えらい違いだ。
ニラの花
今日20110916、ゴミ出しに家を出たら、刈り揃えられたツツジの垣根から、にょきっと顔を突き出しているムラサキツユクサの面々に、ニンマリした。懐かしいのだ。このように、並みの規範から突き出している奴には、親近感が湧くのだ。ムラサキツユクサを見て、頭の思考回路は、郷里で過ごした日々のあれやこれやにスウィッチ・オン。この草は、百姓にとっては格別な草なのだ。
ムラサキツユクサの花
はっきり言って、この草は百姓には嫌(きら)われモノのなのだ。
私の生家は米と茶を作る生産農家。雑草は、作物の養分を横取りする。稲田の除草には除草剤や、除草する機械があるが、茶や野菜を育てる畑の除草は、広い範囲に除草剤を撒くわけにはいかないし、草1本づつを引き抜くこともできない。腰を折り曲げての作業は過酷過ぎるのだ。
百姓には百姓の知恵がある。どこの農家にも三日月形の鍬があって、広い部分の刃で草の茎を切って枯らす。これが百姓の除草方法だ。長い柄の鍬なら、腰を伸ばした状態で楽に作業が出来る。
一般的に、雑草の茎を切っただけで、そのまま放置しておけば、草は日照りを受けて枯れる。普通、植物は水分がないと生きられない。枯れた草は、そのうち土に化すのだろう。ところが、このムラサキツユクサだけは、茎を切っても、切っても、そう簡単には枯れない。切って放置して置くと、その切り離された茎ごとに、乾燥した地面に向かって新たな根を延ばす。そして乾いた接地部分でも根づくことができる。
いつ雨が降るかわからない、そんな異常な干天続きでも、ひたすら体力を維持しながら、雨が降るのをじっと待っている。そして、恵みの雨でも降ろうものなら、その時こそ、一気に根から水分を吸収するのだろう。俄然、元気になった彼は、今度は攻勢に出るのです、一気に繁茂する。そんなことで、父がこの草を見つけたときは、畑から遠くの原っぱに捨てに行くのだった。
こんなことを、思い出しながら机の上のムラサキツユクサを見ている 20110916。
20110917 朝、花瓶を見ると、昨日まで咲いていた紫の花は散って、8個ほどの花の蕾が大きく膨らんでいた。
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20110920
アパートの周りのユリの茎は相変わらず、にょきっと突き出してその存在は目立つ。
ユリの実
先っちょの花はすっかり落ちて、そこには実がなっている。もう少し熟せば、中身を確認しよう。食い意地の張った私は、実は根っこに関心がある。確か、ユリ根は高級な食材だ。でも、このユリの根がかって関内の「一福」で、お吸い物でいただいたものと同じなのだろうか。その味は上品だった。1本は引き抜いて、確かめなくてはイカン、、、、、、すまん!なあ
今朝は、机の上の花瓶のムラサキツユクサの花に、白い韮の花を添えた。
そして、夕刻に百日紅(さるすべり)の紅の花も加えた。