2012年7月31日火曜日

ネコって、猫からきてるの?

ヤマオカさん、明日20120726、11:00に泉区中田の東さんの現場に応援にきてくれませんか、と同僚の桜から要請を受けた。

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「ネコ」と言われている、手押し車。

 

その1

コンクリートの打設をする予定なんですが、人手が足りないので、応援して欲しいということらしいので、喜んで参加しましょ、勢いよくイイヨっと応諾した。

東さんの家は、私の友人の農婦の自宅のすぐ近所にある。農婦の家の外壁塗装を弊社で受注して、その打ち合わせの中で、近所で庭のブロックフェンスを作り直したがっている人がいるんだけどと言われ、担当者の桜は何もかもが縁ですから喜んでお請けしたいので是非紹介してくださいとお願いした。

東さんは、仲良くしている農婦がそこまで信用している会社なら、きっと信用できる会社だろうと判断して、お願いするわということになった。

前夜、風呂に入って焼酎飲んで、翌日の私の担当することになる仕事をイメージして、ニンマリ、自然に顔が緩んだ。

明日、ミキサーカー(トラックミキサー)の荷降ろし用の樋(とい)から、コンクリートをネコに流し込んでもらい、そして型枠の組んだところへネコを押して行く。ネコの先を下に、ハンドルを高めて型枠の中にコンクリートを流し込む。太陽の日差しがガンガン差す。額には汗が溢れ、タオルが汗でびっしょり。型枠の中に入れたコンクリートを棒で突っついて、コンクリートが空(す)き間のないように隅々までいきわたるようにする。このような作業で、私は十分楽しいのだ。

そんなことに思いを巡らしながら、氷を浮かした水割り焼酎を何杯も飲んだ。

だが、翌日の11:00には、工事の準備が遅れて私の出番はなかった。ショック。現場に駆けつけて、焦る担当の桜にそんなに無理すること無いよと声を掛けて、ミキサーカーの到着時間を15:00に遅らせた。

東さんが冷たいお茶を、農婦さんから頂いた西瓜なのよ、と煎餅と合わせて出してくれた。私は、農婦さんの友人で、会社が休みの水曜日の午後に少しだけ野良仕事を手伝っているんですと話した。生家が百姓だったので、彼女の仕事の手伝いで土を掘り起こしたり、野菜を見つめていると心が休まるのだ。

私の前夜の白昼夢ならぬ夕べの夢は、儚く現実化しなかった。

私は久しぶりにネコに触れて、使いこなしたかった。ネコだけではない、スコップやツルハシだって、鍬や鎌だって、本物のドカタや百姓さん以外なら誰にも負けないほど使い慣らしていた。そんな道具類に囲まれてみたかった。大学に入るまでの2年間のうち、3月から8月末までの半年間を2回、それは本物のドカタだった。日当だって、学生アルバイト並みではなく、オジサンたちと同額を頂いていた。

お茶を頂いて、寛ぎながら雑談をしていてら、何故、あの手押し車のことをネコと呼ぶのだろうか、と話題になった。今まで、何度もこんな機会に巡り合ったけれど、誰からも呼称の由来を聞かされたことがない。ドカタ時代には、疑問を本気で調べる余裕はなかった。今なら、何だってネットで手っ取り早く調べられる。

お茶を頂いて現場を離れて、違う現場に向かった。

 

その2

そうだなあ、そんなことも知らないで死ぬわけにはいかないなあ。早速、会社に戻ってネットで調べてみたら、私と同じ疑問をもつ人は、この世にちゃんと居た。検索して、ネットの問答編を見た。

色んな返答を読んでみたが、答えはこれしかないと言い切る人はいなかった。それでも、正解に近いと思われるような、幾つかのアンサーをここにまとめて、それなりに納得することにした。

語源は未詳だからこそ、興味は果てしない。

1,工事現場などでよく見かける幅の狭い木の板の通路を「ねこの足場」と呼び、その通路をヒョイヒョイと移動するのを、猫が塀や屋根の上などを歩くことに例えて、ネコと呼んだ。

英語でも、狭い通路のことを CAT WALKと言うらしい。

2,この手押し車を、仕事を終えると中の汚れを洗い落として逆さまにひっくり返しておく様子が、丸まって寝ている猫の後ろ姿に似ていることから、そう呼ばれた。

3,奈良時代には、刀剣の材料になる良質な砂鉄のことをネコと言った。山から採れる鉄鉱石もネコと言われ、それらを運ぶことからネコ車になった。

2012年7月29日日曜日

夜と霧

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弊社の経営責任者の中さんの父親が老人ホームに入るのに、持っていけない荷物を弊社で預かることにした。沢山のクラシック音楽のCD、ビデオ、本の山の中にこの本、「夜と霧」があった。

この本を中さんの了解を得て、自宅に持ち帰り自分の机の上の本棚に立てたままにしてあった。いつ手をつけようかと思いながら、読みあぐねていた。内容が重いこともあって、直ぐに読書に取り掛かれない。手っ取り早い本をついつい優先的に読んで、この本を読むのが億劫になっていた。

大学時代、余りにもあっさり、飛ばし読みしたことを後悔、いつかはじっくり読まなくてはイカンと思っていた。当時の私は、読書量をそれなりにこなして、それで満足していた。昨今は、商売にうつつを抜かしている。そんな私に、突然目の前に「夜と霧」が再び現れたのだ。視線は点に、やはり手元に置いておきたくなって、中さんにおねだりをした。

そして、状況が変わらないまま、約1年が過ぎた。

今、7月が終ろうとして、8月が近づいてきた。1945、8、15、戦争は終った。毎年、終戦記念日が近づいてくると、戦争に関しての様々な企画が開催される。私にも胸騒ぎが始まりかけていた。そんな心中(しんちゅう)に炎の点いた矢が刺さった。その矢とは、日経新聞20120721の「春秋」の「夜と霧」を題材にした文章だ。後の方に、そのまま転載させてもらった。

春秋を読んではじかれたように、やっと、私はこの本の再読を始めた。40余年ぶりだ。

この本「夜と霧」の著者はV.E.フランクル。霜山徳爾訳、発行はみすず書房。原題は、「強制収容所における一心理学者の体験」だ。この本はフランクル教授が自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還した実体験の記録である。

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アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所の有名な「死の門」。囚人列車はこの門より中に引き入れられ、ガスかまどに向かう。

 

1941年12月6日にヒトラーが発した「夜と霧」特別命令は、非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裡に捕縛して強制収容所に送り、その安否や居所を家族親戚にも知らせないとするもので、後にはさらにこれが家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして、霧のかなたに消え失せた。その数、6百万人とも1千万人とも言われている。これが、その特別命令の中身だ。

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V.E.フランクル教授

 

この本を20120729も読書中です。1日5ページ位しか進まない。頭が痛くなるんだ

読後、私なりの感想を書きたいと思うが、今、此処では、作家の野上弥生子氏の評を引用させてもらう。氏の文章で、大方の本の内容は理解してもらえるだろう。この文章はこの本の裏表紙に書かれていた。

私の頭脳は分析する力に乏しく、感情移入されやすいタイプなので、読後しばしの時間が経たないと、文章にはできない。

=この本は、人間の極限悪を強調し、怒りを叩きつけているが、強制収容所で教授が深い、清らかな心を持ち続けたことは、人間が信頼できるということを示してくれた。この恐ろしい書物にくらべては、ダンテの地獄さえ童話的だといえるほどである。しかし私の驚きは、ここに充たされているような極限の悪を人間が行ったことより、かかる悪のどん底に投げ込まれても、人間がかくまで高貴に、自由に、麗しい心情をもって生き得たかを思うことの方に強くあった。その意味からフランクル教授の手記は現在のヨブ記とも称すべく、まことに詩以上の詩である。

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【掃蕩広場への行進(ワルシャワ)】

 

 

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(ベルゼン強制収容所の集団殺戮のあと)

 

★お詫び=無断で、この本の写真を使わせていただいた。すみませんでした。

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20120721

日経・朝刊

春秋

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人々は貨車に詰め込まれ、アウシュヴィッツに送られた。その耳に鋭い汽笛が薄気味悪く響く。「大きな災厄に向かってひかれていく人間の群れの化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった」。フランクル「夜と霧」の一節である(霜山徳爾訳)。

収容所に着くや、ユダヤ人らは2組に分けられた。ナチスの親衛隊将校が右を指せばガス室へ、左を指せば強制労働へ。それ以前、列車が着いたときには常におびただしい男女が息絶えていた、そんな貨車に人々を乗せる役割を果たせたとされる97歳の最重要戦犯が先日、ハンガリーの首都ブダペストで拘束された。

