2013年6月13日木曜日

16日は父の日

16日の「父の日」を前に、20130610、三女から帽子をプレゼントされた。帽子は、私の卒業した学校色(スクールカラー)、大好きなえんじ色だ。差し出された手提げ袋には、他にもポロシャツとドリップバッグコーヒーの袋詰めも入っていた。これは家人が加えてくれたようだ。

私の4人の子どもは、健康に恵まれ立派に社会人として活躍している。我輩は果報者だと勝手に理解しているが、子どもたちは、この俺、この父をどのように思っているのだろうか。いつまで経っても、父親として自信がないんだ。

今日20130613、私は私の父のことを思い出していた。朝日新聞を真似ての私家版、「オヤジの背中」だ。

父の日

父の兄は先の世界大戦で、東南アジアの各地を従軍している間に風土病に罹(かか)って帰国、生家での療養の末に亡くなった。老いた母(私にとって祖母)と女房(私の母)の手を借りて農業を営み、私たち子ども3人を育ててくれた。我が家の耕作面積は狭過ぎて貧しかった。負けん気の強い、頑張り屋の父は少しは豊かになるように、なんとか一家を盛り上げた。

戦争で、耕作人を失った荒れ放題の農地を農業を専業にする従事者が取得しやすいように、国策で作った金融機関が、希望する農家に購入資金を融資した。父が亡くなって、金庫代わりにしていた木箱をひっくり返した時に、金融機関と交わした金銭消費貸借の契約書がいくつも出てきて、兄と共に驚いた。借金をして農地を倍以上の広さにした。母も野良仕事は男勝りに、家事も頑張った。百姓仕事に戦う一家だった。

そんな父は、自分の息子(長男)だけには農家を継いでもらいたくて特別な育て方をしたが、次男と三男の私には、何も、一切、口出ししなかった。ものの見事に、これほど、自分の子どもにああだこうだと言わない両親を、他では見たことがない。

小学校、中学校の通信簿を見ても、にっこり笑うだけでコメントはなかった。母は授業参観には来たことがなかった。小学の4年生頃からは、授業参観の案内を母に渡さないようにしていた。高校に進学するの?しないの?と聞かれたことがない。先生からは希望する学校のお墨付きをもらっていたが、不合格だったときのために、大阪に店を出す予定をしていた茶問屋の社長に、すべった時には雇ってくれるように話をつけておいた。母はその時のために夜なべで布団を縫っていた。

どこの大学も受からなくて、ここはドカタで学資稼ぎと決め込んで、勉強そっちのけで肉体労働に精進、そして酒に溺れても、何も言わなかった。ただ母は、私が勉強部屋で本を開くこともなく、酔いどれて、「俺は河原の ♭ 枯れススキ ♯」と歌った時は、窓の外から、タモツ、その歌はやめてくれと言ったぐらいだ。

日大と東大、京大は知っていたが、私が入った学校のことは知らなかった。大学でサッカー選手権(インカレ)で優勝した時も、たまには、喜ばせてやろうと電話したのに、何の反応もなかった。そんなことはどうでもよかったのだろう。

学校を卒業して入社した会社のことも、結婚すると連絡しても、そうやな奥さんになる人の親御さんに挨拶に行かなアカンなア。どこで何をしようが、誰と結婚しようが、自分たちには全然関係ないと思っているようだった。

そんな父だったが、父のお通夜の席で、従兄弟から、タモツの子どもはみんなエエ子や、それに、タモツに連れて行ってもらったオーストラリアとニュージーランドの旅は楽しかったと言うてたで、と聞いたときはよかったと思った。