20130602 朝日・朝刊 いずれの写真も宍戸大裕
上=飼い主が避難し、取り残されたところを保護された犬
下=死骸に囲まれる牛舎で、牛が涙を流していた
東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故で、福島県の警戒区域に置き去りにされたペットや家畜の過酷な実態を直視したドキュメンタリー映画「犬と猫と人間と2 動物たちの大震災」の紹介の記事が、20130602の朝日・朝刊、社会面にあった。
映画は、死骸と糞尿の悪臭が充満する牛舎で涙を流す牛、つながれたまま息絶えた犬の様子が映し出されていると説明、目を覆わんばかりの光景が人間の重い責任を問いかけている。
この記事を読んで、牛の涙についての子供の頃の辛い思い出が蘇ってきた。私も黄葉、黄昏時(たそがれどき)、昔のことが何かと思い出すようになった。
私の生家は茶と米を主とした専業農家だった。田畑を耕作するのに、今のように機械化はされておらず、牛が鋤(すき)を引いた。牛は過酷な労務の主役、家族はその労務に感謝して大切に扱った。
牛には田畑での労務の他にもう一つの仕事があった。それは仔牛を生むことだ。生まれた仔牛を半年間育てて、馬喰(ばくろう)に売った金は我が家の貴重な現金収入になった。私が子どもの頃の昭和30年代の初め、何故か成牛でも仔牛でも値段が変わらなかったのが、当時不思議に思えた、7~8万円だった。父が、仔牛が雌だったときは異常に喜ぶのが可笑しかった。雄は子が生めないからか?
出産して暫く経ってから、再び獣医による人工授精が行われる。今でこそ、それが人工授精だと分かるのだが、当時はよく解らなかった。大人は種付けと呼んでいた。こんな現場に立ち会っていたから、獣医が行う妊娠判定の仕方を知っている。この稿では、こっちの方に話を逸れていくわけにはいかない。個人的にお聞きください、詳しくお話できます。
半年間程育てた仔牛が馬喰に売られていった、それからの数日、親牛は大きな目から大粒の涙を流し続けた。漆黒の瞳が潤んで、涙が目蓋(まぶた)から溢れ頬に垂れていた。牛小屋の奥から、どこまでも聞こえそうな大きな声で、飼い主を批判するかのように泣き続けた。子を案じる親のその声音(こわね)が何とも言えないほど切ないのだ。私も一緒に泣きたくなる。日が暮れ、夜を迎えるのが怖かった。
家族は誰も仔牛のことに触れようとせず、何もなかったようにやり過ごす。普段通りに、風呂に入って、晩飯を食って、一部屋に集まって、ラジオを聞き新聞を読む。父と母は翌日の野良仕事の話をしている。私は祖母にいつものように学校での出来事を話した。兄たちは勉強をしていた。
一人ひとり次々に部屋に消え、寝静まっても、牛小屋からの泣き声は止(や)まない。寝付きのいい私でも、夜半過ぎまでは寝付けなかった。明朝、まどろみから目覚める、衰えのない大きな泣き声が耳に入ってくる。一緒に寝ていた祖母に、一晩中泣いていたよ、と聞かされる。
家族みんなが揃った朝飯時に、牛が泣いていたことを話すと、全員、一晩中泣き声を聞いていたと言った。気にしていたのだ。当番の私が、牛小屋に飼葉(かいば)を持って行っても、桶に顔を突っ込もうとしない。食おうとしないで外を直視していた。