スロバキア東部の町で警察j幹部だった1944年春、ユダヤ人1万5700人をアウシュヴィッツに送るのに協力したというのが、この男の容疑だ。戦後、本人不在で死刑を宣告されながらもカナダに逃走するなどして行方をくらましていたという。それでもついに悪運は尽きたというべきか、長い長い潜伏生活は終った。

「夜と霧」とは、ヒトラーが出した特別命令の呼び名だ。夜陰に紛れて市民を捕縛し、霧のかなたへとその存在を消し去るーー。少なくとも、600万人以上が犠牲になったといわれるホロコーストはこの名のもとに遂行された。人類の犯した極限の罪に関わった者への追及は、現代史の霧を晴らすあくなき営為でもあろう。

2012年7月26日木曜日

国民に対する裏切りだ

20120717の朝日・朝刊の社説で海上自衛隊の文書隠しの問題を、「国民に対する裏切り」のタイトルで論じていた。

この社説を読んでいて、この類のことなら、今の日本にはいくらでもあるのではないかと自嘲を込めて思う。

せめて、役所仕事ぐらいはしっかりやって欲しいものだ。役所仕事の怠慢か悪意が、結果に及ぼした悪影響を、携わった公僕たちは、どのように考えているのだろうか。公僕とは、広く公衆に奉仕する者のことなのだ。公務員とはそういうものだ。

以下、社説の一部~

何回同じことが繰り返されるのか。そのたびに行政に対する信頼は傷つき、国の土台がむしばまれてゆく。海上自衛隊から「破棄した」はずの文書が見つかった。2004年におきた隊員の自殺をめぐり、同じ護衛艦の乗組員にいじめなどの実態を聞いたアンケート結果だ。薬害エイズ事件のフアイル隠しを思い起こす。海自は、自殺の原因を知ろうとした遺族情報公開請求に「文書はない」と答え、賠償を求められた訴訟でも、裁判所の提出命令に応じなかった。公正で民主的な行政の推進を掲げて制定された情報公開法と、裁判を適正に進めるためにある民事訴訟法。その両方をないがしろにした行いである。引用した社説はここまで。

「文書はない」と言えば、不開示がまかり通る。それで現行制度を正す改正法案が昨年4月には閣議決定されたが、未だに法制化は進んでいない。

悪意のある役人なら兎も角、小さな誠意さえあれば、こんな馬鹿なことは起こらなかったはずだ。

エイズ問題もそうだった。薬害エイズ事件の処理に当たり、当時厚生省の官僚たちが無いと主張していた行政の過ちを証明する郡司ファイル(当時の厚生省生物製剤課長・郡司篤晃がまとめた)を、厚生大臣・菅直人の指揮のもと発見された。このことで、菅大臣は人気を博したが、これは前大臣たちの功績を横取りしたものだ、との意見もある。

小沢一郎の政治資金規正法における虚偽記載の罪に問われての取り調べにおいて、何と日本の司直の最高権威である東京地検が、事もあろうに証拠品に手を加え、虚偽の報告書まで作ってしまった。こんなことは絶対許されない。

政府の福島第1原発事故の危機管理の脆さには呆れてしまった。その一つひとつを拾って糾弾していたらキリがない。各事故調査報告書を垣間(かいま)読むにつけ、危機管理の面で納得できない点が多い。現場スタッフの撤退が一部なのか完全撤退なのか、事の重大性から政府と東電との連絡・確認作業が余りにも軽々しく無責任過ぎた。事故当時、現場の指揮をとっていた吉田昌郎所長は、原子炉の冷却作業をする人間は撤退できないと死を覚悟した、破滅的に何かが起こるだろう、と恐怖したことを語っている。もう少し言わしてもらえば、米軍の放射線測定に基づく汚染地図の提供を受けていたのに、国民には知らせなかった。緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)の試算を米国には伝えたのに、国内向けには公表しなかった。国民に対する安全安心を損(そこ)ねた。

今話題になっているのは、大津の市立中学2年生の男子生徒がいじめを苦にマンションから飛び降り自殺した問題で、当初、学校と市の教育委員会はその因果関係を認めようとしなかったが、ここにきて、世論の後押しもあってか、市は因果関係を認め、実態を明らかにして、被害者側と和解したい旨のコメントを市長は述べた。この件で、学校で2回行った生徒たちのアンケート調査の中で「葬式ごっこ」や「自殺の練習と言って首を締める」の記述があったにもかかわらず、教育委員会は見落としていた、気づかなかった、と記者会見で堂々と述べていた。又、この学校では60人前後の教員がいるが、アンケートの全体をきちんと把握していた教員は、たったの10人程度だった。共有されていなかった。

こんなことを、連々(つらつら)書き出したら、いくらでも思いついて、何だか虚しくなってきて力が入らない。

一旦、ここで幕引きだ。

と、思っていたら、幕引きの翌日はハレンチな教諭のオンパレードで、その翌々日は、全国的に警官の不祥事が多発している。我々が必死の思いで収めた税金から給料をもらっている輩ばかりだ。嘆かわしい、浄化運動こそ必要だ。

お・か・し・い!!ぞ。

2012年7月25日水曜日

踊場、その名の由来は?

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20120721 朝日・夕刊・文化

階段の踊場で語る「三匹の猫」(横浜市地下鉄・踊場駅)

 

昭和51年から52年にかけて、私がかって勤めていた某電鉄系の不動産会社で、太陽とか月とか、神戸だとか横浜だとかの名のつく銀行の遊休地に、注文建築事業部が住宅を建てて売却する、そんな開発を長後街道を長後に向かって右側の窪地のような所で行った。私はその事業のスタッフだった。ちょうど、今の地下鉄駅の東側の辺り。規模は35棟ほどだった。

そのとき、「踊場」が面白そうな地名だから、この事業の販売用のパンフレットに使おうと思って調べたことがあった。だが、仕事が滅茶苦茶忙しかったこともあるが、印刷物を作るまでもなく売れてしまったので、私の思いつきはそれまでだった。

今からほぼ40年ほど前の長後街道は、狭くて、雨の日などは泥んこ道で車の混雑ぶりは半端ではなかった。立場の方から来たバスは、乗客がぎゅうぎゅう詰めで動かない。シビレを切らした乗客は、この踊場付近で降車して戸塚駅に向かって歩き出していた。その方が早かった。

そんなとんでもない長後街道も、踊場も、今は往年の嫌なイメージからは、スッカリ垢(あか)抜けして、ハイカラな街の風景に変わった。私よりも年配者たちには、隔世の感、大いにありだろう。

地下鉄の延伸に伴って、踊場駅ができたのが1999年。

今回はその駅名にもなっている「踊場」という地名の由来と、踊場駅のお話が朝日新聞・夕刊の文化欄に載っていたので、やはりマイファイルしておこうと思って、その記事そのまま転載させてもらった。ライターは森均さん。

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駅 ものがたり  踊場

 

横浜市営地下鉄踊場駅(横浜市泉区)の駅名は、地元に伝わる「踊る猫伝説」からきている。

言い伝えでは、毎夜、人里離れた峠に古猫が集まり、持ちだした飼い主の手拭いをかぶって踊り回ったらしい。いつからか、一帯を踊場と呼ぶようになり、とうとう駅名にまでなった。

構内各所に猫のデザインが施されている。通路の壁には縦長の大きな紡錘形の模様。気づかない人が多いが、眺めていると猫目に見えてくる。

階段の天井や手すりの下など、目立たない所にも猫がいる。案内板はなく、見つけるのは結構難しいが、「ひそかに隠れているのが猫らしくていい」と猫好きは言う。

「15匹いるから、探してみては」と笹木一慶駅長。その気になって歩き回ると、地上出口の横に猫の供養碑があった。住民が持ち寄った招き猫の置物が並ぶ。これも含めると15匹どころではない。近くの公園には、「ワンパク」でなく「ニャンぱく砦(とりで)」と名付けた子どもの遊び場があった。猫伝説はまだまだ幅をきかせている。

2012年7月24日火曜日

漆(うるし)にかぶれた!!

