2013年8月9日金曜日

死にゆく人は青空を見ている

青木新門

作家・青木新門(しんもん)さんの話だ。

死にゆく人は青空を見ている、こんなタイトルの20130807の朝日新聞の記事をこの俺様が見逃すことはない。宮沢賢治が出てくるとあらば、尚更だ。この記事をダイジェストさせてもらった。

青木さんは、経営していた飲食店が倒産して、葬祭業者の社員として遺体を納棺するする仕事に就いた。この体験に元づいた著書・「納棺夫日記」は映画「おくりびと」となって話題になった。

青木さんは、仕事をしながら亡くなった人はどこへ行くのだろうか、と考えるようになり、仏教書の浄土へ行くでは実感がわかない。そんな折、宮沢賢治の「眼にて云う」の詩に出会って、この詩には「臨死体験」のような状況が描かれていて、その詩に魅(ひ)かれたという。

私の蔵書の賢治コーナーには、この詩がなかったが、ネットではいとも簡単に見つけることができた。そして、この詩を何度も詠み返した。

青木さんはこの詩を詠んで、死をいやなもの、きたないものと見なしているのは周りの人であって、死にゆく人が見ている景色は違うんだ、と。死は忌み嫌うものではない。納棺夫は、透き通った風のように死の世界へ行く人のお手伝い。そう確信したら、死者に優しくなれました。堂々と仕事ができるようになったんです。

青木さんは納棺の仕事を終え、亡くなった人を見とったおばあちゃんに、「亡くなるときは、きっと青空を見ておられたのですよ、そして今までのことを、ありがとうと言いながら逝かれた。そう信じてますよ」と話すと、おばあちゃんは、やっとこころが救われましたと話しかけれた、と仰っている。

賢治の視点は生と死の間を自在に行き来する。「永訣(えいけつ)の朝」も、死の現場から生まれた美しい詩です。死を直視しようとしない時代だからこそ、賢治のまなざしが輝いてみえるのだと思います。

(聞き手・磯村健太郎)

「永訣の朝」は、賢治の愛した妹の死に対峙したときの詩だ。

 

 宮沢賢治の画像

眼にて云ふ   宮沢賢治


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草(いぐさ)のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

 

清明=二十四節気の一つ。春分から数えて五日目。太陽暦で四月五日ごろ。

魂魄=(死んだ人の)たましい。霊魂