池田勇人首相の時には、その候補地は転々として定まらず、佐藤栄作内閣時代の1966年、千葉県成田市三里塚に新東京国際空港を建設することに閣議決定した。これが最終案だった。
それから約10年後の1978年5月にようやく開港した。この間、1970年に土地収用法に基づく強制収用代執行まで、農地を空港用地として買収を求められた農民たちは、三里塚空港反対同盟を結成して、政府・県・空港公団と血みどろの闘いを繰り広げた。反対する農民団体は、老人決死隊、婦人・少年行動隊を結成、反代々木系の全学連と共闘した。
私の高校生から2年間の受験素浪人時代、大学の4年間はまさしく成田で激しい闘争が繰り広げられていた。新聞やテレビで連日報道されていた。私の青春真っ最中のこと、思想的に強く影響を受けた。
私は貧乏百姓の小倅(こせがれ)、農民たちの苦しみが痛いほど理解した。これほどまでに、農民を虐めてまでも開港しなければならない理屈が解らなかった。国家のなす横暴だと断定した。
そして、現在2013の5月、今度は私のささやかな農地闘争が始まっている。
突然、我が家に不動産屋さんが訪問してきた。私が横浜・保土ヶ谷で現在果樹園にしている土地を購入したいと希望している人から依頼を受けてやってきたのです、と挨拶があった。家人が応対した。
この土地は、元々弊社の商品だったが、当初考えていたように役所との折衝が進まず、不良在庫として計上しておくよりも、弊社の貸借対照表の見栄えがよくなると考えて購入した。
そんなこんなで、約15年続いた。
経済的に苦しくなって、この土地の売却をひたすら考えた時期もあった。が、景気はデフレスパイラルに陥る経済状況に突入、売るに売れず、止むを得ず「イーハトーブ果樹園」として植樹を始めた。植えたものの、仕事の合間にちょこっと面倒をみる程度に足を運んでいた。
そして3年前、私が本格的に厳しい経済危機に瀕した時に、今なすべきは、現金化だと家族総勢でこの土地の売却を進められた。家族と私は激しく対立した。目先の現金に手を差し伸べるか、果実や野菜が將來に亘って絶えることなく収穫できる方を選ぶのか、大層に考えればそういうことだ。自ら栽培する喜び、安心して食える幸せを重視したかった。
それでも、換金したい気持ちは口には出さぬが、常々腹の底では持っていた。が、ハイ、どうぞと売りましょ、とは割り切れなかった。悶々としていたのだ。1年前、10ヶ月前までなら、執拗に頼まれば、値段次第では売ることに同意したかもしれない。それほど、私の決意は緩んでいた。
昨年の夏に貧しい野菜の収穫を終えてから、一念発起、心機一転、会社の定休日の水曜日の昼間の2、3時間はこの果樹園で土壌改良作業に汗を流した。元々この土地は粘土質で、それに住宅の敷地だったので、野菜作りには全然適さないものだった。石ころが、ゴロゴロ出てきて、目に留まったものは全て畑の外に捨てた。捨てた石は小さな山になった。果樹と果樹の隙間に深くスコップの先を刺し、粘土層を壊し砕き、表層の普通の土と混ぜた。牛糞、鶏糞に落ち葉を加えた。米ぬかも入れた。その土壌を鍬で反転、何度も耕した。
このように土壌改良した畑に、この春、幾種類もの野菜の、苗を移植し種を蒔き芋を埋めた。その野菜たちが、この陽気につられて、茎を伸ばし葉を広げている。野菜たちの育ちぶりや、果樹の花が散って小さな実が少しづつ大きくなっていくのを見るのは、実に晴れ晴れ、気持ちの好いもんだ。
今日20130515も、イーハトーブに行ってきた。隣の奥さんに梨の木に黄色い大きな虫が繁殖していることを指摘され、ここ1ヶ月はすっかり野菜に気を取られて、果樹の枝を見上げなかったことを反省、2センチ程の虫を50匹ほど地面に落としてゴム長靴で踏み潰した。
成田・三里塚の闘争に較べれば、貴方の野良仕事は遊戯?だよ、と侮(あなど)るなかれ。荒地を耕せば耕すほどに、果樹を植えれば植えるほどに、野菜を作れば作るほどに、執着する心情は強まる。
私の誇り高い「イーハトーブ果樹園」だ、今は狭くて貧しい土地だが、豊饒な農地にしてみせる。どんなことがあっても、手放すものか。