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ハゼノキ

先日、イーハトーブの果樹園の雑草を刈っていた時に、漆の木に触れてしまった。子どもの頃からこの木を「ウルシの木」と呼んでいるが、一般的にはヤマウルシと呼ぶらしい。ハゼノキではと考えたが、そうでもない。ヤマウルシだ。柿や栗、梨に桃に蜜柑などの果樹があるイーハトーブの中で、唯一雑木と言えば、このウルシの木だった。

漆器などに使う漆を採集する木は、どんな樹木なのだろうか、その漆の木のことは知らないが、樹皮からヘラで漆を採集している写真は見たことがある。大きな木からだった。今、俺様にウルシかぶれをさせた木が、漆器に使う漆を採れる木なのか?違うのか? それが分からない

子どもの頃からの経験で、このウルシの木に触ってはいけないことは、常識として体得していた。ところが、暑くて、下を向いたままの作業で、このウルシの木を漆とは気づかずに他の雑草と同じように葉っぱを握りしめた。でも、その時は、それほどマズイことをしたとは思わず、そのままにしておいた。

家に帰ってビールを飲んでいたら、二の腕や膝のあっちこっちが急に痒(かゆ)くなってきた。気付いた時には、皮膚がかぶれた状態で、赤く腫れ上がっていた。痒くて、痒くてしょうがない。子供の頃は、何も薬を付けないで、耐えるだけ耐えて、そして自然に直した。この痒みの原因はウルシだと直ぐに気付いた。経験を踏まえて、ここは耐えることだと、今20120724も我慢している。

そんなことを面白可笑しく、我が神聖なブログに書くこともないのではないかとも考えたが、ちょっと待てよ、職場のスタッフの中に、ウルシかぶれの経験を持つ人が居ないようなら、やはり、こんな経験も今後の皆のために、書くべきだと決めた。

学術的にはアレルギー性接触皮膚炎と言うらしい。樹液に含まれるウルシオールなどの成分がかぶれの原因らしい。

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ハゼノキ

私にウルシかぶれをさせた当の張本人は、まだイーハトーブに繁茂しているので、そいつの正体を写真に撮って、そのうち紹介させてもらいます。

秋には、このウルシの木は真っ赤に紅葉する。紅葉する山野で、赤色のリーダーは断トツにウルシの木で、彼女の存在は格別に鮮やかだ。

佐藤のこの喜びは?

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20120708 朝日・朝刊・スポーツ

後半31分、先制ゴールを決めた広島・中島(中央)は佐藤(右)、森脇に祝福される

 

Jリーグ2、3位争いだ。

この写真は 、7月7日に行われたジュビロ磐田戦において、サンフレッチェ広島がMF中島浩司が後半31分に決勝点を奪った時の写真だ。その後、後半48分にも広島の森崎浩司が得点して2-0で磐田に勝った。この新聞記事の写真はスクラップにして、何度も確かめて、、、そして捨てられない。

写真に向かって右には佐藤寿人(ひさと)。この究極のストライカーが好きだ。身長170センチ体重67キロ、ちょうど私の体躯と同じだ。小さな体で、瞬間的にスピードを上げてボールに近づきワンタッチでゴールに絡む。そしてきちんと得点を積み上げている。

私がサッカーをやっていたその少し前までは、広島は全国でも屈指のサーカー県だった。サッカー王国だった。頂点は東洋工業(現・マツダ)。県内のどの高校も全国的にトップレベルだった。その当時のサッカー狂いが、今、老後、悠々自適の生活を楽しんでいる。その元サッカー狂いたちは、今でもサッカーを観る目は厳しいだろう。そんな環境の中で、期待に応えるように戦えば、自ずからいい結果が出る。今から半世紀前のサッカーの盛んな都道府県は、広島、静岡、埼玉が3強、大阪、京都、東京が続いた。地域限定版だった。

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佐藤寿人

 

彼の魅力は、なんてたって懸命にゴールを追い求めることだけれど、性格が又無茶苦茶良い奴だそうだ。

Wikipediaでの紹介を借りるまでもないが、ここは敬意を表して拝借する=真面目で、人の悪口を言わない、誰に対しても優しい性格。非常に礼儀正しく常にクラブのサポーターへの感謝の心を忘れず、現所属の広島だけではなく、過去に所属した千葉、C大阪、仙台への感謝の念をしばしば口にする。

そんな彼のことを、新聞と少しテレビを観るだけの情報の少ないなかで、私はひたすら彼を応援している。もう少しマスコミで騒がれてもいいのではないか、私の偽らない気持ちだ。日本代表の試合は全て観ているので、このチームに招集がかかるといいのだが。

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中島浩司

その次に写真の中央にいる中島浩司のことだ。この男のこともこの写真を観て、いろんな思いを彷彿とさせるものがある。新聞では、「苦労人が試合を動かした」とあって、彼の紹介記事が続く。

2002年シーズン後に仙台から戦力外通告を受け、トライアウトで市原(現・千葉)へ。オシム元監督に心酔、使われた。その千葉も08年オフに戦力外に。広島に移籍し、昨年までに3年連続で30試合超出場。転んでも、ただでは起きない男だ、と。

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森脇良太

広島生まれの広島育ちだ。サンフラッチェ広島のジュニアユースからユース、トップチームに順調に昇格した。2006年に出場機会を求めて愛媛FCへレンタルされたものの、復帰後はレギュラーに定着。表情に愛嬌があって、広島の女性ファンを鷲掴みにしていると聞くが、納得だ。

こんな連中が、広島の原動力なのだろう。これからが、正念場だ。

2012年7月22日日曜日

日米野球不平等条約だ

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20120721 朝日・朝刊・社会

会見でWBC不参加を表明する新井貴浩選手会会長(右から2人目)ら=日刊スポーツ

 

内容の嘘っぽいワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に労組日本プロ野球選手会は参加しないことを、全会一致で決議した。よかったと思う。当然だと思う。

この大会がスタートする前に、大会の趣旨を主催側からきちんと説明があったのだろうか。過ちは、アメリカからの持ちかけに理解しないまま参加したことに始まる。日本野球機構(NPB)はマンマとアメリカにのせられたのだ。この大会は、FIFAサッカーワールドカップ(W杯)のように、世界一を真に競う大会ではないのに、あたかも世界一を競うような大会名を振りかざされた、これに騙された。日本野球機構(NPB)事務局の生半可な理解で話は進んだ。読売新聞系は異常にはしゃいでいた。出場資格国や予選方法、その他をアメリカが一方的に決めてスタートしてしまった。正直者の日本は、考えられる限りのベストメンバーで臨んだが、アメリカチームはそうではなかった。二番手、三番手の選手で編成されていた。

米大リーグ機構(MLB)と大リーグ選手会が出資して作った運営会社を利用して、シーズンオフに、日本野球を餌にサイドビジネスに走っているだけのことだ。根はここにある。利益の配分が余りにも不公平な内容になっているのも大いに不満だ。日米野球不平等条約にいつまでも易々(やすやす)と付き合えるか。これらは、前回の開催中に指摘され問題化していたにもかかわらず、顧みず、改善の要求もせず、労組日本プロ野球選手会の了解抜きで、参加することを決めたとしたら、選手会が怒るのは当たり前のことだ。

根が真面目な日本代表チームは、やるときには、やる。本大会では、真剣に戦って過去2回行われて連覇した。そして、日本国中盛り上がった。が、それは空花(あだばな)だったことに、選手たちは気づいた。喜んでいたのは、特定の商売人だけだった。

オーナー会議に列席する精神の貧困な連中は、野球文化を高めるどころか、華を萎(しぼ)めることしかできない。悲しいけれど、日本の球界をこんなオーナー会議がリードしている。例えば、陰のオーナー・ナベツネなどは話題づくりをして、自社の新聞をちょっとでも多く売ることしか考えていない。崇高なスポーツのスも理解していない。加藤良三コミッショナーは幽霊だから、イザと言うときにいつも消えていく。当てにならない男だ。選手会の怒りは、このように選手やファンのことを考慮しないオーナー会議やコミッショナーにあることを、早く、あなた方は気づきなさいよ、だ。

選手たちは本当の意味での世界大会を望んでいる。

NPBやコミッショナーが、参加するように説得するとあるが、その前にやらなくてはならないのは、不平等条約の改訂か解消だよ。

この大会に参加するのがいいのか、辞退した方がいいのか、選手会は随分苦しい選択だったと推量する。だが、心配は無用だ、ファンは選手会の決議を断固支持する。私も支持する。球団の編成問題が発生した時も、選手会の意向は多くのファンに支持され、結果、選手会の望む通りに収まった。

今は野球に関心が薄れてしまったが、新聞のスポーツ欄で在阪球団の活躍の記事だけを追っていた時のお馴染みの新井貴浩(阪神)が選手会会長だ。頑張ってや!! 今こそ、アメリカから投げられた球を、「空に向かって打ち」返してくれ!!

