先日、弊社の中古住宅の商品化のために、私と経営責任者の中さんが、建物の外周りの美装作業をしていて、除草に手を焼くハコベを、昔、祖母が飼料にして鶏を飼っていたとブログに綴った。此の頃の記憶がはっきりしているのは、小学校の3年生の頃からだ。
キーボードを叩きながら、頭の片隅にちらちら彷彿したのが、兄が包丁を振るって、私の心臓がブルった鶏の解体作業だった。
山岡家の「ALWAYS 三丁目の夕陽」だ、昭和の35年前後のこと。
私が生まれて住んでいた山間(やまあい)谷間(たにあい)の村里では、どこの家にも冷蔵庫はなかった。我が家では生物(なまもの)を、氷の大きな塊(かたまり)を箱の中の上部に入れて密閉する遣り方で保存していた。氷で冷やされた空気は、すのこの網目を通って、全体を冷やす。昔は氷屋さんがいた。また、生の魚や肉類は、そう易易(やすやす)と手に入らなかったので、此の程度でまかなえたのだろう。野菜類は、必要な時に必要なだけ、畑に採りに行けばよかった。
我が家のお盆と正月の飛びっ切りの贅沢は、老いた鶏を解体してすき焼きにして食べることだった。お盆には生血を見るようなことは避けるものだが、我が家にはそんな掟(おきて)はなかった。この時の光景を何故、今頃、思い出してこんな稿に認(したた)めようなんて気になったのだろう。
解体をしたのは、一番上の兄だ。当時、兄は中学生だったけれど、この兄は既に中学生にして何もかも自立していた、十分一人前の大人だった。農作業にしても父に負けなかった。兄は農業を営む実家を支える心構えができていたのだろう。
天気の好い日を選んで、めぼしい鶏の首を捕まえて包丁で喉元を切る。苦しくて首を振ってもがくが、強く首を押さえて逆さ吊りにする。流れ出る血を大きな器で受ける。この血は間もなく固くなって、すき焼きにはレバーと同じようにして食った。
鍋で沸かした湯を大きな器に入れて、中に鶏を毛のついたまま浸す。暫くして、鶏を湯から出して、手で毛を毟(むし)り取る。割りと手軽に毛は毟れた。
毟られて裸になった鶏の肌に、手では取れない毛が残っているのを、藁を燃やした火や、コンロの火にかざして焼く。その状態で、ウンコを絞り出した。
これからが、解体作業の本番突入だ。
兄は、特別誰かに解体の遣り方を習ったわけではなく、解らないままに、自分流に勝手に解体していた。何故か、父はこの作業には顔を出さなかった。私は側にいてこれから、それから、どうするの?と尋ねても、判らん、知らんけど、何とかなるやろうと思っているだけや、無茶苦茶や、と言いながら、出刃包丁によるバラシを進めた。アシスタントは祖母で、口出しはしないで兄の手さばきを見守っていた。
縁側に敷いたビニールの上に、兄は解体した鶏の部位を並べた。鳥には歯がなく噛むことができないので消化器系には特徴があること、それに飛ぶためには少しでも体が軽い方が何かと都合がいい、そのためには腸が短いので糞は水分を多く含んでいる、などと解説してくれた。そのう、砂嚢(さのう)、肝臓、心臓、肺を下に書いた程度には説明してくれた
そのう=食べ物を一時的に蓄えるところで、それから前胃に送る。
砂嚢=砂嚢は焼き鳥屋さんで、砂肝をくださいという、あれだ。こりこりしていて美味しい。筋肉質の袋になっていて、鳥が飲み込んだ砂粒が詰まっていて、この砂粒を使って食べ物をすりつぶす。
肝臓=見た目に他の動物と同じ色、形をしている。血の塊のよう。
心臓=哺乳類と同じで2心房2心室。焼き鳥屋で頼む時には、ハツだ。
これらの内臓を包丁で、時には力任せに手で引っ張って、切り離しては解説を加えてくれた。だから、学校で、鳥の体についての勉強があったときには、私は具体的に何もかも知っていた。
卵が産み落とされるまでの何段階もの前の卵がいくつも発生しているのを拡げて見せてくれた。豆のような小さい卵から、明日にでも体から出そうなものまで20個ほどあった。