2013年5月6日月曜日

フランシス・べーコン

 

20130429の日経新聞の特集を観て、吃驚した。

日経新聞の芸術、文化、娯楽を扱う記事は面白い。政治経済の深耕した記事にはちょっと緊張して疲れるが、こっち方面の記事は、心のオアシス、心の潤い、取り上げるスタッフたちの懐の深さに感心している。私を愉快にさせる題材を欠かさない。

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「叫ぶ教皇の頭部のための習作」

 

この絵画は何だ!! 新聞を手に、俺が発した声は悲鳴のように聞こえたかもしれない。新聞を握る指に力が入る。興奮して立ち上がる勢いで、テーブルのコーヒーカップがひっくり返りそうになった。私はこの画家のことを今日まで知らなかったし、このような絵画も初めて観た。

「フランシス・ベーコン展 その見どころは」とタイトルがついた記事で、彼の絵を美術評論家の勅使河原純さんが解説している。「人間」を描き続け、ピカソと並び20世紀を代表する画家に挙げられるらしい。それにしても勅使河原氏の評論も凄いなあと感心させられた。

以下は勅使河原氏が書いた文章そのままだ。

フランシス・ベーコンは、ピカソと並び称されるほど有名な20世紀の画家である。恐らく彼の絵が、ピカソに負けず劣らず風変わりだったからだろう。ピカソが伝統的な絵画の破壊者なら、ベーコンはさしずめ20世紀ならではのリアリズムをつくろうとした人物、といったところか。

現代社会を生きる人なら誰でも、心の奥底にそっと隠し持っている居心地の悪さのようなものを、これでもかといわんばかりに暴いてみせるアーティストとの代表格。様式や流行がめまぐるしく入れ替わった変革の時代にあって、彼のユニークさはしだいに重要さを増し、いまや人々を限りなく惹きつけてやまない。

とりわけベーコンが深い関心を寄せたのは、われわれ自身の身体とその「動き」である。

開催中の「フランシス・ベーコン展」のテーマにも「移りゆく身体」、「捧げられた身体」、「物語らない身体」、「ベーコンに基づく身体」と、体にまつわるたくさんの言葉が登場する。実際の画面を見ても。ベーコンは小さな空間のなかに放り込まれた人物がみせるさまざまな肢体以外に興味のあるものはない、といわんばかりの態度である。

たとえば「叫ぶ教皇の頭部のための習作」という作品では、温厚な老紳士のはずのローマ教皇が突然怒りだし、恐怖、叫びといった暗い感情を露(あら)わにする。引き伸ばされた画像が、時の経過をフリーズさせたようにも見えないだろうか。これは彼の作品がはじめてみせた、いわば20世紀絵画の新しい表現方法かもしれない。

人間の身体を取り囲む「空間」とは一体何だろう。あるいは、人を絵画として定着させる「肖像」の意味とは何なのか?ベーコンの絵画はそうした根源的な問いかけも投げかける。

「空間」という言葉は通常ひろがりを意味し、人間に限りない自由を保障するものである。ところが、ベーコンにとっては、線(鉄柵)やカーテンで仕切られた閉所を意味するかに見える。人々はそのなかですっかり自由を奪われ、わずかにぎごちない動作を繰り返すことが許されている。例えばちょこまか歩くとか、跨ぐ、寝転ぶ、首を振る、腕を振るといった具合。精々のところ、ソファの上をのたうちまわってみせる程度なのである。

 

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「ジョージ・ダイアの三習作」

 

ベーコンは「トリプティック/三幅対」という一風変わった3枚セットの絵画のスタイルを編み出した。キリスト教のエピソードを図説する形式として知られているが、ベーコンのそれは一つのものを同時に三方から眺め、描き表す。しかし、右、中央、左と3つの画面の間に統一像へとつながる何らかの手がかりを見つけ出すのは容易ではない。

「ジョージ・ダイアの三習作」の顔が歪められ、形を失っているのは、決して人間の要望に興味がなかったからではないだろう。愛人だったモデルに深く執着するがゆえに、相手をもっと彼/彼女らしく描こうとした結果とも考えられる。

 

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芸術家の言葉から作品に迫る。

 

(全てデイヴィッド・シルヴェスター著「肉への慈悲」 小林等訳より)

ーー抽象画を描きたいと思ったことがあるかと聞かれて「いえ、描きたかったのは具体的なフォルムです。(中略)人間の姿に近く、かつ徹底的にデフォルメされた有機体のイメージ、という領域です」

「対象をとほうもなく歪めて描きたいのです。ただし、歪めることによってリアルな姿かたちを記録したいということです(中略)私の描き方は非常に作為的なので、モデルが目の前にいると自分のイメージ通りに描きづらいのです」

「現代は、フィルムやカメラやテープレコーダなど、記録する機械があるので、画家はもっと根本的なところまで掘り下げなくてはならないのです。表面的なレベルでの記録は、ほかの手段でもっとうまくできるのですから」

ーートリプティックのカンバス3枚を隙間を開けて展示するのは「ひとつひとつ絵を切り離しているのです。そして、絵と絵のあいだに物語が生じるのを妨げています」

ベーコンは、パリの展覧会でトリプティックが1枚の額縁に入れられ、「絵全体が台なしになる」と怒りの手紙を送ったとも語った。