 

20120721の朝日・朝刊の記事から。

社会面。

労組日本プロ野球選手会は20日、大阪市内で臨時大会を開き、来年3月に開催予定の第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への不参加を決議した。日本野球機構(NPB)は昨年12月のオーナー会議でWBC参加を決めているが、選手会が不参加を表明したことで、日本の出場は現時点では難しい状況になった。

米大リーグ機構(MLB)と大リーグ選手会が出資して作った運営会社で、大会主催者のWBCIが、参加チームのスポンサー料やグッズのライセンス料をすべて吸い上げる大会構造について、プロ野球選手会は一貫して反発していた。第3回大会へ向けて、選手会は昨年7月、スポンサー料などの日本代表への帰属をWBCIに要求し、条件が見直されなければWBCへ参加しないことを表明。その後もWBCIから具体的な返答がなかったため、今回の議決に踏み切ったという。

選手会の新井貴浩会長(阪神)は「5年後、10年後の野球界のためを考えての、苦渋の選択だった。全会一致で決議した」と語った。

一方、NPBは近く選手会と話し合い、参加するよう説得する方針。

 

スポーツ面。

選手会がついに最後のカードを切った。不参加は野球ファンの失望を招く危険を伴うだけに、極めて重い決断といえる。

「WBCはファンも楽しみにしていたし、選手も楽しみにしていた」と新井会長。それでも不参加を決めたのは、「参加国の権利を犠牲に運営される大会で、このまま参加することは将来の日本の野球に負の遺産を残す」という理由だ。

WBCの実態は大リーグによる「招待試合」。大会収入の半分以上は、「日本マネー」といわれるが、利益の66%を大リーグ側が独占し、日本野球機構(NPB)への配分は13%しかない。

NPBは「現実路線」で、侍ジャパンの常設化で新たなビジネスを模索している。その成果をもとにNPBは選手会の説得に動く方針だが、現状では難しいとみられる。選手会の示す参加条件は、WBCIが代表チームの権利を各参加国に戻すこと。もしこの点が見直される可能性があれば、日本が参加する道は残されている。選手会関係者も、交渉の余地がまだあることを否定していない。

WBCIが選手会の主張をすんなり受け入れるとは思えないが、日本からの収入を大きな柱としていることも事実。第3回大会では1次ラウンドに加えて、2次ラウンド2組のうち1組分が日本で開催される予定だ。日本が不参加となれば大会への影響は計り知れない。昨年、WBCI首脳は「仮に日本が参加しなくても、大会は予定通り開催する」と話したが、現状をどう判断するか。選手会が強気に出られる理由もまた、このいびつな運営構造にある。

(吉村良二)

2012年7月19日木曜日

今度は、アンノウイモだ

昨日は猛烈に暑かった。今日20120718も猛暑が予想された。

今日は水曜日で、水曜日は営業部の定休日。

具体的に追われている仕事を抱えているわけではないが、それでも、私は会社に出る心算でいた。そのために、早朝、暑い日差しになる前の6時過ぎに、イーハトーブの果樹園の伸びた草を刈り始めた。このような作業は農家育ちの私にはお手の物だ。隣家との境界線上に、草が覆いかぶさっていた。刈り取った草は、肥料になるので敷地の隅っこに盛った。夢中で草を刈り終えた時には、既に9時を過ぎてしまって、全身汗びっしょり、頭髪の先っちょから、パンツから靴下まで濡れた。

9時半に、会社に電話して管理部のスタッフに出社しないことを伝えた。

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アンノウイモ(安納芋)

それから、アンノウイモの苗を10本植えた。アンノウイモを漢字では安納芋と書く。種子島にある安納地区から最初の種芋を得たことからアンノウイモと呼ばれるようになった。元々、種子島で青果用として栽培されていて、昨今、本州でも栽培されるようになった。生の状態で糖度16、調理の仕方次第では40前後まで上がるらしい。糖度の割にはカロリーが低く、焼いた後に冷やしても、アイスクリーム感覚で味わえる、とは宣伝文句だ。

先週、友人の農婦に提供した手伝いのお返しに頂いた苗を、植え付ける機会がなく、今日になってしまった。農婦が私にくれる際、お・い・し・い・よ、との言葉が脳の味覚中枢を直撃、全身が感応した。すかさず、ニタッと、収穫後のことまでイメージしてしまった。苗を貰って今日までの間、アンノウイモの生命力の強靭さに驚かされた。その苗を小さな器に水を入れて、玄関前に放置しておいたら、日々、その葉が勢いを増してきた。

植えた場所は、何とか蜜柑と洋ナシの隙間の土を掘り起こして、臨時の畑にしたものだ。開墾だ。元は建物の敷地だったので、掘り起こせば石ころやら瓦がごろごろ、けっして、この土は野菜向きではないだろう、と思いながら、しかしアンノウイモの生命力に期待した。

そして今夕、このアンノウイモの苗をさらに10本もらった。今日の昼、イーハトーブを去り際にもう少し開墾しておいたのだ。農婦に頼めば、もう少しくれるだろうと予想していた。どうも私の嗜好は、葉モノではなく芋類のようだ。近いうちに、仕事を抜け出て植えつけるしかない。

農婦から、霜が下りる頃まで、掘り起こさない方がいいらしいと教えられた。じっくり熟成させると糖度が上がる。ならば、拙者の口に入るのは、晩秋か初冬だ。

他に、沢山の野菜に混じって、ツルムラサキをくれた。私にとって、初めて目にした野菜だ。茹でてオヒタシにした。納豆のようなオクラのようなネバリがあって、美味しかった。体には良さそうな食べ物だ。ありがとうございました。

 

それでは、放課後の勉強です。

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★芋の苗(蔓)を見て、高校の時に学んだ蘭学者の青木昆陽さんを思い出した。8代将軍吉宗の享保の改革に登場する。米が十分ではなかったので、代用品として芋の栽培を奨励した人だ、と思っていたら、そんな単純なことではなかった。

本棚から受験に使った『日本史精義(培風館) 著者・下村富士男』を取り出した。それによると(文章は一部割愛)ーーー、幕府は、農民に副業として商品作物の栽培を奨励し、それにより新たな財源を得ようとした。菜種・櫨(はぜ)などを栽培させ、青木昆陽に甘藷を小石川楽園、江戸城内吹上に試植させ、関東で栽培させた。このような殖産興業の政策が、農家の年貢負担能力を増し、年貢の増徴のねらいがあった。

昔も今も変わらない、増税をしかける幕府と政府、増税に苦しむ農民や市民。

2012年7月16日月曜日

子供も大人も悪い!!

前回の「教委会こそ、曲者だ」の続きだ。

大津の中2の生徒がいじめを苦に自殺した問題で、当初は学校側も教育委員会も、いじめそのものを認めなかった。そのうち、いじめがあったことは認めたが、いじめと自殺には因果関係は認められないとしてきた。ところが、市長が、被害者の両親が訴える損害賠償の裁判において、いじめとの因果関係を認め、実態が明らかにされた後に、和解したいとコメントした。

警察が、市や学校の捜索に入った。刑事事件として、学校や教育委員会の杜撰(ずさん)な調査ではなく、司直による本格的な調べに入った。そこで、こんな悲惨な事件を起こしてしまうような日常的な生活環境を誰が作ったのか、それを望むべき環境に改善するにはどうすればいいのか、誰もがそのように思向する。

そこで、前回の「教委会こそ、曲者だ」で、加害者と思われる生徒が本当に加害者だったら、きちんとその子たちにお灸を据えなくてはナランし、同時に、この問題に関係した人たちは勿論、その周辺の人たちも等しく罪を負うべきだと記した。

そんなことを考えて文章を綴ったのだ。

そうしたら、20120716の朝日・朝刊の投書欄「声」に、今年の3月まで教員だった山梨県60歳の男性からの投書が目に入った。

以下は新聞記事のまま=(氏は、かって)担任時代には主任や管理職が頼りにならなくて、一人で警察に行った。管理職になってからは県の教委会も文科相も政治家も当てにならなかった。教員は人間的にはいい人がほとんどなのに、生活指導になると尻込みしてしまう者が多い。教員や校長は非難されるべきだ。だが、なぜ守れなかったのか考えるべきだ。

我々がいくら怒っても、いじめを助長しているのは我々、大人の精神風土にある。「子は親の鏡」というが、子供は大人の鏡であることを自覚するべきだ。

この元教員の文章は、現場を踏んでこられた人だけに、重みがある。このキーボードを叩いていて、私の義弟のことを思った。彼は、京都教育大学を卒業して京都市の公立中学校の図工の先生になった。たった2人の図工の教員を採用するのに、50人程受験した。2年連続で合格してやっと現場の教員になった。その後、生活指導に追われて約15年ほどで退職した。

京都には京都の事情(被差別問題)があって、彼は若手のやり手として、そのうちリーダーとして、昼間の授業に加えて深夜までの生活指導に奮闘した。ある家庭からある家庭へと話し合いに移動する、突発事故は頻繁に起こる、朝方帰宅することもしばしばだった。教育指導に費やす時間帯は大体が夜間だ。それでも、教員に対する世間の目は果てしなく厳しい。

あんなに頑張っていたのに何故、先生を辞めたの?と聞いたら、思慮深い彼は明言を避けて、腑に落ちない事が多過ぎたがそれらは何とか納得しようと努めたが、他の先生たちとの連帯意識が共有できなかったことについては悔しかった、そんなことを訥々(とつとつ)と語ったのを、思い出した。

2012年7月14日土曜日

教委会こそ、曲者(くせモン)だ

大津市で昨年10月、大津市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が、自宅マンションから飛び降り自殺した問題で、滋賀県警は同級生3人が昨年9月に生徒に暴行したとの容疑を裏付けるために、11日夜、生徒が通っていた中学校と、市教委事務局が入る市役所を捜索した。

警察が学校に捜索に入るなんて最悪の事態だ。

前日の10日深夜、大津市の越直美市長はいじめがあったから亡くなったのだと思う、市の教育委員会の調査は全く信用できない、実態を徹底的に明らかにされた後に、遺族側と和解したいという意向を示した。

この市長の方針転換によってか、よらずか、警察の出動になった。世論の厳しい批判も後押ししたのだ。市や、県警本部にはメールや電話が殺到していたらしい。

生徒の両親は昨年10月と12月の計3回、大津署に暴行容疑の被害届を出していたが、犯罪事実が特定できないなどと受理されなかった。そこで、遺族側は市と加害者とされる同級生に対し、現在損害賠償を求める訴訟を起こした。現在、裁判中だ。市(教育委員会)も学校側も、裁判においては、いじめがあったことを認めたが、自殺はいじめと直接関係ないと主張してきた。

ところが、市側は、17日に行われる第2回の口頭弁論で、因果関係を認める方向で調整に入った。テレビ、ラジオ、新聞や週刊誌等で全国的に知られるようになって、市側は二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなったのだろう。冷静になって、状況判断したのだろう。

自殺の6日後と、11月の2回にわたって全校生徒にアンケートを実施した。いじめに気づいていた生徒は「自分も見て見ぬふりをしていて、これも立派ないじめと気づいたときは、本当に申し訳なかった」、別の生徒は「今になって、『あの時、もっと真剣に受け止めて心配してあげればよかった』と後悔しています」と記した。

ここからは、大人の問題だ。大人の毅然とした態度を子供たちに見せないとイカン。

こんなことが許されたり、大目にみてもらおうとか、見逃してもらおうとか、うまくいけばお咎(とが)めを受けずに済むとでも思っている子供がいたら、これは容赦なくお灸を据えなければナラン。同時に、学校関係者、警察、教育委員会、市、この事件に直接関わった大人たちは勿論、周辺の大人たちもその罪を負わなければナラン。日本全国のいじめを受けている子供たちのために。

ところが、大津市の教育委員会の記者会見で、未だに、いじめと自殺との因果関係は認められないと主張、13日の市議会においては、飛び降り自殺を転落死亡事故と表現した。これじゃ、いじめをして知らん振りをしている生徒たちと何ら変わりないじゃないか。馬鹿な子供がそのまま教育委員会のスタッフになってしまった、みたいなもんだ。

教師や学校関係者だけではなく、全ての大人が、日常、熱く子供たちに、是を是、非を非とする指導をしていたならば、こんな悲劇は絶対生まれなかった。子供たち、特にいじめをした子供たちは、大人の甘い、ルーズな、けじめの悪い心構えを見抜いて、つい、付け上がってしまったのだ。直視せよ、こんな悲劇的な環境を作ったのは大人たちなのだ。子供は国の宝物なのだ。

記者会見の教育委員会のオジサンを見ていて、こんなオジサンに教育を任せられないと、強く感じた。今回の教育委員会のオジサンのドタバタ劇を見ていて、教育委員会の役割は? と疑問をもった。このことについては、近い将来、議論の余地大いに有りだ。

被害者の両親は、夏休みに警察が加害者と思われる子供たちから事情を聴取する際に、よくよく配慮してくださいと申し出ている。

2012年7月12日木曜日

ヒッグス粒子って、何よ?

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20120705の日経・朝刊

 

テレビも新聞も、ヒッグス粒子で大騒ぎだ。

だが、新聞の記事を一文字づつ吟味して読んでも、テレビの解説を目を皿のようにして、耳をダンボに、頭脳を澄ましても、私には、ほんの一部さえも、理解できない。チンプンカンプンなのだ。

全ての物質は、それ以上は分割できない17種類の素粒子で構成されていて、電子が1897年に、2000年までには16種類の存在が確認され、17番目が今回のヒッグス粒子らしい。

でも、いつまでも分からない解らないで、済ますわけにはいかないだろう。いつか賢い友人が私にもよく理解出来るように話してくれることを期待する。

ひとまず、20120705の日経・朝刊の記事の抜粋をマイファイルして、賢者の出現に備えるとしよう。

【ジュネーブ=藤田剛】欧州合同原子核研究機関(CERN)は4日、物の質量(重さ)の起源とされる「ヒッグス粒子」とみられる新しい粒子を発見したと発表した。2つの国際チームによる大型加速器を使った探索実験で、新粒子が99,9999%以上の確率で存在するとの結果を得た。年内にも、ヒッグス粒子と最終的に確認される公算が大きく、ノーベル賞級の発見となる。

 

CERNのホイヤー所長は同日、「ヒッグス粒子と(特徴が)合致する新粒子の発見に成功した」と述べた。新粒子がヒッグス粒子と確認されれば、宇宙の成り立ちの解明が大きく前進する。

実験したのは、東京大学など日本の16の大学・研究機関も参加する「アトラス」と、欧米の(CMS)の2チーム。

CERNによると、、今年6月までの実験で、両チームともヒッグス粒子とみられる新粒子が存在する確率が99,9999%以上になった。昨年末の段階ではアトラスは約98,9%、CMSは約97%の確率で、「発見の可能性が高まった」としている。99,9999%という確率は物理学の世界での「発見」に相当するが、新粒子が予言されているヒッグス粒子とどこまで一致しているかを確認するため、今年いっぱい実験で詰める。

新粒子の重さは陽子の120倍と、これまで発見された素粒子(物質の最小単位)の中で比較的重かった。

宇宙の始まりである137億年前の「ビッグバン(大爆発)」で生まれた素粒子は、最初は質量を持たず光速で自由に飛び回っていた。ビッグバンの100億分の1秒後にヒッグス粒子が生まれて宇宙を満たしたため、素粒子は動きにくくなり、質量が備わったとされる。

実験では一周27キロの円形加速器で陽子同士を光速近くで衝突させ、ビッグバンを再現。ヒッグス粒子は瞬く間にほかの粒子に変化してしまうため、飛び散った粒子の中からヒッグス粒子の痕跡を集め、存在する確率を割り出していた。

▼ヒッグス粒子とは=どんなものも、どんどん細かくしていくと、最後はもう分割できない基本の粒(素粒子)にたどり着く。ヒッグス粒子はそのうちの一つで、1964年にピーター・ヒッグス英エディンバラ大学名誉教授が存在を予言した。ほかの素粒子が実験で次々と見つかる中、本当に存在するのか立証できていなかった。

ほかの素粒子のように物質を構成するのではなく、質量を与える役目を果たしたと考えられている。存在しなければ、あらゆるものが光速で飛んでしまい、宇宙の成り立ちが説明できない。欧米では「神の粒子」とも呼ばれている。

 

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20120707

朝日・朝刊

天声人語

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ペルーの世界遺産「ナスカの地上絵」は、遊覧飛行で眺めるほかない。人の目の高さから浅い溝が走るだけで、何を描いたものか分からないそうだ。世には大きすぎて見えないものがある。

万物に質量を授けるヒッグス粒子が見つかったと聞いて、ついにやったかと感涙にむせぶ人は珍しい。「世紀の大発見」はえてして我らの理解を超え、その大きさを知るのは、後世になる。

英国のヒッグス博士(83)が半世紀前に予言したこの粒子。宇宙誕生の瞬間、好きに飛び回る他の素粒子に水あめのように絡み、全体を落ち着かせたとされる。その動きにくさこそが質量だ。鈍重になった素粒子たちは寄り集まり水素などの原子、星や生命を生んでいく。

世界の物理学者は、欧州の巨大加速器でヒッグス粒子を探してきた。

天地創造に迫る旅である。彼らは「99,9999%以上の確率」でそれらしき粒子を見つけたという。あると予測された17の素粒子はひと通り確認されたことになる。

ただ、果てしなき時空を究める上で、この発見は始まりにすぎないらしい。地上絵でいえば、溝の何本かは見つけたが、空から全体像を眺めた者がいない段階か。宇宙の大方は未知に「暗黒」が占めるとされる。探求の旅に終わりはない。

ビッグバンから137億年、まさか「作品」の一つが正体に肉薄してくるのは、「神の粒子」もびっくりだろう。こよい七夕の銀河を思い浮かべて、人類もやるもんだと杯を重ねるのもいい。つまみは粒ウニか何かで。

 

20120706 日経・朝刊の春秋に、このようにも書かれていたが、それでも、私、解ったような?、分らないような?

宇宙が生まれた直後に万物に質量(重さ)をもたらしたというヒッグス粒子の役割がピンとこない。「人気者のあなたはパーテイーで大勢の人に囲まれ、動けない。取り囲む人がヒッグス粒子、動きにくさを質量と考えてください」。そんな例えもあるそうだ。分かったようなわからないようなーーーーー。

2012年7月10日火曜日

オスプレイって、ミサゴ?

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オスプレイ

 米新型輸送機MVオスプレイが、沖縄の普天間の飛行場で今年10月から本格的に使われるそうだ。日本各地では、相次ぐ事故を起こしてきたオスプレイの配備反対の声が上がっている。とりわけ、配備が予定されている沖縄では反対ムード一色だ。怒っている。沖縄には日本政府に対する積もり積もった不信がある。

やはり、このオスプレイって奴がとんでもない危険千万な代物(しろもの)らしいのだ。開発段階から今までに8件、36人が死亡する事故を起こしている。それでも、米国防省は、10万飛行時間あたりの事故率は1、93で海兵隊の航空機の平均2、45より低いとしている。

回転翼が上を向けて上昇、下降する。前を向けて水平に移行する。時速は約520キロで今までの倍の早さ。一度に運べる兵員も2倍の24人、飛行可能高度は倍の7500メートル、航続距離は5倍の3900キロ。海兵隊は、敵地に真っ先に入って戦う。上陸作戦においては、艦艇から離発着ができて、より遠くに、より早く、よく多くの隊員や物資を運べる航空機として開発された。以上の記事は20120708の朝日・朝刊の「ニュースがわからん!ワイド」の記事を参考にさせてもらった。

本州においても、レッドとかブルー、イエローコースとかがあって、低空飛行訓練を行うらしい。ある日、空からあなたの家の上に墜落してくるかもしれませんぞ。

それで、このオスプレイって日本語の意味は何ぞや?と思いついた。そうしたら、オスプレイとは、鷹(たか)や鷲(わし)などの猛禽類の仲間のミサゴだというではないか。鷲や鷹は見たことあるが、ミサゴは見たことがない。

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ミサゴ  Wikipediaさんから、写真を拝借した。

ミサゴという鳥には、今までにも、馴染みがなかった。海岸、河川、沼や池で、魚などを主餌とする。水面を高くゆっくり飛び回り、魚を見つけると低空飛翔で狙いをつけ、翼をすぼめて急降下し、水面近くで両足を伸ばして大きな爪を開き、魚をめがけて突っ込む。体全体を水中に潜ることもある。魚を直下降で捕食するということなら、カワセミを大型にしたような鳥をイメージすればいいのだろうか。なるほど、オスプレイだ。

それから、話は逸(そ)れる。私が最も嫌な戦争に使う飛行機の話ではなく、これからの話の方が楽しい。

寿司屋さんに私の足は遠のいた。寿司が、果物や洋菓子とそれぞれに皿にのって目の前をぐるぐる回るお店で、どの皿のものも同じ料金とか、皿の色によって料金が違ったりとか、どちらにしても、懐の中身と算段しながら、安心して食えるお店には、1年に2度ぐらいは行くけれど、ホン物の寿司屋さんには、この四半世紀は行っていない。

縁が遠のいても、寿司屋の屋号として、全国的にみさご寿司(鮨)を名乗っているお店が多いことは知っている。その謎が今回のオスプレイ調査のなかで解ったのだ。これからも、Wikipediaさんの協力におんぶに抱っこだ。

ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁ができない際にそれを食すという習性がある。貯蔵しておいた魚が自然発酵して、鮨化した。それが「ミサゴ鮨」となったと伝えられている。

小人(しょうにん)が、久しぶりに味わったささやかな知識の連鎖ゲームだ。

2012年7月6日金曜日

欧州選手権スペイン優勝、その2

サッカー欧州選手権は、スペインが史上初の2連覇で3度目の優勝をした。大会連覇と2010のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会を合わせたメジャー大会3連続優勝は史上初の快挙だ。

最優秀選手にはスペインのイニエスタ、得点王は3得点で6人が並んだが、プレー時間の短さなどが考慮され、スペインのフエルナンドトレスが選ばれた。

次回は2016にフランスで、本大会は16チームだったが、24チームで行われることになっている。

イタリアには不運もあったが、それにしてもスペインは強かった。私が今まで見たサッカーの中で一番、ファンタスチック?だった。この試合を深く記憶に留めたい、と思って朝日と日経の両紙の記事をそのまま、マイファイルする。

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20120703 朝日・朝刊 シュートを放つスペインのシャビ(左)=ロイター

 

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朝日・朝日

内海亮

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不運なイタリア

イタリアはアクシデント続きだった。前半21分にDFキエリーニが負傷交代。後半12分に3人目の交代で入ったMFモッタが数分後に負傷でピッチを去った。プランデッリ監督は「10人になったところで試合が終わってしまった」。途中出場のFWディナターレが後半そうそうに2度めの決定機を外したのも痛かった。

前半は相手と同じ8本のシュートを放ち、積極的に打って出た。10年W杯の惨敗を機に攻撃スタイルへの転換を掲げた今大会。堅守が伝統の国の4失点は挑戦への代償でもあり、潔かった。指揮官は「攻撃的なサッカーができるところも見せられた。誇りを持って去りたい」と語った。

 

「攻撃は最大の防御」体現

170センチのシャビが歓喜の輪に埋もれ、笑っていた。本来の切れ味を欠いていた司令塔が、最後に2アシストで全4得点に絡み、本領を発揮。黄金期のスペインの強さを印象づけた。

先発はFWの選手を置かずにMF6人を配した「ゼロトップ」。技術に優れる小柄な選手をそろえてパスサッカーにこだわった。互いに6試合目だが、疲弊気味のイタリアに比べ、スペインは生き生きと動く。球を支配しても決定力がないという批判を一蹴する。4点。「攻撃は最大の防御」の哲学を、大会を通じて1失点の結果で体現した。

先発5人はシャビ、イニエスタ、セスクらバルセロナ勢。バルセロナのあるカタルーニャ地方は自治独立の機運が一部にあり、代表への反発が今も残る。「マドリードに対する対抗意識は強く、逆はそうでもない。レアル・マドリードのラウルやグティが活躍した時代と違い、今の代表がうまくいく一つの理由」とあるスペイン記者は語る。

これまでに欧州選手権、W杯と続けて勝ったのは72、74年の西ドイツ、08、10年のフランスだけだ。スペインは4年にわたってトップに君臨し、両大会を通して初の3連覇。それがいかに難しいかは、過去の歴史が実証する。

「サッカーを知る選手たちが歴史的な成功を遂げたが、まだ続きがある。偉大なスペインサッカーの時代だ」とテルボスケ監督。世界に向けて高らかに宣言した。

 

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20120702 日経・朝刊 優勝を決め、喜ぶスペインの選手=UPI共同

 

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20120702

日経・朝刊

吉田誠一

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貫禄スペイン∨2

イタリアに4-0

高速パス回しで圧倒

楽しさの裏に凶暴なまでの力が潜んでいる。世界王者が示したその美しさの前にイタリアは崩れ落ちた。

「試合を支配した選手たちを誇りに思う」とスペインのデルボスケ監督は話す。準決勝と比べると、人とボールが動く速度が格段に上がった。その動きは基本に基いている。パスを味方に預けたら、動く。その限りない連続で、最終的にはDFの裏をとる。

右外を走ったセスクをイニエスタが生かし、シルバが先制。シャビにボールを預けたアルバが猛然と走り、リターンをもらってゴールした。

この日もストライカーを先発起用せず、1トップの位置にはMFセスクを置いた。それでも何の問題はないのだ。デルボスケ監督がいう。「サッカーの形は一つではない。重要なのは得点すること。選手たちは点の取り方を知っている」。

狭いスペースに次々とパスを入れて守備をゆがませ、パスの角度を変えて意表を突く。交代枠を使い切った後の62分にモッタが故障退場し、イタリアが10人になってからは勝負としての面白みは半減したが、やはりこの華麗なサッカーは世界のファンへの豪華な贈り物だ。

4年前のこの大会と2年前のW杯を制したというのに、野望は少しも衰えない。「我々は常に未来に向かう」とデルボスケ監督はいう。自分たちが最もモダンなサッカーの体現者だという自負があるから、歩みが止まらない。

コミッショナーって、何者?

 

名ばかりの日本のコミッショナーか。

20120630の朝日・朝刊・スポーツで、日本野球機構/日本プロフエッショナル野球機構(NPB)の加藤良三コミッショナーの記事を読んで、怒りを飛び越して呆然とした。

この人、自分がコミッショナーで、自分に課せられた任務を何と認識しているのだろうか?と疑いをもった。先日、週刊文春等で話題になったことについてだ。

記事は以下の通りだ=プロ野球、巨人の原辰徳監督(53)が過去の女性関係を理由に元暴力団組員らに1億円を要求され、支払っていた問題で、29日、巨人ー中日戦の前に原監督と会談した。コミッショナーは「私としては(この問題について)承知はもちろんしていますが、原監督には『野球に集中して頑張ってください』とお話しました」と語った。

うう~ん、ーーーーーなんだと!!

この記事を読んで、このコミッショナーは馬鹿か?と思った。女性関係で1億円を要求されて、1億円を支払ったことは巨人も、原監督も認めているが、両者は「支払った相手は反社会的勢力であるとの認識はなかった」ので、我々には、何の問題もありません。これをコミッショナーが追認してチャンチャン、と済ませようとしているのだろうか。

雑誌や新聞の報道によると、巨人や原監督が何と言おうが、支払った相手先二人はれっきとした元暴力団の組員だそうだ。だから、今回のようなコミッショナーの行動は、合点がいかない。

今、コミッショナーの取るべき行動は決まっている。先ずは直接監督に会う前に、真相を調査するための委員会を発足させることだ。

調査もしないで、原監督との面談で、いきなり、あの会話?

ところで、日本野球機構(NPB)のコミッショナーってどんな権限をもって、何をする人かを取り合えずネットで調べた=(Wikipedia)より。NPBにおける最高責任者であり、かつ最高の権限を有する。社団法人日本野球機構の会長でもある。日本のコミッショナーはアメリカのコミッショナー同様、オーナー等球団経営者の承認を受けて就任するものであるが、アメリカのコミッショナーが強い権限を持ち各球団を公平に扱うシステムが確立されているのに対し、日本の場合は最終決定権を持つオーナー会議の立会人という側面が強い。

なる程、歴代のコミッショナーの言動から、コミッショナーという役職がこの程度の立ち位置なら、目くじら立てて、血相を変えて、今回のことについても、イの一番に行動を起こすことはないだろうな、と失望した。が、これではいつまで経っても変わらない。お~い、コミッションー、覚醒しろ!

オーナーたちは、自分たちの会議で議論される内容に文句を言わない人をコミッショナーに選んできた。オーナー会議が最高議決機関にして、日本最大の発行部数を誇る新聞社やS鉄道、日本最大のリース会社などの、スポーを文化として理解できない連中が、自分たちの御都合主義だけで閉鎖的に運営してきた結果だ。日本相撲協会と何ら変わりない。

2004年のプロ野球再編問題の際に、コミッショナー事務局の責任の所在の曖昧さに加え、事態収拾能力の無さも露呈し批判を受けた。それでも、改革が進まない原因の一つに、読売巨人軍ナベツネ?を認めたり、擁護する勢力がある。

そして、今回の問題においても、やはり、コミッショナーの行動は旧来のまま、これじゃイカンのだ。NPBにおける最高責任者であり、かつ最高の権限を持っている。コミッショナー事務局は、システムの運営が健全に維持されるように、是々非々、管理、監督する。間違いが発覚したら正す。

今回の原監督の行動と巨人軍の認識は、日本プロ野球協約の第180条に十分抵触する。あらためてその条文を確認しておこう。

★180条(賭博行為の禁止及び暴力団員等との交際)

選手、監督、コーチ又は球団、この組織の役職員その他この組織に属する個人が次の行為をした場合、コミッショナーは該当する者を1年間の失格処分、又は無期の失格処分とする。

1 野球賭博常習者と交際し、又は行動を共にし、これらの者との間で、金品の授受、饗応、その他いっさいの利益を収受し若しくは供与し、要求し、申込み又は約束すること。

2、 所属球団が直接関与しない試合、又は出場しない試合について賭けをすること。

3、暴力団、あるいは暴力団と関係が認められる団体の構成員又は関係者、その他の反社会的勢力(以下「暴力団員等」という。)と交際し、又は行動を共にし、これの者との間で、金品の授受、饗応、その他いっさいの利益を収受又は供与し、要求又は申込み、約束すること。

これらから、今、コミッショナーが何をやらなければならないかは明白だ。前の方でも書いたが、調査して真実を明らかにすること、そして、野球協約に従うことだろう。

あれえ、これって、時効はあるのか?

2012年7月5日木曜日

紫蘇ジュースを作った

20120704 水曜日は営業部の定休日だ。

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紫蘇

 

朝一番、会社で今抱えている鶴見の件を早々に済ませて、我がイーハトーブの果樹園で、キュウリとサラダ菜を収穫して、友人が耕作している畑に向かった。農婦の野良仕事のお手伝いだ。

畑は横浜市泉区深谷の通信隊の道路を隔てた向かい側の市民農園だ。

先日の台風で緩んだり傾いたキュウリの支柱を元通りにした。積み上げておいた牛糞と収穫を終えた苺の茎と葉を採集して混ぜた。苺のあと地を耕した。ゴウヤのネットを張り足した。農婦は、男手(おとこで)に段取りよく指示する。女手(おんなで)で無理な仕事を優先した。

ここにいると、私はいつも不思議な気分になる。50余年も前のこと、生まれ故郷の田畑で、農作業をする父(お父ちゃん)や母(お母ちゃん)、祖母(おばあちゃん)のそばで、遊んで過ごした子供の頃のことを、ぼんやりと思い出されるのだ。生まれ故郷と此処とは、600キロも離れているというのに、故郷の土の匂い、草や樹木、野菜たちの息を感じるのだ。風さえも、その香りが懐かしい。

腰を曲げての作業も、汗が額や頬から流れるのも、嬉しいのだ。

この農婦のところには、周辺の畑の耕作人のおじさん、おばさんが、自分たちの作物を持ってくる。情報交換にやってくる。市民農園のマドンナだ。

彼女は、私の労務のお返しに、感謝の言葉に添えて、毎回、採りたての作物をくれる。今回は、タマネギ10個、キュウリ2本、キャベツ1個、人参数本?をくれた。ヤマオカさん、紫蘇ジュースを作る?と聞かれて、難しいようなら要らないけれど、一体、どうして作るのよ?と聞き返した。

紫蘇ジュースは、紫蘇を10分間煮て、煮汁を絞ればいいだけのことよ、クエン酸とか砂糖を混ぜて煮る人もいるが、私は何も入れません、と農婦の健康レシピ。

これなら、私にもできるだろうと判断、勢いよくクダサイ、と叫んだ。

野菜と一抱えの紫蘇を持ち帰り、葉を茎からとって鍋に入れて、スウッチ・オン。農婦の指示通り、10~15分間煮た。翌朝、冷めた紫蘇を絞って、ペットボトルに詰めた。手のひらで固く握りしめて絞った。濾した方がいいのだろうが。

今夜は、その紫蘇ジュースをいただくことにする。私は、焼酎のお湯割りに入れて飲んでみようと思っているが、どうだろう?

彼女の名誉のために一言、、、彼女を農婦と表現しているが、その通り、賢くて、生真面目で、立派な女性です。私の数少な女友だちの一人だ。

2012年7月4日水曜日

サッカー欧州選手権、スペインは強かった

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20120703    サッカー欧州選手権の決勝戦が未明に行われた。今回はポーランドとウクライナの共同開催だった。決勝戦の会場はウクライナのキエフ。

私は、テレビの番組表が01:30からになっていたので、見逃すわけにはいくまいと、22:00に01:30起床のアラームをセットして布団に入った。

ところが、01:30に起きたが、キックオフは03:30だった。それまでの間、テレビではリーグ戦から決勝戦までの話題で、キックオフまでの時間を盛り上げていたが、睡眠不足の私には、ただの喧騒、ただ姦(かしま)しいばかり。スポーツは厳格な戦い、腰を据えて観るもんだ。

結果、スペインとイタリアの決勝戦は、圧倒的な強さでスペインがイタリアに4-0で、優勝、連覇した。この連覇の間に、2010の南アフリカW杯で優勝している。イタリアとドイツの準決勝戦を観ていたので、イタリアがどれくらい頑張れるのか、興味を持っていたが、あっけなかった。

スペインの先取点と2点目のゴールは、それからの2点もそうだけれど、もの凄く早く強く、華麗で美しく、無駄のない機能美を見せてくれた。イタリア自慢のカテナチオは面目なく、スペインには刃が立たなかった。

その戦いの内容を、20120703の日経・朝刊・スポーツに載った吉田誠一氏の記事を引用させてもらってマイファイルにした。

追記

話は変わるが、今回の決勝戦で初めて知ったのだが、両チームがスタジアムに入場する際、彼らを先導した青いフラッグには、「RESPECT DIVERSITY」(リスペクト ダイバーシティー)と書かれていた。他者の多様性を尊重しよう、ということらしい。

人種、性別、宗教、言語、あらゆる違いをポジティブにとらえて「違うから排除する」のではなく、「違いこそが新しい何かを生む」と考える。サッカーがまさにそういう競技で、戦う相手もチームメイトも自分と違うから楽しいと思う、と日本サッカー協会特任理事の野田朱美氏は、同日の同紙で述べていた。このように仕組まなければならない現実があるのだろう。好ましい試みだ。

対ドイツ戦の準決勝で、イタリアのガーナ出身のバロテリ(21)選手は2点をゴールした。感動的なゴールだった。彼は大会前、人種的なヤジや中傷があったら、「俺は絶対受け入れないよ。そんなことがあったら、直ぐにピッチを去って家に帰るよ」。過去に忌まわしい経験があったからだろう。2点目をゴールした直後、ユニフォームを脱いで、硬い表情で何をか言わんとばかりに、視線は厳しく頬は固く口は閉じたままだった。悪童は観客に鍛えられ、スーパースターを目指す。ますます賢くなっていく。スポーツは人を育て、文化を育(はぐく)む。

準決勝では、4チームのキャプテンがマイクを手に、人種差別はやめようと呼びかけた。

それに、閉会式でのこと、試合を仕切った審判団は、チームや選手たちの前に運営側から一人ひとりにメダルを首にかけてもらって、労(ねぎら)いを受けた。このようなことは、かってテニスの何処かのメジャー大会をテレビ観戦した時に、表彰式の前に、ボール拾いの人たちと審判団に、感謝の意を表するための式次第が組まれていた。これも気持ちが好かった。

戦いはチームや選手だけではない。表裏での大勢の関係者が汗して支え、ピッチでは審判団が掌(つかさど)り、観客、ファンが固唾を呑んで応援する。

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フエリベ王子から祝福を受けるイニエスタ

 

サッカー欧州選手権  スペイン連覇

布陣に縛らえず

必要な時、必要な位置に

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これだけのことを成し遂げるチームが後に現れるだろうか。スペインが史上初となる欧州選手権の連覇と、2010年ワールドカップ(W杯)と合わせた3連続制覇を達成した。

「僕たちはずっと歴史を変えるために戦ってきた」とMFイニエスタは話す。単に結果を残しただけでなく、極上のサッカーを示して王座を守ったことに意義がある。

めまぐるしくポジションを変えながらのパス交換とともに、今回はストライカーを置かない布陣が話題になった。「なぜ」の問にデルボスケ監督は「ゴールを狙う位置に誰かがずっといる必要はない」と応じる。

持ち場を決めず、必要な時に必要な所に誰かが入ればいいというのがスペインのサッカーであり、得点という作業についても例外としない。誰かがゴールする状況を共同作業で作り出す。

特異なのは布陣ではなく、その思想の方だろう。「僕たちはユニークであり、マジカルであり、再現できない何かを持っている」とイニエスタはいう。すべての選手がいるべき所に身を置こうとして動き続ける。もちろん、それは相手の急所に当たる。だから、次々と挑戦者が倒れていく。

2012年7月2日月曜日

オヤジ、面白過ぎるよ

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いっつも通って、噴飯(ふんぱん)するのが、この看板が目に入った時のことだ。

駐車場を、不用になった道路案内の看板(標識)で囲っている。地主はオヤジで、建設業者か、このような品を扱っている人か、単純に誰かからもらってきたのか。

その看板には、写真のように大きな字で方位と地名が書かれている。地主のライト(どう? 軽いと言えばいいのか))なユーモアなのだろう。それにしても面白い光景なので、この度は写真におさめて、みんなに紹介した。

まさか、この看板を本気で読んで、どっちに行けばいいんだ、なんて悩んでいる人はいないだろうが。万一、本気で悩んでいる人が居たとしたら、私も、その前で同じように悩んだ振りをしなくちゃイカンわなあ。それが、悩んでいる人にも、看板設置した人に対しても、せめてもの礼儀だ。

この写真の駐車場の右隣の人が、自分の家を訪ねてくる人に電話などで案内する時に、どのように教えるのだろう。何とか川に沿って海に向かって進むと、左磯子右保土ヶ谷の看板があって、保土ヶ谷方面に6メートルほど進むと、また左磯子右保土ヶ谷の看板があります、その保土ヶ谷方面にそのまま進んでもらうと、今度は直進鎌倉、の看板があります。その直進鎌倉を無視して、進行方向をそのまま進んでいただければ、我が家です。こんな感じかな。

私のような平凡な人間が、このような看板を手に入れて駐車場の囲いにするとしたら、地名が書かれていない裏側を表にして使うのだろうが、それでは、やっぱりただのつまらない人、か。

この看板がある駐車場は、平塚と大磯の境辺りだ。見つけた人は、感想を寄越してくださいな。

カミキリムシに、ご対面

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先日20120625、川崎市多摩区生田で今回仕入れた中古物件の庭の草がぼうぼう、樹木が伸び放題になっているので、雑草を採り、樹木の剪定をしてきた。建物の内外装は、リフォーム会社にお願いして、その周りの整理整頓は、私達の仕事だ。

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私の作業衣の上を歩くカミキリムシ。

 

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私のゴム長靴を這うカミキリムシ

 

カミキリムシを、手に取ってこんなに身近に見るのは何年ぶりのことだろう。

私の故郷は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林だ。この村で生まれ、大学に入るまでの20年間を過ごした。地名通り、山林を切り開いたところにできた集落なのだろう。住宅や道路以外は、田畑に山野だけの静かな寒村だった。山はどこまでも深い。小学生の頃、隣村と合併して町になった。

そんな田舎で育った私には、数多いるどんな虫とも、日常的な付き合いだ。

作業を一休みしていたら、私の履いているゴム長靴を這い上がってきた、よしよし、それから作業衣のズボンから上着に登ってきた。上に登ってきて、きっと、羽を広げるのではないか、とじっと見つめていたら、羽ばたいたが、飛ぼうとはしなかった。飛び立つためには、もっと高い位置からの方が都合がいいのか。それとも、俺さまの作業衣で、遊び足りないのだろうか。

親指と人差指で摘まんだら、キイキイと威嚇するように鳴いた。前胸と後胸をこすりあわせて、音を出すそうだ。この鳴き声も懐かしい。子どもの頃、この鳴き声が不思議だった。首を伸ばして、私の指腹を噛み付こうとするが、私はそれを許さない。

髪の毛も切ることができるほどの大顎をもっているところから、その名が、噛(か)み切(き)り虫になったのか。ネットで知ったが、世界で名前がついているだけで約2万種、日本には約800種類がいるそうだ。私が田舎で遊んだのよりも、小物だ。子どもの頃の記憶は、何もかもが大きいもんだ。

ただ、カミキリムシちゃんが懐かしかった。